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少しずつ取り戻していけてる?みたいなのを少しずつだけど確かめてる感じ。もう戻ってるのかもしれないし戻りきってないのかもしれない。そもそも戻るとかじゃなくて新しく構築しなおしたのかもしれないし。でもやっぱ自分じゃつかみきれない。けどなんかこう、雰囲気は感じる。そんなに怖いことも、なんともならないこともそうそうないんだって言い聞かせるというか。やってダメならいいじゃんそれでも。っていうか。ダメだと色々困るけど、怖れてじっと閉じこもったり距離とってる間にダメになるより、当たってみて砕ければそれでもいいんちゃうかとか。いい悪いというか多分後悔がない。最近、いろんな仲間に会う機会があって、やっぱりみんな頑張ってて輝いてる。自分が出来ることの順番考えて、でも限定しすぎずに、手も出しすぎないというか。ちょっと頑張ってみよとか思った。
2007年10月23日
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他山の石、という言葉を久しぶりに目にした。そういうのって近い人ほど批判しがち、悪くするとけなしてしまう。でもよく考えると自分がそうしている原因は自分がそれを見ていてイラつくからだったりする。イラつく原因ってのはもっとよく考えると、それは自分が同じような点を持っていて、それを鏡で見るようで目をそらしたくなるからだったりもする。そんな気がする。他山の石、以って玉をみがくべし批判したり、ましてけなし、見下しても、自分は変わらないし、ヘタをすると自分が一番成長できるところ、実は克服したいところから目を逸らしちゃってるのかもしれん。
2007年09月30日
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自分の甘さとかじゃなくて、自分の強さが裏付けになってて押し付けない、けれど、必要なときには包めるようなんなやさしさ持てたらって思うんだけれど。傷つけたくない、とか、嫌われたくないっていう気持ちの躊躇も多分しばしば反対の結果を生む正解ってのもないんだろうけど、難しい
2007年09月26日
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以前ならばたやすく言えた言葉を、今は考えて考えて飲み込んでしまうことが多い。よく言えば慎重になったと取れなくもないのかもしれないのだけど。けれど感情表現や、弱音を吐くのは苦手になったように思う。前はどう言っていたのだろう? そしてその言い方は自分の大切な人に負担をかけてはいなかったのか。それを考えて筆を止める。実際に顔を見ていれば安心もするのだろうけれど、メールやブログ、文字の類では前ほど上手く自分を表すことが今出来ない。拒絶されるのが怖くて言葉を選んでしまうのだろうな。拒絶されるのが、傷つくのが怖いから、人のことは拒絶したくない、傷つけたくない。けれども拒絶しないことは自分のキャパシティー以上のことを抱えこんでしまって処理しきれないこと、一つ一つが矛盾してくることによって相手をまた傷つけるし、矛盾を掻い潜ろうとする自分というのは卑怯な存在に思えてあまり良いこともないし。だから、これでよかった。何かをどこかで偽っている自分の”気持ち”なんて自分が一番やっぱり許せない。どこか甘えていたしどこか甘やかしていた。それがこれで終わる。こういうきっかけでやっと、という自分に苛立ちもある。でも、いいんだ。昔みたいに、気持ちの為に自分の力も省みないでとんでもないことをしてしまうような行動力ではなくて、自分の気持ちとかそれを自分でもそれを信じたるに足るって思える、信じてもらえるともっと思えるように出来ることを着実にできるようなそんな行動力をって思う。出来ていること出来ること出来たらいいと思うこと一日で、1ヶ月でそんなスパンで劇的になにか変わらなくてもいい。以前間違っていたのはそういうスパンで何かの結果を期待してテンパりすぎてたようにも思う。少しずつでいいから続けるようなこと、気持ち。あんまり人に出来ないことは出来たりする部分もあるって言ってもらえて、それはそれで自分を認めたい。けれどもそれで満足では全然なくて、やはり、普通のことが普通に出来たら嬉しいだろうな。欲張りさんとか言われたりもしたけど、ん~まぁでも少しずつ。俺から見たらやっぱりみんなすごいと思うしね。自分が自分に最低限必要だと思ってるものを手に入れたときに何を得てて何を失ってるのかな、と思う。けれど、やっぱりそうなりたい理由は沢山あるんだ。なんや言うて弱音も書いてる気もしてきたな; でも今は前を向くために吐き出してるんだと思うから。大丈夫。一つずつ恐怖と不安を克服するのはやっぱり痛いんだから、今感じてるその何か胸の騒ぐ痛みみたいなものはポジティブなものだと思うから。明日も遠く遠く先を見て絶望したりしないで一日進める数歩を見つめて一歩でも先へ進めている自分でありますように。
2007年09月23日
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こちらに、日記を書かない間にも色々と連絡を下さった方、メールを下さった方、いらっしゃって本当に感謝しています。まだ出来ない、出来ていないことも沢山です。どこかに自分を低く見積もる癖がついてしまっているのかもしれませんが、自分の出来るようになったこと、出来ていること、持っているものに気づかせてくれる人、事というのもあったりはします。定期的な通院が終わってからそろそろ4ヶ月です。はっちゃけた先生ですし、しんどいとき、頓服薬がなくなったときはいつでも来なさい、という感じなのでまたあのクリニックにお邪魔することはあると思います。足元を見てあと三歩進めそうならニ歩でやめといて、あと一歩は明日歩きだす一歩目として残しとく。多くを求めすぎず、在れるように在り、それが継続可能な形であればそれで満たされるしそれでよい。正しいとか正しくないとかよい悪いではなくて今はそうしててそうしたい。後悔や過去や自信、いろんなものから抑えていた割と無自覚だったかもしれない気持ちが意外とダダ漏れじゃん、見たら分かるとか言われて。なんかああ、そうだったのかと思うと納得してみたり。あれからずっと自分は誰かに人の影を重ねて無理させていたのだろうかと思うと申し訳なくもなったけれど。ただ、いいんだ、分かったから。それだけでもね。もっと自分の誇りにできるか、どう受け取られるものかは自分次第。そしたらやっぱり足元の一歩先は見つめたいし、変な甘えや期待はしない。遠く先を見すぎて無理なこと頑張ろうとしすぎてつぶれたり、そこを相手に甘えて、”当然”を期待してしまう。そうやって相手をつらくするのはもう嫌だしね。そうされるということも、自分がされてみると、どういうことか分かったような気もするし。前書いてたガチガチに力が云々とかみたいに今は思ってるかどうかってと微妙だけれど、でも前を見てないわけじゃないんだ。目標としてはもうちょっと自信持って胸張って誰かに”前見てんだぜ”って言えるようにね。いろんな人、いろんなことにごめんなさいとか、ありがとうはやっぱり沢山ある。また少しずつ書けたらよいんだけれど。なんかこういう文章久しぶりに書いたから慣れない感じがしていけない(苦笑) 私はこういう風に書いてたのかな・・・いやもっとあからさまに色々書いてたかもしれないよね・・・;まずこのサイトの雰囲気はそろそろなんとかしないとなぁ(苦笑)
2007年09月20日
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強い事と力があることはまた違うのかもしれない。力があれば、と思う事もあるけれど、出来ない事があること=出来る事がないっていうわけではない。少しだけ優しくなれるかな。この気持ちを覚えておくことで、自分の無力を少し許してあげても良いかもしれない。それで満足してしまうわけではないけれどね。そう思えたりしたよ。ありがとう。今度彼女みたいな子をみたら声を掛けて、暖かいものを一緒に飲んだっていい。そしたらあの瞳から零れる笑顔だって見られるかもしれないからね。
2007年02月26日
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しっかり、だななんてか幸せは歩いてこないだけど走って逃げるのよって感じはします。逃がすのは己の愚です。歩いてこないなら走ってでも追わないから。そしてこんな拙い作文なら小学生でも出来ます。書くことはもう無いんですほんとは。自分がしっかりしてやる事、てのがあるだけ。また永く開くかもしれませんが。dravenがdravenになれて来たらまたきっと書く事も出てくると思います。
2007年01月15日
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居ました。此処で書く気分になったのは久しぶりかな・・・整理の着かないことや自分の弱さ故の(というのは別に言い訳で言うのではなく)色々がまだ完全に収拾が着いたわけではないけれど、自分の気持ちや何か色んな部分でまとまったような気がすること。まだ、と思うなりにでもあのころとは自分は変わったのかもしれないと思う一方で、あの頃に持てていた気持ちを今は持って居ない事。久しぶりに逢って、それがどういうものだったか分かった気がして、そうしたら自分のしがみついていたというか離れられなかった事の虚しさも相対的に余計際だつ気がした。前こうだったから戻りたい(少なくともあの頃の自分に戻りたいわけでもないし)とか思いはしなくて、以前こういう人だったからではなくて今素敵な人だから手に入れたい。私は以前はそういう人だったし、そういうのが多分自分のその形だったんだろうと思う。(と気付いたのは退化ではないと信じたい)0あんなに何も考えずに突っ走るまえに自分に必要だと思う事も多い。誰と居ることも気になるわけでもないし、無理に間に合わなくてもいいのだけれど。するかどうかとかじゃなくて自分の中で今ならどうあっても、時間が掛かっても、奪いたい、奪えるかもってまた自信が持てる時が来たら、あのころよりも、増してこのところの煮え切らなかった自分よりも、素敵な自分になれているのじゃないかとか考えたりして。久しぶりに、こういう時どういう音楽を聴いた良いのか分からないような感情が湧いてきて、不思議だった。分からんが、もっと自然に素敵で輝けるのだからそう在って欲しいよ。そう、言いたいから、私ももう少し素敵で輝いて在りたい。そんな感じ。今はこう書くような自分ではまだない気もするし、感じたものが何か一般的に何かと呼ばれるようなものではないんじゃないかと思うし思いたいのだけれど(笑)最近の自分の中での変化の一つにはなるかもしれない。なると良いね。
2007年01月14日
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ドウシテ ボクハ ナニモ デキナインダロウ頑張っている君頑張っているあの人頑張っている皆頑張れない私でも、恥ずかしげもなく、頑張りたい私
2006年10月02日
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ああ!って一瞬思った。え?って次に思った。やっぱりって次になった。嬉しかったんやけどな、仕方がない私の所為だ。ごめんね。
2006年09月28日
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自分の事が嫌いになる前になんとかしたい。逆に、お前はここまで来ても自分が嫌いではないのか?考えるとやはり自分は最低だと思う。裏切って居る事は解っていてどうすれば良いか解っているのにオタオタと。悪い事をした後に謝り方に迷って機会を逃して所在のないガキのようで。いや、子供はもっと素直に謝れるのだろうな。人間としてどうなんだろうかと思いながら。どんどん深い沼の方に向かっている足先を切り替えないといけないのに。
2006年09月07日
