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=親にも当時付き合っていた相手にも言っていない内緒のカナダ野良猫放浪記=私のカナディアンネームはキャンディー。今頃の時期になると懐かしく思い出すカナダのバンクーバー。20代前半、2月半ばから3月末まで約6週間滞在した。『CANADIAN DAYS1~7』はこちら。カナダ滞在の残りの数日間、私は精力的に歩き回った。バンクーバーにはたくさんの公園があって季節が春ということもあって青い空に緑が映えて美しい。クイーンエリザベスパークはほぼ街の中心の高台にある公園で、歩いて行ったら道に迷って2時間以上かかってしまい、着いた時には閉園間近だった。それでも緑豊かできれいな公園だった。ただ、この先もっと花が咲き乱れるであろう景色、それを見ずに日本に帰国しないくてはならないことが残念だった。ギャスタウンへは日本に帰国する前には何度かお土産を買いに行った。スタンレーパークの手前にあって古い街並を再現したショッピングストリートだ。ホステルの住人のカナダ人男性が道端の椅子に座って本を読んでいる。私は何か2~3言話しかけて挨拶をして通り過ぎた。ギャスタウンの近くにサイドパークと言う公園があってガイドブックには載っていないのだけど、とても景色の綺麗な公園で私のお気に入りの場所だった。公園からスタンレーパークの方を望むとハーバーが見えて、天気の良い日には素晴らしい景色を堪能できた。スタンレーパークはとても広い公園で家族連れやカップルがのどかに過ごしている。サイクリングコースもあって自転車で走る人やジョギングしている人もたくさんいた。また、池と言うか湖と言うのか分からないけれど水鳥などもいて見ているだけでもすぐに時間が経ってしまう。パーク内にバンクーバー水族館があって、そこにも入った。とても充実した水族館で見ごたえがあり、爬虫類のコーナーでは蛇を触らせてくれたので特に気に入ってしまった。その後イングリッシュベイに行き海を眺める。人はほとんどいなくて、流木とかが散乱していて荒々しい感じのする場所だったけど、何となくハワイのワイキキに似た感じで、ここから見る夕日は素晴らしくて絵のような景色だった。スカイトレイン、シーバスを乗り継ぎ北バンクーバーのロンズデイルキイまで行った。海っぺりの場所で市場があって家族連れがのんびりと休日を楽しんでいた。天気も晴れていて景色が良くて高いところから海を見下ろすのは最高に気分が好かった。このままずっとカナダにいられたらと何度か思った。他にもグランビルアイランドやハーバーセンターの展望台など、一人で、または誰かと一緒に行った。グランビルアイランドは市場的な場所で私はキャシーへのお土産にお肉やさんでレバーを一掴み分の量(グラムが分からなかったので)買って、帰りにチャイナタウンでニラを買って、二人で夜はレバニラ炒めを食べたりもした。残りの数日は本当に楽しくて充実していた。その頃には人間不審の私などどこかに去ってしまいアンソニーやマンフレッドと英語で冗談を言ったり喧嘩をしたりと大分慣れて、分からない言葉はスペルを教えてもらって辞書で調べるのだけど、その回数もどんどん減っていった。カナダに来た当初の『帰りたい』から『帰りたくない』へと、とても貴重な時間へと、変化していき、ホステルの誰かに帰国の日を聞かれても答えたくなくて、どんどん気分が落ち込むほど。それでも帰国しなくてはならない日はやってきた。朝早いバスに乗って空港まで走る。いつかまた来るまで、この景色を目に焼き付けておこう、そう思うけど寂しくて景色は目になんか入ってくるはずなどない。泣きながら見送られて、飛行機に乗って日本に着くまでの数時間、頭が痛くなるほど泣き通しだった。隣に座っている人のことなど全く気にならないほどずっとずっと泣いていた。カナダでの日々、最初の3週間は寂しくて寂しくて仕方なかったけど、後半は人生の中で最大のオアシスデイズだったと今なら思える。日本に帰ってからも気持ちを持て余してしまい、夜はよく一人で泣きながら散歩をした。でも色々考えていつも最終的に思うことは『バンクーバーに帰りたい!!』だけだった。帰国後しばらくはキャシーやアンソニーと連絡を取っていた。いつ帰ってくるの?