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日本からボストンにいらして、まだ間もない方に聞かれたことがある。「いつごろから海外を目指されていたのですか?」帰国子女であることや、それがきっと主な理由で海外に暮らすことはあまり抵抗がない、というようなことを既に話していたから、そういう質問になったのだろうが、これは大きな誤解であり、私としては、海外を目指したことは一度もない。私には海外の扉はすでに開かれていたのである。開かれていたどころか、無理やり扉の向こうに連れて行かれちゃったわけである。少なくとも最初は。海外だけでなく、国内の都市にもいくつか住んだわけだし、その過程でいろいろ考えたことを共有できる人が周りにいないことを嘆かわしく思ったりもするのだが、考えてみれば、そんな人が周りにうじゃうじゃいることを期待する方が間違っているのである。私からすれば、ずっと同じ町で生まれ育って、まだその町に実家があって、自分の子供を、自分が子供の時に通った幼稚園や小学校に通わせる、なんて言うのは、たまらなくうらやましく、来世はぜひそのような人生を送ってみたいのだが(笑)、そういう人たちにしてみれば、私のように、あちこちを転々として、いろんな体験ができることがうらやましいのかもしれない。自分のアイデンティティの問題をはじめ、かなり自分にとって核となるような問題を共有できるのは、同じような経験をした、遠く離れた各地に点在する友達だけだったりする。でも、それでも良いのかな、と思う。私としては、どこに住むかとか、どこに属すかということより、どこにいても、そういった人達と何かしらつながっていて、分かり合えるのだという確信を時々持てれば、それで良いのかな、と思う。
2012.03.20
私の「日本人でもない、かといって、西洋人でもない、中途半端な自分」に揺らぐアイデンティティ問題は、時を変え、場所を変え、フランスでの3年間の滞在を経て日本に帰国してからもはや30年以上経った今も消えることがなかった。むしろ、アメリカ人との間に二人の子供をもうけ、日本とアメリカの文化の中で子供たちを育てるようになってからは、それまでほとんど下火になっていたその葛藤の炎がまた勢いを得て燃え盛っているような気さえしていた。小学校1年生から3年生までの、たった3年間のあの経験だけで、これだけ自分のアイデンティティが揺らぐような思いをいつまでも引きずるのはなぜなのか。それは長い間、自分の中での大きな疑問だった。ところが、それに一つの回答を与えてくれた出来事が思いがけず起こったのである。私には「帰国子女仲間」としていつも愚痴というか相談というか、折に触れて話を聞いてもらっている親友(実際には彼女の方が海外生活がずっと長い)がいて、今回もその一環にすぎないはずだった。ところが、今回、何回かメールをやりとりした後、彼女はこう指摘したのである。それは、私が海外にいた年数が比較的短く、しかも帰国後に強烈な帰国子女いじめに遭ったり、その後長いこと日本社会にいたために帰国子女というアイデンティティを押し殺さざるをえなかったのではないか、と。これには非常に意表をつかれた。しかし、アイデンティティが揺らぐのは、海外にいた年数の長さではなく、その後の「日本」社会で過ごす年数の長さのせいだったとすれば、それは非常に納得が行く。今思えば、帰国直後の私は確かに少し「ヘンな日本人」だったのだと思う。たとえば、私の口調はまるで親が子どもに話すような口調だったのではないか。3年間、日本語のインプットといえば、ほとんどが親からのもので、子供同士で話す日本語のインプットは、月に数回の、父と同じ駐在員の子供たちとの遊びをのぞいては非常に少なかったからである。そこで私はお約束の帰国子女いじめにあったわけだが、そのことについてはすでにこちらに詳しく書いたのでこちらに譲るとして、私はそのいじめを通じて、「日本人」に対して2つの結論を出した。その1は、「日本人」は、自分とは異質のもの、それがほんのちょっとしたこ とでも強烈に拒否する。どんなに日本人になろうと思って努力したって、最後の0.01 パーセントの違いで拒絶されるということである。たとえば、これはホントにバカみたいな話なのだが、私はある時「机」という言葉がすぐに出て来ず、フランス語では確か「table(ターブル)」なので、「机」のことを「テーブル」と言ったら、そりゃもう鬼の首でも取ったかのように、ほれみたことか、○○さんは日本語が出来ない、とでも言わんばかりに笑われたのである。私は在仏時代、本を読むのが好きだったので、母の実家からせっせと(日本語の)本を送ってもらい、その年齢では必ずといっていいほど夢中になる偉人の伝記シリーズや世界名作全集などを読破していた。その効果あってか、国語に関してはほとんど遅れを取っていなかった(字はひどく下手だったが)。帰国して1年以内に、校内の読書感想文コンクールで銀賞も取ったほどだ(笑)。それでもである。その2は、「日本人」は、『一般』と少し違うと、その原因を躍起になって探すまで安心できないということである。だから、私が少し『一般』とは違うと、『○○さんは帰国子女だから』とすぐ 言われたわけである。何かにつけて。たぶん、私ぐらいズレている人は、日本で生まれ育った人にも結構多いと思うのだが、私はとにかく『帰国子女だから』と言われる。そこにはお互いの歩み寄りとか理解への努力といったものは全くなく、レッテルを貼られてそれ で「分類」されておしまい。やっぱり○○さんは違うのね、と。 まあ、一種の変わり者扱いだ。私の帰国直後の「ヘンな日本人度」は日本での生活に馴れるにつれて少しずつ薄まり、それとともに帰国子女いじめもなくなったが、それ以降も私はさまざまな場面で常に「こんな言動をしたら日本人らしくないと思われてしまうのではないだろうか?」という自問を繰り返し、同化を試みようとしては失敗し、失敗しては同化を試みようとして来た。そこには常に、あの強烈に拒絶された経験を繰り返したくないという恐怖と、それでもいったん変わってしまった自分を元に戻そうとしても変えられないことに対するもどかしさが対立していた。帰国子女いじめは、自分の中では、昔の、出来れば思い出したくない記憶の一つに過ぎず、もう済んだことと位置づけていたのだが、実は、その後もずっとこういう形で尾を引いてきたのである。いちいち自分の言動に対して、ひいては他人の言動に対しても「日本人としてこれはふさわしいのか?」と思ってしまう習性。そしてそれは、「違う」という事実はもはや変えることはできないのに、違っていると受け入れてもらえないから、自分を矯正しようともがくことまでして、自分が身を置いている社会に受け入れられたいという、長い間抱いてきた、切実な願いの表れでもあったのだ。ボストンの日本人社会はそれに比べるとずいぶんと気楽ではあるのだが、入れ替わりが激しく、別れも多ければ新しい出会いも多い。そんな中で、私は、出会う人出会う人の「日本人らしさ」を勝手に査定しては、自分と比較して自分を疲労させてしまうのである(もちろん、基本的にはその人の性格や自分との相性が大事ではあるのだが)。ここまで来ると、全く笑うしかない。しかも、特にそれまで海外での生活の経験がなかったのに、私から見るといろいろな意味で「日本人らしくないな」と思える人に出会うと、この人は、どうして私のようにジレンマを抱えていないのだろうかと私は困惑してしまう。でも、今なら分かる。その人は、たまたまそういう性格だっただけなのだ。そして、私も、これまでの海外生活で多少肯定かつ強化(笑)された面はあるかもしれないが、もともと、モノはハッキリ言う方だし、感情はストレートに表す方だったのである。そして、それは海外生活の結果より両親の育て方の結果であると思う。それを、何かと「やっぱり帰国子女だからね」と理由付けされ変わり者扱いされて来たために、余計な葛藤を与えられることとなってしまったのだ。今まではフランスでの生活そのものが後の自分の思考に大きな影響を与えたのかと思っていたのだが、そうではなかった。むしろ、帰国後、自分がその社会において主流ではないことによることから起こった摩擦と長い間の葛藤が自分の思考に大きな影響を与えたのである。そう考えると、私が居心地が良いと思える友人や知人は、やはり同じような境遇の人が多い。夫(は友人や知人ではないが 笑)がまずその最たる人物である。アメリカの何だかんだといって白人優位社会の中で下に甘んじることも少なくないアフリカ系アメリカ人としてのアイデンティティ(時に 突然表面化してビックリさせられるのだが)はあっても、小学校5年生の時から、自分の育った黒人ばかりの町ではなく、隣町の 白人や ユダヤ系の多い町の学校に通ったせいか、いわゆるコテコテのブラックとは少し違う。その他にも、今、地元でお付 き合いのあるアメリカ人ママ友たちも、アーティストだったり、パートナーが外国人だったり、他州出身(つまり、地元志向の非常に強いボストンでは「よそ者」)だったり。