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俺、強くなれやもっともっともっととりあえず今はせめてもう少しでも甘える俺なんか逃げる俺なんか言い訳する俺なんか中途半端な口先なんか大嫌いだ。力が欲しいそのために必要なものなんて最初からなにも変わってない。引き籠もりも自傷も諸々、あの時には必要だったろうけれどそぎ落として、そぎ落としていったら段々目を背けていた光の輪郭が見えて来てるじゃないかためらいも畏れも不安も語ればやっぱり逃げ、言い訳自分の弱さがもたらした妙な副産物はいつかまぁ使えればいいから今は後回しにしなきゃ
2006年07月31日
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なんつぅか・・・なんともなぁ。もう己の事を省みると思って書くと言い訳してる自分ってのは自分が一番良く知ってるはずでそうそう周りも簡単に騙せるものではなくてそれ以上に自分は騙せるものでもなくて。いつかそうは立ちゆかなくなるのは了解なはず。口をついてすぐ出てくるのが言い訳な自分っていうのは矢張り嫌いだし人を騙すつもりの言い訳も意外と自分を騙し賺す為に言うてるかもしれず。でも実際、言い訳で自分を騙せちゃって、自分の嘘に自分が納得しちゃうと終わりだと思うわけで。そういうのが何より居心地がわるくて痛いなぁとか思う事ってのは最近多いのです。これが痛いなぁと思わなくなるときっとそれこそ終わりなんだと。
2006年06月15日
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彼氏になる気はなくて 束縛ジェラシーはある でも愛してるじゃなくて 君だけの特別でいたい Janne Da Arc (ROMANC∃)ああ、自分自分は束縛とか本当の意味で嫉妬なんてのは忘れてしまって久しいわけですがね。
2006年05月19日
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本日電話がありまして。結果は黒orz嗚呼・・・いやもう、思い当たる症状もあったしね、ちょっと覚悟はありましたが・・・。ほんと、ご心配下さった皆さん。有り難うございました。ちなみに原因とかってよく分からないそうです。薬で抑えるしかないようですが、いざとなったら切るとか放射線入りヨードを飲むとかあるようなので。もしかするとお薬とはかなり長いおつきあいになるやもしれません。その代わり、脈拍の早いのとか、汗っかきなのとか、精神不安定なのとかが、改善されるやもしれません。まぁ、分かっただけ良かったということで・・・。病院にも行ってきまして早速お薬などもらって参りました。まぁ、日常生活に大きな障害のある病気じゃないのですが、今日からまた新たな病気と向き合う日々です。って大げさな。調子が良くなるよう、頑張ってみます~。
2006年05月17日
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金曜の夜あたりから微妙だった体調は土曜の夜、38度と7分という熱を記録して、めでたく、風邪とあいなりました。二日目も三日目も一行に熱は下がりません。月曜の昨日、あまりのしんどさに、近所の内科へ。診療終了10分前。なんだか医大生の研修かなんかだったらしく診察室には白衣の四人。学生さんに丁寧に説明すべく、そして模範的診察というものを見せるべく、運良く私は丁寧な診察にありつけました。色々問診された後、血液検査へ。お仕事終了間際だったはずの看護婦さんは非常に冷たく、事務的に採血。アルコールの滲みた脱脂綿を注射針のあとに乗っけてぶっきらぼうに”抑えてください””あ、はい”小学校のインフルエンザとか日本脳炎の予防接種の時、よく脱脂綿を渡されたら、注射痕をグリグリしませんでしたか?あと、脱脂綿をすーすー吸う奴とか。ということでなんとなく、渡された脱脂綿でもって注射痕をグリグリしてますと、抑揚のない声で”もまない””あ、はい、すみません”謝るも全くリアクションなし。空気、気まずい。看護婦さんの綺麗なお顔は無表情。こちとら、38度の熱で必死ですが、向こうも仕事終了間際で必死でしょう。多分。その後また診察室へ呼び戻され”甲状腺機能亢進症かもしれんね”と。はい?なんですか?説明を求めるも、”ネットできる?ああそれなら帰ってから調べて、今日は解熱剤4つ出しとくからね”よくわからんまましかし、喉やら顔やら、手のふるえやらの写真やらビデオを撮られる。”血液検査の結果が、まぁ今日はギリギリに来たからねぇもっと早くきてくれないと・・・まぁまた明日、明後日には分かると思うけど、手が震えたりするのとかも、神経とかじゃなくて甲状腺(以下略)かもしれん”なんにしろ、なんとかギリギリとはいえ診療時間内に38度でふらふらしつつでも、先生の飯のタネが這って来たんだから少しは褒めて下さい。マジ。正体の分からない病気かもしれんと言われ、しかし熱でとても調べる気になれない私はそのまま帰宅して即床へ。しかし、処方箋で出る解熱剤の効果は素晴らしく、暫くぶっ倒れたあと綺麗に熱だけ引き多少復活。甲状腺うんちゃらってのがどうしても気になり、調べてみる。”甲状腺機能亢進症、バセドウ病”と先生の書いたメモ。以下、Wikipediaバセドウ病の項目より、一部抜粋† † † † † † † † † † † † †病態自己の体内に甲状腺を刺激する抗体が生じ、それが甲状腺刺激ホルモンの代わりに甲状腺を過剰に刺激しつづけることで、ホルモンの働きが高まりすぎる状態となる。甲状腺ホルモンは全身の新陳代謝を高めるホルモンであるので、甲状腺ホルモンの異常高値によって代謝が異常に活発になることで、心身に様々な影響を及ぼす。症状甲状腺肥大、眼球突出、頻脈をメルゼブルク(Merseburg)の三徴と言う。 他に甲状腺機能亢進症を来たし、 低カリウム血症から低カリウム性周期性四肢麻痺になる。 あらゆる臓器が常に全力疾走しているのと同じ状態になり、大量のエネルギーを必要とするため食欲が異常に増す。 代謝亢進から体重減少を来たす。 心臓機能の亢進から収縮期高血圧を来たす。 新陳代謝の活発化から発汗過多を来たす。 内分泌のバランスが崩れて精神的に不安定になる、イライラする、集中力が低下する。 といった症状も見られる。 † † † † † † † † † † † † †ええ・・・・確かにですね甲状腺のあたりというのは微妙に腫れております。しかし、私、眼球、飛び出てますでしょうか?;;;;しかしですね○あらゆる臓器が常に全力疾走しているのと同じ状態になり、大量のエネルギーを必要とするため食欲が異常に増す。 ○代謝亢進から体重減少を来たす。 ○新陳代謝の活発化から発汗過多を来たす。 ○内分泌のバランスが崩れて精神的に不安定になる、イライラする、集中力が低下する。 このあたりは思い当たる節が多すぎてなんとも言えません。嗚呼・・・ということで血液検査の結果待ちのdravenなのであります。ドキドキですねぇ。風邪で内科に行ってここまで話が大きくなるとは思いませんでした。以前発熱で内科に行って不整脈と言われた事などなんのそのの衝撃事であります。何事もなかったらそれはそれで、一つ賢くなりました、ということで良いのですがね・・・;
2006年05月16日
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無理籠が見えず、籠が見えても自らが見えず自らが見えても羽が動かせず羽ばたくことのない烏はただただ醜いだけこんな風に見捨てられたくないと思いながらこんなことをする自分を呪ってただただ弱い罠が痛ければ痛かっただけ羽ばたくでしょう羽ばたけよ
2006年04月30日
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ある意味実質、音信不通に近い状態が続いて申し訳ないです。その間、心配してメール、メッセ下さった方、下さったのに私が爆睡してて返信できなかったねえさま、なんやで直で逢ったみんな、励ましてくれた方、怒ってくれた方、ブチ切れてた方; なんにしろありがとうでした。個々に書きたいことも色々ありつつ、またそれは改めて。生きてます。○7歳。もうそろそろ歳が気になってまいりました。が、気にすると負けです、強く生きますともさ。もう少ししたら復活すると思いますので、こんな私ですが、またその折にはお相手してやってくださいませませ。久しぶりがこんなかよ。
2006年04月27日
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と、言うのはムックの「遺書」って曲の歌詞なのですが。なんだかなぁ・・・・紆余紆余曲曲曲曲折してなんだかここまで来たって、すごく周りに迷惑かけながら来たって思ってて感謝もしてる。そしてまぁ、親つか父親にもそれは感謝もしてるし申し訳無く思ってる。が、外野は黙っててくれや。なんつか人が前を向こうとしたところに、ほんとに毎度もれなく”心配してる”っぽい言葉でたたき落とす丁寧さには頭が下がる。頼むからもう来ないでくれ(苦笑)弟の事で俺が愚痴云われても困るねん。”家”と父親を苛むだけの害虫なんなら、俺も死んでやるからさ。要らんのならいつでも死んでやるって。弟が悪いのも俺の所為か?俺はあんたの淡ツボじゃねぇんだよ。居なくなれば満足か。だから誰も孫が広島に戻ってきて来ないんだよ。むしろ息子も半分去って行くんだよ、気付けよ。マジであの人が居てくれなかったら久しぶりにサックリいくとこだった。カウンセラーの先生とか、周りの人と、色々話して、色んな風に心の向きを定めようとして、勇気を貰って、前を見つてる所で。俺的にはそういった人達の方がいくらも大事なのに、大切なのに、正直、3等親か?離れたような俺的にはどうでも良い、血縁者の言葉にこれだけ心乱される自分が何より嫌や。ああもう最近自分が嫌になりそうな事が多い。保たねばああ、もう言えばええねんな今度は言うてみよう。「あんたの所為で胸クソわりぃ、安定剤が倍に増えそうな気分だ」と。以上、愚痴。ぶちまけたので多分大丈夫。嗚呼、もうこんな日に全く。神社で身を清めてこようかしら。胸くそわりぃ。海に向かってFuck Youって叫ぼうかなぁ。青春だなぁ。海遠いけど。久しぶりがこんなでほんまごめんなさい。
2006年03月25日
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ボクらは泥濘に堕ちたモノ今すぐにも空に還りたくて泥に塗れた翼で飛べないことをいつも嘆いてしまうけれど翼を洗い流して 洗い流して乾かせて忘れかけた翔び方を思い出しながらゆっくりと羽ばたかなければ本当は還れないだから。えらく開きました。人のPC借りて更新です。むしろ想い人のPCです。色々なのです。また落ち着いたら、感謝とか謝罪とか、事実とか感情とか望むベクトルとかぬぐいきれてないルサンチマンとか、ぶちまけるかもしれません。がなんの因果か想像もしない形で此処に居たりはするのです。
2006年03月18日
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実は昨日に既に終わっていたり。少しパートを作りたい気もして。でも無理にはしたくないので降って来るの待ち中。その間、ニーチェにはじまり実存主義や構造主義から記号論、ポスト構造主義を浅く浅く舐めつつ、世界を彷徨った挙げ句最近戻って参りましたdravenです。これで今度テレビでワーグナーのオペラ見たら前より理解出来るでしょうか。硬派、訳解らん=ドイツオペラ軟派、昼メロ=イタリアオペラなイメージを持っているのですが偏見でしょうか。少なくともプッチーニのオペラなんて、ストーリーまともに気にすればするほどアホらしくなって笑っちゃう気がするのですが。でも意味解らないと泣けない所もありつつ、でもそんな、鬼畜ヤンキーなぁ~とか、いや悩みどころが違うくない?とか色々突っ込み入れたくなるのもありますやん。ギター弾かねば。いや、何って、”力”って結局何だろうなぁとか思ってマインドジャーニーを繰り広げていたのですよ。ニーチェって別に過激じゃない気がするんだけどなぁ。超人なんていうのだって、名前ほどこう、仰々しいものじゃなくて書き方が仰々しいだけで、結構、意識するなら日常の範疇だと思うし。日常と繋がってこそ哲学は哲学たれるように思うのです。でもやっぱ本読むと別世界な気もして、こんがらがるのであります。ニーチェ無理です読めません。でも、哲学思想書(解説書も含めて)ってのは一冊読むとなんか少なくとも3,4個とても身近で身につまされるような、でも行動や認識に対する少しの勇気さえあれば、自分を良い方向に導いてくれるような文言があるように思うのです。