とか、いつ会えるの?とか。マンフレッドはカナダの次に日本に来たので何度か食事に行ったりもした。でも、いつしか連絡が取れなくなり、その後の消息は分からない。キャシーともカナダで出会って、先に私が日本に帰国して、その後ワーキングホリデービザが切れたキャシーが帰国した。高知県の消印で何度か手紙をもらい私も返事を返してたけど、そのうち自然と手紙も行き来がなくなった。アンソニーも何通か手紙をくれて、私はまたいつかカナダに帰る、そう返事をしたし、実際にそのつもりでいたけれど結局は実現できなかった。時間の経過と共に寂しさは薄れていく。でも、毎年、冬が終わり春になるこの季節には寂しさが込み上げてきていつもいつも思っていた。『帰りたい』、『バンクーバーに帰りたい』、と。太陽の光が日に日に増してきて草木がどんどん青くなってくるこの季節は、私をいつでもカナダでの日々を思い出させ、寂しい気分にさせた。それでも今は懐かしさしか感じない。あれからずいぶん経って思うことは、カナダでの日々はきっと、絶対に、人生の中で最高のオアシスデイズだったに違いない。 おわり
Apr 27, 2008
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=親にも当時付き合っていた相手にも言っていない内緒のカナダ野良猫放浪記=私のカナディアンネームはキャンディー。今頃の時期になると懐かしく思い出すカナダのバンクーバー。20代前半、2月半ばから3月末まで約6週間滞在した。 『CANADIAN DAYS1~6』はこちら。ホステルでのステイが充実して楽しくて、次第に顔見知りが増えていった。残りのカナダ滞在が10日間をきった時に、私は1週間分の宿泊代を一括で払うことを決めた。一括前払だと1日あたり8ドルになるシステムだったから。そしてスーパーマーケットでタマゴ30コやお米3キロなどまとめ買いもした。移動しなくてもも良いという気楽さと、食料品を持ち歩かなくても良いということでかなりの量を買いこんできてはベッドの下に貯蔵した。本当は帰国前にもう一度ビクトリアに小旅行をするつもりでいた。バンクーバーに到着した当時のビクトリアはまだ冬の終わりで景色が寒々しかったので春のビクトリアも観ておきたかった。でも私はキャシーやアンソニー、マンフレッドや他の人たちとの時間を選んだ。居座ると決めてからは市場やチャイナタウンで生鮮品を毎日必要なだけ買っては、毎朝毎晩料理をする。そしてお昼用にお弁当を作ってノラ猫のように観光地や公園、ダウンタウンなど気ままに歩き回わった。いきあたりばったりの才能はこの時に開花して成長したんじゃないかと思う。ある日アンソニーに誘われて釣りに行くことになった。バスでライオンズゲイトブリッジを渡りウエストバンクーバーの方まで1時間近く、太平洋に面していたのかな、釣り場は大きな海の景色が広がっていた。行く途中、釣の最中、帰る時とアンソニーは私が『あれは何?これは何て言うの?』と聞くたびに単語を教えてくれる。中には『あの花の名前は?』『花』といった事もあったけれど、それでもいろいろな言葉を教えてくれる。アンソニーも日本語を覚えたいと言うので、時々はお返しに日本語を教えた。『I'm big cock』の日本語は?と聞いてきたのでスペルを教えてもらい辞書で調べた。私は冗談で『ぼくはヘンタイ』と教えて、後でひどく怒られたっけ。なんでも日本人が大勢いる前で自信満々で話したようだ。釣の方は5~6時間でいろいろな魚が釣れた。でも私が見たことのない魚がほとんどだったように思う。夕方になり帰り支度をしている時にアンソニーが海の中に何か不思議なものを発見した。30分近く手こずって水からあげてみると自転車のタイヤに細工がしてあるものだった。私には初めて見るもので何か分からず聞いてみると、それはカニを取るための仕掛けでタイヤの下に網が付いていて餌を付けるヒモと桟橋に繋ぎ留めておくようなヒモが付いていた。さっそく残っていた餌をつけて海水の中に放してきた。ホステルに帰り、釣った魚をアンソニーがさばき、調理をしてくれて、私はキャシーと一緒にご馳走をたらふく食べた。そして私たちは翌日も釣り場に行くことになる。あまり期待しないで仕掛けをのぞいてみると、多量のカニがぎっしりとかかっている。