昔働いていた花屋の面子もちょっと変り種(笑)が多かった。お母さん がトンガ人の子、ユダヤ系アメリカ人で両親の意向でしばらくイスラエルに住んでいた子、非常に保守的な南部出身の同性愛者でマサチューセッツ州法の下、結婚している人。「主流」から外れている、あるいは一時期外れていたことからもたらされる思考には、経験して来たこと自体は違っても根底には共通のものがある。そしてそれは、もはや日本の方が合っているとかアメリカの方が合っているとか、単純に国境で仕切れるような二者択一の次元ではないのである。おそらく、私が心地よいと思える「国」は、30年前に日本に帰国した時点ですでに消滅していたのだろう。それなのに、私はもうその、すでに存在しない国を、いつまでもいつまでも探し続けていたのだ。日本で生まれ育ち、途中の数年間をヨーロッパで過ごし、ひょんなことから決してアメリカの主流ではないアフリカ系アメリカ人と出会って結婚し、ヒスパニック系移民の多い町で2人の子供を育て、週に1度、日本語学校に通わせている。そんなヤツ、アメリカでも「主流」ではない(笑)。でも、今のところ、私にとってはこれまでの人生で1、2を争う居心地の良い環境なのである。それでいいじゃないか。そしてそれはまた、時を経て変わる可能性は十分ある。その時は、潔く、次の環境へ自分の身を置けば良い。とにかくもう、すでに存在しない国を、そして自分が認めてもらいたい社会を探し求める旅は、ここで止めよう。これが、人生のほとんどと言っても良いほど実に長い間、自分を苦しめてきたどっちつかずのアイデンティティに対してようやく出た一つの回答なのである。
2011.06.11
これまで帰国子女イジメに遭ったということは書いたが具体的な内容には書いたことがなかったと思うので、記憶が薄れないうちに(といっても、もうだいぶ薄れているとは思うが)書いておこうと思う。私は3年間おふらんすのパリに暮らした後、やはりこれもまた父の仕事の赴任先である福岡に帰国した。帰国にあたり、両親はパリで私が通っていた学校と似た環境のところがショックも少なくて望ましいだろうと考え、同じカトリック修道会の系列の女子校に私を入れることにした。その頃はファックスも電子メールもない時代だったから、母が学校あてに手書きの手紙を何度も何度も手直しをしながら書いていたのを覚えている。しかし、両親がそこまで配慮してくれて入った学校で帰国子女イジメにあったのである(笑)。そこは各学年2クラスの小規模の学校で、私立だったために子供の転校が少なかったのも理由だったのかもしれないが、恐らく、私が何かにつけて「フランスではこうだった、ああだった」というのは気に食わなかったのだと思う。「フランスではこうだったとか言わんときっ!」と具体的に言われたこともあったが、私としてはただ単に違いに対する自分の驚きというか、そういったことを話しているだけに過ぎなかったのだが、まあ、こういうことは日本人には嫌われるのだなと学んだ。そのうち、私がこれまで日本の小学校での経験がなくて出来ないこと(習字とかそろばんとかその他もろもろ)に対し、いちいち「○○さん(私の名前)はパリにいたから××ができない」と言われた。挙句の果てには水泳のクロールが出来ないことに対しても(フランスの小学校では平泳ぎが最初でクロールは後)そんな風に言われたので、これに関してはあまりに悔しくてそう言った泳ぎの得意な子を見返してやろうとスイミングスクールに通って4種目泳げるようになった(笑)。まあ、全員にいじめられたわけではなく、仲良くしてくれる友達もいたし、私も日本では外国に暮らしていたことを話すとやっかまれるのだなということを徐々に学び、いじめはなくなった。その後、名古屋にまた父が転勤になり、そこでは地元の学区の公立の小中学校に通ったのだが、その頃には私は「フランスから来た子」ではなく「福岡から来た子」になっていたので帰国子女であることによるイジメというのはなかった。でも、小学校5年生の個人面談で、うちの母によると担任の先生が苦笑しながら「男の子ともワケ隔てなくしゃべるし、嫌なことはハッキリと嫌と言う」という変わった子として私のことを話したそうである。それを母から聞かされたのはもう大人になってからで、その時母がどう思ったかもよく分からないし(確か「ああ、やっぱりフランスにいたからかしら」とは思ったけど、というようなことを言ってたような気がするが)、だからどうしろと母から言われた記憶も特にない。中学校では2年生の時に英語の先生が私がフランスにいたことに興味を持って、授業中に教科書の内容でアメリカやイギリスの文化に触れた箇所になると、何かと「○○さん、フランスではどうだったかね」と聞くようになり、それに答えるとクラスの他の生徒がそれを好ましく思っていない雰囲気を感じた。特に一緒に学級委員をやっていた男子があからさまに嫌な顔をしていたのは今でも覚えている。それで、とうとう職員室に行って、先生に直に授業中にそういうことを聞くことは止めてくれと言った。先生は理解してくれたが、そのやりとりの中で、どんな質問をされたのかは具体的には覚えていないものの、その質問に対し、私は「日本のやりかたにも外国のやりかたにも適応できる人が理想なのではないか」との旨の発言をしたことは覚えている。今考えると、ずいぶんナマイキな中学2年生だったなあ(笑)。でも、今でもその考えは基本的には変わってないけど。高校は県立の自由な雰囲気の学校に行ったのだが、そこでは「パリジェンヌ」などと言われて好意的に受け入れられていたとは思うが、その時はもう帰国子女特有の性格も目立つほどではなくなっていたし、高校にもなると(特にうちの学校では)いろんな子がいて生徒のキャパも大きかったんだろうと思う。そもそも最初の学校以外でなぜ私が帰国子女がバレたかと言うと、英語が一般的な日本人より出来て発音も良かったためである。それは英語とフランス語の文法も語彙も非常に似ていて私には英語の文法は非常に簡単に思われたということと、発音に関しては特に根拠はなくても、小さい頃に母国語とは違う音を聞き分けて発音するということ自体に馴れていたせいではないかと思うのだが、それで英語の授業中に指名されて音読をすると「オマエは海外にいたのか」と聞かれ、そこで「ハイ」「どこにいたのか」「フランスです」というやりとりになり、そこで「英語圏にいたのか」と聞いてくれれば「イイエ」で煙に巻くということもできたのだが、まあよい。いずれにしても、年を経るごとに、私にとって帰国子女ということはよっぽどでなければ自分からは話をしないことであり、でもそれはたとえば出身はどこかということを気軽に言えないようなもどかしさを伴うものであった。大人になったらたとえば初対面の人に自分がどこの出身かをいきなり言ったりはしないものの、会話の流れの中で私の出身はどこどこで、そこではこういうことが行なわれている、というようなことを自然に言ったりするものだが、そういうことが帰国子女という事実に関しては出来ないような雰囲気を私は日本人社会の中で肌で感じていたのである。だから、これはもう何度も書いたが、帰国子女の多い大学に進学し、英語の最初の授業の自己紹介のときに教師から「名前と出身地と海外経験があればそれも言ってください」といわれたのは本当に衝撃的だった。名前と出身地を言うのと同じ気楽さで海外経験について話すことができるということに対する衝撃。そのクラスは特に20人のうち海外経験が全くない人が2人ぐらいの、帰国子女が当たり前のクラスで、私は逆に、アメリカが長くて「マイケルジャクソンのニューアルバムが」という日本語を「マイコゥジェーーーークスンのニューエーボムが」と英語の部分だけ本場の英語になる級友に非常な違和感を覚えたぐらいである(笑)。まあ、それは笑える話としても、やはり帰国子女だった友達はイジメに遭ったという経験を持っていた人が多く、それについて共有できる人が現れたというのも大きな変化であった。私は自分の経験と考えを一般化するつもりは毛頭ないが、私個人の経験としては、この帰国子女イジメは私にとって日本人社会はどういうところなのか、何をすると何を言うと拒絶されるのかということを教えてもらった良い機会だと思っている。これも一例に過ぎないが、この大学で、インターナショナルスクール育ちでこの大学に通った後に日本の大企業に就職したサークルの友達は、そこでやはり日本人独特のしきたりや考え方にぶつかって非常に苦労したと言っていた。彼女は賢い人だったからそこで自力で学んだわけだが、大人の社会ではあからさまにイジメをしてくれない分、手ごわい。
2010.12.24
