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あわや惨事になるところ 夜7時過ぎに、出先から帰った時のこと、暗闇の中乗用車がフェンスに追突して撃破している。2車線で西行きで進行していて、無茶にも反対車線を越え、歩道も越え人の敷地にに入ってやっとぶつかるものがあって止まる。その間ノーブレーキのまま直進、駐車場のレンガ、フェンスをぶっ飛ばして電柱が止めてくれた。強靭なレンガの塀やその上にフェンスまで飛ばし、車のボデイがめり込んでペチャンコ、見事にプレスしたように哀れな姿になっていた。スピードが相当出ていたことが見れる。その横にハンドルを持ったらしい人が立っている。こんな国道で往来の激しい時間帯。なのに反対車線から車も人も自転車も単車も何も来ていなかったのらしい。幸いにも被害者が出ず人身事故を免がれ、本人も今のところはどうという外見の怪我もないようだ。もうラッキーとしか言いようがない。事故した20代の男性は長身で眼鏡を掛け、おとなしいく、びくびくおどおどしている、答えにもならない。大きな衝撃の割には見物客もいない。ショック音が少なかったんだろうな。(後で聞くが家で寝ている旦那は何も聞こえなかったし知らんという。テレビの音が遮断していたかも)途轍もなく、大変なことをしたのだもの。事の重大さが今解り血の気を引いているのでしょう。これぐらいの事故で済んだ、と良いように取ることで運がいいと言わなければならない。君良かったね! 運が強いよ! 守られているんだ! 肝に銘じことよね!戸惑って、挨拶もできずにいる。長身で顔は四角く、耳は頭の上のほうについていて小さく、聞く耳がないのだ。顔のつくりは目立たない。何をしていたの!何かあったの!何で?マジで!居眠りをしたという。仕事帰りでもない!遊びに行って帰り!だとかいった、矢次場やに聞く。この国道で人が車が誰もいないことなど想像ができない。無人でハンドルを持たのと同じ、アクセルだけで暴走したんだ。止めてくれる先、行きついた先が家の駐車場の塀だったんだ。アッ塀が身代わりか、最悪の事態を想定したら、身震いがする。良かった、良かった。運の強い人、守られているとはこういうことを言うんだね!母親がいらして、物損の保険に入っていますから、ちゃんとしますと加えられた。つづいてお巡りさんが来て調書を取って帰って行かれた。保険屋さんと話会いで解決をしてください。お酒を飲んでいたのか調べずにいた、人身事故は伴っていなかっただけにいとも簡単に処理が済んだ。人の命に関わる事故をたくさん見てきただけに、いかに大変に物々しく再現して現場の実地検証が延々と続いて大変さを知らしめられていた。いと簡単で、物で良かったんだといま更ながら感じ入った。
2010.04.04
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旦那の死からの変化 お隣の奥さんのこと。旦那の死を持って生き返ったようなり、もう奥さんをだれも止めることが出来なかった。最後のあがきともとれる、頭を押さえるものが居なくなり羽が付いたように、毎日飛びまわり落ち着かない家には心はない。外の空気が一番の美味しいらしく、鎖が解かれだれにも遠慮すらしなくなった。亡くなってこの先どうしたらいいのか思案するわけでもなく、元気を取りもどす。やれやれと平気で誰にも旦那の悪口を言って回る。旦那にご飯を食べさせてもらい、働きもあっただろうに感謝するどころか痛い目にあったことをあげつらう。自分のことは棚に上がり、言われたことが気に食わないらしい。逐一気に入らないことを話している。同じ穴の狢だと思ったりした。悪いことは水に流し、御蔭を頂いていたと思う心を持つことは必要なこと。所詮一人ではでは生きれない、生かされてきたことが分からない。常に心配性で優柔不断で人の意見で動いていたようである。嫉妬深く世間のことに関心を持つことにより、自分の置かれている立場が幸せか不幸せかを測っている。お喋りも安心を取り戻し、多くを知ることは他への関心の深さを物語っている。心が不安定なのか話をするときは目の視点定まらず、眼が泳いでいる。いつも立話をすることにより癒されるのは分かるが、猜疑心旺盛で精神面が不安定あるので話をするときは、本人にいつも気を使っていた。気にしすぎるから、迂闊にものが言えない。出歩くだけのことがあって地域のこと知らないことがない、物知り奥さんと有名であった。さっきの町内の放送はだれなの?亡くなった時に聞こえるが、だれだれのだれだと奥さんに聞く方が早い。犬猫もどきまで。端から端まで家の事情までしっているのにたまげる。リサーチ済み。もともと血圧が高く、病院では行くだけで200を遥かに超えてしまうんだとか、不眠が続いたと真っ赤に充血して兎の眼のようになっていた。気のコントロールが出来にくいんだと思った。薬は切らさず飲み続けている。冬の寒い日が続いた後、何日も何週間も顔いっぱいのマスクに覆われたまま、風邪が治らず入院をされた。風邪の菌が腎臓の働きを悪くしたようだ。最悪にも腎透析を余儀なく、辛い闘病生活となられたのです。常に心労が絶えない人だったので身体への負担がきつかったらしい。闘病は長く2年近く一度も家に帰ることが無く、おりしも身体の抵抗力が尽きて、血液の再生も出来ず、白血病になり哀れにも帰らぬ人となってしまった。享年57歳。人生はどんなことがあるかしれないが、決断できる意思力を創り、自大に構える心を持てることが一番大切であるということを学んだのです。不安を解消するため、人のぬくもりが一番安心するのだったのでした。おりしもその日に孫が生まれました。生まれ変わりかもしれない、思いのほどを継ぎ足して成長してくれるでしょうね。人の人生は儚くもあり、よろけるような不安定な生き方は内面がもろくボロボロになり、自分を消耗してしまう。壮絶な生き方もあるが生きざまはその人の足跡がすべてであると言えるのです。原因結果の法則に尽きる。
2010.04.03
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最後の時 お隣さんの続き。夜明けに救急車に乗って市民病院に運ばれた。危篤であるらしいが、それ以上のことは情報がない。人の不幸を訪ねることもできない。遠くより見つめるより仕方がない。あんなに話好きで心を許し、毎日に会っていたが、身体のサインは見抜けなっかった兆候も見られず感じられなかったのが残念。本人は体調についてはドン感であるらしく、神経質に語ったことはない。糖尿病があることぐらい、発症から15年で、手に合併症がきて物が握れない、仕事に支障すると言っていた位。きっと良くなっておられるかもと見舞いに行く。みると集中治療室に入られており、面会を許された。マスク、ガウン、手洗い、感染予防策を取って入らせてもらった。沢山の管につながれていて、両手には点滴の管が痛々しい、高いびきで危篤状態が一目で分かり、昏睡状態にあったのです。入院から一度も意識をもどされてないと看護師さんに聞く。帰り際彼のあいている手を軽く握り頑張りや!帰っておいでや!聞こえない声で呟いた。すると、頭が動き、かすかに目があき、そこには眩しいそうな充血した眼、揺れおごいている眼の玉(眼球しんとう)、上向きからこちらを見た。見えているんだろうか、誰かわかったのか、「オッサンもう酒はのんどらへんか?」辻褄の合うことを言った。旦那が酒飲みであることを思いだしたのだろうか?私が困っていたことは知っていたのだ。あれっ!正気だと一瞬に思った。その一言だけで又眠りについた。そんなことがあって、翌日奥さんがいらして、病院に見舞ったことに不満を漏らす。記帳があったので行ったことが読み取れたらしい。ありがとうでない。昏睡状態なのに面会謝絶やで勢いを持った言葉で非難された。ごめんなさい。もちろんお喋りをしたことなど言うわけがない。家族は一度も目を開けることがないと最後まで思っている。夢遊でない。確かにはっきりと喋った。波長が伝わり困っている事柄に意識が転嫁したとしか思われない。残された命の炎はほんのわずか、振り絞ったのかも。もう今までの悔し涙は無く、最後の最後まで一銭たりとも払い終わったんだと、お別れはそのあとすぐ後でした。憎く、醜い生き方を選択したが最後は一枚づつ悪いものをはがし、まともになり魂は浄化して旅立ちとなったのです。
2010.04.02
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人生に無駄はない 数々の嫌がらせを受けてきた。それにはどんな意味があるのだろうか。生きてきた道に途轍もない障害でもすべて無駄というものがない。人の心が溶け込んでいるから。良い悪いのたとえとして、生き方を生で享受したのだ。人として言えない内面の叫びを耳にする。本音と建前の違いや、建前に重点を置いた生き方など、自分にない人の話、興味しんしん。世間を狭く生きているのに世界が広まったようでした。いつの時も相手が何を思い何を要求していたかを知るきっかけとなった。相手にプライドが高いこともあり得るし、損得の勘定があるのかもしれない。人、世間の評価良いように思われたい、気にしているのかもしれないが相対的に世間のことより我が事のほうを重きを置いている。もめ事を起こす人は自己中的なケースが多く、アドレナリンが人一倍多い。思うようにしたいと思っても人の真似はできるものではない。またお金では測れないもので、思いを形にすることも無理なこともある。持って生まれた感覚と感性があって、純粋な生きるものすべてを愛する愛おしい気持ちがいるのです。過酷な状態で生きてきて学んだことは計り知れない、何があっても命まで取られることはない、強靭な鋼のような神経が必要となったし、作らねば生きていけないのだ。もともと何も恐れないものを持ち合わせていたのに、余分にも培われたことは財産が増えたことになる。思いや願いは潜在意識に強くはたらき念じ切る、やりたいと実行に移してきた。不可能と思うことは意識にない。したいと思うこと願いは必ず適う。寝ても覚めても一途な思いは離れず、ふとしたきっかけでチャンスが巡るときは、逃がさない。いかなる境遇に遭遇しても耐える、頑張る、歯を食い縛る、根負けをするほど待つ。過酷さは命を削るものでなく、自分にとって防衛をする機能が備わるのである。最小限のエネルギーで余分なことに思わず、使わない。実際に体験したものでないと、言葉で表せることは難しい。相手の棲様しい攻撃にも受けて逃げることはしない。分かったことは所詮皆同じ。違いは大きな志を持って倍速で生きる限り大差はない。言うことと成したことを知れば分かる、言うほど大したことはないと思う。言うより行いに尽きる。
2010.04.01
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死を予知したのか彼が家に入り浸り 15年の歳月も水に流し、いつしか息子にお母さんは怒り虫の何でも思い通りにならないと攻撃しまくった彼を、手中に収めたということで、猛獣使いだと言われた。不仲を心配し仲良くなるにはどうしたらいいのか、寝ても覚めても、そればかり、彼のお店の前で仕事をしていたら、何をしているのかと、声を掛け、真剣に怒りも含めてすべて逃げることなく聞きいることに徹した。そうやね。そらそうや。言うことが正しい。褒めることに徹し、相手にいい気分を与えてきた。そこまで本音で生きて腹が立つ人は居ないことに気づく。事なかれ主義である世の中。彼の情報は高い所にあり、思いは絶対的で何でも難癖をつける癖がある。プラス思考に違いないが、人を思う心や情が無い。自分を過信している。人の言うことは聞かない、絶対的支配的思い道理にならないと何でもアリ。JRの貨車の入れ替えがうるさいと申し入れをしてきたことにも唖然とした。怖いもの知らず。でも怖いもの、強いものには弱いのが分かった。威嚇しているだけかも、一杯、一杯話をするうちに、気を許し彼が裏手から毎日のようにお店に入ってくるようになった。それが日課となり、日日商売の裏手の話、お金の話、仕事の手抜きの話、最果て何もできない奥さんの不満をぶつけてくる。仕事が遅い、注もんが入っても処理が出来ないとか、悪口は聞きたくなかった。多分旦那が怒るんだろうな。うんととも言えないし、同調もできなかった。もし言えば、私が言っていたと言いかねないから。いつも前後のことを考えてから返事をする。火の粉を振り、掛らないように気をつけていた。行くところがなければお昼の最中なのにやってくる。話は一方通行であり、思いのたけを話す、もう人生のカラクリを一杯覚え、面白いように人は不真面目なのだ。彼の周りにす真面目な人が人を呼んでいるんだと思った。一生懸命な自分が滑稽になる。本気で生きていない、ずるく生きることを知り得たのが不思議である。夜仕事を終えて、外の植木に水をやっていた時また必ず彼がやってくる。遅い時は11時まで釘づけになる。蚊は襲うし、やり残しをしている仕事もある、終わったら12時を回るのかもしれない。私を必要としてくれるんだと思い話に講じること、死ぬ間際まで続いたのである。なにゆえにだったのかと思う、彼には残った時間がなかったのだ。残された時間は知っていたのかも、世間話をしてくれ、私が知らない世界のことを教えてくれたのだと思うと嬉しくなる。嬉しそうに話を求めたから、話甲斐があったかもしれない。見届けてくれ応援までしてくれているのだと思っている。奥さんと仲良くしているかな。
2010.03.31
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お隣との関係 店と地続きにお隣がある。40年前には畑であって、200坪は優にある。お店をするにあたって、地上げした。国道と同じ高さまで高低差を埋め尽くす。出入りの差をなくしたのでお隣の家とは埋め立てのための差は1メートル以上になり、差が露呈した。これを契機に不愉快になったと商売全般、生活面とも何かとトラブルに巻き込まれる。相手の意気込、剣幕は尋常ではなかった。些細なことでも気に入らないことに出くわすと、意義、改良を逐一させられ商売は前途多難であったのを思い出す。排気ガスを何とかしろ。騒音があって昼寝が出来ない。厨房からの排出する臭いが気に入らない。エンジンの掛けっぱないが気に食わない。公衆電話の話し声が耳障り。営業時間の朝が早すぎる。車止めを一台分後ろにずらせ。挙句の果て勤めているバーテンの車の後に着け、帰れないようにしてしまう。言いたい放題、したい放題、もうだれも止めることはできず、エスカレートするばかり。四六時中仕事に変え相手を脅し、困らせることに執念を燃やし、何を言われるのか神経衰弱にもなりえた。小さくなって、息をひそめるように、沈静化することを願っていたのです。嫌がらせは15年ぐらい続いた。こんなことがあって、自分を持つことは出来なくなり、常に物事は客観的にしか物事を見れなくなったのです。こうすると相手がどう思うか、相手も身になって考える。いつしか拘りもなくなり、一日過ごすことが命を削るように重く過ごしてきたのである。しばらくして商売を彼も始める。電気店とうどん丼物をやりだした。バブル期だったし、すでに誰にも恐れられていたので、しばらくは近燐の人の買いもので忙しくしていた。おまけに電気工事もするようになり、今までのように家にいることが少なくなり、難だいも少なくなったのです。でもあきらめが早いのか、人の気持ちを読み取ることが苦手なのか商売も思うようにならないと、双方辞めてしまった。人が儲けていると思えば負けん気を出す。することと結果を出すことは別である。人の鼻は赤い。商売は一日でなるものではない。一言で語れない位、耐え忍び努力のみであったのです。長い年月の日日の積み重ねが何も怖気なくなり、人を中心に思いを持ち、喜ばれることがすべて、精進する中に成長があったのだと思う。彼は人を怖がらせ、悪態をつき、許せない神経はすべてを滅ぼし、肉体神経、機能不全となり、あっという間になくなってしまったのです。人を射ることは己に矢を射ることであるのです。怒りは自律神経を興奮させ、射切りまくった分が自分の身体に帰ったのである。まだ58歳で、年金が届くところまで来ていたのに無念。それから奥さんが2年後に白血病で亡くなり、まだ57歳。人生を思うときこの二人を除けて語れない。とても生の勉強であったと心に銘じている。嫉みや嫉妬や不安や楽をしたいことがすべて引き金であるのです。あなた方のこと忘れず、こうしたら何を言われるかとも分かり、言われていたことを無駄にせず、御蔭で今も続けられていることに感謝しています。いろいろあったけど、貴方がたの思いをいつも胸に秘めて仕事をしています。
2010.03.30