2006年03月10日
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自分の中で昨日降りてきたメロディーをどう、アレンジするのかっていうのは自然出てきて。今までだとこんな風にすると○○っぽいし、避けたいとか○○っぽくこうしたいとか考えてたけれど、恣意的なアレンジになればなるほど、何かは失われて行く気がして、やはりそういうのは昨日と通じるけれど、考えずに出てくるそのまま。そう思って。自分の中ではなるだけナチュラルに。でも、自分だから出来る形に。ピアノ音色でシンセの鍵盤を叩く。無論サンプリングしてあるのはとても良い音のピアノだから、悪い音はしない。打ち込むのはやめて、自分で弾こうと思った。ものすごく簡単なラインだけれど、本当に多分10年とかぶりくらいじゃないのか、鍵盤を感情込めてまともに弾こうとか考えたのは。メトロノームに合わせてきちんとしたタイミングで弾くのって昔から苦手だった。でも、今は失敗しても新しい事にチャレンジしてみたい気持ちがあるから、兎に角やってみて、とても感情も入れる事が出来る、と感じた。むしろ、本当のピアノではないから・・・シンセのピアノの音の表現力ってのの限界が初めて見えたというか・・・。もっと厳密にサンプリングしてある、サンプラーで明日は弾いてみよう。ほんとは本物弾くのが一番良いのだけれど。グランドピアノとかないし、マイク二本はさすがに持ってないしね。ドラムとか自分じゃ叩けないというか、自分のドラムの腕にも、ドラムを録音する技術と機材ってのにも限界がすごくあってそれは仕方ないから、なるだけ、なるだけナチュラルに限りなく、作れればと思って居るけれどあとは、なるだけ、自分の手、でつくりあげたいなと。今手元にベースがないのだけれど、友達に借りてくるかどうかしようかな・・・弟から奪取してくるべきかw鍵盤を弾く事に関しては紅鳩ブラザーはじめとして私の周りには私よりもすごい人はいくらでもいて、だからあまり、そういうとこさすがに、俺がギターじゃ負けねえってのの逆で、かなわねぇ、ってのはあるんだけど今日は少し自分の原点っていうか、鍵盤を押さえていて、とても気持ちが良かった。すごい事は俺は鍵盤ではできないけど、ちょっとしたことを素敵に出来るならそれも良いかなと。逆言えばギターですごい事したってそれが素敵じゃなきゃ意味ない。曲って自分の子供みたいなものだってよくなんか言う。なんていうか少なからず音は、私的なものだけれど、多分ここまでとても私的だった曲はないのかもしれない。怒りとか悲しみ、鬱とかをがむしゃらに込めた音っていうのはあるのだけれど、なんていうか、今回は分類できない何かがある。大切に形にして行けたら良いな。あの人は喜んでくれるだろうか。まだ、私の頭の中にしかない、完成形。でも頭の中にはもうあるから、あとは慎重にでも考えることなく引き出せば良いはず。ピアノの上のあの人とシンクロしてたら良いな。
2006年03月07日
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さて、胃もたたれて太田胃散でも必要そうなげっそり長い日記(しかも70%くらいコピペという)の後に、突然こんな日記です。以前、ちょっと書いたのですが、最近暫く、いや結構長い事、音楽の妖精が耳元で囁いてくれなかった、歌声を俺も聞き取れなかったのです。予感だけはあったのだけれど、今日、一気にそれは覆って、その上、3歳の頃だったか、ヴィクターの電子オルガンを滅茶苦茶に押さえていた頃から、曲がりなりにも、自分は音楽を続けて来た事に、間違いはなかったのかもしれない、何より、そのころからずっと音楽を愛して、続けていて良かったと今まで曲を書いてきた中でも特別な感慨を持って思えた。で、私にとって癒しの女神なあの人なわけですが、私が音楽書く事知って、自分も表現したかった、みたいなことを一度言わはったことがあるんです。別に今からやっても遅くないじゃないですかって言った。そしたら、昔こんな詩を書いてたことがあるんですけど・・・って控えめにいくつか詩を送ってくれていたのです。曲になりますか?って言われてええ、きっと少し言葉をいじるようになるかもしれませんが。と言ってあったのです。最初、その詩を読んでとてもその言葉には共感したのですが、”歌詞にするには歌詞っぽく編集しなきゃ曲出来ないかなぁ”と思ったからなのです。今考えると、音楽の横暴です。男が何故男らしく在らねばならない?とか思っているような私が、歌詞が歌詞らしくないと、等という事を思ったのです。なんたる愚かさ。前のカウンセリングでも先生と少し話した事で、今日の胃もたれ12000文字日記でも書いたように、ジェンダーなりなんなり社会の”常識”の枠に収まるのがものすごくいやな俺なのに、音楽、詩、そういう、自分のクリエイトするものを枠に入れる、常識に納めようとするなんて、なんて事だろう、恥ずかしい。と思ったのです。自由でいいじゃないか。形式なんてクソ食らえでも良いじゃないか。そう気付いたのです。そんな私をカウンセラーの先生はとても楽しそうな顔で”目が輝いてる”と仰って下さった。昨日までの日でちょっと思いついたギターリフを発展させて、”形式的”なインスト曲を一曲作った。AメロがあってBメロがあって、展開して戻って終わる。自分の何かを確認する為のまずは、っていう無理のない儀式。ギターの録音の仕方、自分を追いつめすぎない新しい感覚を発展させ、カンも取り戻すリハビリ。そんな大したことない曲かもしれないし好みじゃないかもしれないそれに、まだもう少し途中だけど、って言って昨日その人にあげた。今日はそれを仕上げるかなぁって思っていたのだけれど、その人の言葉を、詩を見ていたら、「ああ、俺もう、下らない枠に捕らわれずにこの言葉を音に出来る」って確信した。その瞬間から、すぐ妖精の声が戻って来て、耳元で囁くように、溢れ出すように歌ってくれて。私は、逃さないように、急いで急いで、鍵盤でそれを確かめて、急いで打ち込んで行く。コヒーメーカーで珈琲淹れてたのを忘れて煮詰まりそうになっていたのを回収して一口飲んで、また、耳を澄ませて、どんどん、打ち込んで。一時間だったかもしれないし30分だったかもしれないし、2時間か3時間だったのか自分でも解らない。けれど、兎に角、妖精の歌がその人の言葉に合うまでずっと聞き続け、鍵盤を押さえ、打ち込み、どんどん溢れる旋律に構成がどうなるとか形式がどうなるとかそんな事を考える暇も、考えるつもりもなく、それは出来上がって。兎に角、その、メロディーと、コードの響きだけが最小限、聴き苦しくないように音だけ調整し、純粋にメロディーだけを聴いてもらって、曲にジャンルのイメージを感じないように慎重に音色を選んで、録音した。妖精が耳元から離れて、私もこの世に意識が戻る。いつでも聴かせられます、とメッセージを打って、存在を忘れていた珈琲をチョコレートを食べて。映画を見てたその人からメッセージが来て、いつでも送って下さい、と。まだ、本当に最小限の骨子だけ。でも、聴いてほしくて、でも気に入ってもらえるものか、ドキドキしながら送って。素敵な曲、感動です、って来て。そこまではお世辞でも言ってくれるかもしれないのだけれど突然、「涙止まんない」って。詩を書いた時の気持ちをそのまま音にしてもらった感じだって言って貰えて。曲を聴いて泣いたのは某バンドのある曲以来だって言われて。俺もそのバンドは自分がこうやって今も音楽をやっていることに大きな影響をくれたバンドだったから、とても嬉しくて。それより何より、自分の曲で喜んでもらえたり、感激して貰えた事はあったし、それだってとても嬉しかった。けれど、今まだ私はあの人に手が届いてるわけじゃない、心開くのもその人はためらっている、自分の想いだって叶うかどうかなんて解らない、それでも自分にとって今とても大切な人が、自分の音で、涙を流してくれた事になんとも言えず胸が満ちるようで、でも締め付けられるような感覚に襲われて、私も涙が出てきて。なんか、今まで音をやってきてきっと良かったんだと。今までで一番強く想ったかもしれない。チョコ貰ったわけじゃない。そのころはまだ好きだとか想ってなかったかもしれない。けどなんか14日までに何か形にして、あの人に送れたら良いなと思ったりしている。勝手に好きになって、いつも想ったら好きだって言うし、誰にも開きたくないっていう彼女の心を開いてほしいと望んでいて、傍らに居てくれれば良いなと想っている私。かなりのラテン系変人。それでも私を嫌わず「いいですよ」「ありがとうございます」って言ってくれる彼女への、せめてものなにか。私に出来るなにか、音、音楽。大切な人に響くなら、野心や欲、形式や枠、今、必要のないものなど全て取り払って、ただ、音だけを感じ取って、それを書き留める、そのことに自信を持てる。† † † † † † † † † † † † †ぼくは地図帳拡げて オンガクきみはピアノに登って オンガクぼくはリンゴかじって オンガクきみは電車ゴトゴト オンガク待ってる一緒に歌う時 ハハ待ってる一緒に踊る時 ハハ(坂本龍一 : ONGAKU)† † † † † † † † † † † † †
2006年03月06日
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(※下の記事の続きです、上下が前後してしまうので読みにくいですすみませんっていうか、12000文字って普通に読みにくいですよね、すみません;) 長々書いてきたジェンダーもそうだけれど、人や社会から提供される型に収まるのはとても簡単だけれど、それはともあれば非常に脆く、大勢が仕立て上げただけの虚像のようなものなのに何故みんな偶像をあんなに拝み倒して、拝まない人間を変態か社会不適応者みたいに思うのかしら。 そもそも、個性を伸ばすとか言う学校教育から歪んでるから、簡単に個性なんて言うと陳腐になるけれども、結局、前のあれじゃないけど、型がないとこから、自分を一から創り上げる事、そうすると多様性(敢えてもう個性とか言わないけど)が生まれるということに不安がある人多いからこうなるんやろうか? というのは、自分が枠から外れてみたり、型を自分で模索しながら白眼視でもされたりしてみないと、自分っていう存在がどれだけ楽な型に納まって代償に何を失ってるのか、もしくは型っていうのは自分に実はあっていて失うようなモノは無いのか、はたまた、ただ不感症になっていただけなのだと、気付けるか、それは解らないものなのかもしれないけれど。自分もそうだったと思うし。 映画の「攻殻機動隊 Ghost in the Shell」の主人公、草薙素子の台詞にこんなのがある 「同じ規格品で構成されたシステムは、どこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるのは緩やかな死。それだけよ。」 社会的な性、ジェンダーの画一化に俺がまぁ抵抗があるから上みたいな事書いてきたわけやけど、こんな台詞引用しちゃうと俺がずっと書いて来た事自体もある意味では”「規格品で構成されたシステム」と「特殊化」の崩壊もしくは破壊と、再構成”、というベクトルへの”特殊化”を少なからず含んだ言葉でもあり、この文章全ても当然に相対化されてしまい得る訳だけれど、その相対化された自分なりという存在が居場所を求める行為過程こそが思考で、様々な論に耳を傾け、思考判断し、最終的には自らの思考でオリジナルを再構築する事でなのではないかと思ったりもするわけです。 考えすぎると鬱なるけどね(爆) まぁ同じ攻殻機動隊のテレビアニメ版には同じ草薙素子の台詞で 「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。」 というのもあるわけです。自分を変えるっていうのが迎合出来るようになるっていう方向なら、それができりゃ一番悩みはないんだろうなぁ。まぁこの台詞は無論そういう意味ではないんだろうけれど。 とりあえず、私は色々に変化しつつ稚拙ながら耳をそばだて目を見開き常に思考の硬直化を危惧しつつなるべくオープンにと願いそれを再構築しながら、こうやってちょっとだけおそるおそる口を開いてみるのです。