釣り場には看板がかかっていてオスメスのカニのイラストが描いてある。メスはそのまま海に逃がして、オスは基準値の大きさを超えているものだけを持って帰れる。看板を見ながら仕分けして手元に残ったカニは、それでも7~8はあったと思う。ホクホク顔でホステルに帰りその場にいた5~6人でカニパーティーをした。味をしめて2~3回は釣に行ったかな。釣り場からダウンタウンへ戻る最終バスが7時前後で、1度だけ乗り遅れて歩いて帰ってきたこともある。4時間以上歩いてやっとホステルに戻ったときにはどっと疲れて部屋に入るなり眠ってしまった。日本人グループで観光以外で楽しむことも増えてきた。1人、カナダに来てからずいぶん経ちワーキングホリデービザがもうすぐ切れるという男の子がいて最後にカナダ国内を車で旅して終わるつもりでフラットをひきはらって荷物を処分してホステルに移ってきていた。私と同室のアニーがちょうど仕事が休みで3人で一緒に車に乗って丘の上の方のテニスコートにテニスをしに行った。カナダではコートは無料開放で空いていればいつでも誰でも使うことができる。後ろに人が待っていたら少ししてコートを譲ることが決められている。テニスは楽しくて、それ以上に天気が良くて桜の花が満開で、それだけでここにいられて良かったと思える。また、ある晩はホステルの数人とプラネタリウムのレイトショーに行った。普通のプラネタリウムが土曜日の夜だけは光と音楽うを使った星空のショーを開催していて、座って観ているのだけど、ビートの利いた音楽に黙っていられずに体がむずむずしてくる。もちろんグループ行動だけでなく一人でうろつくことも楽しんだ。お気に入りの観光ガイドには載っていない公園だとか、道などをただ景色だけを楽しみながら歩く。気候が良くなってきていて、歩くことが楽しい。それでも、帰国しなくてはならない日はやってくる。 つづく
Apr 20, 2008
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=親にも当時付き合っていた相手にも言っていない内緒のカナダ野良猫放浪記=私のカナディアンネームはキャンディー。今頃の時期になると懐かしく思い出すカナダのバンクーバー。20代前半、2月半ばから3月末まで約6週間滞在した。『CANADINA DAYS 1~5』はこちら。私設ユースホステルに滞在して2日目の晩だったか、キャシーと約束してご飯を作って食べ終わった頃、近くのテーブルにいた男の子が話しかけてきた。名前を聞いてみると、アンソニー。私は洒落でキャンディーと名乗り、以来私のカナディアンネームになった。アンソニーはダウンタウンでアルバイトをしながらホステルをアパート代わりに使っている現地のカナダ人だった。アンソニーはよく話す。最初はなんとなく理解できていた話もアンソニーは早口になりペラペラペラペラ…。キャシーも私もさっぱり分からなくなってキョトンとしてしまった。その様子を見ていたらしく1人の男性が割って入ってきてアンソニーを止めた。名前はマンフレッド。マンフレッドは日本人が必ずしも英語が話せるわけではないと理解している人で、世界中を旅していてバンクーバーではホステルに住み込み、管理人の仕事をして旅費を稼いでいるドイツ人だった。ドイツ語なまりの英語でゆっくり分かりやすく話しかけてくれて、理解できない時は何度も何度も言い回しを変えて話してくれる。それが心強かった。私にとってそのホステルは居心地が良くはずるずると4~5日滞在した。毎日朝起きて今日は何をしようかと、その日の気分で行動を決める。1人でフラフラ観光することもあれば、イエローナイフで知り合った日本人に誘われて遠出をしたり、バイトが休みのアンソニーにダウンタウンに映画を観に連れて行ってもらう。日本語の字幕などないから自分の思っていたストーリーが全く逆になってしまうこともあった。季節が春の初めに移って日差しが徐々に明るく、緑が生き生きとして、影が濃くなっていき、その頃から徐々にやっと、やっと、カナダに来て楽しくなって『来てよかった』と思えるようになっていった。その後、2日ほどウィスラーにスキーをしに行くことになりホステルを引き払った。 