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御馴染さんの不慮の死の知らせ 久しぶりに、あれっ!奥さんといつも御いっしょだったのに、息子さんらしき見かけない御伴をつれお見え頂いた。注文はハキハキと大学生風の息子らしき人が答えた。どうされたんだろう、訝しげに思ったもの、一度だって奥さんを連れてこなかったときはない。息子さんは初めての来客であったが、たまに持ち帰りがあり、息子の話をまじかにに聞いていたので、たぶん息子さんだと感じた。レジを済ませられた時、旦那さんが家内が亡くなって、2週間になると伝えられた。落ち着いた口調で話され、絶句した。年齢は50代後半かも。奥さんは朝のモーニングをAセット、旦那はおにぎり定食を注文される。いつも無言で新聞、週刊誌を見ながら、会話はない。時に大きな声を張り上げて、気を押し絞るように尋ねるような言葉が聞こえてきた。奥さんは感情のコントロールが難しいきらいがある。いつも薬の袋が切られて飲まれた後で、沢山捨てれられていた。筋力が衰えているらしく、すり足で歩き、顔は能の面用で表情も乏しい。飲み込む時に誤嚥があり、いつも背中をさすってあげ、むせ切ったことが多々あったのです。お話は格別にすることはないが、もう何年ものお客さんとして来ていただいている。奥さんの思い出は少ないまでも、あるのです。無言の意思が通じるのです。寒いね。暑いね。風邪をひいたんや。よく転ぶんや。短い会話は常に交わしていた。さびしい。レジに駆られるときいつもそこにいても、お構いなくおお声ですみません!すみません!と呼ばれる。もう聞くこともできないんだ。旦那は落ち着いた口調で話され、悲しみがあったのか、覚悟ができていたのか、気持の動揺がない。絶句してしまった。どうして、事故ですか。何があったのですか。少ない言葉でしたがお風呂で転んで起き上がれず、そのままで逝かれたらしい。言葉数が少ない、しんみりとした口調に寂しさがあらわれている。寿命と思いたくなかった。少し前捨てれられた薬の袋を一人何の病気なのかと、興味があって検索してかすかに知っていた。病なるもの、パーキンソンであることも知っていた。旦那はうつ病で薬が効きすぎ、起き上がれなかったんだと言った。御気の毒というしかない。旦那は定年間際である、ご苦労は沢山あったでしょうが、支えとなる家族を亡くされ、心労も絶えなかったことでしょう。御病気で奥さんの務めも果たしけれなかったかもしれないが、それなりに過ごして多くの時間は掛け替えのないものなのです。ご冥福をお祈りいたします。
2010.03.29
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気づきが与えられる 病気になることにより、人は"気付き"を与えられる。普段の生活を改めて見るきっかけでもあるのです。自分だけは別と思っていることが思わぬ事故や病気に遭遇する。気を抜いたり、よそごとを考えている時に、思わぬことが発生する。簡単に病気が治ったり、病気にかからない身体になってしまうとしたら、"気づき"を与えられるチャンスを奪うことになるではないか。人間は病気をしたり、辛い思いをしたりしながら成長して行くものである。病気も含め、悪くなったように見える現象は自分が引き寄せたものであり、自分が変わることで初めて外から響くものに代わるし病も治っていく。この地上から病気というものが無くなり、人の寿命が延びたとしても、違う形で苦労はあるのである。貧困や争いや食べ物や欲やいくら克服しても次々と試練となるものがやってくる。唯変わらぬ心と健康を維持できるならば、長寿で悠々と生き、弱らぬ四肢と衰えぬ頭脳を駆使し存分に働き、多くを学び人生楽しみながら苦労を重ねて生きることを願い可能である。実際に長寿をもたらすものとして、条件には、現実人が生きていく環境からあらゆるマイナスの要因を除去することである。有害電磁波、化学物質、重金属等の毒性を排除。生活全般にストレスが無く、健全な精神を持ち、対人関係でも争いごとに無縁で、愛情にも満たされていることがクリアされていれば長寿は間違いない。どんな良い環境に住んでいようが、どんなに国産の有機野菜や無農薬の穀物に拘って食べていようが、重金毒の害は有害電磁波に感応して、細胞はガン化、様々な病気要素を引き起こす。やはり無病息災は神業に近く、一病息災となって気づきを教えられ、労わりながら人生はおおかして未完成ながら終えていくのかも知れない。気づきはなるべくして与えられたものである、深く生きるための教えなるものである。
2010.03.28
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玩具のおまけで子供が肥満 規制案に業界反発-米 米カリフォルニア州北部シリコンバレーにあるサンタクララ郡で、子供の肥満の原因として、ファストフード店に多い玩具のおまけ付きメニューがやり玉に挙げられている。規制条例をつくる動きに対し、業界からは「おまけをなくせば消費者がやせるとでも言うのか」と反発の声が強い。地元紙によると、同郡の担当者は研究機関の調査結果を基に、不健康で高カロリーな子供用食品にはおまけ付きが多いと主張。おまけに釣られてメニューを選んだ。まだ判断力のない子供に不健康食品を売りつける害悪を糾弾している。良し悪しの判断が出来ない子供におまけで買ってしまう、買わせてしまう。規則の前に大切なものは深く物事を考えることは出来ない。子供にカロリーの過剰摂取となる肥満は社会から排除されなければならない。売れるように作られ、中毒になるように作られている。脂と砂糖づけ。健康志向のために賢い消費者にならねばならない。何も知らないゆえに小さい頃の食べ物が習慣となり肥満や健康を害する。生活が豊かになり、どこでも早く食を満足させてくれることに他ならない。食糧飢饉がその他でもたらされているが幸いか、不幸か他人事としてしまっている。余分なものはいらない。ハングリーな生き方を学ぶ必要があると思う。またオランダ北部レーワルデンの裁判所はこのほど、同僚が注文したハンバーガーにチーズ1枚分をおまけした女性従業員を解雇した。不当として、ハンバーガーチェーンのマクドナルドに対し、契約期間の残りの給与支払いなどを命じた。 この元従業員は北部の町レメルにある店舗で働いていたが、休憩中に同僚の女性がハンバーガーを注文したのに対し、それより値段の高いチーズバーガーを渡したとして、昨年3月に解雇された。就業規則に違反したと主張していた。裁判所は判決で、たった1枚のチーズを理由に解雇したのは厳し過ぎ、文書による警告が適切だったと指摘した上で、マクドナルドに対し、元従業員に5カ月分の給与4265.47ユーロ(約53万5000円)を支払うよう命令。訴訟費用の負担も命じた。強いものの勢いを知った。情というものが一歳通じない、すべて規制のマニアルで雁字搦め、余裕のない規則はそれなりに威力はあるのかもしれない。働く人をきつく縛っている。成長する企業かどうか、従業員の不満はいい結果にはならない。
2010.03.27
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ハラ巻きの活用 腹巻をつけ離すことが出来ない。おまけにカイロまで張り付けている。お店は冷暖房完備なのだが、厨房はコンクリートその中央には排水のために水はけを考えてグレイチングを渡している。排水路からの空気の通りがよく足が冷える。顔は火照るが足元は冷え切る、だから自衛策を取っている。排尿も頻繁、冷えから万病になると思いカイロと腹巻は必需品であるのです。お腹には、大切な臓器があります。お腹が冷えるということは、内臓も冷える、筋肉と同じで、冷えたら運動能力が下がり、活動がにぶります。内臓が動きにくければ、体調全般に不調の原因になり、お腹を温める体というのは一番大切な内臓をまずは守るため。お腹が冷えていると集中して温めようとし、積極的に血液を送り、脂肪を蓄えます。血液が腹部に集中しているため、手足は冷えてきます。悪循環。とにかく冷やさないこと。 温まった腹部の血液が全身を温めてくれるので肩こりや腰痛眼精疲労などにも有効で消化器の活動を正常にする効果もあるし便秘にもよい。腹巻は天然有機物、活性蛋白質抽出した液体を使った活性光線を出す製品からできたものを愛用している。その腹巻の上に念を入れている。お腹の温かさを維持してくれる優れモノで、お腹がホカホカして離すことができません。子供の頃、大きなバスタオルをお腹に巻かされて寝ていたのを思い出します。それで健康になったわけではないですが、風邪も引かない、寝込むこともない。体温の保持に最高です、今は低体温の人が増えている。体温一度下がるだけで、30%の免疫機能が下がる。常に お腹は冷やしてはいけないのです。歳をとると逃げた体温も回復しにくくなる。若いうちはエネルギーがあり、薄着でもいても、やる気になり体温が上がり交感神経の優位になり、筋肉の働きも活発になり、寒さも感じなくなるのです。薄着をしていると年を取るとあちこち不具合が出てきます。それらが災いしていることに若い時は気づかないのです。子宮という臓器は赤ちゃんのベッド代わりになる臓器です。赤ちゃんが育つためのベッド、暖かいベッドであるためには、妊娠前からその準備が大切です。血液の栄養分はほとんど腸から吸収されますので、働きが悪くなれば血液の質が落ち、夏でも風邪などひきやすくなります。そして自律神経は腸内の温度を正常に戻すために必死で働きます。その間本来のコラーゲンの生成という大切な仕事がおろそかになってしまいます。お腹を冷やさないことが美しくいられる最も安価で確実な方法だったのです。お風呂にゆったり入り体を温める、そして就寝時にはきつくなく程よいサイズの腹巻をつけると「自前のコラーゲン」が生成します。
2010.03.26
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受動喫煙 他人が吸うたばこの煙で深刻な健康被害にあう。受動喫煙は吸っている本人よりも、煙を吸わされているほうが害が大きい。間接的なたばこの煙、副流煙をさす。害は主流煙。喫煙者がフィルターを通して吸う煙よりも、副流煙、タバコの火のついた部分から立ち上る煙のほうに高濃度で含まれており、喫煙者はもちろん、喫煙者の周囲にいる人の健康も脅かすのです。喫煙は様々な疾患の発症・進展のリスク要因です。肺がん、狭心症、心筋梗塞、胃、十二指腸潰瘍、呼吸器疾患など。 禁煙をすることでリスクを抑制できるのです。禁止品でないので吸う自由を尊重して吸える場所を確保することも大切である。吸う場所を特定して、社会的にも肩身の狭い思いをされている。吸いがらを捨てることにも罰則がある。モラルを守ってもらえばそれに越したことはない。200種類の有害物質を含んでいることで知っているとしても、害も承知で吸うことに選択することにとやかく言うことではない。嗜好の問題であり個人の意思に他ならない。間接的に吸っている者にとっては近くで吸われるのはハタ迷惑であることは違いない。「受動喫煙防止条例」この4月から実施される。飲食業を営む私たちにとって選択が要る。もう40年以上タバコの煙を受動的に吸ってきた私にとって禁煙化分煙化、嬉しくもあり、考え様にあっては商売に影響あるかもしれない。もうとっくに間接的に沢山吸わされ肺の中はタールで黒くなっているだろう。見えない分心配が出来ないが、職業病として仕方が無いのか。一服するための場所を提供しておりいい空間をづくりに務めたいと思うならば、禁煙を選択することに心が揺れる。一服も(たばこを吸う)減ったことは確かで、灰皿の汚す人は少ない。また喫煙者だけを受け入れる旨を表示していれば、「分煙」などと同じにみなし認めるという。この制定はあいまいな部分が多く強制力に欠ける。受動喫煙にむけて国も健康増進法を改正して義務化を図ることを切に希望する。吸っている人の権利をはく脱することに、懸念の声もある。吸わないに越したことに決まっているが、意思の問題でもある。たばこ産業にとっては死活問題である、反面政府は税金という旨みも持っている。吸っている人にすれば沢山の間接税を払っていることになり、持ちつ持たれつつの関係である。認めていながら、いまさら吸って被害が大きいという。矛盾した問題に呆れかえる。商品を選択する段階でキッチリと身体にいい悪いを見極めてほしかった。タバコはとうの昔からあったのか?子供の時タバコの木の周りで遊んだこと、植ていたのを思い出す。背丈を遥かに超え天にそびえ、きれいな葉っぱを見たものだ。そうそう、たばこの花の品種改良したかわいい小さな花をたくさん育てた。細い茎の先星のように4弁のはなでやわらかい、害があるとは見ても分からない。おしとやかで保護をしたくなるような花。タバコの葉に害があるんだろうか、創る段階でいろいろな物質を注入するのか。分からない。でもたばこが原因で苦しんでいる人が多くいるとしたら、売ることに歯止めをかけなければならない。私も含めて、家族の方々の切なる願いであると思うのです。
2010.03.25
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いかなごの釘煮 解禁になってもう6キロを炊き上げた。お客さんのご飯の上に盛りたいと思った。"いかなご"が乗っているのですがいいでしょうか?勝手ながら好き嫌いを確認せず、ご飯のてっぺんに一つまみ置く。好き嫌いがあるはずなのに、この"いかなご"だけは浸透している季節の食べ物である。大阪湾、瀬戸内の海、姫路湾に取れ食卓をにぎわっている。"いかなごのくぎに"は全国に発送され名物となっている。食は進み反応が良くガサガサとご飯から突撃、醍醐味に一気食い詰め込むさまは見ているだけこちらも満足感に浸る。食べている様は気分良好。熱々のご飯に打ってつけ食が進みいけるのです。毎日の定食に付けてあげたり、お得意さんにお配りもする。もう残りもわずかになり、明石の魚の棚までお客さんの昼のランチを済ませて、午後3時ジャスト走った。土砂降りの中傘と自転車、片道4キロはあり、急な坂道が容赦しない。今日は雨のためか魚の棚商店街は客足も少なく売れ残り状態、端から端まで商店街を駆け抜けた。"いかなご"は売り切れず沢山袋詰めにされた状態で所一面場所を取っていた。とても高値が付いたキロ1500円の時に買っていたので、びっくりキロ250円でお買い物が出来た。重いので6キロだけ買って帰宅する。重量があってさすが自転車での復は仕事より疲れ、きつい坂道は息があがった。でも懸命さが早く後押しをしたのか往復で30分しか掛っていなかった。お店は出ていく時、お客さんに声を掛けると、会計を済ませると言われ恐縮する。休んでいる旦那に少しの間見てくれるように頼んだ。今日は天気も悪いし、もう客足は絶え、出て行っても大丈夫だと思い込んだのだ。お客さんの2台の車が止まっていたが、何もなかったように無言で事をなしていた、ありがとう助かったよ。決まった時間の常連さんと話を展開するが"いかなご"を炊いているので失礼をした。醤油と砂糖のバランス、炊き上げるのに時間がかかり、それどれに微妙に味付けが違い、人に頂いて味の違いを食べ比べ、炊いたと聞いたら味を見させておねだりをする。でも自分味があっていいのかも。明石市の広報に金賞に輝いた"クギニ!のレシピを取っていたので、早速作りあげたが炊きだす時間があまりにも短すぎ、保存に困るので、後で炊き直しをして結局9時までかかって仕舞った。出来はまずまずです。したいと思う意思が突き動く行動力、実行をもつのです。念力はすなわち、行動である。良い行動は良い潜在意識にある。
2010.03.24