2006年03月06日
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※某SNSサイトのある日の日記の一部として書いたものを加筆、修正したものです。なんか女々しいって言葉は所謂”女々し”くない女の人に失礼よね。女々しいと言われようとも私は雄々しく(もしくは男々し?)なるつもりなんてサラサラないけど。 生物学上のsex、性別以上の”男”っていうジェンダー、社会風俗的に本来流動的で無常たるはずの精神概念、社会通念を(男性が)自らの強さの拠り所、もしくはその一部にしてしまうのは、それ自体むしろ弱さだと私は思う。でもそういう男の弱さにも丁度、利害一致的に所謂”女々しく”(と、こういう場合にこそ恐らく世間で言われるような意味で使われて然りと思うんだけど)拠る女性も実際結構居て、楽な相互依存関係というか社会通念的に裏付けてもらえる確信的共犯関係が意識無意識を問わず楽に手に入る、”そうあって当たり前”な空気が雰囲気として流れてそれを許す以上そもそも意識する人自体少なくても仕方無いのかもしらん。 ただ、よくフェミニスト(のような人)ってのは専業主婦を批判するけれど、そういうこともきちんと認識した上での主婦なのであれば私はそういうマッチョイズムの共犯者とは特に思わないし。ただ、主婦が許されるなら、主夫も認知されて然るべきであろうし、男女の雇用機会が真に(厳密にいうと最小限の性別性差の範囲での区別保護、それは男性に対してもおなじ事だけれど、は踏まえた上で)平等であることが出来れば、役割の在り方は多様で在れるだろうと思う程度で。その選択肢の一つとしての専業主婦っていうのは何も批判されるべき対象ではなかろうと思う。まぁ、ギリギリの経済の中でさらに国民にギリギリを強いて、年収300万円時代の云々なんて本が売れる日本で、完全な専業主婦ってのも今はなかなか難しいのかもしれないけど。逆に言うと、そういう中で(経営側として楽な事じゃないのは解るんだけど、ぶっちゃけ男共の給料削ってでも、そういうのを上手くやるのが本来のリストラ=リ・ストラクションなんちゃうかと。・・・すみません自分でも方策とか思いつかないのに出来ない事偉そうに言いました:汗)女性出産育児後の再就職(パート、バイトではなく)っていうのが選択したければ出来るのが理想なのだろうけれど、まぁ普通に就職は難しい今日日、とかぼやいてもま、それはまた別の話。 本来、それに対してもっと理性的に疑問を投げかけて、啓蒙なりをする目的だったはずのフェミニズムは今やとても奇妙でおかしな方向に走ってるし。まぁフェミニズムっていう名前からして(femmeが女で、ismが主義なら、女性主義って事になるわけで、男女、彼らには女男か?wどっちでも私は良いのだけれどその両性の平等を目指すなら最初からしてこの名前ってのは)オカシいといえばおかしかったわけだから仕方ないけど。女性優遇がやりたいのか、男女同権を目指したいのか、一般にはもうオカシなフェミニストと本来的フェミニストって区別が付かないのかもしれないし、むしろ、女性優遇をヒステリックに叫ぶのがフェミニストと思われちゃってるかもしれない。 少し、セックスとジェンダーに唐突に戻って言えば、例えば、民法に母性の保護っていうのは謳われてる。現在の内容はともかく、基本的概念っていうのは性別(セックス)の保護であって社会的性役割(ジェンダー)の押しつけではない。そのへんすら区別できてないんじゃないかっていう人(法学な人も含めて)ってもしかして多いんじゃないかって危惧が私にはある。或る程度法が時代に敏感に左右されすぎずに保守的である事の必要性ってのも理解するけれど、それを考慮したとしても、商法改正とかしてるくらいなんだし、そろそろ時代に見合った見直しを本格的されるべきだと思う。だからといって母性保護のような概念、っていうのはアレルギー反応起こして否定するようなものでは無くて。民法自体が今、結局まだジェンダーに或る程度捕らわれてるのも確かだけれど、それと生物的性差の保護を一緒くたに考えて論じてしまうのは浅はかやと思う。けど、たぶんそう言っても、解ってくれないリベラル系のお方っても結構居るのかもしらん。解っててわざと論じない事で女性優遇をそこまでしたいのか、それとも、そのへんさえまともに区別して論じられない人が多いのか。 興味とか問題意識のそもそもあまりない人に対して、(問題提起と情報を与え、判断を促すのがそもそも啓蒙、啓発なんだろうけど)ボーっとしてても、メディアに露出して、お茶の間に届いてくるのはテレビタックルになんかによく出てた(まだ出てるのかしらん)法政大学かどこかの某・田島陽子みたいな感じのばかり。たぶんテレビ的には道化として茶化し易くオイシイんだろうけど、フェミニストっていうより結局、あれは女性を意識しすぎた故に男根コンレックスにトラウマの如く捕らわれてヒステリー起こすオカシなおばちゃんってだけだと思うんだけど。舛添要一に笑われてもあれは仕方ない。田島陽子自体がメディアの道化に使われてる事さえも(田島陽子はまぁ商売やから自覚してるかもしれないけど)解らずにあの浅はかな論に共感してしまう人(なんか偏見だったら申し訳ないけれど、主婦の人が多いように思う)にわかフェミニスト擬きってのがまた出てきて、突如変に目覚めちゃって身近の男達に妙な事を叫び始めるっていう、草根・プチ・ジェンダーテロ的な事なんかがあろうものなら、さらに一般的な”フェミニスト”ってものの認識は混迷を極めてしまう。むしろ悪印象さえ持たれかねない。本来ああいうのはフェミニズムなんかじゃないだろう。けど、そんなしか茶の間、世間に届かないからそんなものだと思われてしまう。”自称”フェミニストやフェミニスト”擬き”が結局、同権を目指すフェミニストやひいてはフェミニズム全体の、足を引っ張ってるって気がする。もうおかしな方向っていうよりフェミニズムの亜流、我流、邪道、偽物によって浸食されてフェミニズム自体が自壊しかけなのかもしれない。 私は、理性的に同権主義を目指しているフェミニズムにしても、まだ成熟しきっているとは思っていなくて。フェミニズムっていう名前自体はどこかの時点で変わるかもしれないし、そうなる方がよいのかもしれないけれど、同権思想そのものがもっと体系的に整理されて成熟し、”一つの”思想、主義として、もっと在るべきポピュラリティーを持ちたいのなら、今の状態は由々しいものだと思うし、下にも少し書くけれど、ラディカルな女性優遇への反動が女性を傷つけかねないと思う。つまり、2種類のフェミニストもどき(ジェンダーとセックスの違いを無視する、特に女性優遇主義者)と、本来的なフェミニスト(ジェンダーとセックスの違いを踏まえたまともな男女同権主義者)の区別が一般的に付きにくいのを良い事に、”雄々しい”思想(苦笑)にすがる男性の方々の一部が、(上記のようにメディアがそもそも悪いんだけど)フェミニストっていうのをまともであろうと変であろうと、どちらも一緒くたに田嶋陽子のようなイメージにまとめあげ「フェミニスト=ヒステリックで浅はかな思想の女性優遇主義者」っていうレッテル、イメージを掲げて、揚げ足取りをして、鬼の首を取ったような満足そうな笑みでもって、で男根主義、男尊女卑的懐かしの(苦笑)風土復活を夢を見て”論らしきもの”を展開してるようなのも一部居るわけで。まともな同権主義者も居るっていうことを知っていながら、その存在をスルーし、自分の論の中では隠して、ああいうことを言ってるなら、とても、恣意的でアンフェアなやり方だと思うのだが、その辺はあの人達は”男らしく”ないとか思わないのか少し疑問に思う。(笑)知らずにやってるならただただ、浅はかな懐古主義というか、化石的脳みそまで筋肉マッチョメンなわけでw それはそれで救い様がないように思うけどね。 ただ、まぁフェミニズム自体の問題としてどうしてもリベラル程度ならともかく、サヨクと結びつく傾向がある。マルクス主義フェミニズムっていうジャンルもあったりするくらいではあるし。俺は政治的な考えは確実に保守的でそういう論っていうのには雑誌なんかよく目を通すのだけれど、そういう論者の中に男女同権主義をまともな観点から見てると思える人は居ない気がする、むしろサヨクへのトラウマの如く裏では嫌悪してる人も多いかもしれない。結局、まともな思考能力を持っていても、保守のサヨクアレルギーがサヨクと結びつきやすいフェミニズムを敬遠させるんじゃないかと思ったりする。慎重な論者はそもそもあまり触れないけれど、小林よしのりとかは(個人的に嫌いなわけじゃないんだが)見事にそういう構図にハマってまともなサヨク叩きを展開出来る一方で、トラウマでもあるんちゃうかっていう位、雄々しい男の幻影に捕らわれちゃってる。 どのみち田島陽子如きのようなレベルの論者の揚げ足取った所で今更明治時代みたいには戻れないのにね。大体が、ああいう今に繋がる男尊女卑的価値観自体、平家以降の、武家的思想(性差として男の方が主に武士=戦力になりやすい故に尊ばれる、大河ドラマなんかで”お喜び下さい、殿、元気な男の子(おのこ)に御座ります”とかあるっしょ?w 姫君が生まれた時に武家で”お喜び下さい”とかはあんま聴いたことないわけで。娘は武家社会の繋がりを保つ為、嫁として”家”から出てしまい、跡目を継げない。ちょっと古い”結婚”=主に嫁入りの概念とか、それこそ端午の節句に男児の為に鎧を飾り、”力強く”という願いでもって鯉のぼりを上げる。そういうのもまた名残といえば名残だし。)に拠るものであって、そんなに歴史がある訳でもないのに。 今、男性にしろ女性にしろ、田嶋陽子のような論者に反感(てのはなんかレベルが低いけど)、疑問、問題意識を持ったとしても、結局の所、民俗学的な見地なり思想的な見地なり歴史的な見地なりを俯瞰した上で、”では新しくこういう考え方で男女互いの在り方を創り上げたらどうか”っていうクリエイティブな形で、論を返すならその内容がどうあれ、多少の好感、共感は持てる。けれど、ああいった極論者に対して、こともあろうに、「お前は違う、じゃぁどうする?そりゃぁ昔みたいに男が~」とか自分で思考し論を組み立てる事を放棄して、懐古主義と、今や干からび掛けた昔の価値観の借用でもって、”論”のつもりになって、あまつさえ、父権復活の夢に思いを馳せたりしてどうするんだ、それじゃ結局あんたも極論だし同レベルや、とか思うわけです。 こんな事をつらつらと思い綴ったからとて、でジェンダー系の研究者になろうとか言うわけでもない私がここに、こうやって事書いても力は非常に小さいのかもしれない。けれど、考えとして賛同なり、問題意識や疑問、反論(反感は持ってもしゃぁないけど言葉にするとそれは全く論じゃないので勘弁)のような思考を誰かが少しでも持つきっかけになるならちょっと、男ってジェンダーに収まるのにものすごく抵抗のある俺としては嬉しいのかもしれない。
2006年03月06日
