31 S.T.beat(寺山修司短歌)



31 S.T.beat




寺山修司は、歌人の中でも僕にとって特別な存在である。
「昭和の石川啄木」と呼ばれた彼の歌は、青春性に満ちていて、どれも深く共感できるものばかりだ。
彼の詩的世界ほど、やさしく僕を包んでくれるものは他にない。
というわけで、寺山修司の歌だけを別枠で特集してみた。

ちなみにS.Tとは、僕自身のイニシャルでもある。



Last Update:3.25 15:26


ただいま 14 首掲載中






草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ


片想い・・・そのせつない物語のBGMとして、草笛というのはもっとも適したメロディーかもしれません。
この歌から僕が思いうかべた情景は、片思いの相手の少女が川沿いの土手に座って草笛を吹いていて、
それを自転車で通りがかった少年が、自転車を止めてその草笛を聞いている、というもの。
純愛、のイメージですね。
「告白以前の愛とは何ぞ」と自問自答することで、
片想いの、どうしようもなく不安定な気持ちがよくあらわれています。
あと、草笛を吹くのも、告白するのも、ともに口から発することですから、
草笛を吹くように、愛を告白したい、という意味も含まれているのかもしれません。

また、全然違う解釈もできます。
告白する前はあんなに好きだったのに、今はその気持ちもすっかり冷めてしまった、という解釈。
草笛の音が、今度は追憶のBGMとして生きてきます。
でも、前者の解釈のほうが、きれいでいいですね。






きみが歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えむとする


寺山修司が女優の九條映子と結婚してすぐの歌。
新婚ほやほやの、愛の溢れた感じが伝わってきます。
なんといっても、歌を家具に数えるところがすごく面白いですね。
家具っていうと、生活する上でなくてはならない、
そして、生活する上で当然存在する、というイメージですよね。
歌っていう形のないものを家具として数えていることで、
「いつの日もクロッカスの歌を僕に歌っていてね」という気持ちを表しています。
んー、こういう結婚生活は、なんか憧れちゃうな。
そういう甘い時間がいつまで続くかが問題だけど(笑)





舐めて癒すボクサーの傷わかき傷羨みゆけば深夜の市電


老人(あるいは中年)の、若者に対する強い憧れの歌です。
若いボクサーは、いつも傷だらけ。
でもその傷は、ちょっと舐めればすぐ治るようなもの。
それに比べて私は、痛みを避けて生きている。
たまに傷つけられると、舐めただけじゃ全然治らなくて、病院で治療してもらわなくちゃいけない。
もちろんここでの傷ってのは、体の傷、心の傷、その両方を指すのですね(心の傷のほうがニュアンス強いかな)。
深夜の市電、という語は、人生が終わりかけていることの比喩でしょう。
また、あまり人が乗ってないという意味から、孤独な人生を譬えているのかもしれません。

光陰矢の如し。若者のみんな、今のうちに青春を満喫しましょう!
(と、またおっさんみたいなこと言ってしまった・笑)







夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む


夏のある日、清冽な川に木皿を沈めて洗っていた少女・・・限りなく清純のイメージです。
↓の「いつも通る~」の歌でも言いましたが、
「棲む」は、「住む」より、すみかとしている、のニュアンスが若干強いです。
ここではつまり、今は自分の心のなかにはピュアな部分がたしかにある、という意味ですね。
木皿を洗う、という表現が、汚れた心が洗練されてゆくさまを上手く表しています。
心の自浄作用を表すのでしょうか。

考えてみると、人間の心の中って、いろんな性格が入り混じってますよね(多重人格者じゃなくても)。
あなたの心の中にはどんな人が棲んでいますか?





生命線ひそかにかへむためにわが抽出しにある 一本の釘


寺山修司は19歳の時に重病にかかり、余命はわずかだと医者に告げられました。
この歌は、割と後になって詠まれた歌ですが、たぶんそのときのことを歌った歌だと思います。
抽出し(ひきだし)ってのは形而上の引き出し(心の奥底の比喩)でしょうか。
一本の釘を使って生命線を変える・・・変えるとは、長くするのか、
それとも途中で横切らせて途絶えさせるのか(それは自殺を意味します)、という二つの可能性があります。
つまり、「もっと生きたい」か、「いっそ死にたい」か。