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学びは温室から得たもの 私には外気に触れる機会を断たれたのと同じ。世の中の組織に交わることもままならず、もう40年が過ぎる。人に接触することすなわち、お店の客さんがすべて。自分を持ちすぎると商売にならない。何を欲しておられるか、私の人生はいかに信用という看板を築くことしかないそれがすべて。公私を区別し歴然と働いている姿が必要と思ったから私人としての我儘を捨て去り一心不乱に働いてきた。社会、即ちお店、自分以外は皆、師の心境で接してきた。真剣に誠実に明日のために切り開くのみ。苦労だけは人の何倍もあり、時間との戦いでもあり、人を使いこなせる葛藤でもある。寂しさや悔しさや哀しさは一杯体験した。何一つとして不必要な経験はなく、すべて必然であらゆる経験が今の成功に結びついたわけだ。子供が生まれたことがお店をするきっかけとしたが結果としてよい選択だったと言えるのです。いざお店を始めてみると状況が一変した。甘い考えを持つことは許されない。お店をする、皆の範であることが要求され甘い考えや子供中心のお店経営などもってのほか。始める前と始まってからとは風向きも違い、子供を抱えてままならないことが分かる。子育て勤めは両立することには相手の協力が不可欠である。犠牲にしてしまい帰って取り返しのつかない、育て方をしたと反省をしている。一番母親の温もりがいる時なのに親戚の家に預けなければならなかった。愛おしい我が子を手放し恨み辛みが潜在意識の中に閉じ込めた様です。バックフラシュ現象としていつまでも片隅に残っているだろう。当時は生まれたてのお店か、我子を取るかどちらかに天秤にかけた時期。苦中の選択を余儀なくされ、何もにも見えない先の長い前途のために結果的には子供が犠牲になった。子育てには愛情という栄養が一番大切である。なのに心の栄養失調を分かっていながら親戚に預けなければならない心境は、人生の絶縁、引き裂かれる運命にやる気より後悔の念ばかりで子供に申し訳ないと胸を痛め心で泣きあかしたのです。お店を始めるときには子供のために良かれと思い立ったのに一緒にいてやれない苦しみ、それを排除するため、なにも思い出さない位に懸命に働き疲れ果てふらふらの朦朧状態の中だった。疲れが先行しても子供のことだけは一度も忘れたことが無い、せめて声だけでも聞きたい。大きくなっているだろうか。いつ会えるのだろうか。いつの時も一途に、愛していると聞こえない叫びを念じ切り、会えることに執念を燃やし頑張ったゆえに今がある。苦労の塊が成功につなげる元かもしれない。ただこのお店という温室だけの人生なのに日日に織りなされる仕事を通じて、過酷で棘の道、楽などもってのほか、忍従があった。こそ人の温もりを肌で感じ、堕せつせず本気で生きてきたこと、自分にとって美しい花や実をもたらしてきたと感謝している。お客さんが優位であることから得られたのだ。人を愛することお金で買えない一番大切な愛のある人間関係。人と自分、必要とされているそのかかわりが、人間が真に求めているものである。目的目標によって人生は決まるのです。果敢に恐れず愛が動くとき不可能はない。
2010.03.23
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仕事は人生そのもの 仕事は辛いものと思いがちであるが、自分を鍛え成長させてくれる。日々の仕事は自分との戦いだけでなく人の中にいて、相手を受け入れ、耐えしのばなければ成り立たないからである。要するに自分勝手に事は運ばない。仕事にはその人の人生がそのまま映し出される。仕事とは人生そのものであり、生き様そのものと言えるだろう。仕事をする本当の姿は人を愛し、その人のために喜ぶことに他ならない。生まれてから今日、働きの中に成長があり、学ぶことも多々あり、耐え忍ぶことが重ねられたのである。実力は日々の中から学びとり、誰からも教えられるものではない。積み上げられた一つ一つが経験と勘が働き、誰よりも秀でる結果となり、人間としての魅力が出来るものである。鉄と同じで熱いうちに叩き、想いの形状に仕上げていく。叩かれれば叩かれるほど強く鋼は鍛えられる。熱く熱し又叩く。人生も仕事は叩かれ、扱かれ、突き放され、鞭に遭う。歯を食いしばる者だけが生き残れ、仕事を覚える。職人として何処にでも通じ世界中が欲しがる腕となる。厳しい現実を生き抜くことが出来る。その過程の中で光り輝くのが一握りの天才、常に努力を惜しまず、いかなる状況にあっても手を抜くことはない。信用と信頼が責任ある仕事となって生きているのである。人の中あっても、楽をして生きたい、苦しいことは避けたい、そんな生き方に明日はない。楽の後は苦しみしかない。一生楽などあるはずが無い。脛をかじれるものがいるとか、人を当てにして生きてしまうことや、不自然な生き方をする者には、少しの厳しさも無い。常にぬるま湯につかって、吹けば飛んでしまいそう。働くのがいやの嘘のラベルがはがれ、どこにも逃げ切れないものである。人を当てにすることは、真面目さ、責任が育っていない。本人は得をしたつもりになっているが損することばかりになる。人生苦しい仕事の中にあっても、良い仕事をすることが快感となり、人に喜ばれるものづくりに勢いが付き、懸命の中に生きがいとなり、精神の安定につながるものなのだ。苦しい、耐える、忍ぶ。苦しみ中から有形のものができるのは生みの苦しみを味わったものだけしか、醍醐味が味わえない。それが爽快になり快楽物質を生みだし、エキサイトする、喜び、快感があるのです。仕事は手を抜くことせず、懸命に没頭する中に真の意味を知ることが出来るのです。
2010.03.22
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何でもいい食べ方は後で不調になる トランス型脂肪酸は、人工油脂で自然界に存在しない害のある脂質です。悪玉コレステロールを増やし、心臓病の原因になります。食パンや菓子、加工食品、健康エコナ等々に入っている。全く摂ってはいけない物です。これが、いろんな物に使われている。食パン自体にマーガリンが使われていて、さらにそこにマーガリンをぬって食べるなんて、それは恐ろしい。知識のない昔はそうだったかもしれない。トランス型脂肪酸が使われているものは、買わない!食べない!こと。ぜひ表示をチェックして購入するようにしなければならない。食パンが食べたかったら、自分で作るしかない。トランス型脂肪酸のことを知ってからパンや菓子パンはほとんど食べていない。他国では規制されているのに日本では平気で使われているトランス型脂肪酸です。ドイツはトランス型脂肪酸を含むマーがリンの製造禁止オランダはトランス型脂肪酸を含む油脂製品の販売禁止ニューヨークがトランス型脂肪酸の使用禁止というのが、食育界では話題。欧米では、トランス型脂肪酸を「脳と心臓を破壊する油」や「殺人油」とも言われていて、それくらい脳や心臓に影響があるということです。トランス型脂肪酸の悪影響は、・LDL(悪玉)コレステロールを増加させHDL(善玉)コレステロールを減少させ、心臓病のリスクが高まる。・脂質で構成されている細胞膜が影響を受け、細胞膜が弱くなり働きが悪くなり、病気などの原因に。・ぜんそく、アトピー、アレルギー、認知症などの原因になどなどです。人間も自然界の一部。自然界に存在しない物を摂取すると、体内に蓄積されたり、それを消化するのにかなりの時間やビタミン・ミネラルが使われ、体に悪影響を及ぼします。ただでさえ、ビタミン・ミネラルの摂取量が少ないのに、余分なものを摂って、そっちに使われたら、体が不調になって当然今、食べていて、どうもないから大丈夫ではなく、今、食べている物は未来の体と心に影響があります。今の自分の体は、7~10年前の過去に自分が食べたものの結果。ガンは10年前の食生活が原因ともいわれています。毎日、毎日食べるもので、体のもとになっている細胞が作りかえられていっている。良い食べ物→良い細胞→良い体。よくない食べもの→細胞の働きが悪くなる→病気にです。健康に快適に過ごすためには、今日食べるものがとっても大切なのです。トランス型脂肪酸の摂取は、やめまよう。身体の調子のいい悪いの生活習慣が基礎に成り立っている。多くのミネラルが消費され細胞が栄養不足になる。
2010.03.21
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未完成 昔の家は完成されていない。(例、柱が一つだけ反対むけたり、瓦が3枚だけはずされていたり)それってなぜか?完成してしまうと後はくずれていくのを待つだけ。家をながもちさせるために、未完成させて、長持ちさせるということ。人間も完成された人間っていない。完成されたら、後はくずれることしかない、みんなくずれてしまう。完成する為に、人間は努力したりしていくのです。そうして、人間ができ、人に思いやりをもったりしていくのです。未完成だから、足りないから、完成に向かうことになる。未完だから後をついてくれる子孫に継がれる。やり残しは、いい意味で試行錯誤である。先祖はこのようにやっていたと、想いを形に受け継がれて遺伝因子が残される。歴史は繰り返され、永遠に継がれてきた。幸せだけを与えて、生きるすべを教えずに生きたとしよう、もう後は奈落の世界しかないだろう。苦労をせずに生きることしかなかったらそこには堕せつしかないのである。生きる意味を学ぶ課題なのかもしれない。お釈迦様だって未完成。釈迦の教えは、「人は自らの欲望と欲心から離れて生きるならば、心が安らかになって妬(ねた)みもなくなる。人は地上でそのように生きて極楽世界に行くならば、幸せに暮らすことができる」といった、平凡な真理にすぎなかった。王の息子として生まれた釈迦が、民の事情も知らずに、どうして王座を受け継ぐことができようか。人間の惨憺(さんたん)たる現実を目撃したとき、目から火が出るような戦慄が走った。それ以来、心は耐えがたいほど痛み続けた。釈迦の教えは、「人は自らの欲望と欲心から離れて生きるならば、心が安らかになって妬(ねた)みもなくなる。人は地上でそのように生きて極楽世界に行くならば、幸せに暮らすことができる」といった。人間は弱いゆえに仏陀の立場に立つことができず、様々な修行の過程を踏みはじめたのである。僧侶はその過程で、落後者になるまいと、一生の間、何度も心に誓いながら、自分の身を投げてみたり踏んでみたり、熱い湯や厳冬雪寒の冷水を克服できるか試したりしながら、自らを鍛練してきたのである。それが高僧の生涯であった。未完成であるがゆえに、葛藤があるのです。
2010.03.20
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やっとアーモンドの花が咲いた 薬になる植物のブログOctober 24, 2009で記事に書きました。そのあと、アッー、世話をしてないことに気が付き、根元に配合肥料と、鶏フンを一杯入れて、花目を見るように念じ、日ごろの無責任さを詫び、見守ることにしました。どうでしょう、少しだけど、7つ、小さい桜の花のような白い花が咲いた。とても可愛い、ひっそりと咲いているの、まるで遠慮してうつ向き加減に気を使っているかのようにひっそりと。咲いている様は眩しい。東洋ナッツのアーモンドの花が咲いたと、ニユースでを聞いたが桃やサクラよりもいち早く咲いてくれるのだと知りました。たった7つしか咲いていないに心がほぐれ、待っていただけにわが子供の成長を見ているようでうれしい。アーモンド推進運動があった時に種から植えたのです。そうです15年の歳月になるのに一度も咲かなかった。木の根もとは20センチを遥か超え背丈は2メートルを超える。植えたことすら忘れていた位、片隅でひっそりと、つる草の支柱になっていたり、琉球朝顔に占領され、花が咲かないのでわすれていた。始めてみるアーモンドの花は美しく健気で可憐である。花が付くまで時間がかかり、最低でも4年から6年目になる事もあるそうです。状況によっては花が付かないとも言われています。花が咲いた木の枝を接木する事を薦めると書かれています。 アーモンドは他花受粉ですので、1本では結実しにくいということ、受粉をしてみることにします。 枝から「ヤニ」のようなものが付いていたが木が元気な証拠だ様です。木の樹液だ、問題なし。本来アーモンドは、乾燥した気候のものです。日本では、梅雨や台風で実が落ちたり腐ったりして、ほとんど収穫できないそうです。アーモンドに含むアミグダリンという成分は、制ガン作用のある。以前フンダの人の記事を書いたときアミグダリンという物質が体にいいと書いたはず。フライにしたものはだめ必ず、生で食べることが大切です。体に良いので是非とも開花、結種、に挑戦したいものです。今日筆を持って受粉させました。また楽しみが増え、結種したら又種まきをするつもり。アーモンドを毎日10個食べもう6か月以上になります、効果は抜群です。健康不安が無いことが一番です。我が家のアーモンドの花。
2010.03.19
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血液がんの叫び 血液のガンで、おもなものは白血病、悪性リンパ腫、多発性骨髄腫等がある。慢性骨髄性白血病は最も好発する年齢層は中年以降である。毎年10万人に1人か2人の割合で発生している。広島や長崎において原子爆弾の被爆を受け、白血病の患者の割合が高いことが知られている。兆候、無症状であることが多い。定期健康診断においてたまたま、白血球数の増加が示されたという場合である。症状としては、易疲労感、微熱、感染症にかかりやすくなる、貧血、血小板数の増加などがある。運よく骨髄移植が出来る人は一握り、多くの慢性骨髄性白血病(CML)患者が医療費の支払いに負担を感じています。これは、適合し移植の成功した患者さんの話。ひしひしと苦しみが伝わる。ドナーさんの骨髄が体に生着するまでが地獄の苦しみが実感する。前処置を全て終えた頃には精根尽き果て、魂を抜かれたかのごとく身動きをとるのも辛く生き地獄。白血球はほぼゼロとなり。GVHD予防のために投与されるメソトレキセートが口腔内を荒らし、そこから菌が入り込む。抵抗力が無く、骨髄が生着し白血球が増えてくるまでは、悪化の一途を辿り、口からお尻まで消化器官の粘膜はすべて荒れ放題。腫れ放題。ただれ放題。口なんかは、まるで熱々の油を注ぎこんだかのような灼熱のただれ方である。痛すぎて、何も食えないし、飲めないし、喋れない。ついにはこのどうしようもないほどの痛みを緩和すべく麻薬のモルヒネをどんどん増量。憔悴した心と体にはモルヒネがすくう手立てしかない。しかしモルヒネをもってしても大した効果なし。昼も夜も眠ることすら出来ないほどにひたすら苦しみまくる日々。生きることの気力も精根尽きはて、朦朧状態のさ中、神様だけが今までの行いに檄をくださるのです。家族のため、友人のため、恋人のため最愛の人々の声援に我に返り、生きなくてはならないと、歯を食いしばるのです。現実はまさに生き地獄。そして生死の分かれ目の中、ついに骨髄が生着!そんな辛い日々も嘘のように、粘膜の回復が始まる。その後、非血縁者間移植ではかなりの確率で発現するという急性GVHDを覚悟していたが、全く出ず、免疫作用で効白血病効果を引き出すため、免疫抑制剤をガツガツ減らしていく。 適合すれば日に日に回復ぶりが目に見えるのです。辛い無菌室でののたうち回った記憶は嘘のように、回復するのはドナーの御蔭であるのです。また若年で発病して病気や副作用により定職に就けず、一定の収入が得ることができなく、制度の狭間で非常に苦労されている事実もあります。西洋医学の手術や抗がん剤や放射線療法や化学療法などを望まずに、自己の免疫力をつける自然療法に命を預けている人もたくさんいます。ガンが治る人と治らない人との違いは何なのでしょうか?「自分の命は自分で決める」「人間の生きるという強い意志」ではないでしょうか。がんによって今後の人生の目標を見失い、「そんなに苦労して生きることはない」という諦めや、医者によりかかってしまい、「自分の体は自分で治す」という気概のなさ。治らない人の中には、心の奥底で「もう治らなくてもいい」と思っておられる方が少なくないようです。ガンの原因はストレス。その元となる仕事をすべて辞める、また、現代医学や民間療法も、自分が本当に治りたいという信念がないと効果が半減し、最悪の結果で終わってしまうのです。自分がこれだと決めた療法を中途半端に投げ出さず、やり遂げる事が、重要なことだと思われます。玄米菜食、食事療法など、強い意志が命の炎をつなぎとめるのです。決めたことは信じる。気持ちの良い物は体に良いいったん自分自身が決めた行動は、何があってもやりぬく、医者頼み、自分で何もしない人はダメです。辛い闘病生活に触れることにより、自分の生活がストレスや生活面で思い当たることがあるはず、出来るだけ身体に優しい食事をして心休まる空間を創ることだ。現生活を続けていると二人に一人の割合でガンが発生するというのです。他人事ではありません。
2010.03.18