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私のこのHPのトップの写真や、私のHN、dravenの元になっているのが、アメコミ系のちょっとマイナーな映画、「The Crow(日本語では~飛翔伝説~って副題が付いてる)」なのです。私のように、コアなファン(大体、ゴシック風味の好きな人や、ロックな人なんか)は居て、LinkinparkのVo.チェスター・ベニントンは、この映画を愛するあまり、息子にDravenと名付けて居たりします。(主人公の役名がEric Dravenなのです。私のHNもそこから。別のHNでも~the crowと名乗っていたりします。)長らく、DVD化されて居らず、私もレンタル落ちのVHSを大事に見ておったのですが、どうやら昨年、知らない間にDVD化が叶っていたようでして、一も二もなく買いに走りました。なんか、おすぎのコメントが付いてました。”「クロウ」は大好きな映画です。映画を超えている映画です。”ビックリww つか意味分かるようでで分かんねぇ(苦笑)最近テレビは全然見てないのですが、前、土曜の夜にやってる香取慎吾の番組内で、おすぎさんが新作映画の評論してた時は、ミーハーな香取くんと違って(苦笑)話題作でもチャラチャラしたのはバッサリけなして、地味でも内容の良い作品は高得点付けていたりして”ああ、ピーコのファッション評論と違って(爆)この人の映画を見る目って素敵だわ”と思った事があります。なんとなく、(まぁ仕事やから当然なのかもやけど)おすぎさんが自分の好きな映画(しかもハリウッド映画あまり好きじゃない方なんで)を見てた事と意外な所でコメント(まぁ頼まれたんだろうけどwそれにしても)寄せてた事にへぇ~って思ったり。なんつか、この映画、語ると長くなってしまうんですが。(特にミクシーで同じ題名の日記見た人は被ってしまいますのでwまぁこの文章はコピペじゃなくて書き下ろしなんだけどw)とりあえず、恐らく、B級って言われる類に足を突っ込みかけちゃうような作品ではあります。けれど、モノクロでゴシックな雰囲気だけでも結構楽しめます。主役をやっていたブランドン・リー(ブルース・リーの息子)は、演じていた主役、エリック・ドレイヴンと同様、結婚を間近に控えて、撮影途中に亡くなります。空砲が装填されていたはずの小道具の44マグナム(※注1)に”誤って装填されたと言われる”実弾に撃たれるのです。無論事故として処理されたものですし、証拠もありませんが、(※注2)ユダヤ人社会のハリウッドで当時とんとん拍子に主役を張って階段を上って行って居たアジア系のブランドンに対して何か思う人が居なかったとは言い切れないでしょう。ねたみ説などの疑惑は残っているなんとも歯切れ悪く哀しい事件なのです。(※注1:確かアメリカって日本と違って銃社会やから日本のモデルガン〔ちなみにさらに余談ですけど、BB弾が撃てるような発射を目的とした奴はあれは厳密には”モデルガン”とは言わず、本物の銃の構造を限りなく再現し、なおかつ実弾の発射が出来ない程度に銃自体のマテリアルの強度を下げてあるものの事をモデルガンって言います。面白くないじゃん、って感じですが、モデルガンは火薬の装填が出来まして、弾が出ない変わりに、その火薬によって本物に近い銃のアクションを楽しめる、という所に醍醐味があるのだそうです。〕みたいに、”本物に見える”模擬銃禁止されてて、赤に塗らなければいけないっていうのがあったと思うんです。向こうのレンジャーなんかの実弾を使わない訓練なんかでは赤い弾の出ないニセ銃ってのが使われていたように思います。だから小道具も赤い銃使うわけにもいかないですから、小道具でも本物を空砲で使うのじゃないかと。)(注2:日本のメディアが某一部の勢力に偏向していたり、フランスではカルト指定され日本では最近某保守政党にすり寄ってきている某宗教団体に対して問題視するような報道が事が決して表に出ないように〔憲法9条はよく報道されるけれど、靖国問題以外で政教分離の原則を論じられる事がない事自体奇っ怪じゃないですか?政権が靖国神社の傀儡となり靖国神社が誰か個人の傀儡となって政治を思うがままに動かす可能性は限りなく低いけれど、某政党が万一政権を取ったりしたら、池田○作という個人が後ろで糸を引くことも不可能ではなくなる。それこそメディアがよく批判するファシズムっていう奴へ、今の日本が進み得る、最短距離なのに。それを許すかどうかは国民の意思なのに、芸能界や大晦日に高視聴率を取れる某総合格闘技団体にも食い込んでいる宗教団体の圧力によって殆どのメディアはその為に必要な情報を半故意に流していない、と考えるのは邪推ではないと思うのです。〕、映画に限らずアメリカのメディアって大体ユダヤ系に掌握されてる気がするのですが。ユダヤ人社会と言われるハリウッドで、そりゃぁもう大きな評価を得ているスティーヴン・スピルバーグ監督。ユダヤ人の受難を描いた「シンドラーのリスト」はフィクションなのになんだか実話扱いされて、おいおい嘘やろ?っていうドイツ将校によるユダヤ人虐待虐殺なんかが描かれていながらも、絶賛され第66回アカデミー賞では最優秀作品賞・監督賞ほか7部門を受賞、という偉業を成し遂げたのですが、同じスピルバーグが黒人奴隷の受難を描いた、アミスタッドはアカデミー賞からそれはもう見事に何も無かったかの如くスルーされ、評論では妙に批判されたりということが以前ありまして、ああハリウッドやねぇ・・・とか思った事があります。)ん~注釈なげぇ。さて、話を元に戻して(いや注釈が長いだけなんだけど)クロウは、最近やとスパイダーマンとかバッドマンのような所謂、正義の味方ではありませんで。主人公は元はロックミュージシャンで強いわけでもなんでもなく。けれど、自分は刺され、抑え付けられ、婚約者を結婚前日に目の前で傷つけられ、犯され、自分も最後には撃たれてアパートの部屋から突き落とされ絶命するのです。けれど、あまりの哀しみと怒り故、”魂を死の国へと運ぶといわれるカラス”に”不条理を正す為、魂をこの世に戻され”るのです。が、不条理を正す事が彼の主な目的ではなく、やはり、死者となってもやりきれぬ、怒りと哀しみ、自分の愛する人を目の前で一番彼女にとっても自分にとっても残酷な方法で死に追いやった者達への、同じように残酷な死をもっての復讐こそが彼の目的です。2日間だけ魂がこの世に戻る間に、彼は残された人達と触れ合い、影響を与えながらも、一人一人自分たちを殺したギャング達を惨殺して、復讐を遂げて行きます。不条理を正すとかってのは、要はあくまで愛する人が死ななければならなかった事に対する不条理であって、彼の復讐にとって世の不条理なんてのは二の次三の次。映画が終わった時、確かに街の不条理が正され、正義が回復するわけですが、それは彼の愛する人の為の復讐の結果にすぎません。故に、主人公は(大体ギャングとはいえ平気で人を大量虐殺して行きますし)正義ではありませんし、最終的な彼の敵と彼自身というのはかなり紙一重な所もあります。殺す方も殺される方もイカれてる映画とも言えます。けれどそれが、この映画が陳腐な善悪二元論的、正義のヒーローものにせず、故に魅力的なのだと私は思っています。そんな複雑なストーリーでもなく、ある意味ではヘタすると忠臣蔵的でさえあるのですが、やっぱりそれが何の為かっていうと、正義でも忠義とか崇高っぽい他に責任を転嫁したようなものじゃなくて、ただ愛する人を死に至らしめられた怒りと哀しみっていとても個人的で自分の責任と痛みで以て行動している事が共感を誘うんではないかと思います。ま、私が共感するのは、エリック・ドレイヴンという役のヴィジュアルイメージの格好良さであったり、ロックミュージシャンであるってとこだったりという簡単な所もあるのですけどねwただ、やっぱり、ミクシにも書いた事なんですが、愛する人を自分の所為で失わざるを得なかった事があったり、救い切れなかったり、見届けきれなかったっていう経験のある人は、なんだか、エリック・ドレイヴンっていう役に感情移入して涙する事が出来ると思います。所詮はファンタジーであって、現実にはそんな風に簡単に圧倒的な力、もっというと暴力で(個人的にしろ社会的にしろ)不条理を正すなんていうことは叶いませんし、映画と違ってそんなことが出来てしまうと、やり方によっては社会に害さえ及ぼしてしまうかもしれません。悪意ではなく、良かれと思って社会を滅茶苦茶にしてしまった為政者だって歴史のステージには枚挙の暇のない程居ますし。けれど、何かやはり、私にとってこの映画は傍に愛する人を持てた時、きっと最後までその人を害しようとする者、モノから守り通す力を手に入れたい、っていう勇気をもらえる映画なのです。秋桜ちゃんは私に人を想う勇気を私がもう一度持っても良いんだと気付かせてくれた。けれど、もっと前に愛してた人、傷つけた人の記憶も、自分の力が及ばなかった人の記憶も消えはしないから。今はそんな意味も含めて、crowの力を身に纏ったつもりで、強く在りたいという、願いや意志も含めた、draven、という名、なのです。あ~語っちまった語っちまった。飲み屋のオヤジやな(苦笑)DVDのパッケージには三つの言葉。BELIEVE INANGELSそして、エリック・ドレイヴンの台詞”it can't rain all the time ”が今日は頭に刻み付けられたdravenでした。
2006年03月04日
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2週間ぶりの診察&カウンセリング。2週間の間どうだった?と、聞かれて話す事の90%くらいはもうそりゃあれです。ラテン系の私的にはそれしかない。いやまぁ、ね二つ前の日記みたいなこう、ツラ見たら殴りたくなるような出来事もあったわけですが。とはいえ、軒並みそういうのも癒し、というか「へっ、介護だろうが老人ホームだろうが勝手にしやがれ」いうくらいあの人の存在が大きかった、と。まぁ発言だけ聞くと俺が鬼畜なようですが、母方の祖母も祖母で、むしろ母親が同情するのが不思議なくらい、母親にトラウマの爪痕を深く深く残した、アレな人なので、父親と俺の同情度、関心度はゼロであります。好きにしてくれ、正直、父方の親戚は一同そう思っております。「あんたが広島に帰ってきたらねぇ、安心じゃからねぇ」と鬱バリバリ無職パッキン(当時)の俺に泣かれても、正直何が安心なんだか全くわかんなかったっす。安心を他人に任せっきりだから、お婆さまはこうなっちゃうんじゃないのか?と思いつつもまぁ今更言っても仕方ないですが。他力本願って言葉でさえ、自力を尽くして足りない範囲でのお話ちゃうのかと。自分は目の前に小さなゴミがありますと、それが気になって気になって仕方がなく、なんとしてこのゴミを片付けるべきか思案に暮れて結局ゴミが片づかなかったり、そうでなければ潔癖にゴミを跡形もなく駆除すべくアルコール消毒して回ってしまうの質なのですが、華とゴミとがあったら、どうやらゴミは適当にそのへんに掃いて捨てれば問題ねぇや、と思えるようです。とりあえず、そういうのも含めて色々話して、良い傾向です言われました。顔色もよく、前よりも目が輝いていると言われました。まだ口説き落とせているわけでもないのに、安いぞ、私。単純だぞ、私。ほとんど、貴女の事を話してしまいました、と言うと、恥ずかしいじゃないですか、と言われました。そんな事を言われて此処に書いてる私が多分一番恥ずかしい人かもしれません。まぁでも、なんか色々、自分への考え方、恋愛への考え方ってのも変わった気がします。在り方の大切さとか、裏付け、力の大切さ、自らの不足を知る事、限界を知り、焦らず、そこを踏み越えず前進すること。それを踏まえた上での自分にとって、卑屈でもなく過信でもない自信というものの範囲。焦りさえしなければ、弱さやを知る事は強さに繋がるし、不足を知ることは足りることへ繋がる。全然綺麗に繋がった文ではないのですが、あの人と話したり、今日カウンセリングで話したりして、色んな事が一つに繋がったような感覚がした今日このごろ。
2006年03月02日
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と、今気が付いたdravenです。昨晩からの母方親戚宅に尽くモロトフカクテルでも浴びせてやろうかという(失礼)ブチキレ、父親曰く”人生のロス”は、午前中、意中の癒しの女神様とお話が出来たので中和。むしろ中和を通り越し、お肌に優しい弱酸性。気分はむしろハッピー。いつもながら単純な私。
2006年02月28日
