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2007.02.25
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◆ 第十一話 ◆ 旧技術先進国の憂鬱

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イーゼス国技術者(高級労働)階級は、デジタル・クローン技術でのユピタルク帝国と、マーシェム共和国の圧倒的な進化が追いつき追い越していく現実に、タダ手をこまねいていた。2世紀前までは圧倒的にイーゼスの技術力は他国を圧倒していた。全ての技術先端発表論文が世界中で解読され手本とされていた。学会では先端技術の花盛りで、イーゼス国技術者の講演は常に満員盛況であり、知的財産権でもTOP水準を突き進んでいた。25世紀のいま、学会で他国がイーゼス国技術者の講演を聴講する姿はまれとなった。当たり前すぎる改良技術の延長では、誰も実質的な魅力を感じるはずはなくなったのである。
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過去ローマ帝国の時代に凋落の通商国家があった。それは、21世紀のJAPANが
経済戦争で崩壊する姿に似る。歴史から学ぶことは、同じ轍を踏んではならない事である。
同質の闘争や技術で競合したところで結果は誤差でしかない。カルタゴの教訓は、システム
改造あるいは進化を嫌った政治体制にこそ敗北の真因があった。
カルタゴ
現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖の東岸にあった北アフリカの古代都市である。今は歴史的な遺跡のある観光地となっている。

カルタゴ(Carthage)という言葉は、「新しい町」を意味するフェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart-Hadasht)に由来し、カルタゴ語では母音を抜いてQrthdstと綴る。
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カルタゴの成立
カルタゴは、紀元前814年頃、ティルスのフェニキア人移住者によって建設された。町の守り神は、元の町と同じくメルカルトであった。伝承によると、女王ディドが建設したといわれており、町の起源に関する様々な神話が、古代ギリシアやローマの記録に残っている。

地中海に面するカルタゴの初期は、農耕を営む者と海で働く者との長い闘争の歴史であった。都市は、主に交易で成り立っていたため、海運の有力者たちが統治権を握っていた。紀元前6世紀の間、カルタゴは西地中海の覇者となりつつあった。



紀元前5世紀初頭より、カルタゴはこの地域の商業の中心地となり、それはローマによる征服まで続いた。カルタゴは、フェニキア人の古代都市やリビアの諸部族を征服し、現在のモロッコからエジプト国境に至る北アフリカ沿岸を支配下におさめた。地中海においては、サルデーニャ島、マルタ島、バレアレス諸島、シチリア島の西半分を領有し、イベリア半島に植民都市を建設した。
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第一次シチリア戦争
カルタゴの成功の要因は、海賊や他国が恐れる強力な海軍力にあった。カルタゴの進出と覇権の拡大は、地中海中央部で確固たる勢力をもつギリシアとの対立を増大させた。 カルタゴの玄関口にあたるシチリア島が、戦争の舞台となった。ギリシアやフェニキアは、以前よりこの大きな島の重要性を認識しており、海岸線に沿って多くの植民都市や交易拠点を造っていた。 これらの植民者の間で何世紀にも渡って、小競り合いが続いてきたが、紀元前480年、カルタゴが大規模な軍事行動を開始した。

事の発端は、ギリシアに支援されたシラクサの僭主ゲロンが、島を統一しようとしたことに始まる。この明白な脅威に対して、カルタゴはアケメネス朝と連携をとりながら、ギリシアとの戦争に踏み切った。ハミルカル将軍のもと、三十万人の軍隊が集められたと言われているが、この数字は大軍を示しているだけで実数ではないと考えられる。 しかし、シチリア島に向かう途中、悪天候に見舞われ、多数の人員を失った。その後、現在のパレルモにあたるパノルムスに上陸したが、ハミルカルは、ヒメラの戦いでゲロンに大敗してしまった。ハミルカルは、戦闘の最中に戦死したか、名誉の自決を遂げたと伝えられている。 カルタゴは、この敗北により大損害を受け弱体化し、国内では貴族政が打倒され共和政に移行した。

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第二次シチリア戦争
共和政による効果的な政策の結果、紀元前410年までには、カルタゴは回復を遂げていた。再び現在のチュニジア一帯を支配し、北アフリカ沿岸に新たな植民都市を建設した。また、サハラ砂漠を横断したマーゴ・バルカの旅行や、アフリカ大陸沿岸を巡る海洋探検家ハンノの旅行を後援している。 しかし、同じ年、金や銀の主要産地であったイベリア半島の植民都市がカルタゴから分離し、その供給が断たれた。 ハミルカルの長男ハンニバル・マーゴは、シチリア島の再領有に向けて準備を始めた。版図を拡大するための遠征は、モロッコからセネガル、大西洋にまで及んでいた。

紀元前409年、ハンニバルはシチリア島への遠征を行い、現在のセリヌンテにあたるセリヌスやヒメラといった小都市の占領に成功して帰還した。 しかし、敵対するシラクサはまだ健在であったため、紀元前405年、ハンニバルはシチリア島全域の支配を目指して、二回目の遠征を開始した。 遠征は、頑強な抵抗と不運に見舞われた。アグリジェントの包囲戦の最中、カルタゴ軍に疫病が蔓延し、ハンニバルもそれにより亡くなってしまった。