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免疫革命 著者 安保徹の本がベストスラーになって目を見張る勢いで読んだのを覚えている。何故現在医学が病気を治せないのか?と問う。その理由はだれも生きていることは、「日々日常のストレスが自律神経の交感神経をずーと緊張を強いられること、いわいる緊張状態になる。そうなると白血球の顆粒球が増えて、活性酸素が組織を破壊する。これがガンの正体である。」つまりストレスこそがガンの大きな引き金にとないることが分かる。ガンの治療はいずれも、手術、抗がん剤、放射線治療は交感神経に一層の緊張を強いることになる。30代で肺がんを患い、手術も抗ガン剤も一切拒否して、80歳を超えてかくしゃくとして、元気な老医者がいる。彼は同世代の同僚がやはり30代で肺がんと診断され迷わず、手術を受け、アッという間に死ぬのを目のあたりにした。こうして、からは近代的療法は一切拒絶したことで、生き長らえたのだ。その彼のセリフがこうだ。「ガンは犬、猫と同じ。いじめたら歯向かってくる。」手術、抗がん剤、放射線治療はいずれもガン細胞を"いじめる"ことに他ならない。患者もいじめ、ガン細胞もいじめる。このストレスでは患者は衰弱し、ガン細胞は凶暴化する。なんと対抗がん剤遺伝子のメカニズムそのものである。さらにこの本は、「がんの転移は"ガンが治る"サインだ」という。転移したらもう手遅れだ!と患者を脅かしている、医者はひっくり返るだろう。ガンは全身病であり、体質病だ。転移という発想自体がおかしいといわれる。「一つの臓器で支えていた血液の汚れの浄化を、他の臓器も受け持ってくれるようになったと解釈するべき。」さらに著者は「腫瘍マーカー上昇こそ、ガンの自然退縮と見る」それまでのガンの治療の常識を180度覆す。腫瘍マーカーはガン細胞が」作りだしたり、ガンの存在に反応して他の細胞が放出する、その特有な物質。そのがん特有の物質。ガンの有無、性質、程度を見る指標とされている。
2010.03.17
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隣に住む男性 彼女は働き、お隣さんは定年の一人暮らし、毎日当たり前のように、夕飯を食べにくるお隣さんの男性について相談された。年齢も70過ぎの初老のこと、いいで意味で人生体験もいっぱいあり分別もあるのにタダ食いを何年も平気、悪びれずにいる。もしかして気があるのかもしれないね。何か言葉で示されるのですか、なにもない。食べるのは当たり前となってしまっているらしい。厚かましすぎるよ。どんな時もはじめが肝心で良い顔をして迷惑がらず、愛想良くしていしまったからつけ要られたのよ。あなたは常識人だから相手も常識を持っていると思いお世話を焼いたのね。それが途轍もなく、良い思いをしたい自己中の初老の寂しいおじいさんなのだ。人のことは全く思わない、自分からしかものは見えない。相手が困っているなんて思いもしないし、自分中心厚かましく生きれる人、相手が困惑しているなんて読めないよ。思いのたけは一途で、丁か半か極端から極端なり。彼女はハッキリというしかないのに、言えない性格らしく居候の彼を連れて、此処にこられた。彼のことを知るためにだ。手相は悪気はないが、右左ともにます掛け、すべて人のことには頓着しない。自分がよければすべてよし。思いも意思も一途に何でも好きなように生きてきている。利用できると思えばそのことに執念を燃やす、エネルギーを注ぐ、ノーと言いなさい。いまさらよういわん!断ることもできないジレンマ、2年もなるが断われないし、お金を頂くこともできないともいう。慈善事業でもあるまい、いやなら見栄を捨てるべき。ひょっとして相手に好意があるのかもしれない、男女の中あまり介入するのは悪者になって仕舞うかも。自分の意思に尋ねるしかない。彼女は先客万来でいつも賑やかなことが好きでだれかれ複数の人を呼んで飲んで食べて楽しく過ごす、典型なさびしがり屋さんである。来るのは構わないが気兼ねをしない人なので迷惑らしい。要求していることは気を使えということなんだ。対価で何か仕事をしてもらってらいいじゃない。一番いい方法であると思う。仲よくしてね、男女のなさぬ仲、近くて遠くにあるのかもしれない。構うこと事態可笑しいと、やっと気づくママちゃんである。遅手なり。好きなのが言えない、一緒にいるだけで、お互いに意識していたりしてなさぬ仲なんだと思えばいいのだ。
2010.03.16
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何不自由のない生活なのに 日日巡るましく働きすべて生活面や家庭的な面でも不自由がない。なのに常に不動産を物色し富や名声をほしいままに生きておられる。もうお歳で老い先も決まっている。何故か、銀行の話に切りのないほど次々と所有物を広げ、手広く買い物に躍起になられている。これもいい気分にしてくれる、買い物をして自分のものに成るまでのプロセスが何とも快感だといわれる。担保物件にすべて取られている、どうなるんだろうと、まさに不動産の千昌夫状態、買い物依存症の部類に入るかもしれない。功名心はだれよりも高く秀でている。欲の度合いが分からないといってもよいのではないかと思ったりする。指は太く、爪は短い、冷静で、理論派で、屈託がない。持って生まれている薬指が中指と同じ高さは歴然と勝負師。張り合いが生きる糧である。計算もしっかりされるが十分とは思ってはいないのがこのタイプの生き方である。普段の生活面は慎ましく、質素でない。ただ見てくれはすべて一番、町一番大きな家に住み、畑ものを創られてもどでかいものばかり。頂く枝豆なんかは一メートルの高さに達する。野菜などのスケールの大きなこと白菜や水菜や大根なども抱えきれない位の大きさに育てられる。いつも頂いて賞味させて頂いている。話を聞かせていただくだけでも、持って生まれた器の大きさが伺える。やはり元ものが多いだけに、相当しんどい生き方をされているのが見てわかる。財産の管理や支払い、田や畑の守、手入れや作物にする生産体制やらで休む間もない。資産家は資産を守るため管理に身を粉に大変。持ち山に植えたクリやカキや梅やタケノコの世話まで、時期折々の手入れがすべてを物語る。会社の資産ほか、どこまでモノを買っても満足できない、死ぬまで追っかけることになる。ゲームをしているような感覚。目の前のものを取りに行く間しか醍醐味がないなんて、生きがいと言ってもどこかで切りをつけないと他人事ながら心配をする。あとは買った後何もなかったことのように、他人事感がある。だから太い腹生きれるのだ。心配がないのには、先に計算が出来ているゆえに、後悔がないところが見上げ、胆が据わる知る。有り余っていても幸せでは決してない。子孫のために残してやりたい、趣旨であるが、良い後継ぎに恵まれているかどうか、良いことは起こらない。子子孫孫の代まで栄えるなんて、夢物語である。命を縮めてしまうような生き方、お金は有り余っても一日に何回も食べれるものでもない。決まった分しか食べられない、要る要らない決めれないのだ。話からして何かに取り付かれた様にかわいそうな人であると思ったのです。苦労をしてもそれを守る家族が何人いることか。それらの財産に縛られ、自由のない日々に苦しむ結果に成ること請け合う。すごいと思うが一生の分はだれも決まっている。良い生き方をしていると本人は思っている。プログラムされているからにはしかたがないのか。
2010.03.15
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心の富 セレブとか何とかで事業で大成功した女の人が、宝石とかエルメスのバックをたくさん持っていることを自慢している。自分のためだけに生きている、理解に苦しみます。反対に清貧に徹した生きかた、4.5畳の部屋で書いていた小説を直木賞をとった後も、そのまま変わらずにその部屋で小説を書き続け、収入が増えても、必要以上には要らないといって寄付し続けたそうです。こんな人は高ぶらず、謙虚に分以上の生活をしない、奢りが無いのです。誰も出来るものではないだけにすごいと思う。富は持てば持つほど欲は欲を生み、巨大な富は根を腐らせる。という釈迦の教えがなんとなく分かります。お釈迦さまの教えの通り、自らを拠り所として生きよという教えが正しいと思う。正しく真実を見る力を養わないといけないと思う。心が貧しいと幸せを感じることはできません。心が豊かに成長して、はじめてたくさんの幸せを感じるものです。心の富を蓄えるためには人を思いやり、尊重することから得られるものです。それは自己の成長となり、社会の発展へと大きくつながる。 与えれば与えるほどに増えていくのが「心の富」なのです。「他の人々に優しい行為をもって接しようとしている人は、疲れることがない」と言えるでしょう。「常に他の人々への愛のために生きている人は、疲れることがなく、自分のために生きている人は、常に疲れのなかにある」と言ってもよいでしょう。もし、「仕事をしていて、常に疲れてどうしようもない」というならば、それは、おそらく、その仕事を他の人々への愛ゆえに遂行してはいないからではないでしょうか。他の人々への愛を込めた仕事は、決して疲れないものなのです。なぜならば、愛をもってなされた仕事には二つの見返りがあるからです。一つは、愛を受けた人から、喜びの思い、感謝の思いが返ってくることです。もう一つは、仏から「おまえを愛しているよ」という愛の光が降りてくることです。そのため、「一つの行為が二つになって返ってくる」と言ってもよいでしょう。「一つを与えると二つに増える。二つを与えると四つに増える。三つを与えると六つに増える」これが仏の世界の法則なのです。限りなく優しくあれ。
2010.03.14
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毎日取りたい食品、マグネシウムについて マグネシウム(Mg)が不足すると。 循環器障害(不整脈など)、神経過敏症、振戦(筋肉の不随意的なふるえ)、抑鬱症・妄想・不安感、興奮、錯乱などが起こってきます。マグネシウム(Mg)は人の体の中で7番目に多いミネラルです。マグネシウムは人間の体内では約50%が骨に含まれています。1日の必要量は300mg必要と言われますが、カルシウムの600mgと比べますと2対1のバランスでとる事が必要といわれています。マグネシウムは、カルシウムが心臓の細胞内に入り込んで血管を硬化させるのを防ぐ働きがあります。マグネシウムが不足すると、心臓病の危険が高くなるだけでなく、高血圧の誘発や不整脈の発生にもつながります。カルシウムを多く摂りすぎるとマグネシウムの必要量も増えてしまいます。アルコールを摂りすぎると、尿から出て行くマグネシウムの量も増えます。「ストレス」これも同じくマグネシウムを多く出してしまうので、マグネシウムの不足を後押ししてしまうのです。糖尿病、うつ病、尿路結石症の方などもマグネシウム欠乏が起こりやすいのです。山登りやマラソンなどで運動しすぎると、やがて筋肉がこわばって動かなくなります。これはマグネシウム不足のため、ナトリウムポンプが正常に動かずナトリウムが細胞の外に出ていかないためのケースがほとんどです。足がつったり、心臓発作をおこしたりする時も、マグネシウム不足が関係しています。神経に対しては、その輿奮を鎮める作用をしますので、マグネシウムが不足してくると、神経が高ぶってしまうことになります。不足すると動脈硬化になりやすいのです。そのほか、エネルギーの生産、ホルモンの分泌、体温の調節にも深い関係があります。男性で1日300ミリグラムは必要ですが、実際にはその半量程度しか摂れていない人がほとんどです。マグネシウムが不足するとどうしても慢性的に疲れやすくなります。食生活は加工、冷凍食品が多いのが原因で、特に女子大生は、1日200ミリグラム以下がほとんどで、危険信号です。又、マグネシウムを低下させるのにリン過剰摂取が有ります。インスタント食品にリンが多く使われています。出来たら出しコブでおやつ代わりにいかがでしょうか。毎日朝だしをとるとき20グラムは食べている、ほとんど疲れ知らずに要るのはきっと海藻の御蔭を頂いているかも。血圧の高い人でも塩抜きした海藻を毎日食べると下がりうれしい結果が出ている。海の畑で釣れた海藻はいくら食べてもいい位身体にとって必要なミネラルを多く含んでいる。人間誕生も海とも深いかかわりを持っているのです。食事の中でマグネシウムの相対的濃度を低下させる食材の一つが、食事中の過剰なリン酸塩やリンです。普通コーラ製品や他の多くの炭酸飲料に用いられるソーダー類です。マグネシウムはとても大切なミネラルで、海藻、わかめ、ヒジキ等に多く含まれています。毎日取りたい食品です。
2010.03.13
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牛の様に老いるとは 「牛のように老いることなかれ」「学ぶことの少ない人は、牛の様に老いる」彼の肉は増えるが、かれの智慧は増えない。わたしたちは、心のもちようで、毎日の経験からいろんなことを学びとる。わたしたちはその気になって努力しさえすれば、そこから大きな発見や驚きを引き出してくることができる。成功や失敗の経験、あるいは、そのどちらにも入らないようなもっと小さな日常的な経験、それらはすべて黄金やダイヤモンドを秘めた心の鉱脈である。その秘められた黄金やダイヤモンドとは、学ぶことから得られる智慧ということができる。ことわざに「かわいい子には旅をさせよ」「若いうちの苦労は買ってでもせよ」などと言われている。これはただ苦労をした方がよいといっているのではなく、苦労のなかには多くの学ぶべき事があるということをいっている。わたしたちは少し辛い目にあったりすると、なぜ自分ばかりがこんな苦労をしなければならないのか、と不平不満を言いがちである。しかしそこにこそ多くの智慧という掘り出すべき宝が蔵されているのである。つらいことやいやなことに背をむけず、正面から受けとめるなら、それによって学ぶべき事は実に多い。そして学ぶことに比例して、智慧も増していく。おかれた境遇から、苦しさはこれで沢山、より良い方向に向かおうとする智慧が必ず、生まれるのです。労苦の多い経験を積んでいる人は、ほんとうはもっとも恵まれている人かもしれない。なぜなら、多くのことを学ぶ機会が与えられているからである。重みがあり、言葉に真実があるのです。禅の言葉に「日々是好日」という言葉がある。これは毎日が勉強、毎日が新しい発見だ、ということばである。このように日々のつらいことの中にも、楽しいことのなかにも、キラリと光るものは存在しているのである。それに気づかずにうかうかと「牛のように老い」てしまうならば、それは誠に悲しむべきもったいない人生といわねばならない。智慧は自らの営みの中から授かるもの。誰も与えてはくれない。楽をして老いるには智慧というものがなく、牛のようである。
2010.03.12
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年とともにたわわに老いる 「随所に主となれば立つところみな真なり」という有名な文から来た禅語である。いかなる仕事においても、与えられた持ち場で自分自身がその仕事における「主」であるという気持ちをもてば、自ずと使命感や自主性が生まれ、全力で仕事に取り組むことが出来る、ということらしい。年とともにたわわに生きる、経営の舵取りや、経営哲学なもの。内山興正がなぜ人々を惹きつけるのか、それは何物にも囚われない自己の坐禅に対する姿勢と、師独自の論理思考に慣らされた人に理解しやすい表現である。例えば「生命の実物」の書き出しにこのような話がある。『アメリカやヨーロッパの裕福な先進国の人々が精神の寂しさを感じて貧乏な日本の寺へ来て禅の修業をしている。今日欧米の先進国といわれる国の人々は、まさしく砂糖壷の中に落ちた蟻であり、エコノミック・アニマルといわれる日本人はその砂糖壷に落ちたらさぞよかろうと這い上がるのに懸命に努力している。そしてそれも出来ない途上国の人々はただ地団駄ふんで悔しがっている蟻だと思える。これらはどれもあわれでつまらない生き方でしかない。それは、いずれも根本的にはただ"他との関係において生きているだけ"であり、真実の自己の人生を生きているのではないからである。』裕福な欧米の社会にあこがれて砂糖壷に上り始めた蟻の一匹が自分である。今はもう日本国中の仲間と共に砂糖壷に落ち込んで肥満や生活習慣病と戦っている。「他との関係"で生きるのではなく生命の実物である"自己を生きよ」という師の教えは今深く我々の胸に響き、精神的な拠り所をそこに見出そうとする。間違いのない道がそこにあると確信できる。同じ「ダンマパダ」で、ブッダはこう語っている。「若いときに財を獲ることなく、清らかな行ないを守らないならば、壊れた弓のようによこたわる。-昔のことばかり思い出してかこちながら。」ブッダは無知と怠惰には手厳しいのである。
2010.03.11
