権利のための闘争 その2




~「権利のための闘争」について、その2~

「自然権」と「人権」について。
フランスやアメリカ、日本の憲法では、自分の生命、自由、
財産等を国家や他人から不当に侵害されない権利を、人間
である以上生まれながら当然に持っている、ということが
大前提となっている。
この誰もが当然にもっている権利を「自然権」という。

「自然権」は「人権」よりも上位の概念であり、普遍的な
「自然権」に基づき、時代の価値観に合わせて個々の
「人権」が派生する。
自然権はちょうど、「心」のようなもので、新たに発見
されたり創造されたりする必要がなく、人間の中に“当然に”
存在しているものだと考えられている。
それに対して、人権は「感情」のようなもので、愛とか
悲しみとか喜びとか怒りのように、人間がその場その時に
合わせて、心の中に発見していくものだとされている。

つまり、「自然権」は新しく生まれたり滅んだりはしない、
絶対的な権利だ。
それに対して「人権」は、プライバシー権や嫌煙権のように、
時代の変化とともに生まれ、形を変えていく相対的な権利だ。

そのような「人権」レベルの「権利」は、その場その時の
人間が社会の中でよりよく生きていくために創造し、発見し、
発展させ、守る努力をしていく必要がある。
しかし、人間が人間である以上、生まれながらにして持って
いる侵すことのできない「自然権」は、どんなに強暴な国家の
中にあっても、決して消滅したり形を変えたりすることはない。
一人一人の人間の命にかけがえのない価値があるという事実は、
国家制度や時代の価値観とは無関係なのだ。

イェーリングが、「法=権利」のために闘争すべし、と言う時の
権利が、天賦普遍の自然権のレベルではなく、上でいう「人権」
レベルの権利であるなら、それは人が闘争を通じて守りつづけ
ない限り、人格までもが脅かされる危険がある、と考えることは、
正しいと思う。
しかし、「権利」というものが、自然権も含めて、すべて
闘争によらなければ蹂躙される危険性のあるものであるかの
ように一括りに論じられているとしたら、そのような世界観は、
僕にとっては「窮屈」と思えてしまう。

社会に生きる人間がみんな、人間存在の根本に関して懐疑的に
なる「義務」があると考える必要はないではないか。

心の持ち方次第で、人生は快楽にも苦痛にもなる。

法とか制度とかいう表層的な「約束事」に振り回されず、
不可侵な個人の尊厳を信じて、泰然自若として生きていけば
いいではないか。
「心」の存在を疑う哲学者に、誰もがなる義務も必要もない。


“自らの才能にうぬぼれたダイダロスは、天の摂理に逆らい、
翼を作ったことで、愛する息子イカロスを失った。”
                    ---ギリシャ神話



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