Facebookに登録してから昔の知り合いを探索するのが半ば趣味になっているが、最近、おふらんすで行ったサマーキャンプのスタッフを見つけた。以前にも書いたが、(少なくとも30年前の)おふらんすの子供は長い夏休みの間、1か月間ほど親元を離れて泊りがけのキャンプにぶちこまれる行く。そういったキャンプには、大学生のアルバイトと思われる若いお兄さんお姉さんたちがスタッフとして働いていて、思いっきり一緒に遊んでくれるのだが、私はその中のドミニクというお姉さんをとても慕うようになり、キャンプの後も家に遊びに行かせてもらったり、手紙のやりとりなどをしたものだった。まあ、それも私が日本に永久帰国したりで次第にすっかり音信普通になってしまったのだが、30年経った今になってふと彼女のことを思い出し、Facebookで名前を検索してみたところ、一人の女性がヒットした。写真も何となく面影があるので、思い切って「30年ほど前にスイスとの国境の村のコロニー・ド・バカンス(サマーキャンプのこと)にいた日本人の女の子がいましたが、それが私です。覚えていますか」といったメッセージを送ったら、どんぴしゃり。やはり本人だったのである。ドミニクは非常に驚いて、周りの人に話しまくったらしい。この、お世話をする仕事はアニマトリスといわれる職業なのだが、今はやはり老人ホームで同じような仕事をしているとのこと。きっと天職なのですね。フランスの小さな町に住んでいて、その田舎暮らしが気に入っているとのこと。コロニーにいた頃は随分お姉さんだと思っていたけれど、実際は10歳しか離れていないことも分かった。私が9歳で彼女が19歳だったら納得なんだけどね。それを言ったら、彼女にとっても、私や、その年に一緒に行った日本人の子達はいつまでもMes petites Japonaises (私のちっちゃな日本の女の子達)なんだそうで。本当に便利な世の中になったものだ。
2010.08.31
Facebookから初恋の人(おふらんす人・当時小学校2年生 笑)の妹を探し当て、彼のメールアドレスを教えてもらい、メッセージを送ったのが半年前。音沙汰がなかったので半分諦めていたものの、数日前が彼の誕生日だったということをふと思い出して、ダメ元で「誕生日おめでとう」というメッセージを送ってみたら、何と今朝返事が来た!半年前のメールは受け取っていたけれど返事を出しそびれてしまってたいへん申し訳ないという丁寧な侘びのあとに、これまでの経緯が書かれてあった。メールアドレスから銀行員だということは分かっていたが、ロンドンに留学中に知り合ったフランス人女性と恋に落ち、彼女が香港に行ったので1年後に後を追い、3年ほど暮らし、パリに戻って結婚し、現在は何と5歳半を筆頭に4児の父だとのこと!香港滞在中に日本を訪れたこともあったそうで、日本文化に非常に興味を持ったとか。それはともかく、私が彼の誕生日を覚えていたということにはすごくビックリしていたようで、「オンナはそういうこたあ忘れないもんなのよ」と返信してみたけど、お互い小学校2年生のガキ同士だったのが、そんな冗談を言えるようなトシになったのだと、30年余りの歳月の流れをしみじみと感じたり。色が白くて貴公子のような(実際に貴族の血を引いている)とっても可愛い男の子だったけれど、文面からしてきっと内面ともに素敵な男性になったに違いない。2人は今、全く違う人生を歩んでいるけれど、私はヨーロッパの香りのするボストンに暮らし、彼も30年前の初恋のニッポンジンの女の子に縁のあるアジアに足を運び、それはどちらも偶然であるのかもしれないけれど、でも、こうして2人の人生は少しずつ交差しつつ重なっているのかもしれない。いつか再会できることを願って。
2009.11.05
今日はアレックスのインフルエンザの予防接種に行った。それで連想したのだが、私は子供時代のおふらんす滞在により、欧米諸国では有効の予防接種というのを受けたのではないだろうか。周りのヒトが話している言葉が全然分からないとか、通りにすべて名前がついているとか、アパートがすべて集合玄関になっているとか、洋食?のこってりした味とか、学校でシラミを感染されたとか(笑)、アジア人は何となく下に見られることとか、そういったことを全て経験済みでアメリカに乗り込んだから、きっと日本以外で生活したことのない日本人よりはこういうことに対して免疫がついてるんだろうな。
2009.10.03
およそ30年ぶりに、初恋のヒトに「再会」できそう。お相手はおふらんすの小学校2年生の時の同級生。日本に帰国した後、小学校6年生の時に一度パリを再訪した時に会いに行ったきり、その後何度か手紙のやりとりはしたものの、やがて「自然消滅」してそれっきりになっていた。私は顔に似合わずかなりのロマンチストな少女だったため、海を隔てた遠距離片思いみたいなものにかなり長いこと浸っていたのだが、そのうちすっかり現実的になって恋愛も近場で済ます?ようになり(ってほど数はこなしてませんが)、まあ、結婚相手は、出会いは近場だったけど相手の出身が外国だったために結果的には祖国を捨て親を捨てこんな遠いところに来ちまったわけだけれど、この、初恋の相手のことはずっと何となく気になっていて、時々どうしているかなあ、なんて思ったり、突然夢に出て来たりしていたわけである。で、数日前もずいぶん久しぶりに夢に出てきて、それでふと思い立って、Facebook(アメリカ版mixiみたいなもの)で検索してみたのだが、彼の名前は4人いてどれだか特定できず、そこで、彼よりはありふれていない名前の妹はどうだろうと再検索してみたら、何といたいた。顔写真も、昔の可愛いタレ目ちゃんの面影を残していて、ほぼ間違いなし。思い切って、「人違いだったらゴメンナサイ」と切り出しながらも、近況報告を兼ねてメッセージを書いてみた。そしたらどんぴしゃり。一日ほど経って、彼女から返信が届いたのである。しかも、お兄ちゃんに私のメッセージを転送してくれ、さらにお兄ちゃんのメルアドも教えてくれた。やっほーい。別にもちろん今さらどうしたいわけでもないけれど、でも、初恋の相手が今どこでどうしているのかを知るのは悪くはない。「彼」とは親も公認(笑)の仲で、本人達も結構真剣に結婚の約束もして子供が生まれたら名前はどうする、なんて話し合っていたぐらいで、今、考えるとちゃんちゃら可笑しい。私達が通っていた私立の学校は、私の母が通りがかりの日本人らしき親子に「お宅のお嬢さん、どちらの学校に通われているんですか」と突撃インタビューして、家から15分だということが分かって、面接したら入れてくれたのでそこに行くことに決まったのだが、あけてビックリ玉手箱、その当時、モナコの王女たち(カロリーヌとステファニー)も通うような名門校で、当然のことながら、通っている子供の金持ち率も高かった。このボーイフレンドと妹は毎日古ぼけた洋服を着ていたのだが、実はどうも貴族の末裔だったらしく、苗字も英語で"of"を意味する"de"がついていて、家に遊びに行った時も彼が見せてくれたアルバムにおばあちゃん所有のシャトー(古城)の写真があったりして、まあ、万が一、私達の付き合いが続いたとしても、いざ結婚となれば、どこの馬の骨かワカラン東洋のオンナが相手では許されなかったんじゃないかと思うけど、当時はそんな子供のおままごとを温かく見守ってくれた相手のご両親に感謝である。しかし、万が一2人の結婚が許されたのであれば、今頃はパリか近郊のマロニエの並木道が美しい高級住宅地に住居を構え、夫はBMWかベンツあたりに乗って毎日出勤(メルアドから推測するに、どうも金融機関にお勤めのもよう)、そして私は毎朝きちんと化粧もして仕立ての良い服に身を包み、おふらんすはパリからリバティプリントのスモック刺繍入りのワンピースが似合う色白のハーフの子の写真入りセレブ通信なぞを発して、中村江里子あたりと張り合っていたかもしれない。名前も似てるし。関係ないか。まあ、そんな自分でも呆れるほどのとんでもない妄想を、同じハーフでも色黒でワイルド気味の息子の相手をしつつ、30年前の甘酸っぱく切ない思い出と共に、しばし楽しんだ午後のひとときであった。返事来るかなー。ドキドキ。
2009.05.13