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フンザの人何故ガンが無いのだろう、見たことも、聞いたこともないない国なのに、一度は行って観たい国だそうです。そこに日本人が行かれたレポートがある。それによると、彼らはヒマラヤの山中の傾斜面に住み、自分たちの土地で取れる自然な堆肥で育てた食べ物ものだけで生きている。外部からの食べ物は全くタブーである。まさに「身土不二」の実践である。ガンと無縁の暮らしをしている。がん患者がいないということで有名だそうです。自然の美しさがそのままの景色、子供たちもしっかり、世界一の美形整った顔をしている。フンザに行く道は整地されていなく、乗合バスはいつパンクをするか分からい、スペアタイヤをたくさん積んでいるという。いかにのんびりとした生活ぶりかが伺える。食べ物はフンザの人々はアンズとその種子(否仁)を常食にしている。果実はそのまま食べたり、乾燥させたり煮詰めたりして加工して食べますが、種子からも油を絞り取るといった徹底ぶりです。どうもそのへんにがん患者がいない秘密がありそうです。アミグダリンという物質。アンズとその種子にはアミグダリンという青酸配糖体が含まれています。ことに種子にはこの耳馴れないアミグダリンという物賃が多く含まれています。アンズのほか桃や梅の種子にも含まれている物質で、これを生で食べると腸内で分解して、シアン化水素を生じて毒性をもつため、日本ではお腹をこわすから食べてはいけないものといわれます。しかしこのアミグダリンは食用にされない羅草に含まれていることが多く、他にも水ぜり、アルファルファ、竹の子、アーモンド、穀物ではヒエ、アワ、コウリャン、ソバの実などに含まれています。長寿国日本でも梅千やソバや銀杏実のギンナンなど、アミグダリンを含む食品を食べていますが、欧米化した食生活になった今では、もっと食べなければいけない食物になっています。文献によればフンザの人々は、欧米人の約二百倍もアミグダリンを摂取しているということです。コーカサスの人々も、未精自の穀物を主食に、野菜や野章、果実をぷんだんに摂っていますし、ビルカバンバではユカという芋を常食にしています。これにはリナマリンというやはり青酸配糖体が含まれています。長寿村の人々は、なんらかのかたちでこの青酸配糖体を多く摂取しているようです。自然のスタイルの生活をしている人々はガンにならない。ガンとは無縁の暮らしをしている。ガンは体全体の臓器が退化する病である。青酸配糖体を多く含んだ食生活が良いのが分かったわけです。
2010.03.10
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食事で治せぬ病は医術でも治せない ゲルソン博士曰く。作物がガンやあらゆる病を防ぐ。ダメージは土壌の悪化からスタートとしているという。食事療法、自然療法の重要性はすべての病を治す源であると述べておられる。毒物を使う薬物療法だけが巨大化してしまっている現在医療が根底から狂ってしまっている。「病気に成っても薬を飲ませなければ、まともな医者にかかったのと同じことである」「軽い病気を重くしてしまう医者が無くなれば、天下の病人の8割は減るであろう」なんと痛快なる真理を穿つ言葉。本当の主婦とは、料理の時間の節約に熱心な主婦ではない。家族全員のために、特に家族のために、家族の健康増進と維持のために喜んで尽くす主婦である。食事の乱れ、汚染がガンの大きな凶器。有害な影響は次第に蓄積されてやがてガンが成長を始める。化学肥料は土壌の中のミネラルを追いし、土壌の虫類が居なくなってしまうことと一緒に、微生物相を変えてしまっている。「生命あるものは生命を生む」「有機栽培の作物が問題解決する答えになる」病気はフンザの人のような自然な食に戻せばすべての病は治る。肉体のすべての内臓、器官、組織の代謝には、調和が保たれていればならない。代謝が乱れると病気の始まりになる。忙しく簡単に食べ物が手に入り、食べまちがいをしている。朝はマック、昼は牛丼、夜は焼き肉、お金が無い時は、カップめん、喉が乾けばコークで乾杯、手持ちぶさでポテトチップス。こんな食生活では健康なはずが無い、病気になるような生活をしていること一目瞭然である。不自然な食事は、不自然な代謝を招き、それがガンを引き起こす。肉食動物の腸の長さは体長の3倍なのに、人間の腸は体長の12倍もある。あきらかに人間は草食動物である。草食動物が肉を食べれば、大腸がんに成る確率が4~5倍当然である。一匹の牛を育てるのに、16トンの穀物がいる。牛肉を育てるのに変換する穀物は過剰在庫のはけ口にもなっていることでもある。穀物業者が生き残りを掛けて牛に穀物を与え続けて限り、メジャーが生き残れる条件かもしれない。飢饉に飢えている人たちを救う手立てとし牛に与えている穀物を送るならば、助かる道も開けるであろう。肉食を減らし、食事を見直すだけでも地球規模から救われるのです。食事を変えるだけで病も救われる。医療費も削減でき一石二鳥で願ってもない生き方ができるのです。
2010.03.09
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スクワットは体力を創る 歩く時間や場所がない人、外を歩けない日など部屋の中で簡単にスクワット運動をすると下肢、腰の筋肉強化にうってつけの運動である。第二の心臓と言われている足裏の刺激にもなり、体温の上昇、血行の促進など健康増進におおいに役立つ。スクワットの動作は 単にひざを曲げ伸ばしするという動作だけでなく、股関節、足関節もいっしょにつながって動く複合運動。使う筋肉は大腿四頭筋(太もも)股関節、足関節などたくさんの部位を使う。この運動は筋肉が鍛えられ階段の上り下りや荷物を持ったときの、体への負荷などが楽になる。女優の森光子さが朝晩合計で150回スクワットをやっておられる。現役で頑張ってこられたのはこの運動のおかげかもしれない。若さを保つ事に懸命だったのですね。年下男子を夢中にするスクワットにも隠されているに違いない。森さんの最近のニユースでは体調不良で、ドクターストップがかかり、舞台を降りられた。森さんにとっては舞台は命である。燃える自分自身の執念に区切るをつけられたことには深いわけがある。これまで病魔と闘いながらも、舞台に立つことにこだわり続けた。終戦直後に結核にかかり、片肺を切除。初演時は当時アジア風邪と呼ばれた流感にかかり、最後の東京公演で肺炎寸前になって楽屋に酸素吸入器を持ち込むまでの状態になったこともあった。また、65年には乳がん、67年には肝炎を患ったが休むことなく走り続けてきた。舞台に立つ体力が去年より落ちてきたことは否定できず、ライフワークとして一度も休演することなく不滅の記録に、魂が埋め込まれている感がする。本当は普通の人よりも体力は少なく、片肺である、これは4倍の負荷が掛っているのです、本当にお疲れさんです。自分の意思で辞められないことは重々わかる。体力を創っていなかったら長期公演は休んでおられたかもしれない。体力作りに一日も欠かさず人一番気を使われていた。片方しかない肺であるなんて、誰にも明かさず謙虚すぎる。ストップがあったおかげで本当の頑張っておられる姿を知ることもできました。完全でない肉体、めげずに頑張り抜ぬかれた努力の天才であることも。偉大な存在であることを改めて知り、亡き、寅さんこと渥美清さんを思い浮かんだのです。スクワットをされてお元気を頂かれたことを知って自分にどう向き合うかが一番大切であることを教えていただいたようです。弱いことを人に見せない、足らずは補う。どうかお体を大切にして余生を楽しんでくださいね。
2010.03.08
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子供も大人も生きる環境は厳しい 鬼母による餓死。食事を与えず、見殺しは畜生にも劣る。新聞の記事に怒りを覚え、身震いがし、信じがたい行為に絶句する。憎さが百倍あったとしても、その反対の可愛さも同じほどあるはず。夫婦仲を取り持つためか、妹だけは見せしめに大層可愛がっていたという。育ち盛りの子供が両親に見放されたり命をそぎ落とされる。むごい壮絶な仕打ち、さぞお腹がすいたであろう。可哀そうに、食べたい盛り、愛されずに、見捨てられて何のために生まれてきたのでしょう。生きる権利を抹殺され、それを親が平然とやってのけるのは悪魔が宿っている。助けてほしいと思っても表現することもままならない。監禁状態には誰の手をも及ばない、差し出すこともできない。もっと大声を出して、ベランダからでもSOSを発信してほしかった。叩いて、、摂関しても、物言わぬ、反抗すら出来ない状態に置かれてしまった子に対して親はますます暴力がエスカレートするばかりなのだ。止めることが出来ない、母親は尋常でない異常人格である。ノーと言えない子供の心中を推し量ると、涙が溢れ胸が潰される思いである。完全なる育児放棄であり、虐待である。こんなこと氷山の一角であると次々と出てくると思う。生活苦や不安定な雇用就労、夫婦間の不和、望まぬ妊娠、育児疲れ、さまざまな要因がある。近隣との付き合いがなかったり、相談したり、救いの手を求めたりする場がなかったり、問題解決に見つけられず、弱い抵抗できない子供たちが被害者になってしまう。やがて虐待された子が成長し親になった時にまた、わが子を虐待してしまう。親や身近な大人に愛されたり、可愛がられた記憶がないから、そんな幼少の経験を持つものが親になると愛することが出来ず、受けた暴力のままの記憶で意識が蘇り、自分が受けたようにそのままの子育てにつながっているのです。繰り返されるのです。大切にされて育てられた記憶がない、愛されずに育てられば信じられず、裏切る行為をする、行き場がない焦燥感からわが子への暴力となって、孤立感が刃となりうる。相次ぐ親による虐待は密室であることと、他人の目に留まる頃は、相当に進行しており、口を封じればだれの目に止まらない。これが一番怖いことである。子供は親がすべてであり、親の顔色を見て生きている。少子化が進むのは、子供を持つ以上に育てる事の情報にほんろうされて自信が無くなる。子供を持つか否かこれらの事件や問題を見るにつけ子供は育てるのに大変だと思う傾向があるのではないか。子育ては長期に及ぶ、育てることは、親も一緒に成長していかなければならない。思いのたけすべて託して育てた子供はやがて親をも見放し、手塩にかけたわが子からの将来幸せの保証もない現状。核家族に、一人所帯にさびしい晩年はすがるべき人もない。厳しい世の中生きるだけで精いっぱいなのは大人もみな同じかも、今の現状だ。
2010.03.07
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愛子さま登校拒否 愛子さまは、どこか、はにかんだ、よわよわしい、気おくれした雰囲気、明るさが消えている。まだ支え棒が必要な痛いけな感じがする。過保護な状態で育てられ外気に当たることがすくなっかったせいかも。子供の成長は大人が思うほどではなく、変化に対応してたくましく生きれるもの。多分完璧な御性格の様子、目の前で起こりえた事柄を大きくとらまえて、心に突き刺さり、器が一杯になられているんだと思う。幼少時の心の支えが足りない。不安定で、何かにつかまってまだ独り歩きがままならない、強いお心が備わっていないようだ。母の強い愛に包まれなかったからと思える。不安定な母の近くにいて心の起伏が多分にあったから、右往左往しながら、どうする事も出来なく、繊細さだけが独り歩きをしてしまっているかもしれない。大丈夫だよと母の胸に捕まって安心を頂けなかったんだ。心の発育障害かもしれない。母の病気の影がそうさせている。幼少時はすべて安心が何物も怖くなくなり、子守歌や絵本や遊びは精神の安定に欠かせない。安心という愛情いっぱいのほほ笑み、子供の成長に不可欠。また愛情という安らぎは心の栄養素として必需品であり、心が安定して、人を恐れることも不安になることもない。母の愛が足らないまだ不足している。不安定で人からの強い言葉にも敏感になり受け止めることが出来ず心がよろける。宮内庁は小学校2年生の気持ちを大人の感覚で登校拒否を報じている。ますます母たる雅子さまの病が進行しないか案じる。母子二人がお互いに慰め励まし合って手を取り合って、支え合われているような感じがする。 基本的に子どもの世界では未成熟な社会の縮図で、皇室であろうがなんだろうが、基本的にそこに大人が介入したら子どもの成長に悪い影響しか残らない。 集団生活で悩むことを覚えるのも、これまた教育効果。大人の騒ぎすぎは逆効果。 「生きる力を育む」が文部科学省の教育理念なのだから、学校に何か言う事を宮内庁はするべきでは無いと思う。愛子(様)のケアにとどめるべきだろう。 雅子(様)の親としての資質に猫かわいがりしてしまっているようだったら、疑問符が湧く。強くなるには打たれて、叩かれ、影口を言われ、強くなって始めて、たくましく生き方を学んぶものです。それを否定して排除してしまったら、愛子さまはひ弱で、親のそばから離れることが出来なくなる。成長の妨げを心配をしている。
2010.03.06
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離婚をしたい え!この間結婚してまだ1年もたっていないじゃないの?罰一だけど好きになって仕舞ったと万弁の笑みと喜びを体全体で表して報告してくれた。どうしたの!誰だって一度や二度はあるのです。もし仮に一度もないなどの人がいるとなると性格上欠点としか思われない。人間は感情の動物であり思うようにいかないことは山ほどある。育った環境も親も違う、遺伝因子も違う、同じ親から生まれても兄弟だって違う、教育も違う、価値観も違う、そんな違った二人が生活をする。良いことは確かにある、それ以上に困難ことのほうが多い。意見の食い違いなど日常いたるところにいざござがある。子供のことやお互いの両親や付き合う近隣ことあげればきりが付かない。一人が良いに決まっている。結婚という枠は一つの細胞レベルの単位で成り立ち、すべての機能が健全で明るく前向きで事細かく、くよくよせずに生きていくための約束事。相手のことを否定したり、嫉んだり、悪く思うことの要素を持った生き方は破滅をする。妥協することを学ぶため結ばれ選ばれているのです。相手の気持ちを推し量る為一生掛けて人生の修業をするべく、神様が試練を創る場所として与えられたものです。なんで離婚したいの?どんな問題が生じたの?好きで好きで罰一でもいいと思ったのあれは何だったの?熱い思いはどこに行ったの?結婚って責任が発生するんだよ。無責任に好きや嫌いで結婚、離婚、理由は努力が足りなかったんでしょう。相手がなぜ不倫をしたのか?自分にも責任があるのと違うか?結婚する時から子供が居ても承知をして、好きだけで何でもできるなんて思い違いをしていたらとんでもない。二人と結婚したことなんだよ。余分なエネルギーや気の使いようはあるレベルになるまで、お互い気ごころが分かるまで、一人で過ごしていたようなわけにいかない。おい、こら、と言える関係に築き上げる。責任を果たしお互いに信頼関係を築く以外にない。彼女の前回の離婚の原因は知っているの?不倫が原因だったら問題あり、罰一であなたも誘惑された一人なんだもの。又不倫をしているなら病気かもしれないし、貴方は嵌められたかもしれない。彼女の思うつぼに嵌ったのかもしれない。好きはあなたではなく男性そのものであっはのかもしれない。彼女の態度がどう出るか、いつでも離婚はできる、やるだけの誠意を示しなさい、それからでもいいのではないか。このごろの若者の中に貞操観念が薄くいつでもだれとでもという風潮に絶句する。快楽、奔放好きなように生きている。良いわけがない。きっとあとになって苦しむ、不幸が待ち受けている。もう一度やり直しなさい!いい勉強をしているんだ!そんな相手を好きになって仕舞ったことがあなたの運命なのだ。あまり考えすぎないように、相手を観察して、愛は一杯与えてそれからでも、離婚は遅くない、やり直し、先入観を捨て、スタートの頃を思い描いて頑張ってみてごらん。では事故に合わないようにね。きっちりした性格の青年であるので幸せになれること間違いない。
2010.03.05
