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想像を絶する津波だった。たくさんの負傷者、行方不明者、そして命を落とした方。そして心配された二次災害。そんななかすぐに被災地に駆けつけ、ピピ島で大きな力となって動いてくれたトモゾ。ダイビングの仲間として一緒に働いてきたことを誇りに思います。そしてピピ島での日本人インストラクターである、トミーさん、シュンスケさん、タツヤさんたちの勇気ある行動を心から素晴らしいと思います。日本人ばかりではなく、西洋人でも最後まで人々の身元を捜し続けた人。こういうときにその人の本当の姿が出ているのではないでしょうか?私が大好きだったピピ島は美しい島というだけでなく、こういった心の人達が住む島だったから、さらに美しい島だったのでしょう。
2005年01月30日
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今月24日にバンコクの病院を退院しました。ご心配をおかけしたみなさま、暖かい言葉、励まし本当に有難うございました。お蔭様で無事に退院にまで迎えることができました。今夜の便で日本に向かいます。今回は津波の影響で多大な被害が及びました。たくさんの仲間や知り合いのことを思うと悲しい思いでいっぱいです。ただただ平和であることを願います。これから先、どんなことが起こるかは分かりませんがもうこういった被害はどうか起こらないように願うばかりです。
2005年01月29日
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クリスマスでみんなが浮かれていた。もちろん私もそうだった。26日は学科のみの講習で午後からショップに出る予定だった。25日まで忙しい日が続き、私はとても疲れていた。26日はゆっくり眠れると思っていた。疲れのせいでクリスマスだというのに私は一滴もお酒を飲まずに早めに部屋に帰った。そして朝、異変に気がついて目が覚めた。カーテンを開けると、たくさんの人々が大声で叫び、走っていく姿が見えた。その一瞬後だった。私は濁流に飲み込まれていた。部屋ごと一瞬にして潰され、流され、裸で外へ投げ出されたのだ。なにが起こったのは全く分からなかったが、自分の体が濁流に飲み込まれ足からずるずるとすごい力で飲み込まれていることは分かった。まず私がまっさきに思ったこと。息が吸いたかった。痛みや恐怖よりも苦しかった。私は濁流に飲まれながら初めて「死」を覚悟した。ならせめてこれ以上苦しまずに、、、とさえ考えた。そして呼吸の変わりに泥水を二口飲み込んだ。その時だった。潮が引き始めたのだろうか。私を引きずり込んでいた水の水位が下がったのか、光を感じることができた。力の限りで水面まで泳ぎ出た。水から出ることが出来た私は運がよかったのだろう。どれだけの人が下敷きになったままだったのだろう。。。水から顔が出ると、今度は引き始めた水に流されそうになった。鉄塔に椰子の木が倒れ掛かって水に浮いていた。流されながらも椰子の木に向かって泳いだ。椰子の木をつかむことが出来なかったら海に流されていたかもしれない。椰子の木をたどって(貯水タンク用の)鉄塔によじ登った。そして初めて何が起こったのか考えた。見慣れている景色がまったく別のものになっていた。瓦礫だらけの海のようだった。そして私はぼんやりと瓦礫の中に倒れている冷蔵庫やテレビを眺めていた。そしてそれが自分の物だと気づき私は自分の家具と一緒に流されてきたんだなぁなどと、どうでもいい事を考えていた。次の波でその家具も流されていった。そのときも私はそれが津波だということを知らなかった。私は何かの信者というわけではないけれど、ただ神様が怒っているのだと思った。自然を切り開きどんどん開発されていく姿に怒っているのだと思っていた。どれだけ時間が経ったのか分からないけれど人が歩き始めたので、通りかかった現地の人に声をかけた。そこは危ないから場所を移るようにと言われた。でも体中が震えて降りることすら出来なかった。その人が私を支えて下ろしてくれ、自分の着ているシャツを私に着せてくれた。瓦礫の山に足をとられながら力の入らない足で歩いた。そしてほんのちょっと歩くと見慣れた階段が見えた。ほんの少しの高台には一緒に働いている人の姿も見え彼等に助けられた。そこで私は自分の左膝が大きく開いているのを見た。助けられて安心したのか全身打撲した体が動けなくなった。泥水を飲み込んでいるので咳が出る。すると頭から血が滴ってきた。こんな状況の中、次々と人が運ばれてくる。どれくらいの時間そうしていたのかは分からない。ヘリコプターが旋回し始めた。私の感覚では30分位だと思っていたが数時間が経過していたようだ。私のすぐ隣でずっとうなされていた人が息を引き取った。そんななかでビールを飲んで騒ぐ人々。怪我を負いながらも必死で人の救助をしている人々。。。私も外したドアを担架代わりにして5人くらいの人にビーチまで運ばれた。道が塞がれて通れないので山を通る遠回りな道のりをたくさんの人に支えられて運ばれた。そのビーチにしかヘリコプターがとまれなかったのだ。ビーチに運ばれるとたくさんの被害にあって動けない人たちが感じられた。みんなさらにそこで数時間待ち、病院へ運ばれていった。そんな様子を写真にとる無神経な無傷の旅行者。私は動けなかったが声を振り絞り抗議の声を上げた。私はその日のうちにクラビの病院に運び込んでもらうことができた。混雑、混乱する病院でたくさんの人たちの叫び声が聞こえた。私もその中の一人だった。でも叫び声を上げられること、痛みを感じること、それは生きているということなのだ。これが私の26日の記憶だ。いろんな思い、出来事がたくさんの人にあるだろう。なのでこれは私だけの記憶の話である。
2005年01月26日
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