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Adeltraud

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2021.05.07
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カテゴリ: 日記
今日も疲れた。
今日は洗濯のついでに持ってきたプラスチックの引き出しを洗って干した。
木も切った。
電鋸の扱いにもだいぶ慣れた。
半分が宮大工の子孫だからという訳ではないだろうがDIYは楽しい。
私が子供のうちに家が商売替えしたから幼少期に親の仕事を見た記憶が朧げにあるだけだ。
木の匂いも、木が鑿や鉋や鋸などで加工されて家が出来ていく様を見るのも大好きだった。
祖父の代までは宮大工をしていたが、父の代で需要が変わり宅地や別荘などを建てていた。
それも需要がなくなった。一時期、多くの技術者が商売替えして技術が育つ環境も減った。

このブログ書きにくいと思っていたが、少し工夫すれば問題無い事に今更気づいた。

でぃは私の足を舐めるのが好きらしい。
一緒に放送授業を見ている時もそうして癒してくれる。

このブログが消えないでいてくれたら、そのうち読み返して懐かしむ日もくるのかも知れない。
未来の自分に向けた手紙のようなものだと思って書くのも面白い。

 『日本最初の盲導犬』を読み返して気づいたが、山崎さんはボドをチトに持ち替えたと書いてある。
相馬さんが輸入したのは、リタ、アスター、ボド、ルティだった。
チトは1941年4月20日に生まれた雌のシェパードで、父はボド、母は日本の軍犬とある。名は千歳号。チトの愛称で親しまれた。
千葉県在住の女性に育てられ病院に贈られて、盲導犬としての訓練を受けた。
となると、国産盲導犬第一号はチャンピィではなくチトではないか?
 1943年10月、山崎さんが退院し帰郷なさる時にチトも一緒に大阪に行った。
山崎さんの退院間際に奇遇にも、当時の皇后陛下が病院にお見えになり山崎さんとチトをご覧になって「チトセは山崎さんに渡すよう」とのお言葉があった。
 チトは誕生から9年後、数えで9歳11ヶ月で亡くなった。死因はフィラリア症。
当時はイベルメクチンによるフィラリア予防なんてなかっただろうし、血液検査して早期発見して治療する術もなかったはず。不治の病だった。ペニシリンはもとよりあらゆる注射も打ってもらった。口移しで水も飲ませた。とある看病の様子に、どんなに深くチトが愛されていたのかが伝わってくる。普通の家庭犬でも絆は強い。それが敗戦を共に乗り越えた盲導犬であれば失う事の重みは想像を絶するのでは無いか。東京で塩屋愛犬学校の塩屋賢一先生が戦後国産第一号盲導犬チャンピィを育て上げた事が新聞で報じられたのは1957年。チトが虹の橋を渡って6年経っていた。盲導犬を失うという事はもう一度失明するに等しいときくが、チトの後継者となる盲導犬を育成出来る訓練士は1951年当時まだ日本にはいなかった。病院で1年余の間どの様に、どの訓練士が訓練したのかも、その訓練士の生死も、敗戦の混乱で記述が無い。ただ、戦前に臨時東京第一陸軍病院に贈られ盲導犬としての訓練を受けたと当時の國際新聞にあるという事はこの病院か陸軍で訓練が行われたのでは無いかと推測出来る。仔犬をドイツに送って訓練し連れ帰るのはコスト的にもリスク的にも考え難い。軍犬兵の中には戦場で戦死する軍犬を看取った悲しみから敗戦後は犬から離れた生活を選んだ人も多かっただろうし、あの盲導犬サーブの谷口雅男さんももう一度犬を飼おうと決意したのは定年退職後の事だった。
 敗戦前後の混乱期を盲導犬として命を懸けて山崎さんを守り抜いたチトは、大阪動物愛護会の目に留まり、1951年3月21日、動物愛護の日に大阪市立天王寺動物園で行われた「動物愛護に関する表彰式」で顕彰される事が決まっていたが、式を翌々日に控えた19日に急変、20日未明に息を引き取った。式当日には遺影を胸に抱き落胆した様子でチトの代わりに山崎さんは表彰状を受け取った。
 あらためて、本に書かれた山崎さんのチトへの想いが綴られた短歌を読み返し胸が熱くなる。
 この本は大事にしてまた読み返そうと思った。
アフェリは削除。どうせ自分以外は誰も興味ない本だから。





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最終更新日  2021.05.11 21:28:47


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