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いつもの朝。
僕は一人でパンを食べ、コーヒーを一杯飲み、会社へ行くために
くつをはいたところで、妻に声をかける。
「行ってくるよー」
妻は寝床からふらふらに起き上がり、玄関のほうへぼさぼさ頭の
ままやってくる。
「ゾンビみたいだよ」
と、僕が言うと、妻はちょっと笑う。
「ひどーい」
電車にゆられて、会社へ向かういつもの朝。
最近、会社と自宅の往復で飲み会にも呼ばれないし、自ら企画も
しないし、実に何事もなく1日が終わっている連続だ。
一人息子は就職がきまり家をでた。今は妻とふたりきりの生活だ。
体形も50過ぎの現実を反映し、腹も出てきたし、髪の毛も薄くなってきた。そして、この何か生ぬるいような生活の連続に、ふと最後
のあせりのようなものを感じる時がある。
昼休みは地下の食堂で食べて、エレベーターに乗ろうとするその
瞬間に声をかけられた。
「中村さん、ちょっといいですか?お願いがあるんです。」
誰かと思ったら、企画の西岡さんだった。
彼女は派遣の20代なかばの女性で、とても可愛らしい容貌をして
いて男子にとても人気がある。
飲み友達のグループに、彼女も何度か参加していて、お互い顔を
見たら挨拶する程度の仲だ。
「実はお金が今なくてこまってるんです」
僕は彼女の顔をまじまじと見た。そんな相談をする事が意外だっ
たのだ。
「あ、沈黙してしまいましたね、でもそんな大金をお願いしようなん
て気は全然ないんですよ。実はCDを買ってほしいんです。CDと
いってもまるっきりの手作りで、私の好きなショートショートを心を
こめて20作、朗読しているだけのものなんですけど、中村さんだっ
たら本も好きだし買ってくれるんじゃないかと思って・・・・。
1枚だけでもいいし、2~3枚買ってくれたらもっとうれしいですけ
ど。他の人には内緒にしてほしいんです。」
と、無邪気に笑っている。
ぼくは、『いったい彼女は何人の男に声をかけ、買ってもらってい
るんだろう?
こんな事がばれたら会社にいられなくなるのではないか?』と、
思った。
それに、著作権上、こんなふうに作家の短編をかってに朗読して
売買したら違法となるだろうと思った。
まあ、そこは言わないでおこう。
「で、1枚いくら?」
「3千円」「じゃあ、3枚買うよ」
「わーありがとう」
3枚、買ったのは彼女のお金がなくて困っていると聞いたから、
サービスで買ったようなものだ。あとの2枚は秘密にしておく以上、会社の人にはあげにくいし、かといって自分の知り合いも、喜ぶ
かどうかは、微妙なところだ。
会社から帰って、彼女から聞いたようにパソコンにセットして聞い
てみた。星新一、筒井康隆、山田詠美、村上春樹など、名前の
知れた作家の短編を朗読している。
朗読のうまさはプロ級とは、いえないものの、ちょっとした暇つぶし
にはなりそうだ。
会社で仕事、家で食事と睡眠、そんな繰り返しの中にできたちょっ
としたハプニングだった。このCDを機に彼女ともっと親密になってどうこうということは、
ふと頭をよぎったりもしたが、結論はこう思った。
『でも、これだけだといいけど、またすぐに西岡さんの第2、第3のCDを作って買わされるのは、ちょっと勘弁ねがいたいものだ。』