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会社経営は大変 会社を経営していることは、お金持ちである代名詞のように思われてきた。人に羨ましいがられてきたもの。忙しすぎるほど仕事に恵まれ、体が持たない、忙しくあった時は思いもよらないほど、お金に頓着せず使い捨て状態な生活をしている。蓄財など思わず、車を増やして人を増やし、拡張体制で大きく把振りもよく運や天を味方につけ、いけいけどんどんで会社を大きくされてきたようです。結果として現状の体制が当て填まらなくなり、見方が甘くいずれは斜陽になるなど計算などをしていない。手相の相談が途轍もない経営の相談になってしまった。奥さんのいわく、運送会社をされているとのこと。20台近くの長距離用の大型トラックを持ちそれぞれの運転手を抱えて、荷物はあっても賃金の採算が取れず、一杯にして走ることがないそうです。経理を任されている奥さんの心中が的確に読み取れ、経営の苦しみ苦悩の様子が、滲み出ている。銀行に借りても返すだけの力がない。それで従業員を切るか、賃金をカットするにも、組合が押し上げて同意してくれない。会社をつぶすしかない。その選択に心が揺れて、夜も寝れず、もしものことばかりで心臓が高鳴り不安で寝れず、明け方ウトウトするぐらい極限の心労のほどが言葉となって伺えるのです。一台あいている車に旦那である社長が自らハンドルを持って長距離トラックを運転している。売り上げの足しに、支払いを少しでも減らす、もう限界にきているような気がした。早く一刻も打開策を立てないと、このままのでは規模や賃金は維持できないことを社長の口からハッキリ告げること。不満者は転職してもらい、会社の存続を一番に考える義務がある。また、法律もあるはず、雇用促進法で、労働者を解雇せずに、休ませて賃金の一部を助成する制度があるのです。専門者社労士、経営コンサルタント、弁護士などの意見を取り入れて、善処する道を切り開くように努力をされることを告げる。それを動かす力を奥さんの手相に持っている。生命線の起点に3本がすべて集まっている。成功させるための強い意志が働き、確固たる信念、頑張り、それ以外に心が動かない、不動の心境があるのです。困難を打開する勇気の力付けをした。貴方なら出来る。貴方の宝を寝むらしたらあかんよ!そのために生まれている。あなたの出番や!いつの世も忙しかった時は不足が生まれ、幸せは無くなった時しか気がつかないのです。外からは何も見えない、あるものとみなされ想像されているだけ。みんな勝手に思い込んでいるのが現状だ。火の車なんて思わない。誰からも遠巻きに羨ましがられて、いつも嫉まれていた。バブルがはじけて、サブプライムローンからリーマンショックにかけて、どこもお店の存続に陰りがある。経営はみんな苦労が付いて回り、明日のことに命懸けである。枕を高くして眠れるなんて最高に幸せと感じなければ罰が当たるのです。幸せとは心で感じるものよ。
2010.03.04
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今日でお別れ 早朝のお客さん。カップルである彼女と二人、毎日決まって開店一番にお店に来ていただいている。年齢は60歳代だろうか、かれこれ3年余りになる、もうこれでコーヒーを飲むのは最後だと告げられる。実は肺がんの4期であると前振りもなく突然に告げられた。終末期医療を受けるためホスピス病院に入院を選択をされた様子。彼女がつきっきりなのは前から変わらず、杖が増えているぐらいの変化しか見えない。普段の会話は屈託なく、明るく、情報に長けていつも話題性に欠くことなく、楽しさ満開。微塵も暗い影を感じたことはなかった。自分の中で命の限界があるのに、自然な生きざま、もがかない、成るようになるしかないのか、肝が据わっておられるように感じる。残り少ない時間との戦い、病気のことは何も告げられたことはないし、ガンの末期であるなど知る由もない。さすが今日に限ってステッキに頼られた姿はどうされたんだろうと首を傾げたものぐらい。颯爽、車もベンツのスポーツカー。髪は一つに束ね長身であり不意の杖に心弱い状態のものをちらっと見ただけ。頼った可哀そうな姿も者っ気とされているし、杖にすがるほどの体調の悪さが伺えない。足はどうされたのですか?痛いのですか?恐る恐る聞くこと、肘には包帯やネットの姿は1年前からあった、その姿は知っているが、それも病気と関係しているなど話を聞かなかったら分からない。もうあちこち骨に転移、腰の骨や大腿骨や胸膜の中や、脳にも転移している。普通なら平常心などもてる訳がない、その話をされるとき感情を入れず、他人事のように何事もないそぶりで、辛い胸中を語られるのだった。顔色や声の強さなど淡々と話してもう悟りがある、辛さがピークであっても、耐える、心も準備がもう出来上がっているのか。こられたとき一番にわが家の愛犬に声を掛けおしっこは済んだか、よしよしと3匹の犬を愛撫して、情を交わされて変わらぬ愛を与え尽くしていただいているのです。きっと弱いものや生に愛おしいさを感じられ、残り少ない時間を一杯愛で手織られていたんだ、後になって素晴らしい空間を学ばせて頂いたのです。ありがとうございます。その素敵な心には敬服します。いつまでもしゃがんで声かけをしていただいた優しさ、会話、心休まる貴重な思いは忘れません。例え終末期医療に入院されたとしても、諦めず、生きることに執念を持ち続けて下さい。どうかお体を大切に一日一時間一分一秒でも良い気持ちでお過ごしになること、お祈りいたします。
2010.03.03
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幸せか不幸か 「なんとなく幸せだと思う」「これが足りないから不幸だ」「言われてみれば幸せな方かな?」「これさえあれば、きっと今よりは幸せと思う」我儘を言い出したらキリがないし、かと言って欲しいものはまだまだたくさんある。笑い泣きを感じれる心や「生きているそのもの」に感謝できる心があると言うことは、幸せな事なんです。健康、物、金、人の愛情と欲しいものはいつだって、どこだって、数え切れないものがあります。また、得れば得てもそれ以上に欲しい。幸せとは感じるもので、幸せそのものに満足することにある。人間は良い意味でも悪い意味でも慣れる生き物なのです。満足と言っても一時的なもの、その内に更なる上の物を求めたり、もっと多くの物を求めたり、得たものを今度は守ろうと思ったり、人間の欲には限りがない。「必要なもの」は与えてくれますが「欲しいもの」は自分の努力しないとなかなか手に入らないものです。人を当てにするとか何とかなりそうだとかいい加減な思いは自らの努力が伴っていないから決して幸せとは縁遠い。人を当てにする生き方を学んでしまっているから、いくら祈っても天からは降ってこないです。「自分の人生は自分で決めて、「感謝」「願い」「幸」「不幸」も、本来理屈なんてない。悲しい人は泣けばいい。楽しい人はもっと楽しめばいい。欲しい人は努力すればいい。満足できる人は与えればいい。すべての事には限りがあって一番わかりやすいのは肉体という道具ですね。これはいくら頑張っても、楽しすぎる人生も悲しすぎる人生もいつか終わるように神様は造ってくれています。きちんと終わりが来るから、人は人を慈しみ見えないものに感謝もでき、必死になる事もできる。過ぎ去ったものは決して戻らない事を生まれながらに知っている。だから今を生きる事ができるのです。まだまだ努力をしないといけない事、またその時々で悲しさのあまり涙が枯れない事もきっとたくさんある。愛する人がいる、他の状況がどんなに悪くても「幸せ」と感じられる。辛いことは目の前から消去され、本来人間は単純にできているのです。可愛く純粋に生きれる人は幸せであるのです。立ちはだかる問題が幸せを超えてしまうならば不幸になる。人それぞれ感じるセンサーが違って生きている。幸せの価値観は人それぞれ、他人から見たら羨ましがられる人が幸せな人生を過ごしているかどうか解らない。反対に、他人から見たら不幸の連続だと思われている人が、災難や不幸を生きるエネルギーに変えて前向きになっていれば、本人は不幸では無いのです。幸せなんて、人によって全くちがう。それどれに心の感じる温度差があるから。性格に裏表がある人は、幸せでは無い、無理をしている。天使な自分と悪な自分と苦しんでいる。表向きは善人に見せ、実は内面での葛藤がありすぎ、一部の人にしか見せない、苦しみが語れない。抑圧された不満が鬱積して、ギヤップに自ら不幸と感じてしまう。良い事ばかりも、幸せとは言いきれないし、幸せになれる方法もないが、死ぬまでにそれを探すのが人生の目的であるのです。
2010.03.02
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チャンスについて チャンスはとても大切です。それを捕まえる、逃す、とでは成功と失敗の分かれ目、幸、不幸の分岐点になる。チャンスは普段の心構え、姿勢によって捕まえもすれば、逃しもする。人生も同じで、人生の不幸な出来事や、ショッキングな事件だけが人生を真剣に考える機会ではない。今は故人となられた関学の教授に岩橋武夫という方が居られました。早大在学中に失明したその打撃は想像に余るが、狂わんとする心の舵を取り、励ましたお母さんがあったから、生きて来られた、岩橋氏は感謝の念と語られている。傷心癒ゆべくもなかったろうが、関西学院文学部に転じてのちの不自由な通学に、雨の日も風の日も文字通りその杖となって助けたのは、令妹と、後に令妹と結ばれた学友の寿岳文章博士であった。盲兄に代ってノートをとる女性の姿は学内の同情と敬愛を集めていた。人生悲痛の底に陥った岩橋氏が人間らしい感情をとりもどし、献身的な愛情に温く包まれたからであろう。愛盲福祉事業、学校経営、点字出版、それに愛盲事業を通しての日米親善など、失明苦に徹した宗教的な感情が、この困難な事業に献身させた。事業を維持し進めるものは氏の不屈の闘志と努力しかなかったのである。愛こそ人生の灯火である。岩橋氏の一生こそ、チャンスとされたその例であった。主なくともライトハウスには永えに光あれ。「光は、闇より」という本を書きました。光は闇によって消され、闇は光によって消滅す。されど忘れる事無かれ闇は光より生まれ、光は闇より生ずる事。わたしたちにとって不幸と思われることでも、その受け止め方によってチャンスとなるのです。何もかも順調で、希望が一杯のような時でも、その受け止め方が悪いと悪魔の罠になることもある。チャンスはわたしたちが捕まえるもので、わたしたちの身近に起こってくる出来事を真面目に見つめて捕らえなくてはならない。それはわたしたちの仕事のことだけではない。巧みに機会を捕まえて、逃さないようにすることである。すべて悪く思いを持って生きることは、心に隙を創り悪く思うこと自体悪いことが入り込む結果となるのです。生きる限り全て肯定して、例え思い道理にならなくとも何が元であるか原因を極めそれに対応するだけの、高い負けない心だしを創り、努力の積み重ね以外にないことを全盲の岩崎武夫が示されている。困難な時こそ、すべてチャンスと捕えて肯定して生きていくことが大切であるのです。
2010.03.01
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あがり症 休日の前の土曜日は一番好きである。ほとんど会社が休みになってお店に来ていただける固定客が少なく、少し余裕が持てるから好きである。昼過ぎ手相のお客さんが見えた。以前に会ったことがありそう!記憶の中の引き出しから蘇る。ようこそいらしゃっいませ!相手の近親感のある万弁の笑み、占いであることは直感で読める。顔面をみると目の下の膨らみ、自律神経の支配下にある、涙どうに神経の塊がある。高進していることがよくわかる。過敏である様だ、調和は取れている申し分のない性格。なのに神経が興奮するのか、人前に行くと、普段の自分が出せず、借りてきた猫状体になり、ドキドキして苦しむタイプ。ゆわゆるあがり症だ。スピーチ恐怖やあがり症の場合、大勢の人前に立っている様子を頭に思い浮かべるだけで嫌な気持ちになったり、恐怖心がわいてきたりするものです。だから、余計苦手意識が強くなる。スピーチをしていた景色には嫌な思いや恐怖心がくっついているので、特定の場面で心臓がバクバクして、汗をかいたり、手や足が震えてきたり、苦手になり、いつの場面にあっても、同じことの再現、を繰り返し手人前での発表が苦しくなる。あがり症の症状です。あがり症の原因はどこにあるのか。大勢の人の前で何かを発表する時、あがり症のあなたは、いてもたっても居られない気持ちになるかも知れません。発表のことを考えただけで緊張してしまうかも知れません。これは発表に対する恐怖心であり、このあがり症の原因となっているのは「発表するということ」である。大勢の人がいるシチュエーション(場面)があがりの原因である。「もし失敗したらどうしよう・・・」と思ったり、「緊張して手足が震えたらどうしよう」「恥はかきたくない」とあなたは思うかも知れません。こういった不安はあなたが他人からどう思われているか、つまり他人からの評価を恐れていることから起こります。だから、あがり症を克服しようと決めたなら、これは1つの学びであるという考えを持つべき。あがり症を克服するために学ぶことなどは人生においても大きなプラスに働きます。あがり症を克服しようと努力すること、自分を鍛えること、ととらえれば先に進むことができるのです人前であがってしまう人の多くは自分に自信を持てていない。あがり症の人の場合、他人の目に自分がどう映っているか?声が震えていないか?手は震えていないか?話していることがつまらないと思われていないだろうか?といった風に自分への評価が不安になる傾向があります。そして、マイナス面に注目してしまうのです。自分に自信があれば、他人の評価なども気にならなくなります。それは毎日1回から数回、時間を作って自分を褒めるのです。自分のいいところ、何でもいいです。今日は髪がきれいにセットされている、とかとにかく自分のいいところを5つ毎日自分に向かって言ってあげます。不思議なことに何かしらの自信が芽生えてくるようになると思います。あがり症は克服する。人は自分が思っているほどに立派ではない。自分をほめる。自信を持つ。人は自分のことはすべて棚に上がっていることを忘れないでね。人にいい顔をしていることが分からず、負けてしまって劣等感が生まれてしまい、それに踊らされて、自分を卑下していたらいくら自分があっても足りない。耐性を創り、自信を創る以外にない。
2010.02.28
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目先のことにとらわれない 人生に失敗はいっぱいある、失敗しない人はいない。人生に失敗をして世の冷たさをかみしめほぞをかんでいる人、失敗に真心を尽くすことを怠っていなかったか。苦しいことから誰だって逃げ出したい、だが逃げれば逃げるほど苦しみからは解放されない、どこまでも追いかけてくる。それが苦しみの正体なのだ。一層苦しみの中に飛び込んでいったら、苦しみは人生のどん底で温かく抱きとめてくれるのです。逃げられないことを知って、失敗をして感謝に代わる。恵みがあり、慰める人に生まれ変れるのだ。オリンピックでの競技、とくに昨日のシングルのスケートにはだれも釘ずけ。しのぎを削った演技には魂の表現であり、自分自身でもある。瞬間がすべてであり、集中して万が一の失敗は減点となる。いかなる状況であってもベストが勝ち抜くキーであることに変わりがない。真央ちゃんの銀には祝福のエールを送りたい。本人にとってはすべてを出し切ったと思っていなく後悔の 涙に震えて悔しさが観てとれる。が次回のオリンピックに思いをはせ、あの涙が懺悔になり、次につないでいるのに強さを感じた、勝負師だとおもった。 それが目先のことにとらわれないいきかたであり、反省から立ち直る。人生に失敗はいっぱいある、失敗しない人はいない。人生に失敗をして世の冷たさをかみしめほぞをかんでいる人、失敗に真心を尽くすことを怠っていなかったか。苦しいことから誰だって逃げ出したい、だが逃げれば逃げるほど苦しみからは解放されない、どこまでも追いかけてくる。それが苦しみの正体なのだ。一層苦しみの中に飛び込んでいったら、苦しみは人生のどん底で温かく抱きとめてくれるのです。逃げられないことを知って、失敗をして感謝に代わる。恵みがあり、慰める人に生まれ変れるのだ。自分で切り開いてこそ人生である。悲しみや苦しみを知らない人はいない、唯悲しみや苦しみだけで終わればそれこそ哀れむべき人生である。自分の寂しさをいやしてくれるものは決して生まれてはこないのです。自分の人生は自分持ち、自分が主人公と意を決して自覚ある生き方をする、自立と自給する以外にない。小を積んで大となす。人間成長の基礎となる、大きく将来を見据えて洞察をし、目先の小さな利害にとらわれず、実践は小さなことに積み重ねが大きなことに向かっていく。一つ一つの積み重ねの上にしか花は咲かないし、実はならないのです。この世にいい話はないのです。柳の下はドジョウはいない、棚から牡丹餅はないのです。棚から牡丹餅が欲しいのなら、まず棚に牡丹餅を上げて置かなければならないのです。この世はすべて堅実な生き方しかないのです。働くことの煩らしさ、苦痛は生産能力を失ってしまい、仕事の意味は一生懸命に働くことによって見いだせるものである。これで十分だという欲を知り慎み、心を貧しくしてしまうような生活は混乱に陥り、良い結果にはならない。限りあるものには限りなく感謝を。ものが豊富なればなるほど人間の心は反比例して欲望が増大していく。もっと良い家に住みたい、もっと良い車に乗りたい、もっと良いものが食べたい、際限なく飢えが乾いていくのである。これで十分という感謝と慎みを持つべきである。