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言葉が汚いが勘弁。さて昨日の事になるが、母親、姉、長女である私から見れば伯母(という関係であること自体がいやだが)が、母親に電話を掛けてきた。母親の面倒事(精神病)に関しては全く無視してきた、母方の姉兄弟だが、面倒事だけは、持ってくる。母親も結局、実家と縁を切れない弱い人で、関わってしまう。自分の病状が悪い時、姉兄弟にどういう仕打ちを受けたかということもあの人にとっては、あの姉兄弟がどういう人種であるかという事を学習する種にはなっていない。要は、母方の婆さんを老人ホームに入れるという話だ。母の兄弟は嫁の手前、それが良い。特に兄は在宅でヘルパーだのなんだの、自分は何も出来ない、何ももする気のないお嬢様育ちの、あの婆さんの為に色々と面倒をやってきたわけで、そりゃぁ老人ホームに入ってもらえれば楽であろう。が、母の姉という人は一番歳が上なので、気に食わないと、口を出す。そして、味方としてうちの母親を巻き込もうとする。ツレだってトイレに行く小学生の女子と同レベルの人間だ。○○さんが悪いわよ~ねぇ?△△ちゃん?とかやらないと気がすまないガキなわけだ。そういう一方的面倒事自体、何度も何度も巻き込まれているのに、当の母親は学習する気配もない。姉の思惑通り、兄弟に老人ホームの話について、苦言の電話をする。親を馬鹿よばわりするのはなんやろとかあるかもしれないが、私は儒教はクソ食らえなので、敢えて言うが、あの母親は馬鹿だ。上手いこと利用だけするあの姉にしろあの母親の兄弟は言うまでもない。朝、父親と話をした。「(母親を)可哀想な人だと思えばそうではあるが、もう事ここに至ってはそう思って気をもむことさえ、人生のロスだ。お前も考える必要はない」「ワシに何かあっても、○○(母親の実家)の人間には知らせなくていいし、来ても帰ってもらってくれ」私も大して何も父親に迷惑ばかりで孝行などできている人間ではない。が、もし父親に何かあったら、または自分が結婚するなら、全力で母方の親類共は追い返そうと心に誓った。世間体だけは気にする連中だから来るだけきやがるから。クソ共めが。とか気をもむこと自体が精神的無駄に思える。嗚呼、私はあいつらと血が繋がっていて、自分の血に混じった幾ばくかのあの穢れた血を自分で変えて行かねばならんのだと改めて感じた。P.S. こうやって思ってしまう事自体がまた母親と同じように血に呪縛されているようで自分が腹立たしかったりもする。とりあえずあいつらには関わらないで欲しいがそれでわざわざ不快になったりする事自体、父の言うように”人生のロス”だ。気にしないようにしないといけないなぁ・・
2006年02月28日
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生活に張り合いが出来るというか。いつもと同じ部屋なんだけれど、小さな一輪差しの華が増えたような。いつもより少しだけ、頑張ってみようかなっていう力になる。まだ全然本調子なんてものにはほど遠いのだけれど、体調とか音楽に対する姿勢はなんか実際、自分の意志として変わってきている気がする。作曲はまだ出来ない。代わりに文章を書いてみたりしている。ギターの腕はすこぶる調子も良い。色んな事に不確定要素は多いけれどもとりあえず、と思えるのは悪くない傾向じゃないかと思う。そこにある華の力に、全く頼ってしまっては、華の咲く力を奪ってしまう。失った時に自分は崩れてしまうのを知っている。だから、華には届いても届かなくても、手を伸ばす自分の在り方に本分を置かなきゃならないんだと今は思う。背中を押す力は貰っても、自分を引っ張ってもらうのはもう卒業しなければ。私の今できてる事少しずつ拡げて行っている何か、なんて世間的には見ればちっぽけな事で笑止かもしれないけれど、今はそれでも良い。自分に、華に、音に、心に、手を今は伸ばそうと出来てる事だけでも、ずっと責め続けている自分を、今少し、少しだけ赦せるかもしれない。
2006年02月27日
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なんや、ほんとひと言ひと言に一喜一憂。月湖ねえさま、ほんまカキコありがとうでした。あのあと、メールして、返ってきまして、大丈夫でした。多分。はぅ。ご心配おかけしました。今日は朝から良い天気。元々は一人なのだから、と。自分に言い聞かせて。朝、加入するかもしれないバンドの人とスタジオで合わせる予定なので、一曲久しぶりにスコアを起こしたりして。ちゃんと自分の耳は衰えてない。スコア起こしたらすぐに弾けるし、ギターの腕もまずまず。三日前から始めた、自分の好きな曲を聴きながらの20分程続くラジオ体操も一通りこなし。程よく体も動かして。きちんと自分を充実させてさせておかないと、本当に一憂になったときに、どうしようもなくなるから。自分整えた上で、単刀直入にメールしてみた。気にしないで下さいって返ってきた。まぁ、今日も捨てたものじゃない日かもとか思う。良い天気がうらめしかったのが、一転、気持ちよく感じられる。単純。
2006年02月24日
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俺の馬鹿が。今日は寝よう。
2006年02月23日
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簡単な事ではなくて。彼女の言う事を信じるなら彼女は「恋愛感情を持ち合わせていない」からお付きあいとかは考えられない。今は右手にはめている指輪を私にくれた女性も、昔私に同じ事を言った。重なりそうになるけれど、でもそれは失礼だから。みんな、違う一人一人。同じ人じゃないから同じようには行かない。体の良い断りとちゃうかとも思ったけど、相変わらず、むしろ段々うち解けて話してくれるし、まいいか。別に万一騙されててもいいやと思う。よく、「よくも私の気持ちを踏みにじったわね」とかって台詞があるけどもあまり好きじゃない。好きになるのは自分の勝手。相通じるまでは勝手な気持ちなんだから踏まれようと抱きしめられようと文句なんて言えないと思ってる。ま、好きかもと思った以上、踏みにじられても良い覚悟だから、頑張るだけ頑張ろうと思って。相手を変えようっていうのは傲慢で、そうではなくて、なんか付き合うとかは置いておいても良い関係を築ければ互いに何か影響与えて良い方に変わって行けるかもって思う。なるだけ近くに居たいかなぁと思う気持ちが少しやっぱり恋愛じみてるんだろうな。この間まで滅多に充電しなかった携帯電話が、1日に一回充電が必要になってなってきてる。
2006年02月23日
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”私って癒し系?とかって調子に乗りますよw”乗って下さい。私にとってはすごく癒し系です。”あははw いや俺にとっては癒し系ですw”馬鹿丸出しです。自分でも解ってますが、なんだかもう頭がふわぁです。会って幻滅されるのが怖いですけど、と言われて、ああ、深読みするな、冷静に、と思いながら。でもなんだか朝から久しぶりの感覚。嗚呼、私、恋とかしてるのかもしれねぇ。冷水で顔を洗ってみても、頭は冷えない。
2006年02月21日
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他愛ないメールの内容を覚えていてくれたこと私に聞いて欲しかったっていう言葉自分が"それだけだよ"冷静に言葉だけ受け取ろうとする自分とただただ無邪気に、嬉しくて心躍らせる自分とに分裂する私も聞いて欲しかった歌を送るその人から受け取った曲を一晩中流しながら眠った。
2006年02月20日
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色んな事が絡み合って自分の状態が今こうあってちょっと胸にある予感ま、努力なんだろうけどね。
2006年02月19日
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ずっとずっと自分を苛んでいた気持ちがなんだか優しく解けていって涙が出て自責や後悔や色んな感情が流れて行ったありがとうあれから初めて二人の時間が自分の中で糧に変わった気がするまだ、私には”手”もきっと残っているまた誰かを愛せる
2006年02月15日
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おれんぢちゃんに言われて今日がバレンタインだということに気付いたdravenです。幸か不幸か、今年は何も御座いません。当然です(苦笑)「いつも、バス停でバスを待っているところを見てたんです!」とか言われて見知らぬ女の子にチョコを貰って付き合ったのもうはや○年も前になるわけで、そんな学園漫画みたいなアレはこの歳で望むべくもありません。「いつも、見ててマゾじゃないかと思ってたんです!」とか言ってくれる女性は居るかもしれませんが。いや、いないかなぁ・・・(ぉぃなんか日本人ってイベント好きですよね。ちなみにヴァレンタインは元々神戸のモロゾフが仕掛けたらしいです。昔、私は男の子も女の子にチョコあげられたら、想いを告げるきっかけ、理由が出来るのになぁ、とか想ってましたが、そんな純情だった少年は、こんな直情ラテン系、なのに鬱という複雑な風に育ってしまいまして。好きだと想った時に好きだと言うので、別に季節モノイベントのチャンスをどうとか、ってのは全然関係ないんですね、残念ながら。で、まぁなんにしても、口説き落とせるにしろ、玉砕するにしろ、”好きだぁ~!” Ti amo! と、言う相手が居ないと意味がないんだよなぁ・・・・。振られても良いからなんか、口説きたい。(アホ)昔イタリアに滞在しとったとき、仲良くなった16歳のオーストリア人の美術学生の女の子が居たんです。ゲルマン系(とりあず赤ら顔で太ってらっしゃる女性が多かった)にしては綺麗な黒髪の子で。なんかちょっと仲良くなって語学学校の合間のお茶とかご飯とか一緒してたんですが、あるとき「貴方、ドイツ語は話せるの?」と訊かれまして「いや、僕のの知ってるドイツ語は”Ich liebe dich”だけだよ(笑)」と、なんの気なく冗談のつもりで言ったら、その彼女が(肌が白いだけにすごくよく解るくらい)真っ赤な顔になって下を向いてしまって「滅多なことでそんな事言わないで・・・」と恥ずかしげに言うたのです。今となっては良い思い出。って・・・何故ここで口説かなかったのかしら私!?なんか妙な事を思いだして後悔する、そんなヴァレンタイン。ヴァレンタインとなんも関係ないね。うん。
2006年02月14日
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囲め 囲め籠の中の鳥はいつ いつ出やる
2006年02月13日
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外に出た。霜に凍った世界が白い月に照らされている。清浄に冷えた空気。ヒトの気配はなく月明かりは注意深く穢れたものを避けて地上に光を配ってゆく見慣れた世界が幻のように異次元にシフトして私はなんだか良い気分になって部屋で暖かくて甘くないココアを飲んで睡眠薬を飲んだ
2006年02月12日
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私の事を”自分の事も親の事もよく客観的に見て分析してる””とても繊細””個性的でそれはとても素敵よ、抑え付けるとストレスになるでしょ、解き放つ事も大切よ”と言って下さる。”繊細ね”とか”素敵”とかそういう評価を親や目上の人だとかにそうやってめんと向かって言われた事なんてあんまりほんと無くて、最初のセッションで今までの事を話して”大変だったのね”って言われた時なんぞは恥ずかしながら涙が出そうになったし、いつも、話し終わると涙が出そうになる。sex(生物学的性別)としての男性に私は迷いはない。けれどもgender(文化的性別)としての男性には迷いや抵抗がある。† † † † † † † † † † † † †※余談だけれどもジェンダーってフェミニストがよく使うけれども、(特に極論者の使う)フェミニストの使うジェンダーって言葉には抵抗がある。なんだかそういう人達の言うジェンダーは意味合いが違ってきてる気がする。フェミニスト運動っていうのを私は否定しない。けれども名前としてfemmeっていうのがおかしくないかしら?日本語にしたら女(femme)主義者、なわけだろう?じゃぁhomme、男は?そこをラディカル・フェミニストは考えない。もしくはこれまでの雪辱を果たさん、とばかりに女性優位でも構わないような事も言う。その隙を突いて、私の嫌悪する保守的男根主義者共(ラディカルオムニストとでも言えば良いのかしら)は、男性の支配的優位性を死守すべく、ラディカル・フェミニスト達と、不毛で程度の低い議論をしあう。結局、男根主義者を嫌悪するあまり、中立ではなく、自分がただ、その彼岸に立って男根主義コンプレックスをぶちまけてるに過ぎない。それはフェミニズムっていうものの本来の目的からは大きく逸脱してると思うわけだ。† † † † † † † † † † † † †そもそも、孔雀にしても、オスの方がむしろ着飾るものだと言うのに、この社会で求められる男ってなんだ、って思う。美しくない。女性は頑張ってるってのに。自分は多分男。でも男にはなりきれない。なんかさ。