スキーは生まれて2回目だったのでスクールに入ることにしたのだけど、カナダのスクールは滑り中心でとにかく滑らせてくれて3時間後にはどうにか形になる。スクールが終わった後は1人で気ままに滑っていたけど、ウィスラーのスキー場はとても広く人とすれ違うことがほとんど無い。転ぶと立ち上がるまで通りすがりの誰かが止まって見守っていてくれる。最初はその理由が分からなかった。私の無事を確認するとニコッと笑って行ってしまったから、広いスキー場ゆえの遭難事故防止の為のマナーと言うか、常識だったようだ。2日間ともスキースクールに入ったのだけど、2日とも同じインストラクターで、私が英語がさっぱりなのでずっと気にかけてくれる。一通り英語での説明が終わると側まで来てくれて身振り手振りで教えてくれる明るい女性だった。名前がメリーアンと言うのも何だか個人的には運命を感じたりもした。ウィスラーでの2日間は楽しいままにあっという間に過ぎた。三度バンクーバーに戻った時、私は迷わずに再びホステルに滞在することにした。キャシーもいるし、アンソニーやマンフレッドもいる。他にも顔見知りのたくさんの人達がいる。キャシーとは部屋が別々になってしまった。再滞在の時マンフレッドがキャシーと同室にしようかと言ってくれた。けど私は断った。その時はもう人を信用できなくて誰とも口がきけない人間不信の私じゃなくなっていたから。それに、わざわざキャシーと同室の誰かを追い出したくもなかった。それでもキャシーは私にとっての1番の友達ということには変わりがなく夕飯は毎日のように一緒に食べた。毎日あったことをお互いに話しながらリラックスして笑いの絶えない楽しい食事。キャシーと一緒に過ごす時間が1番楽しかった。時にはアンソニーやマンフレッド、フランス人の留学生や、他の日本人も加わったりもして、キッチンやダイニング、階段とどこででも話が弾む。名前は忘れてしまったけれど長期滞在のイラン人の男性は日本に働きに来ていたこともあって日本語も少し話しせて、口癖は『大丈夫』で穏やかにゆっくりと日本語・英語まぜこぜで話す人だった。たくさんの人と話すことによって私もある程度の会話ができるようになっていた。ある時、キャシーが昼間スーパーマーケットで見知らぬおじさんにキスされたと私に怒りながら話す。そばにいたフランスからの英語留学生のべべが不思議そうに「彼女は何を怒っているんだろう?」と見ていたので、キャシーの言葉を短いセンテンスに区切って英語に言いなおす。べべは口笛を吹いて笑って聞いてくれた。キャシーも言うだけ言ったらスッキリして笑っていた。汚くてボロボロのホステルだったけど、私にとってはとても楽しい場所だった。 つづく
Apr 13, 2008
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=親にも当時付き合っていた相手にも言っていない内緒のカナダ野良猫放浪記=私のカナディアンネームはキャンディー。今頃の時期になると懐かしく思い出すカナダのバンクーバー。20代前半、2月半ばから3月末まで約6週間滞在した。『CANADIAN DAYS 1~4』はこちら。カナダの東側の駆け足旅の後イエローナイフでオーロラを観測ののち再びバンクーバーに戻った時はカナダ滞在の半分近くをどうにか消化できた。相変わらず必要なことしか人と口をきかず暗い気分のままで、一刻も早く日本に帰りたかったから残りの滞在を仕方なく過ごすには高いホテル代を払うつもりは全く無かった。だから治安があまり良くないと言われているチャイナタウンのはずれにある私設ユースホステルに滞在することにした。諦めの気持ちしか無くて、何も期待などせずにドアを開け階段を昇って受け付けに…。でも、途中でびっくりすることが起きた。『ハロー』誰かが私に挨拶の言葉をかけてきた。誰だか覚えてはいないけど初めて話しかけられてすごく意外で、でもすごく嬉しかった。カナダにきて初めてのハローだったかも知れない。薄暗い室内の午後ののんびりと少し気だるいようなムードのなかで私は振り返り一言返事をするのが精一杯だった。簡単なチェックインを済ませ1泊10ドルの3人定員のシェアルームに落ち着き、荷物の整理を始めた。部屋は簡素な普通のベッドが1つにガタガタした2段ベッド、それに申し訳程度の洗面台が付いていた。