2010.02.27
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毎日の過ごし方で人生は決まる 「人生はメニューのないレストラン」 「人生にオーダーをする」人生にオーダーする"最適な時間"があるのです!それは 朝 なのです「人生は朝で決まる」ということです。人生は、"1日"が集まってできているわけです。充実した人生を送っている人の共通点は、充実した1日を送っていることです。何もする目的を持たず、唯だらだらと時間を過ごすことは前を向いていないのです。刺激となるのものに共感したり、心が浮き立つ思いを持つ、そんな生き方から目指すべきものが見つかりやがて心が奪われ、やるべきことへのスイッチが入るのです。夢を実現する人の共通点は、毎日少しずつでも夢に向かって前進していることです。諦めずこつこついがいにない、すべて一歩から始まるのです。成し上げた天空は遥か彼方の様に思うがすべて一つ一つの積み上げにしかないのです。一年の抱負を実現する人は、1ヵ月の抱負を実現する人でもあるし、1日の抱負を実現する人でもあるのです。自分にもできる「日々の小さな目標」を確実に達成していっただけなのです。朝の時間に、1日の目標を立て、計画的に1日をスタートする。これをするのとしないのとでは大違いです。1日の方向性を朝に意識するだけで、1日の濃さが変わるのです。前日にどんなことがあっても、朝は気持ちがリフレッシュすること、持ちこさないこと。過去を引きずらずに、1日の計画をポジティブに立てること。私たちは、朝 生まれ変わることができる。「悩みごとは、朝考えよう」「朝の脳力の可能性は驚くべきだ」現実をしのいで生き抜いてきた人たちのトップの言葉です。毎日継続したい何かがある人は、朝の時間がおすすめです。どんなことに巡り合っても貫き通す意思を創るのです。負けない意思、コントロール力を培うまで、頑張りぬく、後は自然と身体が勝手にしてしまうものなのです。朝は、誰にもジャマされない自由な時間。朝は1日の疲れや、1日のイヤなことの影響をうけにくい白紙の時間。朝は忙しさの影響を受けにくい静寂の時間。朝はインスピレーションがわきやすい神聖な時間。そして、朝はスタートの時間でもある。明日からでもいい気持ちいいスタートを始めよう。自分の財産になることお勧めです。
2010.02.26
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トヨタ車 世界一になったトヨタ、敵対心丸出しのアメリカで、欠陥車としてリコール問題に、攻撃の火の手は手加減はない。もっと対応を早くしていればことなきを得たかも、トップのおごりといわれている。厳しいアメリカで集中砲火はトヨタつぶしともとれる。誇り高き自社ブランド2社を抹殺してしまっているからには、相当覚悟がいる。針の穴ほどのことであっても人命重視には変わりはないが、「死に近い体験」女性が涙の証言によると、スミスさんは06年10月の午前、トヨタ自動車のレクサス(ES350)で自宅近くの高速道路に乗り、間もなく、アクセルを踏んでいないのに車が急加速しているのに気付いた。ブレーキをかけたりギアをバックに入れたが加速が止まらず、時速は145キロに。「ガードレールか木にぶつけて止めるしかない」と考えるうちに時速は160キロに達し、「私は死ぬ」と感じて、最後の電話のつもりで夫に連絡したという。スミスさんはこの時の状況を語るうちに言葉に詰まり、あふれる涙を何度もぬぐったとある。NHTSAにも相談し、調査員が乗車点検したが「恐らくフロアマットの問題」と結論付けたという。トヨタの対応は「欠陥車両」としてトヨタ側に全額返金を求めたが「適切に整備されていれば、ブレーキはアクセルに勝る」との回答しか得られなかった。またこの女性の証言に信憑性があるかどうかに疑問を感じる。誰も見た者もいないし、自身自己申告にすぎないのではないのか。車を見ればわかるだろうものを言わぬ証拠品だ。あまりにも5年もの歳月が経っているのにそれしか事故車に関する例が無いのか不思議に思った。あまりにも古すぎるものを克ぎ出しているから。。。。。。。事故性がもっと近いものがあるはず、何故5年前の物を出してくるなんて、昨日のように語るのがアメリカらしいと思った。表現が豊かすぎるがオーバーに付け加えた感もしないではない。損害賠償金がほしいのかとも推測される。公聴会が未明に始まる。強い発言を期待したいものだ。米公聴飢えたライオンの群れに一匹の子羊を・・ 公聴会は日本語で答弁 偽証防ぐ狙い会見では質問に慎重に回答するため、冒頭スピーチ以外は英語でやりとりするのを避けている。弁護士も交えて、答弁内容を詰めているとみられる。世界中が注目をしている。選挙を意識しての攻防は強いアメリカそのものせめぎ合いを感じる。消費者の目線はいろいろあるが安全というハードルに向かって依りよいトヨタ車に変身することは違いない。世界のすべての標的になって車社会の在り方が問われ、技術ものにより一層の拍車がかかることを期待したい。これを契機に伸びるトヨタ、社長頑張れ!
2010.02.25
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人のために生きるか自分のために生きるか 世の中の多くの人が今を生きるために一生懸命だと思う。誰かの保護を受けながら生きている人たちに限って何のために生きてるのだろうなどと色々なことを考えたりしているような気がします。人間も本来は生きるために食し生きるために働き人類を滅ぼさないために子を子孫を残している。目の前にあることを一生懸命やることそれが生きるということだと思う。意気込みもせず力も抜かずただ黙々と生きるそれを周りから見た人がどう呼ぶかだけ。どう生きるかではなく結果的にどう生きてきたと振り返るか、後悔はないのかその瞬間を生きることに力を注ぐ以外にない。生きようと思って思いどおりに行くほど人生は単純ではないと思う。世の中、結果さえよければ良しとする傾向があるために、いろいろな問題が起きている。金を儲けるために、他人がどうなろうとかまわないとばかり、法に触れることをしたり、また、人を襲ったり殺したりする。また定年退職した人の多くは、勤めに行く必要もなく、時間もあるし、退職金と年金で経済的な余裕もある。夫婦で海外旅行に行こうかとか、温泉旅行や国内旅行をしようかとか、いざ勤めをやめて一、二年は、経済的に裏づけされた自由時間を謳歌しているようだが、不思議なことにだんだんと精彩がなくなってくる。時間も金もあるはずなのだからもっと楽しそうであっていいはずだ。人は、どんなにいい環境にいても満足できないし、そこにじっとしていることも出来ないものだ。人間は、どうやら生産的に生きないと満足できないようである。人、社会、人類のために生産的に生きるか、自分のために生産的に生きるか、定年して時間もお金も十分使い果てた結果、ふと我に帰った時これではないと気付くのです。物足りなさが感じられ勤めていた時のように充実感が味わえないのです。一番いい生き方は元来人のために生きることが元気で生き生きであることに悟らされるのです。
2010.02.24
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お金は自分を助けてくれる 使えなければ沢山さんお金を持っていても幸せとは言えない。お金の奴隷になって仕舞う。お金のためにすべて犠牲を払いお金がすべてであると割り切った生活をすることは美徳としていた時期もあった。一昔はあっても使わず無いものとして当たり前に質素な暮らしは褒められるものであった。またお金をいざいうときに使うことが出来るか否かで人間としての器の大きさがものを言う、生きた使い方、人のために使うことが出来るかどうかである。起業家の中で3畳一間の生活から身を起こした人は一方ならぬ決意がある。お金を貯めるためすべて犠牲を払い、一心不乱に節約から成り上がった人もいる。それには確かな夢と希望という大きな目的があったからできたのである。人に迷惑を掛けず、自らのお金の哲学を持ち目的のために、生き残り作戦は人並みでない、その分無駄にしない知恵を学んでいる。そんな生き方はどんな時代になっても残れるものを身につけている。誠に現実に即応した堅実な暮らしぶりをしているのだ。減らさないように工夫をする、体を動かす、少しのことでも無駄をせず、質素倹約は生きていく上の基本であることは違いない。其処からしたいこと成りたいものに向かう、目的のため惜しまず使う。成功へのステップは貯めるときからもうできているのだ、心掛けたときから約束されたようなもので、辛抱、耐える、コントロールする心という基本が出来ている。利益ばかり優先する生き方は、瀬戸際に成ってもつかえないし、お金に雁字搦めに縛られてしまう、決して幸せとは言えない。そうなるとお金はただの紙くずと同じで、温かくもしてくれずお金を生かすことが出来ない。持っていても自分の杖とならず、お金に殺されてしまう。心配しながらの生き方であるため長くは生きられない、活かしきれずに悲しい結末となってしまうのです。自分の気持ちはあえて言うなら「時間を買う」ためにお金を使っている。とにかく忙しかったこともあり、効率を常に考え、いかに時間を節約できるか、そのためにお金を使う。時間だけは誰にも平等だし、取り戻すことができないものですから。忙しくしていれば、お金は自然に出て行きますが、気をつけていたのは「お金に使われない」こと。お金はよりよい人生を送るための手段でしかないわけで、自分が主人でいなければいけない。じゃないと、嫌な仕事もしなくちゃならない。活かすためにお金は自分の手足と頭に成りきって、魔法の杖と思っている。だからお金は好きで何色にでも染まるし、染まらせることが出来る。向かわせることも隔てることもできる。でも皆さんの貴重なお金を頂いてお店をさせていただいている、少しでも還元したく思い、常に喜んでもらいたいと心配りを忘れない生き方をする。お金に接して感謝するばかりである。
2010.02.23
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お金は魔法 お金は道具お金自体には、いろんな想いが込められている。人のねたみ、嫉み、願望、それに振り回されることなく生きていけるといい。お金の扱いが上手な人になりたい。どう生かして、どう利用するかが大切です。今日の貧乏・明日の金持ちお金で相手を判断することは愚かなことですね。自分の為に、人の為に生きたお金を 使いましよう。使いようによって生きるし、死に金のもなる。追いかけると逃げていくもの。仲間で集まるのが好きなもの。実在するようで実在しないもの。モノのようで人のよう。だから人の気持ちが伝わる。それがお金かもしれない。気持ちがお金に伝わっているだろうか使い方です。その人の人間性が表れてしまうでしょう。使い方によっては、とても素晴らしい物です。お墓まで持っていけない、というように、ここぞ、という時に、心ある使い方がしたいです。その時のための、「心の備え」です。他の人を幸せにした分だけお金が入ってくる。報酬を遠慮なく受け取るために、手を出す積極性も必要みたいです。お金は人がもたらしてくれると考えるのは商人的です。自分でサービスを提供してお客様を作ることは心もともに付いていかないとお金は逃げてしまう。お金は自分が失敗して自分が成長した分だけ与えられる天からのご褒美からもしれません。天のご褒美をもらうレベルに達した人は、次にそのご褒美をどう使うか学ぶことになるのでしょうか。うまく使うとさらにご褒美が増えて、使い方がうまくないとご褒美が減ったり無くなったりする。お金は稚魚と同じで放流しなくては大きく育たない。必ず大きくなって戻ってくる。
2010.02.22
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即身成仏(そくしんじょうぶつ) 生きながらにして仏になること。この無理を通すために、即身成仏を志願する修行者は想像を絶する苦行に耐えなければならない。なお、即身成仏と即身仏はよく同一視されるが別物である。誰もが即身成仏できるわけではない。日本には10数体の即身仏があるらしいが、彼らは皆、民衆に慕われる徳の高い僧ばかりであった。そんな素晴らしい人においそれと簡単に死なれては困るのである。いつまでも生き続けて衆生を救ってもらわねばならない。そういう民衆からの身勝手な期待と無言の圧力とによって、頼まれると嫌とは言えない人の良い僧は、渋々即身仏になったのである。即身仏が信仰の対象となっているのにはこのような事情があり、また即身仏が比較的東北地方に集中して分布しているのは、かつてそれらの地域が不作だ飢饉だと言ってはすぐぱたぱたと人が死ぬような、貧しい寒村ばかりだったからである。現代では自殺になってしまうので、苦行云々以前に社会制度として即身成になることは不可能である。修行者はいいかもしれないが、自殺幇の罪に問われる周りの人にしてみれば単純に迷惑でもある。苦行 、即身仏とは、身も蓋もなく一言で言ってしまえばミイラなのだが、人間の体というのは非常に腐りやすい。そこで、腐食してしまわないような体を作らなければならないのだが、即身成仏の修行の過程においてそれは、完璧にフォローされている。その素晴らしい古代の知恵を紹介しましょう。 まず、細菌の活動を抑制するために極限まで体の水分を搾り出す。これにはサウナが効果的である。次いで、人体の中で真っ先に腐敗してしまう内臓を摘出するため、開腹手術を行う。小腸、胃、肝臓などといった順に手で引っ張り出すのである。やはり腐りやすい器官である脳は鼻から鉤状の器具を挿入して掻き出される。脳は柔らかいので、鼻から出すのが大変な場合はま目玉をくり抜いて穴を開ける。こうして心臓以外の内臓を摘出した後、70昼夜にわたって天然炭酸ナトリュウムに浸し、火気を用いて乾燥させ、布で巻けば完成である。 即身仏は生きているので、これらの苦行荒行をこなす間、修行者は死んではならない。強靭な体力と精神力、そして衆生を救いたいという使命感、自己犠牲の心がなければ実現はできない。修行者を手伝う僧も、彼が死んでしまわないよう細心の注意を払って世話をする。 信仰高野山奥の院御廟では、現在でも毎日二回、空海にご膳が供えられている。空海はまだ生きていると信じられているからではなく、本当に生きているからである。そうでなければ、金剛峰寺の僧侶たちは揃いも揃って馬鹿ということになってしまう。日本で初めて即身成仏した空海がいまだ健在ということは、他の即身仏たちも生きていて、迷える衆生をお導きくださっているのだと言える。骨と皮だけで眼窩も暗く落ち窪んだミイラが動いたり話したりしても、受け手が感じるのは恐怖以外の何物でもないが。
2010.02.21