私はおふらんすから日本へ帰国する少し前から海外子女のための通信教育を始めた。恐らく、私が日本へ帰った時に少しでも勉強に遅れないようにとの親心からだったと思うのだが、私は本当に本当にこれがイヤだった(笑)。私があまりに嫌がるので、そのうち、主要5教科のうち、とりあえず国語だけやりなさい、ということになったのだが、それでも私が泣き叫んで嫌がるので(泣き叫んだのはハッキリ覚えている)、そんなにイヤならもーえーわ、どーせ帰ったら日本の学校に行かなくちゃなんないんだし、と言って、とうとう親が止めてくれた。日本に帰ったら帰ったで、今度は、私のおふらんす語の維持のために親がいろいろ頑張った。この話は今までに何度もしていると思うが、まず、フランス人の家庭教師を月2回つけてくれ、おふらんすの学校で使っていた教科書を使って読み書きの勉強をさせられた。これはこの先生が日本を離れてしまったことで終了したが、私は日本の学校に馴れるのに一生懸命だったし、一度身につけた外国語を維持することの大切さなんて微塵も分かっていなかったので、これも本当にイヤだった(笑)。そのうち、親が苦肉の策として考えたのは、「おふらんす語の本を一日1ページ、声に出して読む」ということだった。意味は分からなくてもいい、とにかく発音さえ残ればあとの文法や語彙量アップはあとでいくらでもやり直しが利くから、と、1ページごとに10円小遣いをくれるという条件で(笑)始めた。最初はカネ欲しさにやったが、そのうち毎日10円をもらうのが面倒になって、もらうのは止めたけどおふらんす語の本を読むことだけは続けた。小学校4年生で帰ってから、恐らく高校受験ぐらいまでは続けたと思う。私が親に感謝しているのは、親の先行する心配や過度になりがちな期待より、私の限界を優先してくれたことである。あの時、「日本の勉強に遅れては大変だから」と通信教育を無理やり続けさせようとしなかったこと、あるいは、フランス語を忘れてはいけないからと、私に負担になるほどの方法を強いなかったことを有難いと思うのである。本を読む時に「意味もちゃんと辞書で調べなさい」なんて言われていたら、きっと私は本を読むことさえもイヤになっていただろう。あの時の私に、フランス語を維持することはどういうことか、要するに「発音さえ残ればあとの文法や語彙量アップはあとでいくらでもやり直しが利く」と定義できた親はスゴイと思うわけである。で、結果として、私は日本の学校に帰って、何が遅れたかというと、理科と社会が意外に遅れた。国語の漢字に関しては、例外なのかもしれないが、もともと本を読むことが好きだったので、おふらんす滞在中に祖父母に本を送ってもらっていたこともあって、ほとんど遅れはなかった。字は汚かったらしく、少し経って担任の先生から、「ずいぶん字が上手になったわねー」としみじみ言われたけど(笑)。そして、主要教科よりは、習字そろばん、さらに、生徒会や学級会などのしくみが全く分からなくて困った。もっと意外な展開としては執拗な帰国子女イジメ(笑)。でも、いずれも親が先回りしたり介入して解決できる問題ではなく、結局、自分がその場で解決して行くしかない問題だった。おふらんす語に関しては発音だけは今でも残っているし、まあ、世間話ぐらいなら出来る。これもちょうど良かった。大学で少しやり直したし、一時、仕事で使っていたこともあるけど、今は全然使う機会がないんだから、あの時必死にやっていたら無駄な労力だったわけで。でも、今後機会があってもう一度フランス語をやり直したいと思ったら、はるかに有利になるだけの下地は残っている。それに、おふらんす映画を観たりした時に全部は分からなくても、なかなか字幕の翻訳には表わしきれないおふらんす語特有のニュアンスを肌で「感じる」ことができるということは、やはり私にとっての「財産」でもある。親が子供に対し先を読みすぎて心配したり期待する気持ちは、自分が子供を持ったからこそよけいに分かるけれど、でも、常に子供の限界を把握して妥協することは必要だと思うのである。だから、私は子供たちにやれるだけのことはやるけれど、バイリンガルになることを強要したくない。親子関係、家族関係、その他何かもっと大切なことを犠牲にしてまでも強要するほどのことではないと思うのである。今のところ、ルナの日本語は2~3年遅れているけれど、日本語学校に行くのはとても楽しいみたいだし、オーマやオーパ(私の両親)と話す時は一生懸命日本語で話そうとする。私とも日本語で出来る時は日本語で話す。きっと、この辺りが現時点での私とルナとの妥協点なのだと思う。それでいいじゃないか。
2009.03.13
これはワタクシが生後5ヵ月のアカンボの時の写真である。私の顔はこれ以降、ほぼ変化がない。このまま大人になったという感じである。どこから見ても、正真正銘の引目鉤鼻系ニッポンジンしょうゆ顔(←死語?)である。それでアジアンビューティーと言われるのならまだしも、キレイと言われたのはこれまでの人生において2度のみ、自分の結婚式当日と、嫌で嫌でたまらなかった職場を辞めた時の送別会において(よっぽどスッキリしてたんだろなー)、これだけである。それ以外は、「ああ、あのちっちゃい人ね」と描写されたことはあっても「ああ、あのキレイな人ね」と言われたことはない。そういう、平凡な顔である。ニッポンジン社会では、白人とのハーフのモデルがもてはやされるように、色白で目のパッチリした女の子の顔が人気である。そのどちらでもない私は、かなり早い段階から自分の器量のイマイチさに関しては十分認識していた。ところが、それがおふらんすでは結構珍しがられ、もてはやされたのである。私から見ればお人形さんみたいに可愛い金髪で青い目の女の子が、私の黒くてまっすぐな髪を触りたがり、見知らぬおじさんやおばさんが、私の何とも東洋的な顔を可愛い可愛いと言ってくれたのである。そこで私は子供ながらに気が付いたのである。ところ変われば美の基準というのは変わる、つまり、ある場所で良しとされていることが他の場所でも良しとされるわけではなく、また、その逆も言えるということを。小学校の高学年で日本に帰国してからは、外見については全くもてはやされることのない生活に戻ったが(笑)、おふらんすでの体験のおかげで、思春期の、あの、外見に特にこだわる時期に、特に劣等感を持たずにいられたのはラッキーだった。私が今でも自分の一重瞼を二重に整形することもなく(笑)、髪も茶色に染めないのはこの体験によると断言して良い。美の基準に限らず、海外生活をするようになった人が気付くのは、自国でそれまで当たり前だと思っていたことが、実はそうとは限らず、これまで、相対的な価値観によって、自分がどれだけのしがらみに縛られていたかということである。国や人種や文化の違いを超えてもどこでも同じだということは、実はごくごく限られた数しかない。そして、それこそが、人間として大事にすべき価値観なのである。たとえば、マザー・テレサがどこの国の出身かを知らない人は多くても、その献身的な偉業はこの地球にある限りのすべての壁を越え、人々の心を打ったであろう。大事にすべき価値観がごく少数であれば、自分の心の負担は非常に軽くなる。それまでよりももっと、生きやすくなる。そして、それこそが、海外に暮らして語学が堪能になることよりも、ずっとずっと大切な自分の財産として、獲得するべきものなのである。余談:子供たちはパパの血を色濃く引いてガイジン顔になったが、この斜め45度の雰囲気は2人とも私にそっくりである。普段、誰も私に似ているとは言ってくれないのだが、おっぱいをやる時はこの角度の子供の顔を見ることになるので、そのたびに、あー私に似てるなー似てるなーと勝手に一人でニヤニヤしている(笑)。
2009.02.26
私はフランスに5月に行ってその後すぐに近くの現地の小学校に放り込まれたのだが、フランスの学校は9月に始まって6月に終わるので、転入後1ヵ月半ぐらいで学年末を迎えたことになる。とにかくフランス語なんてもうなーんにも分からず話せずだったので、休み時間にお母さんごっこをやるといつも赤ちゃん役にさせられたのだが、それがすごく嫌だった。どうしてかというと、赤ちゃんの役は、うさぎ跳びをする時のようなしゃがんだ姿勢のまま歩かないといけなくて非常に疲れるからである。ということを、私の「フランス語が話せない時期のもどかしさ」のエピソードとして母が好んで話すのだが、私にとってもっと屈辱的で鮮明に覚えているのは、学年末の最後の日の出来事である。状況から考えるとその頃には簡単なことなら少しは相手の言っていることが分かるようになっていたのだと思うのだが、まあ、それはそれで相手の言っていることが分かる分、余計にもどかしいわけで。この学校では学年の最後の日に担任の先生にちょっとしたプレゼントを持って来ることになっていたのだが、その日、生徒がめいめいに包装紙にリボンをかけたプレゼントを手にしている姿を見て、私は初めてそういう習慣があることを知ったのである。知らなかったのだから仕方がないにせよ、私は先生にプレゼントを持って来なかったという事実をたいそう悲しく思った。そんな悲しい気持ちが顔に出ていたのだろう、そばにいた同級生の子が「どうしたの?」と私に尋ねる。しかし、その時の私には「プレゼントを持って来なかったことを知らなかったとはいえ悲しい」ということをフランス語で説明できず、プレゼントの箱を手にしている子供を指差すことしか出来なかった。すると、その尋ねてきた子が私にさらにこう聞いて来たのである。「あれが欲しいの?」これはヒジョーな屈辱であった。プレゼントが欲しいのかと思われた屈辱。そして、自分が自分の状況を説明できず、その質問に首を激しく横に振るしかなかったことに対する苛立ち。あれから何十年も経ったが、まだ言葉も満足に話せない1~2歳の子供が要求が通らずにきーっとなる姿を見るたびに、私はあの日のことを思い出すのである。
2009.02.10