3月のバンクーバーはそれほど観光客もいなくて宿泊客はそんなにいなく、同室の女の子は日本からのワーキングホリデーで来た明るい子が1人だった。彼女は親切にホステルのシステムを教えてくれる。自分の食品を冷蔵庫に入れる時は名前を書いて、フリーと書いてあればもらってもOK。食器はここ、食べる部屋はこっちで、シャワールームはここ、門限は何時だとか細々したことまで。その夜 ベッドの中で一晩中私たちはお互いの事を長い時間をかけて話しをした。私はカナダに来てからの絶望感、寂しさ、心細さなど、口にしたら止まらなくなり、同時に聴いてくれる相手がいるということが心を軽くしていくのを感じた。彼女は高知出身で婚約者と別れてでもカナダに来たかった。まだ2~3ヶ月だから英語ができなくて大変だとかいろいろと話してくれる。私たちはずっと前からの友達のようにいっぺんに仲良くなっていった。私は彼女の日本名をもじってキャシーと呼ぶことにした。 キャシーは毎日昼間は仕事に行くので、夜はホステルで一緒にご飯を食べながらその日あった他愛ないことをお互いに話す。屈託なくて明るいキャシーは回りの人達にもどんどん話かけていく。言葉が通じなくてもいつもニコニコと話しかける。そのホステルは下宿屋さんみたいで様々な国から来た人が長期または短期で滞在している。現地のカナダ人もいればフランスからの英語留学生、世界中を旅していてまわっている人やイランからの永住男性など。なかにはカナダ永住の準備で家さがしの為の夫婦や、オーストラリアからのバックパッカーの女の子も1泊だけ滞在していた。日本人も英語が話せるようになるとホームステイをやめて移って来る。でも日本人なのかアジア系の人なのか判別できないタイプの人もたくさんいて最初は英語で話していて後で分かって日本語で話すなんてこともしょっちゅうあった。不思議なほどにフレンドリーなホステルで、日本人・外国人の境がまったくなくていつもにぎやかだった。1部屋をミーティングルームのように開放してあり夜はいつも誰かが楽しそうに話をしている。私は話はできなくても穏やかな気分で好きなだけ一緒にいた。私はキャシーと出会えて良かった。もちろんホステルの他の滞在者たちとも出会えてよかった。でも、たぶんキャシーがいなかったらその後のバンクーバーでの日々もどんよりとしていたに違いないと思う。
Apr 6, 2008
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=親にも当時付き合っていた相手にも言っていない内緒のカナダ野良猫放浪記=私のカナディアンネームはキャンディー。今頃の時期になると懐かしく思い出すカナダのバンクーバー。20代前半、2月半ばから3月末まで約6週間滞在した。『CANADIAN DAYS 1~3』はこちら。約1週間のトロント、モントリオール、ケベック、オタワの東側の駆け足小旅行の後に、バンクーバーに戻る途中イエローナイフに立ち寄った。イエローナイフはカナダの国土の上半分の東側4分の3位の場所を占めているノースウエスト準州の中心地、鉱山の町として栄えた。トロントからエドモントンに飛び、20人前後の定員のプロペラ機に乗り換える。プロペラ機は初めてだったからちょっと怖かった。窓の外にはプロペラが回っている様が見えるからなおさら不安がよぎる。実際にはプロペラ機がジェット機に劣ることは無いらしい。途中3ヶ所位経由するので着陸しては離陸して…。そのたびにお茶とお菓子が出され最初は喜んでいたけど次第にお腹がタポタポになるし、飛行機酔いもしてしまった。それに言葉が分からなかったから、間違えて最初の経由地で降りようとした。慌てて乗務員の女性に止められたけれど、あのまま降りていたらどうなっていたんだろうと考えるとゾッとする。フラフラになりながらもどうにかイエローナイフに到着。着いたのは確か夕方で、夕日がすごくきれいだった。空港では軽いサラサラの雪が風に飛ばされていて、夕日との効果で幻想的な風景。気温はマイナス5度で暖かいと言われた。2週間前あたりはマイナス43度だったとか。イエローナイフではオーロラ観測が目的で、3日間で確率98%とか言われていたので日本出発前に3泊でホテルを予約しておいた。ホテルに到着後フロントで観測ツアーを申し込む。