自分的男の美学として、例えば洋服の青山だかなんだったか知らないけれど、ウエストを調整出来る礼服なんてものが存在するのは男性美学の敗北だと思うわけだ。そんな服、女性にあるかい?あったとしてあんな誇らしげにおおっぴらにCMするか?太るの前提じゃん。美しくなさすぎる。女性ものの服ってよく買うけれど、やっぱりそれはウエストラインが絞ってあってシルエットが綺麗だから。ところが男もののシャツとかジャケットってどうよ?寸胴で、中年太りを隠す為にあるとかし思えない。折角、自分はそれなりに努力をして体型を維持しているのに、あんなもの着てしまっちゃ意味がない。それでなくても背丈がない方だからもうとてもじゃないけど見れたもんじゃなくなる。いや、なんか私怨が入ってきたなwいつでもやはり納得出来る理由が欲しい。生物学的でも良い、社会学的でも良い、民俗学的でも良い。論理的に。それ故にこんな病んでるのかもしらんけれど・・・・。社会的性の根拠って何? 何処か誰でも持ち合わせている同性愛的な部分を、綺麗な男が居て、呼び覚まされるのが男は怖いから記号としての男の姿を男全体に求めるのかなとかたまに思う。明治前まであれだけ男色をおおっぴらにしてた反動かしらとも思う。女性側からの要求も何かあるのかわからないけど。(女性は逆に男と違って格好良い男らしい女性っていうのに寛容だと思うんだけど)カウンセラーの先生は私がそんな風に考えたり、それ故の容貌ってやつも、素敵でじゃない、と受け止めてくださる。抑え付けちゃダメよ。と。「でもいざ社会に出ようとするとそうも行かない部分は出てくると思うのですよ」「そこは、ずるい言い方かもしれないけれど、何かすり寄るというか、自分の中で妥協点を見つけて、そこに行けるようになれると良いわね」そう。そうなんだよな。ガキっぽいけれどもそれでも自分は自分である証はどこかにちゃんと残しておきたい。それが何故それかと聞かれると男性っぽくないからっていう漠然とした答えしか返せないけれど。それで、針を買ってヘソに穴を開けてみた。
2006年02月12日
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カウンセリングに電車で。ついでに街に出る。最近ピアス開けたい病。アイライナーしたりするのも復活気味。妖しいお店に入って開口一番。”ニードルあります?”ということで、ピアス用?のニードルゲット。排出して失敗したへそピアスをもう一度やってみる。なんか余裕。ピアッサーって無駄に痛いのがよく解った。ピアッサーでへそ開けたときはもう脂汗かいて、切腹ってきっとこんな感じなんだわ、とか思ったけれども。ニードルはなんか注射針みたいになってるので、痛みも傷も少なくて済む。なんだか鋭い痛みは、ちょっとだけ心地よかった。ちょっと浅くなりすぎたかな・・・けれどまぁまたダメならまたいつか開けよう。次、目指すは乳首ピアス。これはさすがに氷が必要かもしれない。自分は男だからいつか耳には付けれなくなる事があると思うから、これからはボディに開けてみようかなどと思っているわけです。
2006年02月09日
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脅迫ぢゃありません強迫。一応。今日はなんだか楽でして、自分のメインギターにやっとこさ触れました。一週間ぶり?もっとかなぁ。兎に角、手を洗ったりすごく手順を踏まないと汚してしまいそうで、一番大切なメインギターにはずっと触れずじまいだったのですが、今日は少し楽で。ああ、いいなぁと。良い音してんじゃんと。あと指もちゃんと動く。(まぁアコギ弾いてたりはしたので)ヴァン・ヘイレンを断片的に弾いてみたいり、SymhonyXの気に入ってるラインとか、リストの曲の一部とか、スケールとか。以前ライブでやった曲を弾いてみたり。まだ、やっぱりサボってたり、少し触ってなかた分、身体に少しだけ馴染まないし、指の動きも本調子じゃない。けれど、あれだけ放置していたのに、機嫌を悪くしなかったギターに感謝。
2006年02月07日
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そう、もう居ないあの人は結構私の好みだったのかもしれない。今でも彼女の存在は決して小さなものではない。彼女が消えてしまってどのくらいになるだろう。だからと言って今、居たとしてもどうにもならないのだけれどね。別れは悲しかった。涙が溢れた。チャットログを読み直す。涙が滲んでくる。今こうやって想うことは切ない。冬恒例なのですが、肩から二の腕あたりの肌が荒れます。鏡で見て、ちょっともう自分でも可哀想な感じがしたので、明日は皮膚科へ行ってみようかと思います。なんとも痛痒いのに耐えられません。乾燥は敵です。あとひげ剃りも結構男の肌にとっては敵かもしれません。まぁ顔の肌は、化粧水と乳液で保ってるのですが。なんか毛が。ふと、風呂でもって。前カノと付き合う前くらいからなんか脇の手入れとか(確か)しててなんか全身綺麗に剃ってたんですが、この2,3ヶ月全く無頓着(髭と眉はちゃんとしてる)だったのです。で、なんか今日風呂で”あ、なんかこれイカン。”と思って脇とか腕とか脚とかまとめて処理しました。変かなぁ。なんか自分の美意識(自分が美しいとかは思ってるわけじゃないんですが。むしろバンコラン、マライヒ~みたいだったらどんなに:以下略)にやっぱり合わない。って思って。まぁ、女王様とかが今居るわけじゃないけれど、M的にもこういう身体の方が気にいってもらえるような気はする。あと自称ヴィジュ系的にもやっぱ毛はね。まぁぶっちゃけ突き詰めると自分のジェンダー観とかに行き着いて多分5000文字超えるような文章書きそうなのでこんなところで。なんて日記だ・・・
2006年02月06日
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音楽に打ち込みなさい、と先生に言われたけれど、打ち込めているのか良く解らない。ちなみに今はブラジルのバンド、ANGRAの一番新しいアルバムを聴きながら書いていたりする。此処で、CDを借りた事を書いて、Return to Forever、というかChick Coreaに亜夜那ちゃんが興味を持ってくれて、圧縮ファイルにしたアルバムを送って聴いてもらって、結構気に入ってもらえた。ロックともジャズともなんとも言えない音楽、簡単にジャンル分け出来ない音楽は好き。自分もちょっと亜夜那ちゃんがReturn to Foreverに興味を持ってくれた事に刺激を受けて、ジョン、マクラフリンのMAHAVISHNU ORCHESTRAを聞いてみたり。チック・コリア、ジョンマクラフリン、キース・ジャレットが在籍した頃のマイルスのアルバムを聴いてみたり。ちょっと外れてデコイとかTUTUなんかも聞いてみたり。みたりしながら、ヴィジュアルロック聞いたり、こうやってプログレッシブメタル系を聞いてみたり。自分の音楽もしたいな。したいな、じゃ出来ないんだけれどね。アレンジしてあげたい曲がある。歌詞にメロディーを付けたい曲もある。なんだか思うように最近は行かないのだけれど・・・。でも、形にしたいな。形になった自分の作品というより、多くは自分と誰かとの創造力の絡み合った作品、なんかそういうのは、やっぱり嫌いじゃない。薬は効いて、不安は無くなる。思考と感情も少し削がれる気がする。ギター握っても、鍵盤に指を走らせても、少し解らなくなる。何が表現したい?感情から世界観、空気、色んなものが表現出来るハズ。ベタベタのラヴソングでも良い、ドロドロのルサンチマンでもいいのに、何を創りたい?昔は何も考えなかった。じっとしていたら、妖精が耳元で囁いて、そして、私はその声を聞き逃さないように、五線譜に書き留めて行く。そんな風だった。妖精は、まだきっと居るはず。頻度は減ったけれど、まだ時折、声を聞く事はあって、ウソみたいに、曲が出来て行く。自分が書いているけれど自分は書いていない。きっと彼女らは今も囁きかけてくれているはずなのに、どこか、感じられるはずの所が穢れてしまっている。掃除をしなければ。動くだけの手も、鼓膜の振動でしか聴けない耳も私にとっては必要ない。一度真っ白に、なりたい、なろう、ならなきゃ。
2006年02月04日
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嗚呼、私が季節ものの日記書くなんて珍しい。恵方巻なんで私が小さかった頃はそんな習慣あまりなかったと思うのですが・・・誰かがどこかで発見して商業ベースにうまいこと乗せたのでしょうか。と思って調べました。† † † † † † † † † † † † †現在の恵方巻の全国販売はセブンイレブンが、1998年にコンビニ初の恵方巻全国販売を開始し、ローソン、ファミリーマートなどがこれに続いた。引用 Wikipedia† † † † † † † † † † † † †ということで太巻きはセブンイレブンの功罪のようです。歳徳神の居る方向に向かって食べるんだそうですよ。あたしは今年どちらの方向かわからなかったので、太巻きにかぶりついたまま360度回転してみました。うん、完璧。でね、豆まきというのがあるようなのですが、豆ももう、豆そのまま投げたら食べれないじゃんということで、小分けの袋に入れて、袋のまま投げてくださいとか書いてあるのを発見しました。情緒はありませんが・・・ありませんがまぁ食べ物を大事にと。でもまぁ煎った大豆なんて節分じゃなきゃ滅多食うもんじゃないですが・・・。それでその”小袋のまま豆まき”な豆の袋のパッケージを見てますと”危険なので人に向かって投げないで下さい”何を仰るウサギさん。人に向かって投げるから節分なんじゃないかwこれもPL法のなんとやらなのか、クレーム予防なのか。豆を買わせておいて、鬼に投げるなとこれまた、世知辛い世の中です。元はと言えば節分=追儺、豆どころか、人に向かってビシバシ石投げてナンボの年中行事ですぜ。鬼とはなんぞやなどと考えを巡らせてみると、鬼ごっこやかくれんぼをはじめ、ごっこ遊びの中での”鬼”って奴の存在、”忌み、避けるべきもの”、”何らかの力があって畏怖すべきもの”にもかかわらず、孤独である事、そういった”鬼”役割。マレビト、被差別民、民俗信仰、宗教性なんか色々もっとあるのでしょうが色んな視点から見る事が出来るのでしょう。なんだかそんな事を踏まえたら鬼に豆を投げつけるという行為もまた、感慨深いものがあるような気もするのです。
2006年02月03日
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で、ありました。夢の話、それから昨日の日記にも書いた、好きな人に噛み殺されて、食べてしまわれたかったという話なんかをしたりしまして。その後付き合った人とも上手く行かなかった事に対する自分なりの反省と分析や、目標とする自分像のようなものも話したりして。目標、行きたい場所が解っているというのは良い事ですし、dravenさんは自分の事も人の事もよく分析してらっしゃいます、(分析という言葉で父親の分析と発言n在り方に不快感が在ることを言うと)その上でちゃんと相手の事も考えられるのだと思います、と。仰って頂き。目標、立ちたい所は解るのです。けれども、此処から一歩踏み出す、そのことに、どうやったら良いのか解らない恐怖や、立ちすくみがあって、それが問題だと思うのですと言うとそうですね、それはでもゆっくりやって行きましょう、みんな誰もがそうやって思うものに向かって思うように動けるわけじゃないですし、ゆっくりで良いんですよ。なんかそんな風な言葉を掛けて頂いて、なんというか、そして、言葉を掛けて下さる時に、微笑みかけて下さるんですね。問題も含めて自分を受け入れ認めてもらえること。そして、”頑張りなさい”とか”お前はここが悪い”、”だが”、”しかし”ではなく、ただ”大丈夫ですから”と、目上、立場の上の人に言ってもらえる事というのはなんというか、自分の中で経験したことのないような、なんだか不思議な気持ちで、少し涙が出そうになったりするのです。なんといいますか、よっこさんが心配して下さって、メールをよく下さいます。その感覚に少し似て居まして、もしこう・・・面と向かっていたらこんな感じなのだろうかと思ったりしました。私は結婚するかどうか解りません。その上でしたところで子供を産むかなんてもっと解りません。けれども、万が一親になったらば、言ってはならないこととか。何を自分が大人から求めていたのだろうかと。そういうことはきちんと認識して育てられたら良いとは思うのです。そこもまだ未整理ですが、万一私が子供を持つ事があったならば、父方の血、母方の血、それぞれの歪み、ドス黒い世代に引き継がれてきたモノに自分の子供を感染させたくはない。こういうのをきっと、取らぬ狸の皮算用と言うのですがwwwしかし、独り身ながらたまにふとそういう事も最近思うのです。