もう35年近く前のことになるけれど、私がおふらんすに6歳から9歳までの3年間滞在したことで現在の自分に影響を与えたと思われること、あるいはただ単に記憶として残っていることを少しずつ記録して行こうと思う。海外で子育てされている、あるいは子育てされていたお父さん、お母さん、必読ですよ!?(笑)その第一弾。私は現地の小学校に通っていたのだが、その当時から親による送り迎えは必須だった。誘拐事件を防止する目的だったと記憶している。親以外の人が子供を迎えに行く時は、親がその旨先生宛に一筆書かないと子供を親以外の人に渡せないルールになっていた。ある時、母がどうしても私を迎えに行くことが出来なくて、代わりにクラスメートのお母さんに頼むことになった時のこと。母は連絡帳に「明日は私の代わりに○○さんが娘を迎えに行きますのでなにとぞよろしくお願いいたします」という趣旨の文章を書くことになった。母は学生時代におふらんす語を専攻しており、おふらんすに行ってさらに語学学校に通ってはいたので、全くバックグラウンドのない人よりはおふらんす語は出来たと思うが、だからといって、その時はまだ何一つ不自由しないほど出来たというわけでもなかったと思う。母国語だったら何てことはないそんな短い文章を書くために、和仏辞書を引き引き格闘していた母の姿を私は傍らで見ていた。そんな努力の末、完成した文章を手に、私は翌日学校へ行ってそれを担任の先生に見せた。それを読んだ先生が、「何だかずいぶんお堅い文章ね」と、母が書いた文の冒頭部分を声に出して読みながら言った。きっと母の書いた文は「私は私の友人である○○様に私の娘を迎えに行く権限を譲渡します」みたいな感じだったんだろう。私はその時、何も言わなかったけれど、本当はこう言いたかった。「私のお母さんはおふらんす語が上手に出来ないんです。でも、私のために辞書を一生懸命引きながらこの手紙を書いてくれたんです。そんなことも知らないで、お母さんの書いた文を茶化すようなことはしないでください」と。海外に暮らしていたら、自国では何でもないことがハンディになる場面はたくさんある。そして、それは実際に経験してみなければ、現地の人がなかなか想像することは難しい。大人になって、そんな何でもないことで恥をかくことは情けない。でも、そうやって親がハンディを克服しようと一生懸命に努力する姿を子供はちゃんと見ている。
2008.12.06
アメリカの新学期より一足早く、土曜日の日本語学校の2学期が幕を開ける。毎年夏には日本に一時帰国する日本人の家族が多いのだが、そのせいか、保護者のお母さん方の髪型がステキ。恐らく日本で美容院に駆け込んだものと思われる(笑)。私が入ったおしゃべりの輪の中では、私を除いて全員夏の間に帰国したらしく、日本でのカルチャーショックと共に、日本楽し~い!日本帰りたい!という話題で持ちきり。2月に里帰りした時はもちろん楽しかったけど、やっぱり帰りたいなあという風には思わなかった私はただ聞いているだけだったけど、何で私はそんなに日本に執着がないんだろう?やっぱり境界人だから?
2008.08.31
ルナは1ヶ月ほど前はあれほどアニメの"Diego"に夢中だったのに、今はすっかり"little einsteins"の虜で、Diegoのディの字も言わない。これはディズニー制作の子供向けアニメで、4人の子供達"little einsteins"がロケットに乗って冒険をするという話で、その旅先が世界の名所であり、BGMがモーツァルトやバッハなどの古典的名曲であることが特長である。まあ、話の構成はDoraもDiegoもlittle einsteinsもほぼ同じである。netflix(郵送のDVDレンタルサービス)で借りたDVDには3つのエピソードが入っているのだが、ルナはこれを何度も何度も繰り返して観たがる。しかも、最近はなぜか「スペイン語吹き替え版」で観たいと言うので、家の中にはスペイン語が吹き荒れている。さて、つき合わされているこっちもいい加減飽きて来たので、フランス語吹き替え版を聞いてみたいと言って無理やりフランス語版にしてみた。ルナは聞きなれている英語ともスペイン語とも違う音の羅列にケラケラと笑っている。スペイン語にしてーというルナを無視しつつ、1話を観てみたが、何と字幕なしでほぼ100%分かった。スペイン語の場合は、たまーに知ってる単語が聞き取れるだけで後は全然分からないのに比べたら、やはり昔とったナントカである。しかし、子供向け番組のフランス語なら分かる・・・という程度の語学力っちゅーのは何とも中途半端でどうしようもない。
2007.04.30
今日思い立って日本の母に電話をして、「私がフランスでフランス語を覚えたことは、果たして後の英語の習得に役立っただろうか」という質問をしてみた。「聞きたいことがあるんだけど」とわざわざ前置きしたので、いったい何を聞かれるのだろうと思ったらしく、聞いたら聞いたで何でまたそんなことを突然聞くのだ?と心底ビックリされたのだが、私にしてみれば、アメリカに来てから、特にルナが生まれてルナが言葉をしゃべるようになってからは常々考えていることなのである。その結果、「日本語とは違う音を一生懸命聞いてそれを真似るという訓練を小さい頃にやったという意味では、役に立ったんじゃないの」という、ほぼ予想通りの答えが返って来た。その後、日本人のコミュニケーション能力の問題とか、ルナのあっぱれ英語上達ぶり(笑)とか、小一時間ほどいろいろと話して面白かった。
2007.04.27
日本語学校の抽選会に行ってから少なからずバイリンガルについてまた考え始めている。私自身、父の仕事の都合で小学校の3年間をフランスで過ごした帰国子女であるが、ずいぶんと長い間、「フランス語を生かした仕事につかなければ」という呪縛にとらわれていた。それは、自分自身もそう思っていたのだが、周りからのそれとないプレッシャーも大きかったように思う。実際、大学はフランス語学を専攻したし、一時期、フランス語の通訳の仕事にも就いていた。で、今何をしているかというと、フランス語とは全く関係のない仕事に就いている。英語は翻訳の仕事で使っているが、それもたまたまアメリカという英語を使う国に住むことになったからで、その点ではラッキーだったに過ぎない。これで、フランス語も英語も使わない国に住んでいたら、いくらインターネットが発達して仕事をする場所がそれほど重要でなくなったとはいえ、どちらの言語も使わなくなった可能性は大きい。でも、言葉(外国語)にこだわっていた私が現在、花の仕事という言葉を介さない仕事を追求しようとしているのは、他人には分かりにくいかもしれないが、自分の中ではなるべくしてなったことだ。通訳や翻訳といった仕事を通じて「ある言語から言語に訳す」ことの限界を感じ、言葉を超えたところで通じ合えることを仕事にしたいと思ったのだ。だから、ルナに対しても、バイリンガルになるための環境や機会はできるだけ与えてやりたいと思っているが、その結果はどうなってもいい。ルナが一番幸せだと思う生き方を選んでくれればいい。私としては、周りから「せっかくフランス語が話せるようになったんだから何らかの形で生かさなきゃもったいない」というプレッシャーを受け、それにとらわれていた長い時間こそもったいなかったと思うからである。
2007.01.17
ああああああん。帰国子女で国際結婚っていう話、まとまらないうちにアップしちゃったばかりに波紋を呼んでしまったようでごめんなさーい。そもそものきっかけは、ああ、そういえば日本人の付き合いってこうだったよな、とまざまざと思わされることがあったのである。それは、「食べ物の勧めかた」にまつわる話である。アメリカでは、まず、食べ物を勧められる時に、"You want some?"と聞かれる。ここで要らなければ"No, thank you."と言う。で、"Are you sure?"と聞かれる。そして、ここで"Yes."と言えば、あっさりと引き下がってくれる。でも、日本ではなかなかここで引き下がってくれない。いえいえ、でも、いえいえ、でも、と何度か繰り返される。どうしてかというと、遠慮しているかと思うからである。それから、アメリカだと、食べるものが一箇所に集められていて、それを自分の好きな時間に自分の好きなモノを食べるという場合が多く、誰がいつ何を食べたかが分かりにくい。だから、食べたくないものや食べられないものを食べなくても目立たない。これが日本だと、さあ、おやつの時間にしましょうか、となって、一斉に食べたり飲んだりすることが多い。で、この時は、和菓子が出てきた。貴重な和菓子である。でも、私は和菓子がそんなに好きな方ではない。もっと正確に言うと「インスリンを追加してまで食べたいと思う」ものではない。でも、この時はまあ久しぶりだしいいかと思ってトイレに行ってちゃちゃちゃとインスリンを追加していただいた。確かに美味しかった。次の日、また、違う和菓子に関し、いえいえ結構です、でも、いえいえ、でも、が何度か繰り返され、しまいには無理やり渡されたので、むきになって「いりません」というのも大人気ないと思い、バッグにしまった。ここで誤解しないで欲しいのは、私は決してこの勧めてくださった方が間違っていると言っているわけではないということである。