1晩90ドル。防寒具オールレンタルで3日間43ドル。部屋に落ち付き、ツアー出発まではかなりの時間があったので外をうろつくことにした。あたり一面雪だらけで、道を車が走っているだけで、人がいない。店らしい店もほとんどなく、ドラックストアー兼小さなスーパーマーケットがあったので食糧を調達した。夜10時フロントに集合して小さなバスで現地に向かう。街の明かりなど邪魔になるので深夜、山の上の方に行き完全防寒で小屋の中でオーロラをひたすら待つ。小屋の中では軽い食事や暖かい飲み物が出されて暖を取りながそれぞれが待っている。中には外に出ている人もいる。オーロラが出ない場合は一晩じゅう待っていなくてはならない。1時間以上待ったころだろうか、ガイドさんの『出た!』が部屋にひびいた。それを合図に皆慌てて外に出て雪の上に寝そべり、皆無言でオーロラを見上げる。イエローナイフでは色の付いたオーロラはほとんどなく、白くて時々風に揺れるカーテンのようにユラユラとしている。その瞬間だけはマイナス40度の寒さと、孤独感を忘れてしまうほどの感動で、いつまでも寝転がって見上げていた。音の無い世界でオーロラの揺らめきがハープの音のように錯覚したのを覚えている。そして今まで観た中で1番の星の量にも圧倒された。1夜目でオーロラ観測の目的は達成したので後の2日間はホテルの部屋に昼も夜もひたすら篭っていた。結局風邪までひいてしまって結構さんざんな思いで部屋で寝ていた。オーロラツアーに参加した日本人の中に1人バンクーバーに住んでいる子がいたので住所を交換した。『行くところが無かったら女友達にあたってあげるから』そう言って再会の約束をして別れ、私は4日目の朝バンクーバーに戻るためイエローナイフをあとにした。バンクーバーに戻ってからの3週間どうしよう?バンフにでも行くか?カルガリーにでも行くか?その時点で私はまだ何も決めていなかった。 つづく
Mar 30, 2008
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=親にも当時付き合っていた相手にも言っていない内緒のカナダ野良猫放浪記=私のカナディアンネームはキャンディー。今頃の時期になると懐かしく思い出すカナダのバンクーバー。20代前半、2月半ばから3月末まで約6週間滞在した。 『CANADIAN DAYS 1』はこちら。 『CANADIAN DAYS 2』はこちら。ナイアガラの滝を観たその晩、トロントから深夜バスに乗ってモントリオールへ、東側の駆け足旅行が始まった。モントリオールはカナダ第2の都市でフランス語圏ではパリに次いで世界1位。トロントからは約7時間、窮屈で寒いバスの旅だった。オリンピックが行われた都市として有名だけど、私としてはあんまり記憶がくて雪の積もった寒いところって印象で、大規模な地下街があって地上の街並はすっきりした大都会。ホステルにチェックインしてからマリア聖堂やモントリオール美術館に行った。そこの美術館の展示物は古代エジプト~現代美術までと幅広く、かなり見ごたえがあった。その後は歩いて旧市街のノートルダム教会へと。中に入り意味が分からないまでも、ただただステンドグラスに圧倒された覚えがある。翌日は寝坊してしまいバスで約3時間、モントリオール以上に一面雪の世界のケベックに到着した時はお昼を過ぎていた。ここもフランス語圏で、モントリオールと比べると小規模で穏やかな田舎町といった感じ。ユースホステルの受付や博物館の女性などフランス訛りの英語で丁寧に説明をしてくれるのが嬉しく心に沁みた。城壁に囲まれた旧市街と城壁の外の旧市街、その他に新市街と小さなスペースに観るところが密集してる。旧ラヴァル大学内の神学校博物館はキリスト教にまつわる絵画や中国の仏教関連の展示物など多数の展示物で充実していて半日近く費やしてしまった。また、ウルスラ派修道院内の博物館も静かでじっくりと時間をかけて観て回った。シャトーフロンテナックやケベック城塞なども気に入りホステルの2軒あったので結局それぞれに1泊ずつ、2日間滞在した。フロンテナックはホテルで重厚感があってケベックのシンボル的存在、城塞の方は本当に軍の施設だったようで警備が厳重だったように思う。