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さて、日本は世界で最初に戦略爆撃と言うものを小規模ながら敢行した国である。蔣介石の国民党政府が揚子江を遡行して重慶に逃げ込んだのを追って日本海軍が双発爆撃機で爆撃したのである。空から降る爆弾など見たことも経験したこともない中国人はたちまちパニックになり、地下壕に避難した市民は圧死や窒息死を遂げた。これが毎夏続いたが、爆撃機の規模が20機前後と小規模だったため、市民の敵愾心をあおる結果になった。これは先に書いたドイツ空軍の偽装爆弾散布と同じ結果であった。この時の日本軍指揮官は数人変わるが、戦後「最後の海軍大将」として有名になった井上成美の言動を紹介したい。彼は参謀に過ぎなかったが、爆撃隊の指揮官に対して「目標を定め、一般人に危害のないように努めよ」と指示したとの話がある。伝聞なので確かではないが、おそらく後日井上の評価が高まるにつれて出来上がった伝説なのかもしれない。しかし目標は前と同じ揚子江の中州で、住宅が密集した区域であったから、日本側には一般人に被害が及ばないようになどと言う考えはなかったのかもしれない。井上の指示と言うのは怪しいものではある。参謀が直接現地の指揮官に指示するのはあり得ないからである。
まったく逆の話だが、米軍捕虜を死刑にした罪で絞首刑になった岡田資と言う陸軍軍人がいた。彼は当時軍管区の司令官で、捕虜を斬首する前に陸軍の法務将校に何度も確認をして執行したと言う(このあたりは大岡昇平の作品を読んでください)。東京裁判の際に、岡田はB29の搭乗員をして無差別爆撃を行った爆撃機の搭乗員を処刑したのは当然という論法を主張して連合国側の矛盾を暴露したが、しょせん勝者の裁判など何の価値もないのだからここでは論じない。検事から、斬首された捕虜の家族に対して謝罪する気はないか?と問われても岡田は「そのようなことを考えていたらきりがない」と言い放ち、はなはだ検事側の心証を悪くしたという一本気の軍人であった。おそらくこの問答は、日米の軍人たちの考えを象徴しているのかもしれない。
家族の心情をおもんばかる米軍の検事とそんなことは恐らく考えの枠外だったろう日本の軍人との差である。米軍検事は製薬会社の経営者だが、有事になって志願して将校となり、司令官の副官となった人、司令官は陸軍大学を出たカチカチの軍人だったが、彼はいわば民間出身で社会的常識を持っていた。軍人は社会的常識など持っていても役に立たないというのは世界の常識だが、米国ではこのような軍人の欠陥を補佐する役目の人事も行われていた。家族とはなにか?軍人だろうがサラリーマンだろうが坊主だろうが、個人的には最高の、また最後の心のよりどころだというのが古今東西共通しているが、それは軍人の血生臭い任務とは相反している。アメリカ側は常にそれを基準としてモノを考えることができた。これは両国の軍人の教育課程を見れば明らかである。日本の軍人はドイツの模倣に始まったせいもあって、プロシャ式軍人を生育した。家族はあくまで滅私奉公の支えであり、家族よりも天皇を優先した。軍人の養育は早くから始まり、幼年学校は15歳で入学でき、18歳で陸軍士官学校に入学すればエリートコースを歩んで将校となる。さらに上をめざせば陸軍大学校があり、ここを卒業すると超エリートとなって国を左右する将軍をめざせた。他の道はないのである。社会的な常識は嫁さんに任せて自分は任務に没頭するというのが日本式の軍人だった。これに対してアメリカの軍人は多彩である。前述したドゥリトル(最初の東京爆撃指揮官)は曲芸の飛行士で、メキシコとの定期便などもアルバイトし、密輸にもかかわった。空母から陸上爆撃機を発進させるという素人同然のアイデアに飛びついた彼の度量は、東京爆撃にぴったりだった。1930年代名声を博したピアニストのエディ・デューチンは元薬剤師で、戦中は志願して駆逐艦隊の副長として勤務し、少佐まで昇進した。どんな経歴かはわからないが、日本ではこんな人間は生まれ得なかった。
米軍航空隊の最高指揮官アーノルドは純粋な軍人教育しか受けていないが、そのアイデアと積極性は慎重さを欠き。しばしば部下を当惑させた。若いスタッフが叱責されて目の前で卒中で死亡したこともあるほどだった。陸軍長官から何度も注意されたが全く効果はなかった。言い放ったのは「私の任務は敵国の上空で多くの爆弾を落とすことで、あなたの叱責を受けることではない」これも与太話に近いが、彼の性格を表している。これまた日本ではありえないタイプである。米国軍隊の特徴は、師団長や艦隊司令官クラスの副長または参謀には娑婆では医師だったとか会社の経営者だったとかいう経歴の人間をつけて部下との間を取り持たせたことにある。常に米軍の組織には新しい新鮮な空気が流れており、高官が部下に対してハラスメントなど行うと新聞記者が早速記事にした。シシリー島を制圧したパットンが砲弾病になった兵士を叩いたと新聞にかかれ、ブラッドレー(パットンの上司)が平謝りしたこともあった。このようなニュースは日本やドイツには考えられないことだった。ハルゼー提督が艦内のアイスクリーム製造機の前で並んでいると、水兵の集団が割り込んだ時がある。ハルゼーの星の数に気づいた水兵がすぐに最後尾に回り、事なきを得た。ドイツや日本の軍人は若くして従兵がつき、洗濯や靴磨きなどの身の回りの世話をするように仕向けられていた。今でも付き人と言う習慣が残るのはその名残である。
ここで気づくのは、アメリカは軍隊も民主主義的な思考プロセスを重ねるということだろう。これが民主主義と言うのであれば、まさに民主主義は敵にも気を配り、戦争とは一方的な力の行使だけではないということに気づくはずだ。日本が降伏するのに必要な戦力を見積もったアメリカは、まだまだ日本人が改悛していないとのことで原爆を使用したというのは自然な成り行きである。無条件降伏をした日本とドイツに対して、大統領は軍の糧秣庫を開かせ、飢えた国民に供与を与えた。これが戦後、アメリカが同盟国を増やした原因でもある。
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