日本人として当然のことをしたにすぎないし、私はこの方に対して何の恨みもないし、もし万が一この方が私のこの記事を読んでくださっているとしたら、悪かったとか決して思わないで欲しいと思うのである。でも、私は糖尿病という病気を持っているせいで、こうやって食べ物を進められるという状況がとても苦痛なのである。糖尿病という現代の医学では完治することのない病気を持ちながら人との付き合いをしていく以上、これは克服すべきなのだろうが、とにかく現在の私はそれが出来ていない。だから、私にとってはアメリカで「食べ物を勧められる機会が極端に少なく、勧められても断ればあっさり引き下がってくれる」という状態が本当に気楽で、それにすっかり馴れてしまっていた私に、この「いいえ、でも、いいえ、でも」事件は、まるで過去の記憶の闇に葬り去っていた決して思い出したくない出来事(笑)が瞬時のうちに蘇ったかのごとくの衝撃だったわけである。で、わたしは短絡的に「あー面倒だよな日本人の付き合いって」と思ってしまったのであるが、でも、これは私が糖尿病なんぞにならなかったら、これほどの嫌悪感は抱かなかったのではないだろうか。ということは、こうやってつらつらと書いて来たことは帰国子女であることとはちっとも関係ないではないか。でも、「糖尿病」であることも「帰国子女」であることも、どちらも自分がこれまで当然と思っていたことを考え直すきっかけになったという点では同じだと思う。自分が属していた集団からちょっと外れて外から見直すきっかけになったという意味である。友人oktakのコメントで指摘されたように、私は自己分析が好きで得意なのかもしれない(笑)が、きっと私は自分がメインストリームからちょっとハズれているというか、異端児というか、それを感じさせられるような要素が他人よりちょっと多いのだと思う。だから、しょっちゅう、心が揺らいであーだこーだと自己分析してこのブログに吐き出しちゃうわけだ(汗)。もう一つ、きっかけはあるのだけれど、それはもう少しまとめてから次の機会に。
2007.01.08
私がいまアメリカで暮らしていることにおいて「帰国子女」で「国際結婚」という要素はかなり大きな影響を与えているのではないかと思う。それがプラスになることもあるし、マイナスになることもある。で、この2つのキーワードでネット検索したら、「私情つうしん」という面白いサイトを見つけた。そこに「帰国子女」の定義が書かれていたのだが、それによると「親の都合で子供の頃に母国以外の国に暮らしたことがある人」だった。なるほど。じゃ、今の私は「ダンナの都合でオトナになってから母国以外の国に暮らしている人」か。いや、ホントにダンナの都合なのか?ホントは私の都合なんじゃないだろか(笑)。で、肝心の本題は全くまとまらず。とりあえず問題提起ということで。
2007.01.08
時々参加しているプレイグループのお母さんから、Cookieという育児関連雑誌の今月号にバイリンガル・マルチリンガルに関する記事が載っていたということを聞き、ぜひ読みたいと思っていたら、先日、糖尿病の定期健診に行った待合室にたまたまあり、待合室の中をうろちょろするルナを横目で見ながらだったのできちんとは読めなかったのだが、自分自身の体験や現在ルナをバイリンガル環境で育てていることなどと照らし合わせ、たいへん興味深く読んだ。ちなみに私は生まれてから小学校に上がる年まで日本で日本語のみで過ごし、小学校1年から3年の終わりまでをフランスで過ごした。その後はずっと日本で過ごし、大学の2年を終えた時点で1年間休学しドイツで1年間過ごした。ドイツから帰国後はボストンに来るまでずっと日本である。英語は日本の学校教育の中のみ。英会話学校に通ったりホームステイ、高校留学などは一切していない。結果、日本語(ちなみに東京弁・博多弁・名古屋弁)、英語、フランス語そしてドイツ語と4カ国語話せる(ことになっている)。でも、フランス語とドイツ語は今は全然使っていないからほとんど忘れた。またフランスやドイツに行けば思い出すと思うが。だからまともに話せるのは日本語と英語だが、かといってバイリンガルとも言えない。バイリンガルの定義が、どちらの言語もネイティブ並みに話せることとすれば、私は日本語はともかく、英語はネイティブほどには話せない。だから、言ってみれば「英語が話せる日本人」である。さて、その記事の大まかな趣旨は、(1)バイリンガルの人は別の言語による別の視点を得ることによって考え方が広がる(たとえば、日本語では「米(コメ)」と「飯(メシ)」を区別する、「五月雨」「時雨」など雨一つをとってもさまざまな言い方がある、というように、日本特有の食文化や気候に言葉が影響されているので、そういった別の見方に触れることによって自分の考え方も変わるといったこと)、(2)バイリンガルにするには「一貫性(consistency)」が有効である。たとえば、お父さんはずっと英語で、お母さんはずっと日本語で話しかけるとか、家では日本語、学校では英語にする、など。で、第二外国語でちょっとかじっただけの外国語は教えない方がいいと(笑)。(3)バイリンガルをポジティブにとらえる環境が大切(夏の間だけ別の言語環境の国で過ごさせる、など)。(意外にも)アメリカではバイリンガルをポジティブにとらえる環境が整っていないとのこと。であった。そのほかに、バイリンガルの人はモノを解決する時に違うアプローチを取ると言ったような研究を紹介をしていたような気がするのだが、ちょっとそこは定かではない。で、感想を述べると、この(1)に関しては常々思っていたのであるが、バイリンガルを語る際にはほとんど目にすることがなかったので、非常に嬉しかった。外国語を学ぶということは、その言葉が話されている文化について学ぶことでもあり、それは別の考え方に触れる機会でもある。私は、これまでに習得した外国語そして日本語の方言の中で、それぞれ、他の言葉にはどうしても訳しきれない表現というものを最低一つは持っている。まさにズバリこういう状況の時に言う表現なんだけど、他の言葉にはないんだよねー、といった表現である。それを持っていること自体、私の言葉は豊かであり、その状況を特に認識できるというだけで私の考え方は豊かであると思う。また、これは全くの私見であるが、帰国子女と言われる人たちの多くは日本語の文章がしっかりしていると思う。これは、別の言語に幼い頃に触れることによって、自分の母国語を客観的に見ることができるからではないだろうか。(2)については、すでに我が家でやっていることであるが、このように専門家の後押しがあればなお心強い。そして、しばらく英語優勢だったルナが、最近は日本語もよく話すようになった。諦めず、根気良く、一貫して日本語を話しかけるということの重要性をひしひしと感じる今日この頃である。(3)この記事によれば、アメリカでは何でまたバイリンガルなんてことをするのか、というような反応が多いんだそうである。しかし、これは土地によってかなり違うんじゃないだろうか。少なくともボストンの私の周りの人でバイリンガルを否定する人はに出会ったことはない。むしろ、うらやましいわあ、私もバイリンガルになりたかったわあ、という反応の方が多い。でも、バイリンガルになるかの結果が出るのは子供が成人に近づくおよそ20年後なわけで、それまでの長い長い道のりの間には、親としてはこれでいいんだろうかと不安になりがちである。そんな中で周りが否定的な反応をしたら、バイリンガルを諦めたくなってしまうかもしれない。それは、たいへんもったいない話である。もちろん、バイリンガル教育の過程では弊害も考えられるわけで、良い点ばかりを強調するのは不公平であると思う。私がバイリンガル教育談義を見聞きしていて気になるのは、親が子に何が何でも英語が話せるようになって欲しいなど、過大な期待をしているところである。私は、子供に母国語以外の言葉を習得させることは、バレエやピアノを習わせるのと同じようなものだと考える。子供が親にバレエやピアノを習わせる際、本気でバレリーナやピアニストにさせたいと思って習わせる親はそれほどいないだろう。どちらかといえば、バレエやピアノを通して情緒が豊かになって欲しいだとか、忍耐強くなって欲しいだとか、結果ではなく、それを学ぶ上で何か人間として大切なことを身につけて欲しいと思って習わせるのではないだろうか。言葉も同じだと思う。英語を習わせてその結果、英語がそれほど上手にならなくても、先ほど言った、考え方が広がったり、他の国の人や文化に興味を持ったりできれば、それでいいのではないかと思うのだ。逆に、いくら何ヶ国語話せても、他の国の人や文化に興味を持ったり、考え方も一元的なら、外国語を学んだ意味はない。すでに過去に書いたとは思うが、私はルナに日本語で話しかけているが、それはバイリンガルになって欲しいと言うより、自分が英語で話しかけられるほど英語ができないから、そして自分の国の言葉で話したいからという単純な気持ちの方が強い。もちろん、ルナが日本語を一生懸命しゃべってくれるとすごく嬉しいし、バイリンガルになってくれればそれはそれでやっぱり嬉しいと思う。でも、それがルナにとって過大な期待にならないように常に気をつけていたいと思う。そして、たとえ、ルナが大人になった時に英語しか話せなくなったとしても、ルナが私の日本語を通じて、そして、私が背負っている日本の文化を通じて、より広い視野と考えを持った人間に育ってくれれば、それで充分だと思っている。
