(前回のつづき)

徹底した非暴力主義で知られるインド独立の父、マハトマ・ガンディーはヒンドゥー教徒だったが、カースト制度や不可触民制度に疑問を抱き、キリスト教や仏教からの改宗の誘いに、どうすべきか迷ったことがあった。

そこで、あるとき、親友のジャイナ教徒に相談した。

友人の答えは、簡潔明快だった。

「ヒンドゥー教に見られるような深い神秘的な思想、魂の洞察、慈悲の心は、他の宗教にはないと、私は確信しています」

以降、ガンディーは、迷いなくヒンドゥー教を信じていくことにしたという。

相談の機会に乗じて自分の宗教への入信を奨めようなどという気がまるでないところが、ジャイナ教が他の宗教とは一味も二味も違うところだ。





汚れなき「善」と、遍き「愛」を徹底的に追求するジャイナ教が生き延びた秘密、それは、この宗教が持つ比類なき 「寛容さ」 にあった。

言い方を替えれば、『脱・完璧主義』が、ジャイナ教のもつ最高の特長なのだ。

古来、宗教紛争の絶えないインドの中にあって、ジャイナ教が他の宗教と争ったことは歴史上一度もない。

ジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、 「世界にあるどんな宗教も、実は人類の深層にひそむ共有の公理にもとづいている。教理の違いは、単に証明方法が違っているだけにすぎない」 と、いうことに気づいていた。

「唯一の真理」というものを否定し、徹底的な「価値相対主義」を貫くジャイナ教は、他の宗教が自分に対して寛容である限り、他の宗教に対しても寛容であった。

「数学が無矛盾である限り、数学は自らの無矛盾性を自分では証明できない」ということをゲーデルが証明するずっと以前に、「ある教理がそれ自身の正しさを証明することは不可能である」という事実に気づき、思想的に実践していたのだ。




ジャイナ教はまた、その厳格な理想とは対照的に、信者に対しても寛容である。

ジャイナ教によると、本来なら非物質である霊魂に、不浄な「業(カルマ)」が付着するため、霊魂の解脱が妨げられている。

その「業(カルマ)」を洗い流す方法が、 禁欲・苦行 である。

禁欲・苦行によって、それまで付着していた「業(カルマ)」は洗い流される。
ということは、つまり、多少、戒律を破っても、それに勝る大きな苦行を新たに積めば、 すべてチャラ ということになってしまうのだ。

「先月はムダ遣いしすぎたから、今月は貯金しよう、っと」と同じ発想でよいわけだ。

甘いケーキを食べた後は、しっかり運動してカロリーを燃焼させておけばよい、というしくみだ。

実は、凡人にも優しい、非常に現実的な宗教なのだ。

前述の5つの戒律にも、出家をしていない民衆向けの「小誓戒」というものがある。
「性的な行為はいっさいしない」は「配偶者以外と性的な関係を持たない」に、「何も所有しない」は「余分な財産は、寄付すべき」に変わっている。
それでも厳しい戒律であるには違いないが、一般大衆が絶対に守れないような過酷なものでもない。




ジャイナ教徒の多くは、最も殺生をする可能性の低い、商業(金融業や小売業)に従事する。
正直なため、信頼され、商売は大いに成功する。

思想において徹底的な「価値相対主義」を貫くジャイナ教徒は、自分の意見を押し付けない。
多面的なものの見方で、相手の立場を理解しようとする。そして決して嘘をつかない。

これで、他人から信頼されないわけがない。

“19世紀後半には、インド民族資本の過半数はインド全人口の 0.5% に
                       満たないジャイナ数徒の手中にあった。”
                          (中村元「インド思想史」)




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