どこまで歩いても壁で、丘の高いところに建っていて、誰かが歩いて登ってきてスキーをしたらしくシュプールが延々と続いていた。オタワはバスでケベックから約2時間、政治の中枢都市であまり観光には向いていない。おまけにデモ行進に巻き込まれてしまった。観光らしい観光はしていなく、思い出深いのはユースホステルが元牢獄だったこと。各部屋に鉄格子がはめられていて、それがウリ。お決まりの牢屋の内側からの写真を撮りたくて、勇気を振り絞って宿泊客の女の子に頼む。オタワでは1泊して早朝の便に乗るつもりが乗れなく予定変更。夕方までのバス待ちの空いた時間にユースホステルでスケート靴を借りてリドー運河で滑った。けど天然のスケート場だから氷が滑らかでなくガクガクして滑りにくかったので1時間程度でやめて、おとなしくバスの待合室に行った。待合室では食パンをかじっていたら隣にいた人と『ユー、サパー?』『ノー!ディナー』なんてやり取りもあったりもした。スポーツバッグみたいなナイロン鞄が私の全財産で食糧品から全て詰め込んでヤドカリのように移動していたっけ。オタワから深夜バスで再びトロントへと、早朝の飛行機に乗るために戻った。イエローナイフを経由してバンクーバーに戻る。友達から離れて一人で淋しい気持ちもあったけど、相変わらず人とはほとんど会話しないで内に向かってばかりだったけど、それでも充実した東側の駆け足旅行だったように思う。 つづく
Mar 23, 2008
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=親にも当時付き合っていた相手にも言っていない内緒のカナダ野良猫放浪記=私のカナディアンネームはキャンディー。今頃の時期になると懐かしく思い出すカナダのバンクーバー。20代前半、2月半ばから3月末まで約6週間滞在した。 『CANADIAN DAYS 1』はこちら。1週間ぶりにビクトリアから戻ると友達がバスターミナルまで迎えにきてくれた。てっきり部屋に泊めてくれるのかと嬉しく思っていたら、『ホテル決めてる?まだだったら一緒に探してあげるよ』とにっこり。なら、迎えにきてくれなくてもいい、と、ひどく落胆した。安いホテルに1泊してあまりの汚さと治安が良くなさそうな雰囲気だったので中国人系のホテルに移動した。でも、大差は無かった。どうせバンクーバーには2泊するだけのつもりだったから、どこでも良かったんだけど。その後 東側に飛んでトロント、モントリオール、ケベック、オタワを足速に観光する予定だった。日本を出発する前にバンクーバー⇒トロントの航空券を買って無理やりな予定を組んでいたおかげで、する事の無い無駄な時間を費やさずに済んだ。そして、友達のそばにもいたくなかった。東側の4都市の移動は主に深夜バスを利用したのだけど、各バス会社の使用車体がマチマチ。豪華リクライニングもあれば、小学校の遠足のような窮屈なバスもありと様々。トイレ休憩の時にはドア全開で寒くて一晩中眠れないバスもあった。トロントは大都会でバスのチケットブースで英語が上手く使えず、もたもたしていたら係員に睨みつけられた。だからあまり良い印象はない。でも、せっかくだし、今後2度と来ないかも知れない。とにかくガイドブックを頼りにひたすら歩いて市庁舎、美術館、博物館などの市内観光をした。あまりに晩い時刻にまで歩きまわってちょっとヒヤっとすることもあったっけ。最初につまずいて悪いイメージしかないトロントだけど、それでも大都会らしくセカセカしていて活気があり、カナダ滞在6週間中に泊まったユースホステルの中では1番合理的だったと思う。ホステル内の清掃はわりときちんとしていたし、時間外チェックアウトはホステルの隣のバーで済ませることもできた。翌日は日帰りのナイアガラ観光へ。トロントからナイアガラへはバスが出ていて、約2時間で行ける。その後、長距離バスの発着所から市バスが出ているけど歩いても30~40分だし、ちょうど合う時間帯のバスも無いから歩いて行くことにした。バスを下りると普通の民家の前の道を歩いて行くのだけど、遠くの方からゴーーーーっと音がする。何の音なのか…。音というよりも体に直接くる振動のようだった。近づくにつれて更に音が大きくなり、到着するとそれが滝の音だと分かり、圧倒された。