2006.10.03
プリスクールのクラスに楽しそうに通っているルナであるが、やっぱり新しい環境にまだ慣れていないようで、家に帰って来るとワガママ放題、そのうち殴る蹴るの暴行が加わり、叱られてお仕置きの椅子に座らされ、わーわー泣き叫び、最後は泣きつかれて寝るというパターン。そういえば、1年ほど前に保育園に行き始めた頃も、家に帰って来るとキーキー泣いていたよな。子供だからストレスたまっても小出しにすることもできずに自分でも気づかないうちに限界まで頑張っちゃってるんだろーなー。そういえば、私も同じような経験がある。おふらんすでのこと。小学校1年生の時である。クラスメートの家に初めて招待された。私が通っていた小学校は水曜日が午前中だけで、午後は誰かの家に招待されて遊んだりするというのが恒例だったのだが、その日、私は初めておふらんす人の家庭に招かれ、昼食をご馳走になり、遊んだわけである。この昼食ってのがまた、バリバリのおふらんすスタイルで、オードブルに始まり、メインが出てサラダがついて、デザートが出るってヤツであった。そして私はいちおうゲストであるから、誰よりも最初に皿に取り分けてもらい、その皿に取り分けてもらう際に、いちいちいるかどうか聞かれ、そこでいらなきゃいらないと言えばよかったのに、勧められたものは全部いただけなければいけないと思ってウイと言ってしまったりと、まあ、かなり緊張を強いられたわけである。その後、遊びの時間も学校と違って子供がいっぱいいるわけでもないから話す頻度も多く、自分としては楽しいと思っていたのだが、きっとへとへとになっていたのだと思う。迎えに来た母を見た途端、私は「帰りたくない!」と言って火がついたように泣き出してしまった。私の記憶の中では、楽しい時間を過ごし、本当に帰りたくなかったことになっているのだが、客観的に思い返してみれば、ホントはすごくすごく帰りたかったのに、疲れて疲れて疲れすぎて訳がわからなくなり、逆のことを言ってしまったのだろう。だからルナも同じような状況なのだと思う。まあ、がんばっちくれ。(それが結論ですか>ハハ)
2006.09.24
ただいま学校は夏休みで、あちこちで迷子防止と思われる派手派手な色のお揃いのTシャツを着せられた子供の集団が見られる。デイキャンプってやつで、毎日オトナの付き添い付きであっちへ行ったりこっちへ行ったりの日々のようだ。今はどうだか知らないが、私が30年ほど前におふらんすに住んでいた頃は、子供たちは1ヶ月ぐらいの期間、デイキャンプならぬコロニー・ド・バカンスと呼ばれる夏の合宿みたいなものに放り込まれていた。多くはスイスの山間の山小屋なんかに寝泊りして一日中遊びまくる。都会の子供たちは年間の日照時間が少ないこともあり、夏はそういった自然の中で太陽の光をいっぱいに浴びて丈夫な身体を作ろうっていう目的もあるようだけれど、考えてみたら子供の時から1ヶ月も親元を離れるなんてすごい話だ。しかも、親になった今、考えてみると、そんな1ヶ月間も他人の手に自分の子を任せるなんてとてもとても信用できない。子供たちはパリから夜行列車に乗って山間の町へと向かう。私は旅にわくわくしてはしゃいでいたが、親との別れがつらくて涙を流している子も。その涙を流していた一人、A子ちゃんとは今でも付き合いが続いている(笑)。私の場合、最初と2年目の夏は日本語の補習校の主催によるコロニーに行き、最後の夏は自分が通っていた現地校主催のコロニーに行った。日本語の補習校のコロニーの方は、午前中は日本の教科書を使った各教科の勉強、午後は山登りとかいろいろなアクティビティ。いろいろやったんだろうけど、きつかった山登りぐらいしか覚えてない。スイス国境近くの山小屋で寝泊りした。向かいは牛の放牧場で、牛達が、やかんからお湯をひっくり返したみたいな豪快な放尿をしているのが見えるところだった。私は普段は日本語の補習校に行っていなかったので、2年目の夏、算数が途端に難しくなっていて、1m=100cmといった換算の問題がまるっきり分からず(そんなこと現地校ではやってなかったもんね)、あの頃から私の算数・数学嫌いは始まった(笑)。最後の夏に行ったコロニーは、自分の学校からだけではなく、全国の恐らく同じカトリック系の学校からの子供たちが集まって、これまた確かスイスとの国境近くの山小屋に寝泊りした。こっちは勉強は一切なしで、やったことはいろいろ覚えている。山小屋の裏の広~い原っぱで追いかけっこをしたり、図画工作の時間があったり、歌を歌ったり、博物館にバスで行ったり。ほんと、一日中遊んでいた。楽しかったけど、今さらながらおふらんすの生活習慣には違いがあって戸惑うこともあり、私は痩せて帰って来たらしい(笑)。ごはんはいったい何を食べていたんだろう。田舎風の野菜がいっぱい入ったポタージュみたいなのは唯一覚えているが、あとは私としたことが全然覚えていない。一番困ったのが、シャワーの排水口に髪の毛がたまるからとの理由だけで、1ヶ月のうち髪の毛を洗えたのがたったの1~2度で、一緒に行った日本人の友達なんぞは、お母さんから「これを使い切って来なさい」と渡された巨大な容器に入ったシャンプーを前に途方に暮れ、私が手伝って一緒に使ってあげてもそりゃまあ当然、使い切れなかったわけで。あとはおふらんす人(の子供?)は寝るときにパンツを履かないらしく、夜もパンツを履いて寝る日本人の私は洗濯の需要回数がおふらんす人キッズのそれよりは高く、大変困ったとか。そういえば、南仏から来た子供の訛りが最初はよく分からないってこともあったり。そういうことを弱冠8歳で経験してたんだよなあ。で、痩せて帰って来たにしても、自分としてはそこまで大変だったという記憶もナシ。子供って意外にタフなのかも。あ、子供全般じゃなくて、私がタフってことか?(笑)。
2006.07.25
引き続き、『外国語を身につけるための・・・』を読んでいる。かなりはしょって読んでみたが、それほど目新しいことはなかった。言ってみれば、私が通った大学の英語の授業で習ったことに近い。この本をもとに考えてみると、私が身につけた日本語および英語の土台となっているのは、‐小学生の時にフランス語を3年間学んだ体験‐大学での英語の授業‐和英・英和の翻訳・通訳の仕事‐現在のアメリカでの英語を使う生活であろう。
2006.06.16
このテーマも常日頃から悶々と(笑)考えているのだがまとまらないもの。ただ、ひとついえるのは、日本人は幼いときから自分が属さない集団のヒトに対して自分の意見を筋道立てて言うという訓練をしていないというのは大きいのではないかと思っている。日本人がよくいう「自己主張」ってヤツである。これは日本では自分勝手と同義で話されがちで、欧米の悪いところとしていわれがちだが、アメリカでだって、自分勝手で自分の意見ばっかり言って他人の意見を聞かず他人を攻撃するばかりのヒトは嫌われ、ドナルドトランプおじさんにファイヤーされる(笑)。教養のある人は、他人を傷つけも攻撃も圧倒もせずに、かつ、自分の意見はきちんと言うという術を身につけているのだ。日本人は、英語の文法や語彙そのものの習得も大変だが、そのほかにもこの意見を言うという訓練を受けていないから、まさに二重苦である。別に英語に日本語訛りがあったっていいと思う。アメリカで暮らしていて、お国訛り丸出しのヒトはもういっぱいいる。でも、ちゃんと筋の通ったことを言っていれば、まともなアメリカ人ならちゃんと聞いてくれる。逆に、発音や表現はぺらぺらとネイティブ並みでも、中身が伴っていなきゃ意味がない。日本人の中は、ネイティブっぽくぺらぺらしゃべれれば英語が話せると思っている人が多いようだが、それは違うと思う。中身が勝負だ。小学校から英語を学習するのは別にいいが、それと平行して、集団の中で、自分の意見をちゃんと筋道立てて言えるようになる訓練を学校教育なり家庭教育なりで実践していくべきだと思う。母国語できちんと意見がいえない人は、どんな外国語を習ったって意見が言えるようにはならない。
2006.06.05