彼の後任として軍を指揮したヒメルコは、ギリシア軍の包囲を打ち破り、ゲラを占領した。さらに、シラクサの新たな王ディオニシウスの軍も破ったが、ヒメルコもまた疫病にかかり、講和を結ばざるを得なくなった。 紀元前398年、力をつけたディオニシウスは、平和協定を破りカルタゴの要塞モーチャを攻撃した。ヒメルコはただちに遠征軍を率いてモーチャを救出し、逆にメッシーナを占領した。紀元前397年には、シラクサの包囲にまで至るが、翌年、再び疫病に見舞われ、ヒメルコの軍は崩壊した。 シチリア島はカルタゴにとっての生命線であり、カルタゴは固執しつづけた。以後60年以上にわたり、この島でカルタゴとギリシアの小競り合いが続くこととなる。 紀元前340年、カルタゴの領土は島の南西の隅に追いやられ、依然として不穏な情勢にあった。


第三次シチリア戦争
紀元前315年、シラクサ王アガソクレスは、現在のメッシーナにあたるメッセネを包囲した。紀元前311年には、カルタゴ最後の要塞を攻撃し、アクラガスを包囲した。 探検家ハンノの長男ハミルカルは、カルタゴ軍を率いて事態を打開し、好転させた。紀元前310年にはシチリア島のほとんどを占領し、シラクサを包囲した。 死に物狂いになったアガソクレスは、アフリカ本土にあるカルタゴを攻撃させるため、秘密裏に14,000人の兵士を送った。この作戦は成功し、ハミルカルの軍は本土に呼び戻された。紀元前307年、追撃してきたアガソクレスは破れたが、シチリア島に戻り、停戦した。


ギリシアのエピロス王ピュロス
紀元前280年から紀元前275年にかけて、ギリシア・エピロス(ラテン語ではエピルス。現在のギリシャ共和国のアドリア海側)の王ピュロスは、西地中海におけるギリシアの影響力を維持し、拡大するために2つの大きな戦争を起こした。

一つは、マグナ・グラエキアと呼ばれた南イタリアにあるギリシアの植民都市に対するローマの攻撃に対抗するためのものであり、もう一つはシチリア島西部にあるカルタゴの領土を征服しようとするものであった。 しかし、ピュロス王は、イタリア半島とシチリア島の両方で敗北した。カルタゴにとっては以前の状況に戻ったに過ぎなかったが、ローマはタレントゥム(現在のターラント)を占領し、イタリア全域を支配するようになった。 その結果、西地中海における政治勢力に変化が現れ始めた。シチリア島におけるギリシアの拠点は、明らかに減少する一方、ローマの強大化、領土拡大の野望は、カルタゴとの直接対決を導くこととなった。


メッシーナの危機
紀元前288年、シラクサ王アガソクレスが死去すると、彼の雇っていた傭兵たちはメッシーナの町を乗っ取った。彼らはマメルティニ (Mamertini、マルスの子ら) と名乗り、恐怖政治を敷いた。 この集団は、カルタゴとシラクサにとって脅威となりつつあった。紀元前265年、シラクサ王ヒエロ2世は、カルタゴと共同してマメルティニを攻撃した。 その大軍に直面したマメルティニたちの意見は2つに分かれた。一方は、カルタゴへの降服を主張し、もう一方は、ローマの救援を仰ぐというものであった。結局彼らは、カルタゴとローマの両方に使者を派遣した。 ローマの元老院が取るべき道を議論している間に、カルタゴとシラクサの軍はメッシーナに到着した。完全に包囲されたマメルティニは、カルタゴ軍に降服した。メッシーナにはカルタゴの守備隊が置かれ、港にはカルタゴの艦隊が停泊した。 イタリア半島に程近いメッシーナにカルタゴの軍隊が駐屯したことは、ローマにとって明らかな脅威であった。そのため、消極的ではあったが、メッシーナをマメルティニの手に戻すためにローマはカルタゴと開戦し、軍隊を派遣した。


ポエニ戦争
ローマ軍が、メッシーナのカルタゴ軍を攻撃したことで、約1世紀にも渡るポエニ戦争が始まった。西ヨーロッパにおけるローマの覇権を確定し、もって西ヨーロッパの命運を決めることになったこの戦いは、3つの大きな戦争からなる。
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第二次ポエニ戦争 (紀元前218年 - 紀元前202年)
第三次ポエニ戦争 (紀元前149年 - 紀元前146年)
ポエニ戦争では、ローマが常にカルタゴに勝利した。第三次ポエニ戦争によって、カルタゴは滅亡し、ローマの政治家・軍人である小スキピオの指示のもと、その都市は完全に破壊された。このカルタゴ陥落の際に小スキピオは自国ローマの未来を重ねたといわれている。 カルタゴが再び復活することがないように、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、港は焼かれ町は破壊された。陥落時にローマが捕虜としたのは五万人にも上ったとされる。カルタゴの土地には雑草一本すら生えることを許さないという意味で塩がまかれたという通説があるが、これは定かではない。





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Last updated  2007.03.01 00:45:12
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