滝の幅は今まで見たことが無くて流れ落ちる水の量も日本の滝と比べて格段に違い迫力がある。日本の滝は滝で、それはそれで荘厳な感じで好きだけど、ナイアガラは豪快といった感じ。でも季節が中途半端で凍った滝が溶けかかっていて滝の真ん中辺に張りついてまた凍っていた。レインボーブリッジを渡って反対側のアメリカに行ける。だけどパスポートが無いと入国できない。誰もいない橋の上を歩きアメリカに入国。パスポートにスタンプを押してもらってちょっとだけ誇らしい気分。アメリカ側にはゴートアイランドという小島があってアメリカ滝とカナダ滝の両方のすぐ脇で大量の水が流れ消えていく様を間近で観ることが出来る。このまま水に飲み込まれたら楽かもしれない。そんな思いも少しだけよぎった。観光客がほとんどいなく、貸し切り状態でゆっくり観光をし、3時間以上はボケーっと滝を眺めていたような覚えがある。でも季節が冬の終わりで、気分も落ち込んでいたから景色は全部灰色で。いつまでもいても仕方ないので夕方にはトロントに戻った。その晩から東側の都市の駆け足バスの旅が始まる。
Mar 16, 2008
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=親にも当時付き合っていた相手にも言っていない内緒のカナダ野良猫放浪記=私のカナディアンネームはキャンディー。今頃の時期になると懐かしく思い出すカナダのバンクーバー。20代前半、2月半ばから3月末まで約6週間滞在した。シアトルを経由してバンクーバーに着いた時は希望とワクワク感にあふれていた。当時1番仲の良かった子がワーキングホリデーを利用して行っていて『遊びに来てね』と言うので思い切って会社を辞めてカナダに行った。でも、到着早々…待っていたのは『本当に来たんだ。うちには泊められないから。でもホテルは一緒に探してあげる。』という友達の情け容赦のない一言。空港から市内に向かうバスの中で友達は不機嫌に言い放った。それでも友達のシェアルームには2~3泊はさせてもらった。その後は放り出されてずっと放浪人になってしまうのだけど、日本を発つ前には全く予想していない事だった。あまりのショックにいっきに人間不信におちいり、元々英語が話せないこともあり、私は誰とも口がきけなくなってしまった。航空券はフィックスだから帰国するにも出来なくて…毎日絶望的な気分でホテルの部屋で気がつくと泣いている始末。2月なかばのバンクーバーはいつもどんより曇っていて私の心のうちそのものだった。それでも計画していたビクトリアに2~3日行くことにして、市内のバスディポからビクトリア行きのバスに乗った。ビクトリアはバンクーバー島の最大の都市でイギリスよりもイギリスらしいと言われている。バスは約3時間ほどでビクトリアに到着。行き当たりばったりで、私はとりあえずYWCMに宿を確保した。部屋に落ち着くとこれからのカナダ滞在が不安で涙があとからあとから流れてきて頭が痛くなるほどだった。2時間近く部屋でボ~っとしてから、部屋にばかりこもっていても仕方ないと外に出て行くあてもなくダウンタウン周辺を歩きまわった。絶望的でもとりあえず地域一帯を把握しておきたかった。次の日は郊外のシーランドに、その次の日は再びダウンタウンをうろついて、そのまた次の日は郊外のブッチャートガーデン…。州立博物館にも行ってみた。なにしろ予定がないので丸1日かけての見学。日本語の解説が無く、ただ感じるだけの観覧。それでも見ごたえは充分にあった。原住民のコーナーでは、展示物に生命があるように力強く、熱にうなされるような感覚に支配されてしまった。市民の憩いの場、ビーコンヒルパークは海に面した小高い丘の上にある公園で地元の人が散歩やジョギングしている。その姿を見るともなしに1日中眺めていたこともある。会話は交わさなくても、人がいる、それだけでなんだか安心できた。そして気がつくと私は1週間滞在していた。だってバンクーバーに戻っても一人ぼっちには変わりないから。道端のベンチで食パンをかじっている時の友達は野良カラスだった。カラスでも愛おしく感じるほど私は孤独だった。 つづく
Mar 9, 2008
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