先日、「帰国子女のアイデンティティだの真の国際人だの」とどんどん考えが発展してしまいには収拾つかなくなってしまう、というようなことを書いたのだが、最近になって、やはり帰国子女の学生時代の友人とこの深遠なる?テーマについてメールでやりとりをする機会があり、非常に有益であった。誰かと意見を交換するという作業は本当に大切だ。とはいえ、まだまだまとまりきっていなくて、話があちこちに飛ぶのだが、いちおう中間報告ということで書き残しておこうと思う。私が考える「真の国際人」というのは、「自分のアイデンティティを大切にし、他人の国籍・人種・性別・信条・文化の違いを尊重しつつ、それを超えたところで他人を理解しようと努力し歩み寄る努力を惜しまない人」であり、「ある国の良いところと悪いところをきちんと見ることができる人」であり、そのために英語その他外国語は必要かもしれないけど、絶対ではない。日本では「国際人は英語ができなければ」という風潮があると思うが、いざとなれば通訳を使えばいいのである。もちろん、外国語ができちゃえば便利なのだが、便利というだけで、それは必ずしも国際人の条件ではないのではないかと思う。最初は自分の「アイデンティティ」ではなく「国」を大切にする人、と思っていたのだが、両親は日本人でも海外で生まれ育ったり、私のように何年間か海外で暮らしたり、ルナみたいに片親が日本人だったり、これは「帰国子女のアイデンティティ」にもつながるのだが、「国」では括りきれないと思うのだ。私はナニジンかといわれれば日本人と答えるが、純粋な日本人とも思わない。かといって、アメリカ人でもフランス人でもドイツ人でもない。その中途半端な自分が自分のアイデンティティであって、そういうどっちつかずの自分がとても嫌な時期もあったが、今は自分なりに消化して受け入れている。 こっちで子供を育てている日本人の人達と、子供の日本語習得についてよく話したり意見を交換するのだが、何だかんだ気にかけているようでいて、私はルナが日本語を習得することについて、どこかで「どーでもいーじゃん」と思っているようなのだ。確かに、同じ年齢ぐらいの子が日本語をちゃんとしゃべれると非常に焦る。私のやり方が間違っているのかと落ち込む。でも、その一方で、究極は人間性、言葉はあくまで手段、っていう考えもあるのだ。この前、膀胱炎でぶっ倒れていた時に、ルナが"Are you okay?"と顔を覗き込んで聞いて来て、私が日本語で「ママね、お病気なの」と言ったら、何となく雰囲気で分かったのか、うんうんってうなずいてほっぺにちゅってしてくれた。その時に、そういう他人を思いやる気持ちが育つということが大事で、それが日本語を介しようが英語を介しようが、それは大したことではないって思ったのだ。それは私自身がすでにそういう世界で生きているから、つまり、夫とは簡単な日本語を除けば基本的には英語だし、夫とは先に書いた「他人の国籍・人種・性別・信条・文化の違いを尊重しつつ、それを超えたところで他人を理解しようと努力し歩み寄る努力を惜しまない」関係の上に成り立っている(ハズな)わけで、そういう2人の間に生まれて育っているルナに、純日本人を期待することがそもそも無理な話なんじゃないかと。万が一、日本に帰ることになった時に備えて、ルナに日本語および日本人としてのアイデンティティを頑張って身につけさせるのも必要じゃないかと思った時期もあったんだけど、しょせんこの子、見てくれはガイジンだし、そうじゃなかったとしても、純日本人にさせるのは不自然かと。私がこの地で日本語を話し、読み書きし、日本人の友達と付き合い、日本食を作り・・・それ以上のことはやっぱり出来ないと。それなら別にそれでいいじゃないか、と思ったのだ。まあ、そんな話をメールしたら、友人が、「アイデンティティは自分で作るもの」だ、と名言を返してくれた。そのとおりだ。もしそれが本当なら、私が縁あってアメリカ人と知り合い、アメリカに暮らし、半分日本人半分アメリカ人の子供を育てていることで、私のアイデンティティは現在もなお変化を遂げているのかもしれない。どう思います?
2006.05.25
ド、ド、ドリフの大爆笑~♪に「もしも」のコーナーというのがあったが、その、もしも。私が時々考えるのは、(1)もしも私がおふらんすに暮らすことがなかったら、海外に興味を持ったり英語を一生懸命勉強したりしただろうか。というのと、(2)もしも私が日本人と結婚して日本に暮らしていたら、子供に小さいうちから英語を習わせただろうか。ということである。ここから発展して、バイリンガルだとか帰国子女のアイデンティティだとか、英語(外国語)が話せることはどういうことかとか、真の国際人とは何かとか、しまいには収拾がつかなくなってしまって、全然まとまらずに堂々巡りになってしまう。誰か、まとめるきっかけを作ってえ~!!!!(他力本願)。
2006.05.17
ボストンの日本人コミュニティはいま異動の季節、帰国する人も、新たにボストンに来る人も。ボストンの日本人コミュニティ向けの掲示板を見ていると、子供の学校をどこにするか、どこに暮らすと安全か、など真剣な議論が交わされている。今ならこうやってネットで現地の情報を(真偽はともかくとして)得ることができるが、今から30年以上前、父の仕事の関係でおふらんすのパリに3年間暮らした頃は、ネットはおろか、パソコンもファックスもない時代だった。国際電話代も異様に高くて、日本の親戚との電話はお正月だけ。で、私の学校をどう探したかと言うと。母が、近所で道行く日本人と思われる親子を『お宅のおじょうさん、どちらの学校に通われているんでしょうか』と突撃インタビュー。結局、その学校に行くことになった。ちなみに、その突撃インタビューをされたお母さまとハハは、今もお付き合いが続いている。パリには日本人学校もあったのだが、家から遠かったのと、『せっかくおふらんすに来たんだし』との親の判断で、私はその学校へ、ぽーんと放り込まれた。その結果が、この、ワタシである(笑)。子供とはいえ、それなりに苦労もあったが、まあ、何とかなった。・・・という自信のようなものは、現在の海外での暮らしに大いに役立っていると思う。
2006.03.20
明日は母の日。おふらんすの小学校でのこと。母の日に詩を贈るということで、先生が2つの詩を用意。多数決でどちらかの詩を選んで、その詩をカードに書き写して、お母さんの前で暗唱することになったのだが、ほぼ全員が同じ詩を選んだのに、1人だけ、もう一つの詩がいいと言い張った子がいた。先生は結局、多数決にはせず、その子には別の詩を選ばせた。別の詩がいいと勇気を出して言った子も偉いし、それを尊重した先生も偉いと今では思う。で、私は選んだ詩を書き写して一生懸命覚えて、母の膝の上に乗りながら暗唱した。ねえ、ママ、すわって、ママ、すわって、なんで、何でよ。というような会話が母との間にあったような気がする。確か、お母さんの膝の上に座って・・・というフレーズが詩の中にあったのだと思う。この詩を暗唱するというのは私が通っていたおふらんすの小学校では毎週末のように出た宿題だった。イソップの寓話の題材からとったものなどはまだ分かるが、小学校の低学年の児童に文豪ビクトル・ユーゴの詩を暗唱させるというのもすごい。恐らくフランス語の響きや語彙に小さい頃から馴れさせるという目的があったのだと思うが。そのほかにもフランス語(国語)については、低学年のうちから文法、つづり、書き取り、リーディング、動詞の活用、作文など細かく分かれていた。何だか国語の授業ばかりやっていたような気がする。歴史や地理の授業もあったけれど、これは先生が教科書をもとに書いた文章をノートの左側に写して、それに基づいた内容の絵をノートの右側に自分で書くという課題が基本だった。覚えるというよりは自分で考えるという勉強が多かったと思う。ありゃりゃ、母の日の話だったのがずいぶんと脱線しちゃいました。追記:で、ビクトル・ユーゴの詩、なぜかこれだけは最初のフレーズを覚えているので、それを元にネット検索したら何と出てきました。Les hirondelles sont parties.Le brin d'herbe a froid sur les toits ;Il pleut sur les touffes d'orties.Bon b?cheron, coupe du bois.Les hirondelles sont parties.L'air est dur, le logis est bon.Il pleut sur les touffes d'orties.Bon charbonnier, fais du charbon.Les hirondelles sont parties.L'?t? fuit ? pas in?gaux ;Il pleut sur les touffes d'orties.Bon fagotier, fais des fagots.Les hirondelles sont parties.Bonjour, hiver ! bonsoir, ciel bleu !Il pleut sur les touffes d'orties.Vous qui mourez, faites du feu.2段落目の"Bon charbonnier, fais du charbon"という響きも何となく覚えている。しゃるぼにえ・しゃるぼん・しゃるぼにえ・しゃるぼん・・・何だかすごくおふらんすな響き(笑)
2005.05.07
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