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2015年07月24日
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テーマ: 臨戦刀術(92)
カテゴリ: 臨戦刀術


 車上にいた一人の軍曹がいった。
「……戦闘部隊に後接して進撃するのが閣下のおとくいだ。
○隊長と間違えられたという話も聞いた。
○○隊長より前へ出ていた事も珍しくないという。
それでいて、鉄砲玉一つうけないのは、まったく天佑だね。
だが、心配な事が一つあるよ。もしやしてね。」
 あとは笑いにまぎらわした。
それは、群敵に包囲される事の危険を言ったものであるのだが、
そうした杞憂が次の瞬間に湧いて来た。
 私等が、将軍の列に別れたのは、ちょうど昼食後で、
一路次の部落へと進んだのであったが、その部落名は、掃街という相当な要地で、
ここに敵兵が若干陣地を構築しており、
附近には、小屋のごとくに偽造迷装したトーチカも多数あるというので、
警戒を加えて前進した。
結局は一戦も交える事なく、午後の三時頃、
頑丈な土壁をめぐらしたこの小さな町へと入り込み、
そこに設営する事となったのだが、不思議と、ここの住民は逃避もせず、
日本軍に対してすこぶる好意を示し、野菜や鶏卵などを持って来て歓待してくれた。
 まだ日も高いので、低い丘陵の断続しているような恰好の街路を歩いてみると、
ある辻の小廟〔しょうびょう〕の壁に貼りこめた敵の宣伝ポスターに交じって、
白紙に墨汁の達筆で「生擒土肥原(※土肥原を生け擒〔と〕りにす)」と書いてある。
ハッと眺め直すと、その文字が新しく生々しく、
今の今しがた書いたもののようにさえ思えるのだ。
 車上で聞いた軍曹の杞憂と思い合わせて、一抹不安の気に襲われながら、
小さい坂を下って行くと、そこに友軍の兵隊が四、五人かたまって、
また別の宣伝ポスターを眺め入っているのだ。
それは薄赤い色のザラ紙に「活捉土肥原」と書いてある。
「本当だろうか。」
「まさか、バカなッ」
と一人の兵隊が怒ってびりびりとそれを引き裂いてしまった。
 この部落には、つい数時間前まで、敵の三十四師の司令部がいたというから、
あるいはひょっこりはいったところを急襲され、閣下は武運拙〔つたな〕く、
敵の生け擒りのするところとなり……などと、暗い気持ちで考えたりしたが、
ほどなく閣下の御一行が、威風堂々として来られるのに出あったので、
私達は、ほっと安心した事であった。


 その夜私達の兵器部は、むさ苦しい農家の一室の土間にアンペラを敷いて寝た。
部附きの大越中佐(今は大佐)も石井少佐もいっしょだった。
今日の見聞について話をすると、大越中佐は釣りこまれたようにこんな事を語った。
 それはまだ京漢線を戦いながら盛んに南下していた頃の事であった。
すべての橋梁を破壊して我を待った。
夜に入ってからそこへ進んだ第一戦部隊は、
川をへだてて敵と相対峙し、激戦数刻に及んだが、
小癪にも敵は地の利と兵力とをたのんで頑強に抵抗し、一歩も退かない、
ちょうど、その戦いつつある部隊の背後、何らの遮蔽物もない、
ただ墓の土饅頭の点々としている支那墓地へと、兵団の本部が来てしまった。
敵の迫撃砲弾がボンボン炸裂し、銃丸がビュンビュンと飛んで来る中で、
閣下はとある土饅頭のかげに座して戦況の進展を待った。
 この時、敵はさらに兵力を加え、火器を増加してきたので、
このままでは前線は苦戦どころか全滅の状態に陥るやも知れぬというので、
陣容をたて直すために、一時後退をしなければならぬと、
閣下のところへ、一人の全身泥にまみれた隊長がやって来て、実情を述べ意見を具申した。
 自分等は、頭つくだし叱りつけられるものと思っていると、
閣下はしずかに聴き終わってから、
「我々の先輩は、日清戦争でも日露戦争でも、
みなこうした危機を立派に戦いぬいて来ているのだ。
そうした嚴乎たる歴史がある。その歴史を無視するわけにはゆかぬ。
部隊長に伝えろ、いいか、最後の五分間を忘れずに戦えとな。いいか。」
 と、さとすようにいった。
意見の具申にやって来た隊長は、納得して帰って行った。
それから一しきり、さらに激戦が続き、
ついに勇躍一番、我が軍は川を渡って突進し、さしもの敵を破って進んだが、
閣下のこうした豪胆なうちにも落ちつきのある温容な態度、
常に戦列に近づいて激励する事実に度々接して、自分等は、
実戦上まことに得がたい尊いものを提示された。云々。と。
 いい話であった。場所が場所、時が時、この話は感話中の感話として身にこたえた。
開封へ入城してから、私は偶然の機会から、
松田という親友の従弟宮田軍曹に邂逅した。
遠山部隊の迫撃部隊にいた軍曹は、常に一線をかけ、
開封攻撃中も、北門の最前列にいて、
歩兵の突撃にまじり迫撃砲を引っかつぎながら城壁を越えて突入したのだったが、
何かの話の序に大越中佐から聞いた話をすると、軍曹は膝を打って、
「閣下のそれは実際驚くの外〔ほか〕なしでしたよ。」
 と前提して話したことは、
やっぱりその頃、敵を急追してある川を夜半に渡った。
暗さは暗し寒くはあり、それに工兵の急造した小橋は一つなのだから、
一個部隊渡りきるには相当時間もかかる。
ままよとばかり、あたりから枯木を拾い集めてきて焚火をしていると、
暗闇から大声で、
「そこに居るのは支那の兵隊か」
と叫ぶものがある。
みんな鉢巻をし、ぬれた上衣をかわかしているところだった。
声の主は、どこかの隊長だろうと思っていると、
それがはからずも閣下だったのだ。
「何だ、迫撃砲は先へ進め。橋が渡れなかったら飛び込んで行け。何というざまだ。」
と叱咤され、一同あわてて焚火を踏み消し、直ちに進発したのだったが、
ああした中で、よもや閣下のお声を聴こうとは、夢にも思っていませんでした。
と、その感話にさらに拍車をかけた。
 ここの戦で、私は「戦争の姿」というものを、はっきりと見た。
 孫子の兵法に従えば、天の時、地の利、人の和が勝ち戦の三大原則なのだが、
あの蘭封大包囲陣の我が軍は、ただあるものは人の和だけであった。
土肥原閣下の持論たる「一体主義」のそれだけが強く存在していた。
敵は地の利を得、しかも大兵を擁していながら、
一番大切な人の和をもたなかったと見られる。
統一もなく、一体となって働くその精神的中心をもたなかった。
すべての条件は彼らによく、加えるに装備兵力の完璧を以てして、
不覚にも最後の五分間をささえ得なかったのだ。
もう一息というところを本腰になって戦われたら、
我が軍といえども逆睹〔ぎゃくと/げきと〕を許さぬものがあったと思う。
 人の和というものは、時に臨んで、
実に名状の出来ない恐ろしい大きな気力を生ずる。
この気力が最後の使命を制するものであるという実情を見た。
 実際、日本歴史の伝統というものは、非常の時に臨み、
「和して一体となる」という事になる。
これが大和魂というものの一つの側面となって働いたもので、
「死を怕〔おそ〕れぬ。」という気魄は、
こうしたものの一分子である事を如実に知り得た。





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Last updated  2015年08月22日 09時31分00秒


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