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東京都
は、
1944
年(
昭和
19
年)
11
月
24
日以降、
106
回の空襲を受けたが、特に
1945
年(昭和
20
年)
3
月
10
日、
4
月
13
日、
4
月
15
日、
5
月
24
日未明、
5
月
25
日
-26
日の
5
回は大規模だった。その中でも
「東京大空襲」と言った場合、死者数が
10
万人以上の
1945
年(昭和
20
年)
3
月
10
日の夜間空襲
(下町空襲)を指す。
3
月
10
日の空襲だけで、罹災者は
100
万人を超えた。当時の新聞報道では
「東京大焼殺」と呼称されていた。
(wikipediaより)
昭和20年初頭:「東部軍管区情報 敵B29の編隊は護衛の艦載機多数を伴い御前崎東方海上
空襲時、市中ではサイレンを鳴らして警報を
知らせた
。
初期は6秒吹鳴3秒休止を10回、後に
、
4秒吹鳴8秒休止を10回。空襲が激化すると
4秒吹鳴8秒休止を5回となった
。
空襲警報解除はサイレン吹鳴を連続1分間。後に3分間。
(
資料引用 )
空襲が始まるのは大抵夜になってからだった。その前に『警戒警報』が発令された。母
は弟二人を
乳母車に乗せ、私は母の袖を掴み、4キロの夜道を『田舎』に避難し、一泊する。翌朝、学校に間に
合うように、祖父が自転車で送ってくれた。家には父と父の末妹が『消火要員』として残っていた。
「防空壕を掘れって、棟梁(母の長兄)に頼まれた」と、3人の男の人がやって来た。
父の希望で
、裏木戸に近い一角に、布団が2枚敷けるほどの広さで、大人が座っても頭が着かない
深さに穴が掘り下げられた。杭と板で土留めをし、天井になるところは
、
丸太や角材などを渡し、
厚い板を敷いて掘り出した土が被せられた。天井の端を切り取って、蝶番をつけ、人一人が
出入りできる入り口が作られた。
夕方になって、伯父が様子を見に来た。「警戒警報から、間がなく
空襲になって、おらっちまで来られねえときは、これにへえれや (入れ
)
や。一時しのぎにはなるべえ
」
何度か母と弟たちと防空壕に入った。いつもと違う雰囲気に、ワクワクするような気もした。
浦和は爆撃の目的地ではないと、父は言う。時々、布団から起き上がっては、“怖いもの見たさ”で、
入り口を開けて、姉弟かわるがわる夜空を飛ぶB29を見上げた
。
赤羽の高射砲陣地からの探照灯が、
交錯して交わり、ひときわ明るい菱形を作る。銀
色の光の中に捉えられたB29は、銀色に輝いて
神秘的に見えた。
2才のヒトも、その名を覚え、回らぬ舌で「ビーニージーク(B29)」と言った。
高射砲の発射音が聞こえるが、敵機の高さには届かなかった。
やがて、東京の空が赤く見え出すと、
風のない夜でも、上昇気流が発生して風を呼び、被害が拡大されていくのだった。
3
月10日の東京大空襲の記憶で3年生は終わっています。
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