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(2/5のつづき)講義といっても孔子ではないから、一方的に教えるのではない。むしろ道を説く私は老子に近い。だから、朱子学より陽明学の講学(ディベートに近い)を好む。
究論(ディベート)は、探究心のあるエリートを中心に教える。その反対に、衆生、すなわち、究論より感情的で放心的なアーギュメントが好きな人たちに対しては、対論(ダイアローグ)で挑発しながら対話を進めていきます。DebateもdialogueもどちらもDワードで、「対」が生じる。1人ではなくduo(2人)だ。
「法隆寺は何のために建てられたのですか」
「聖徳太子の」
「建てたの。自分のお金で。何のために」
断食行者には、知識人も多いが、このWHY(なぜ)に弱い。
「藤原氏が...」「あの蘇我を殺し、聖徳太子一族25名を殺した犯人が...」
「よく知っているね。事実はね。しかしその理由は...」
「そう、遺族の怨念を鎮めるため。死者を"崇"めるのは、"祟"りが恐ろしいから。よく似た漢字だが、同じようなもの。明日、法隆寺へ行くが、一緒に行きたい人...。出席はとりません。単位も与えません。それでよかったら、ぼくと一緒に勉強をしましょう」
こういう授業は、私塾形式の方がやりやすい。断食大学の私塾化はこんなところから始まる。(つづく)
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