2006年02月02日
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行って参りました。レキソタンやはり、2mgに戻してもらい。こっそりと今日の昼は3mgとか飲んだりもしたので、昨日までのダウンワード・スパイラルからは一時的脱出。不安感、不安定とかからはこれで抑えられるわけですが、今度の先生は主に私の強迫症の方を主眼に据えてらっしゃるようで、こんな話をして下さいました。「ジグゾーパズルの話をしたかな? ジグゾーパズルをしてると、良いんだよ。何も考えなくて良いでしょ、その事だけ考えるから。強迫はそれと同じ事でね。強烈にね、嫌な事があると人間、記憶に蓋をしようとする。究極、そうやって記憶から消してしまう。(それは以前の恋人で見てきてるからなんとなく解る、彼女も蓋、と言っていた)けれども蓋をしようとしても消えないもののことを考えてしまうともうどうしようもなくなってしまう。大体そういうのは小さい時の事とか、親との関係とかそういうのが多いのんだけどね。そういうのを考えてしまってもワァ、ってなる。だから、他の事、ジグゾーパズルみたいに、その記憶から逃れる為に、一種の人間の脳の自衛本能だよね、何か他のことをする。鍵を閉める、手を洗う、そういうことに集中して、そういう記憶から安全な所に行くんだよ」そんな感じだったかしらん。蓋かぁ。私も何か無意識に蓋をしている記憶、いや蓋をしきれずに溺れそうになってしまう記憶のようなモノがあるのかしら。そこはまぁ、カウンセラーの先生とも話しをしてるし、すぐにどうこうって事じゃないから時間をかけて、と言われた。でも、「趣味なんかに没頭して嫌な事を忘れるっていうのは悪くないよ、と。ボクなんかも、ジャズピアノやるから、行き詰まった時は日曜日とか一日中ピアノ弾いてる。今度までの君の宿題はあれだね、音楽趣味でしょ?音楽に没頭することだね。」との事で。没頭出来るかな?ギターに触るにも、手を洗わないと、とか、まだあるし、作曲も思うように進まないので、結構簡単なことじゃないかもしれない。けど、ちょっと色々忘れる為に、宿題をしてみるのも良いかもしれないなぁ。明日はカウンセリング。あの夢の話でもしてみるか。† † † † † † † † † † † † †”おにいちゃんの手って素敵、なんでも創り出せる。私はあの人達の感情を消したのに、おにいちゃんはあの人達に無かったはずの感情まで創ってしまったんだよ”*****”殺しても罪にならなかったら俺の事どうしたい?””ん~、頸噛み切って血がピューって出るの、それでおなかとかもこう・・・ぐちゃぐちゃって・・・それでお肉残さず食べる。あ、でもね○○ちゃん(私)の手だけはあの子が好きだから、残しておかなきゃね”*****”あんた、危なかったよ、もうちょっとで宿主本当にのど笛噛みきってたわよ”*****あの時の私の手はどこにあるのかなぁ。今でもあるのかしら。何故か解らないけれども、女性に殺されるっていうヴィジョンに憧れが何故かある。食べられると言うことはさらに、その上その人の血肉になるということでもあるし。あの人が喉笛に噛み付こうとした時の恍惚とした表情と妖しい目と甘いため息とかは本当にリアルに思い出せるし、嗚呼、あの時、頸を噛み切られて居ればとうっとりしたりもする。殺す事と殺される事ってのは相互に望んでも、犯罪になってしまって自分の好きな人が犯罪者という烙印を押されるからそうしてはいけないのだと理解していた。殺してくれるかもしれないという期待で、生きていている事を確認してこの身を傷つけるられる事で、この人は私を傷つけない、と思う。この人と死ぬ覚悟っていうのは共に生きる覚悟でこの人を殺せる、と思えたら本当に愛してるのかもしれないなあ。殺されても良いと思うのに殺せると思わないのは逃げなのかもしれない。頸を締める手も私だけどこか手加減。† † † † † † † † † † † † †
2006年02月01日
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最近そう悪くなかった気がするのだが今日はものすごく調子が宜しくない。今週からレキソタンが半分に減っているのが良くないのか、病み上がりなのが何か良くないのか。自分自身の存在に疑問を感じるような。存在の相対性に不安するような。死にたいわけではなくて、でも消えてしまっても大丈夫なんじゃないかとか感じる。一方で自分は消えて行ってしまって自分の痕跡、記憶、跡、そういうものが無くなってしまうのではないか、そういう感じの恐怖感。昨晩は夢を見た。とても奇妙で気持ちが悪い夢。丸い穴の3つ空いたビル、5つ空いたビル。その穴の3つ空いた方のビルで自分は女性と同棲してる。自分と同棲する女は新興宗教にハマっている。私は家、部屋から出ないこの人を半分見捨てていて、同じ新興宗教に属している人妻と浮気をしてる。全くこの人は信心はなくて、ただ、こういう宗教に属している、というだけ。もしかすると旦那がこの宗教に入れ込んでいるのかもしれない。彼女は、離婚するつもりだという。初めて寝る前に”何故離婚するの?”と訊いたら”さぁね”と笑って答えていた。寝てみるととてもいやらしい人で、私もとても堕ちる事が出来て。細身で、抱きしめるとなんだか折れてしまいそうで、剃毛していることもあって、少し幼い体付きにもみえた。恐らく昨日剃ったような感触が顎に感じられて、味でこの人が今日は下着を着けていなかった事が解った。ああ、この人も変態だなとその時気が付いて。私が気が付いた事に彼女も気が付いて、どちらだと思う?と訊いてきた。剃っているのは大方、Mだろうから、そう答えてみた。当たり。と彼女が微笑んで言う。私はMなので少しだけがっかりするけれど、彼女の細い身体を虐めてみたいと思いもした。けれどもなめらかな肌と幼い体付きには傷は加えたくない。思う以上にこの人が被虐趣味であったなら、やはりそれでもこの肌に傷を付けねばならぬのかなと危惧する。なにしろ、自分はMとしては肌に傷をつけられたい人間だし。前述のいかがわしい新興宗教の人間はなんだか悪い人達ではなかったけれど、あまり、そういう人達とも関わりたくはなかった。同棲してる女を捨てて、この人妻を奪って、この宗教とは関わりを絶とうと思った。5つ穴のあるビルは多分その宗教の本部か何かだろう。3つ穴のあるビルの中で同棲する女が何も出来ずに自分を待っている。何故か自分の心には胎児を殺した罪悪感が刻まれている。多分同棲している女との間に出来た子供なんだと思う。胎児といえばまだおなかのなかに居る子供で、胎児殺しというなら中絶なのだろうけれど、殺しというからには流産の原因となる暴力かなにかでも私にあったのか。でもなんだかそんな事ではなく、乳児を殺してしまったような生々しくて重苦しい罪悪感があった。でも”胎児殺し”という言葉だけ強烈に自分の中にあって。胎児殺しの罪は浮気相手の人妻も知って秘密を共有してくれている。不真面目でアバウトで魅力的できっと恐ろしい彼女はそれを知っていて笑顔で私と一緒に居る。人殺しで、不貞で、多分誰からも責められるべき対象であろう私に笑いかけて受け入れてくれて。そういった罪を世間から秘している自分の醜さを責めないでくれる。この人と逃げだそうと思った。なんかそんな時に目が覚めた。胎児殺しとセックスと宗教と。なんかそんな妙な夢で気持ち悪い印象だけが起きても自分の中に残ったそんな夢。自分は何を考えているのだろう?どんな精神的パーツから成り立っているのか、自分で疑問を持ちたくなるような夢だ(苦笑)3つ穴のビル、5つ穴のビル。正反対のタイプの女性にセックス。何故か胎児殺し。覚えていればカウンセラーの先生に話して意味を訊いてみたいものではある。
2006年01月30日
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喉の痛みがだいぶ引いてきたdravenです。ガラにもなくゆっくりせずにがんばっちまって治りが遅いです。昨日の話ですが、それとはまた別で病院に行って参りまして。どうも夜数度目が覚めてしまうことや、ダルいのに眠れないこと。クスリでやる気とか行動力が戻ってくるのに比例して強迫も戻ってきていることなど報告してみました。とりあえず、全開、最初からの方針で一週間毎にパキシルを10mg、20mg、30mg~と増やして行こうということだったのですが、このクスリが強迫にも効果があるようなので、今週20mg錠剤にパワーアップするので様子を見てみるかって感じでした。んで、早々に、やっぱりカウンセリング勧められました。先生の曰くには、(去年とかの酷かったのも含めて)強迫があるのは、結構遡って小さい頃からの話をすることになるだろう。君の心の中は今ものすごく色んなものが渦巻いてる。カウンセリングってのはそれを整理して、大切な事の優先順位をつけ、必要のないものは切り捨ててしまう、その為のものだ。との事で。とりあえず、私的には、自分のall or nothing的思考が柔軟になれば良いななどと思ったりするのでした。今日もなんだか一日ダルさが取れなかったのですが、近くに新しく出来たTUTAYAのレンタル半額セールに繰り出してみまして・陰陽座 (最新作以外を3枚)・Dir en Grey (最新作1枚)・ムックを (7弦ギター使いなのは知ってたけど、どんなバンドか気になってたので2枚程)・Janne da Arc (Sevenっていう好きな曲が入ってるのを1枚)以上ヴィジュアル系7枚。まだ聞き込んではないのですがとりあえず初めて聞いたムックは悪く無かったです。7弦ギターを使ったバンドとしては同じ7弦ギター使いのDir en Greyよりもヘヴィで洋楽的な音像でした。ガゼットとかドレミ團ほどあからさまじゃないんですが歌メロが歌謡曲的なところもあったり。Dirはもう別次元に行っちゃった感があるのでムックと比較するのは可哀想かもしれないですけど、ムックを聞いてみて(無論ムック格好よかったんやけど)逆に、Dir en Greyの唯一性というか、個性と言うか。京さんの声の表現力のすごさとかギターの音(ちょっと軽いのが玉に瑕やと思うけど)やらリフの作り方、無機質である意味不自然なパターンを多様するドラムそういうの全部が誰にも真似出来ない音楽作り出してるんだろうなぁと(真似しようとして明後日の方向に行ったバンドは沢山あるけど)思ったりしました。・ブレッカーブラザーズ -”ヘヴィメタルビバップ”無論ブレッカー兄弟のプレイは格好良くて、こういう感じをギターで弾けたらクールやろうなぁと思って借りたのだけれど、何よりテリーボジオ様(exフランクザッパ、ミッシングパーソンズ、UK、VAI等々)がドラムを叩いているので、凄く聞きたかった。・チックコリア・リターントゥーフォエヴァー -”浪漫の騎士”高校生の頃、アル・ディメオラにハマったときに知って、ちょっと気にはなっていたアルバムなのです。が、大学のジャズ部の先輩に借りた、(ディメオラ加入以前の)あのスペインとかの入ってるリターントゥーフォエヴァーファーストだったかな?アルバムが思ったよりまったりした感じの音楽で、きっと、浪漫の騎士もそんな感じの音楽にちょろっとアル・ディメオラがリードギターを入れてるくらいなんだろう、とか思っていたのです。が、試聴機にかけてみてビックリ。すごいパワフル。チックコリアのバンドなのにレニー・ホワイトとスタンリー・クラークのリズム隊は殆どハードロック並の音圧。そこにディメオラのハードロックな音のギターが乗る。ディメオラのプレイはソロになった後みたいにラテンラテンしていないのですが、それもそれで面白くて。という感じのフュージョン二枚。計9枚。アホやな、私。一週間後までに、頑張ってコピーします。はい。
2006年01月20日
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