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血液循環論に異論 今まで医学は心臓のポンプ力で血液が循環すると古い時から信じられている。それに真っ向から異論を唱えている方がいる。血液は循環させている原動力はどこにあるか、血液は何の力で回っているのか。今まで何も深く考えたことが無かったが、言われると確かに、小さな握りこぶし大の大きさしかないのに途轍もない大きな仕事をこなす。心臓のポンプだけの力で全身に送り続ける、42キロ余りのフルマラソンをこなすなんて考えられない無理だろう、行きついたところでもうこの世とおさらばのような気がする。心臓にとってマラソンをすることは過酷でフルに血液を送り出すなど、奇跡的な事柄は心臓が持つはずがない。生きている間働いてくれるのだ、一時の休みなく、しかも24時間、まさに重労働をしていることになる。使い方が間違っては長く生きれない。よく働き過激な運動にも耐えるし、人によっては何倍の力の負荷を掛け続けても何ともないのが不思議。訓練でより機能が優れるんだろうか?そんなに働いたら心臓の寿命は尽きてしまうだろうに?それに対して、興味ある答えにめぐり合う。各細胞が飢えた状態になれば、血液を食べて生きている細胞にとって、ハングリーになると血液の循環は細胞が飢えるから血液が流れる、ということ。細胞が血液を引っ張るから血液が流れるという説。すべて納得できる。細胞が血液を引っ張っているから血液が回る。本当に循還を良くするのに飢えたらいと述べられている。だから断食は大切なことなんだ。心臓から出た血液が5~10ミクロンの細い毛細血管の中を水の3~4倍ものネバネバしているのにわずか11秒で流れる。それだけの圧力を計算したのが物理学者のジォバンニ・アルフォンス・ボレリです。計算したら約80トンの圧力がかかる。そんな圧力が握りこぶしより小さい左心室にある、到底考えられないですね。心臓に循環する為のポンプ力80トンもの力があるはずがない。血液が循環するということは細胞がひっぱているのですね。納得できます。
2010.02.20
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噛む運動健康にさまざまなプラス効果を生む。噛むほどにわく唾液には、病気を抑え、若々しさを保つ物質が含まれている。アゴのリズム運動は、ボケを抑える。咀嚼能力の衰えはアルツハイマー病などとの関連も無視できないと指摘する意見もある。"噛みごたえのある"素材の持ち味を生かした食品を、健康な歯と歯茎で噛みしめて味わう旨味・感触はもっと大切にである。"歯ごたえ"のあるものが生命の滋養となるのは、読書にあっても同じである。"読みごたえのある"書物を繙き、咀嚼していく努力があって、読書の喜びも一段と深まる。そして先人の思い・体験を身につけ、未来への貴重な糧としていくことができる。人生万般にも共通してくる。人はどうしても気の合う仲間うちだけで固まりがちであるが思い切って交流の輪を広げてみる、敬遠しがちな先輩・知人などにぶつかることで、思いがけない人生の道が開けることもある。困難の嵐に試されるほどに輝きを増し、味わいを深めていくものである。「豚の人生人間の人生」で、著者は無感動・無批判・無節操といわれる今の若者に問いかける。豚は何も考えず、餌を食べては寝て、また餌をもらう。その行動パターンを見て「自分はちがう」と言い切れるだろうか、と。仕事において「責任ある地位」より「気楽な地位」を望む人は結構多く、ほしいものは「カネ」で、大半が「自分は幸せなほうだ」と思っているという。心ある人が「この国は病んでいる」と嘆くのもうなずける。他を顧みず、自らのことのみを考える「気楽な幸せ」など幻想に過ぎない。そんな志の低さ、活力の衰えが、行き詰まりの因ともいえるのではないか。志望は高く、困難に挑み、生命を磨き鍛えゆく日々の戦いが自分形成のもとである。その謙虚さの中に真の幸福があり、継続し培われた精神にすべての方向性があり、物事を咀嚼する(噛む)意味において確実な一歩ともなっていく。
2010.02.19
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ガンにかかるも気持ち次第 まず心を治さなければならない。タバコ、食肉、牛乳、化学汚染、食品添加物、大気汚染、電磁波、携帯電話、ガン市場となしている。ガン製造装置と言えるのです。それらから生活から切り離すようにすることに尽きる。タバコ会社の重役たちはほとんどがノウ・スモーカー。無知な低開発国の若者にCMで洗脳して吸わせている。利益のためうそぶいているのにあでんとする。確かに禁煙はガン予防に成り、ガンを確実に減らすことが出来る。タバコが人を殺すように、その殺しっぷりは足元に及ばないのが食肉である。人は草食動物であり、腸の長さは体長の12倍あり、トラや猫などの肉食動物よりは3倍の腸の長さにあるのです。つまり人間は3倍も長いのは穀物、野菜、果物など菜食を消化するため、肉食をすると腸の中で肉が腐敗して毒素をだし、大腸がんなど様々な病気を引き起こす。菜食にすると心臓発作ゼロなどと知る必要がある。牛乳は危険が一杯、粉ミルクで育った子は母乳より発がん率が高い。牛乳を飲むとがんになると自然食を進める森下敬一博士(ベガサス出版)が警告。又カルシウム豊富で骨が強くなるも真っ赤なウソ。飲めば飲むほど骨からカルシウムは脱落してもろくなる。骨粗しょう症も牛乳が原因とは皮肉なもの。ノルウエー人の骨折率は日本人の5倍であるとか。食品添加物、食品に毒を入れているに等しい。日本の行政、厚生省は業者保護のため存在し国民は眼中にない、ガンを作り続けているようなものです。発がん物質を少量とる細胞は変に痛めつけられたまま生き続け、ガン細胞となるのである。大量ならばすぐに死んでしまう。安心という量はない、蓄積して作用するからだとサイレント・スプリング(沈黙の春)で言われている。すべての器官が痛めつけられ、傷ついた細胞がゆっくり変質し二度と元へやがて戻らず腫瘍にむしばまれていく。石油化学資本に支配された、つけが住宅である。ホルムアルデヒド、有機溶剤、防腐剤、難燃剤、室内に使われているもの100を超える、有機化学物質がつかわれている。最も化学汚染が激しいのだ、毒ばかりの館であるといってもいいかも。数えたらきりがないのが現状である。知ると怖く生きていく知恵がもっと欲しいと思っているのである。知らないのは怖くって命がいくらあっても足らない気がするし、医療費の膨大な膨らみもうなずけるのです。すべて体にいいことに興味を持つ、実践してみる。
2010.02.18
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あまり気にしないことのほうが良いことがある ガンの早期発見のため人間ドックに定期的に受けている人が多い。少なからずガンが発見されるケースがある。ガンの場合は早期発見は患者数を増やすだけでメリットが無いと安保徹先生の最近の著書で述べられている。早期発見のためがん検診を行ったグループは行わないグループよりもガン患者が増加してしまうという傾向がある。現在行われているガン治療は抗ガン剤治療でも放射線治療でも免疫力を低下させて早期発見に加えて早期治療も患者にとってはマイナスになってしまうと言われています。老衰で亡くなった解剖例ではあちこちにがん組織が存在していることが知られている。老化現象自体でガンが発症し無症状で経過しているからそうです。同様に健康な人でも多少無理が続いた時は、小さいがん細胞の集団が出来たり、反対に休むことで免疫が回復し消えたりすると考えられている。たとえば小児がんの一つである、神経芽腫も自然に消えることが多いガンとして知られている。一時早期発見診断を導入していたことがあったそうですが、今は止めているということです。早期発見でガン患者が増加したため、自然退縮するものも見つけて治療をしたら患者が増えてしまうということが書いてある。だから早期発見は患者を増やすだけでメリットはないといわれている。日常生活の中にあるストレス、働きすぎや心の悩みなど、生き方の問題であるとしたら、それを避ける日常生活の見直しにあると思う。ガンは自分自身の中に心の持ち方にあるのです。それを理解さえすればガンが見つかっても怯えず、自然退縮するように生きることにある。ガンがあることを知らずに日ごろから体に良いことをやって病気を治すほうがメリットが大きい。あまり気にしないほうがよく楽天的に過ごし笑いを多く取るように生きることに尽きるのです。
2010.02.17
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人生は一歩下がって歩いて観るこの世知辛い世の中、取りこぼしのない生き方をしないと置きだりにされ、人から取り残される。しつけをせず、早く人に遅れない生き方ばかりを促して、負けたら駄目だと厚かましく生きることが美徳とされたしつけが幼少期より親にたたきつけられた。自分の意思を持って生きていないゆえ、そのつけが今、それが孤族と化して、引きこもりや登校拒否やニートに成っているのです。豊かさ、繁栄のつけが、育った環境の違いがある親にしてみればハングリーな世代を生き抜いた自分のようなみじめな生き方はさせたくないと、過保護にさせたに他ならない。豊かさがすべてのものの値打ちを打ち消して、それが当たり前、備わっていることが当然と思うことに何の不信感もない。自分の努力で勝ちとることを教えず、方向性は示すことに難色があり、何をしたらいいのか、先導してくれる人にもめぐり合えない。いつも指図を受けていた生き方を変えないことに何もできそうにない。そうなると自然と落ちこぼれとなって、救いようが無い。すべて親の責任だといってよい。父親の背中は見ることもない。父親の帰りはいつも午前様。付き合いが大事だと毎日飲み歩いて子育ては母親一人まかせ。稼いだお金を使わしている、おれも会社で一生懸命働き家族を養っていると自負した生き方がまかり通りそれがすべてを狂わしているのです。養っている風を吹かせているようでは、家庭というものは成り立たない。子供は親の犠牲者である。豊かでなくてもいい、お互いの気持ちが理解でき、心おきなく語り合え、信頼でき、許しあえる、家庭を築かねば意味が無い。お金はそのあとで付いてくる。出世よりも家庭の在り方、働く意味をしっかりと教え生きがいとなる働き方を身をもって教えるのです。育てるという意味で上手くいく。お金も大事かもしれないが、その時時の心の豊かさは、同じ空間を味わい、苦しさも知り、お金の足りないことを肌で覚えて、それを助けようとする心が芽生えるからです。ほっとけない、助けるんだと、自らの意思が立ち上がるのだ。そんな育て方をして初めて、親らしいと思う、親は子供に育てられること知ってほしいのです。あまり構いすぎる事をしない。何故そうしなければならないか?ことを掘り下げて教えて、やらすことに尽きる。見よう見まねでも、失敗の中から学ぶものがきっとある。成長を促す教育を親がすることが一番大切だと切に思う。
2010.02.16
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幸せな一生を送るには 老化とは、誰もがやがては迎えなければならない不愉快極まりないもの、場合によっては、苦痛そのものと思われています。大半の人が、年をとると苦しく惨めな生き方をしています。健康でイキイキとした幸せそうなお年寄りにお目にかかることは、めったにありません。年をとると、苦しく生きるのが人の宿命かのように思われています。大部分の人が病気なら病気が当たり前、大部分の人が老化で苦しんでいれば老化とは苦しいのが当たり前、とみるのが大方の人です。そもそも、その見方が間違いだということに気づかない人が多いようです。老化現象は、誰にも避けられない生理現象ではなく、明らかな病気です。全身的に、きわめてゆっくり進行する慢性退行性機能疾患です。一生を送るには、自然界の法則に則った生活をし、心を調和させていかなければなりません。人は、無限の可能性を持っています。身体も心も、自在に変えることができます。年齢は、問われません。90歳でも100歳でも、幸せな一生を送ることが出来る。すべて姿かたち遺伝因子も育った環境も違うし、同じなどもっての外。でも生きる上で幸せは、自分に取っれ何を選択したらいいのか、人を不幸にしての幸せは成り立たない。常に一歩引いて人にいい生き方を選択したものが勝利者となるのです。良心のかけらもないから、必ず不幸なことに出くわす。取ったんだから取り換えされるんです。自分だけのエゴに生きることは調和をかき乱している、辛抱が出来なく、独りよがりな生き方を選択してしまう。一生の分はすべて決まっている、食べるにしても働くにしても遊ぶにしても背中におたした分の限界が必ず来る。欲をかいて生きてしまえばそれだけ一生の分から差し引きをし、損をしたことになるのです。幸せな一生は縦糸と横糸がきれいに織る込まれてキッチリ組まれている状態ならば隙無く卒なく何も漏れず、省エネで長く人生を全うできる。すべて身体の心拍数の回数で命の日が決まるからです。果敢さを必要ですが、落ち着いた心がついて初めて基に成る。心拍数が高まり、不安が押し寄せ、足元が救われたり、一気に何倍のエネルギーが失われてしまうのです。禅の修業や仏の道は積み上げられと心の修練がいかなる事態にあっても心は乱さず、どんなに騒がしい状態であっても一糸として淀んだ心は作らず、鏡のように澄んでいる。邪気が無いのである。いくら積まれた金や物は悪くなった自分の身体とは交換もできない。沖縄の石垣島に古くから伝わる湯のみ茶碗に仕掛けがあって、ちょうどよいの飲量がある。それを超えたお茶を注げばすべてこぼれてしまうようになっている。飲みたい量だけで良いものを欲張って注ぐから、なくなってしまう羽目になるというたとえ。人生に欲はほどほどにしないと元も子も何もかもなくなってしまうのです。幸せの分をわきまえた者だけが健康な100歳に到達できるのです。
2010.02.15
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体は宇宙の縮図だ 地球の表面積は70%海水30%陸地です。すべての哺乳類も平均水分も70%、体をベストのコンディションにしておくために水分を70%含んだ食事をするのが道理に適っている。大切な酵素を含み、最高の蒸留水に匹敵し、水分70%以上含んだ食物は野菜と果物しかありません。果物は80~90%が水分です。野菜と果物をたくさん食べる、健康でスリムになりエネルギーが満ち溢れ、日に果物は1キロぐらい食べます。バナナ、リンゴ、干し柿、みかんとお腹いっぱいに食べるのです。朝、昼、一日エネルギーは果物に頼っています。血糖値が110~100までの間にあってお腹がすきません。ご飯やパンなどインスリンというホルモンによって血糖値が低くなるから、お腹がすくのです。補給は果物が一番手取りばやい。いつも宇宙食のようなものはないかと、心の隅に念じ、仕事しながら体にいいものは何かと?自分に問いかけていいた結果究極自分に合ったものが見つかったのです。炭水化物はインスリンというホルモンが必要で、たくさん出すぎる(食べすぎるから)と、お腹がすくし、またインスリンというホルモンは太るホルモンであること。また細胞の核の中にあるコピーをする転写システムのフオクソーがうまく作動しない。病気を引き起こすもとになる。インシュリンというホルモンは沢山でないほうが身体にいいのです。仕事しながらお喋りをしながら、水分いっぱいのにじみ出る噛砕く味覚はまた格別で最高の幸福感を満喫できる。果物だけの食事でダイエットに成功をするのです。夕食は生野菜をバケツいっぱいほど用意します。タンパク質は動物性の魚や植物性の豆類、に頼っています。生野菜と一緒にミネラルを多く含んだ海藻も入れます。ヘルシーでとても体に優しく内臓にも負担が無く、排泄を促してくれ腸の中は善玉コレステロールが一杯です。腸の働きは何も意識せずにいる人が多いかと思われましがとても大切でお腹にも脳同様のセンサーがあるのです。腸内細菌叢は、全てあわせると 約1kg(=肝臓にほぼ等しい)の重さがあり、その人間との関わりの深さや働きから、※第三の臓器とも言われています。第一の臓器(皮膚・血管・角膜・神経)、第二の臓器(五臓六腑)に続くほど、重要な役割をもつことから、こう言われています。 人間の糞便の3分の1は、「腸内細菌」の生きたものか、死んだものの重さだといわれています。糞便1gあたりには、数にして、10億個~1,000億個もの「腸内細菌」が存在し、その種類は、乳酸菌をはじめとして100種類以上といわれています。私達、つまり「宿主」が「健康」であれば、腸内細菌も「正常」であり、「宿主」の環境が「急変」すると、腸内細菌も「異常」をきたし、そのことのよって悪い菌が腸内で増えれば「宿主」は「病気」になってしまうのです。 ◎栄養バランスの悪い食生活、ストレス、 ◎病気、 ◎老化、 ◎病原菌の侵入、 ◎抗生物質の服用 などの因子が加わると、急速に有害菌(悪玉菌)の勢力が増します。そして有害菌が増殖してくると、悪玉菌群が日和見菌群の支援を受けて、下痢や便秘、腸炎を引き起したり、長期的には老化が進行したり、ガンや生活習慣病の発生にも繋がっていきます。いかに腸を良い状態にするか健康と密接につながっているのです。
2010.02.14
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