死の淵にたった青年が、心に隠し持っている一本の長い釘・・・
「一本の釘」の前に置かれた空白が、深刻な気配を出しています。




マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや


おそらく寺山修司の歌で最も有名な歌。
彼の名声を固めた歌でもあります。
ここで歌われているのは、敗戦の無情さ。
マッチ擦る、というのは戦争勃発の比喩です。
戦争がはじまったが、すぐに雲行きは怪しくなり、
何が正しいのか何が間違っているのかもわからないようになり、そして、敗戦。。
その影では、お国のため、といって自らの命を惜しげもなく捧げ死んでいったたくさんの兵士たちがいました。
しかし、たとえどんな状況でも、一番大切なのは人の命である、と寺山は言います。

敗戦後、神と敬われていた天皇は人間宣言を出し、自分が人間であることを認めました(これはGHQの政策ですが)。
それを知ったとき、死んでいった兵士たちはどんなに辛かったことでしょう!
この歌で寺山は、そんな兵士たちに代わって戦争の無情さを訴えたのです。






地球儀の陽のあたらざる裏がはにわれ在り一人青ざめながら


善悪、美醜、優劣・・・色々な二分論がありますが、
ここでは、とにかく自分を悪い側の人間だと位置づけています。
光と影でいえば、影の人間だと。
地球、でなくて地球儀としたところが上手いですね。
地球儀にいる自分(を見ている自分)、とすることで、自分をあくまで客観視しています。
また、地球儀っていうとどうしても回すイメージがありますね。
青ざめた自分をのせながらくるくると回る地球儀(回すのもまた自分)・・・
ぐらぐらとした、不安定な心のイメージが浮かび上がります。




われ在りとおもふはさむき橋桁に濁流の音うちあたるたび


あなたは、今、生きている実感がありますか?
まぁ、、なんとなく、、、という方が多いんじゃないでしょうか。
生きている実感なんて、普段考えないですからね。
では、生きている実感を感じるのはどういうときでしょう?
誰かを思いっきり愛しているとき・・・
スポーツで全力燃焼したとき・・・
大きな目標を達成したとき・・・
人それぞれだと思います。
この歌では、自分の実在を実感するのは、橋桁(はしげた)に濁流が打ち当たる音を聞くときだと言っています。
たしかに、濁流や大波が何か硬いものにぶつかる様子は(『東映』じゃないですが・笑)
心にずしずしっときますよね。

また、橋桁や濁流が形而上の比喩だと考えれば、
「さむき橋桁」は自分の頼りない心、「濁流」は困難を指すのかもしれません。
つまり、ピンチに立ったときこそ、生きていることを実感する、と。
これもすんなり意味が通りますね。






陽なたにて揺るるさなぎを見てをればさみしからずや歴史の叙述


寺山修司にこんな言葉があります。

去りゆく一切は歴史にすぎない。が、やがて起こるべき出来事は、歴史などではありえない。

この歌はまさにこの言葉を詩的に表したものです。
歴史主義への批判ですね。
「陽なたにて揺るるさなぎ」は、人類の歴史とは関係ないところで起こるごくありふれた日常の風景、
という意味と同時に、やがてくる未来を示唆しています。
さなぎが蝶になった時、どんな姿になるのかはわからない、と。
話は急に俗っぽくなりますが(笑)、競馬やってるとこの歌の意味が痛いほどわかります。
いかに過去の同距離、同条件のレースのデータを分析しようと、当たらないときは当たらないのです。
神ってやつは、いじわるなのです(笑)






一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき


今の私は、何も持っていない。
あるのは、一粒の向日葵の種のような希望だけ。
しかし、いつの日か必ず大輪を咲かせて見せる・・・!
そう、私の人生はここから始まる、、この荒野から!
という感じですね。

しかし、失うものが何もない人間というのは、底知れぬパワーを持っています。
背水の陣ってやつですね。
自分が今大切に持っているものの価値を見直し、時には勇気をもってそれを投げ捨てることも、
たいせつかもしれませんね。






うしろ手に春の嵐のドアとざし青年は已(すで)にけだものくさき



子供と大人の違いとは何でしょう?
ある程度の年齢を重ねているか否か、経済的・精神的に自立しているか否か、自分に嘘をうまくつけるか否か・・・など、区別は人によってさまざまですよね。
ここでは大人になることをマイナスイメージとして捉えています。
「けだものくさき」という表現がすごく面白い表現ですね。
一般的な考えでは、子供は明確な自我を持っていないことから、子供のほうが非人間的、つまり動物本来の姿に近いというイメージがありますが、ここでは、大人のほうが動物的である、といっています。
つまり、無邪気な子供と違って、大人は動物的な醜さやずるさを持っている、といっているのですね。
これには反論する人は少ないと思います。

また、「春の嵐」、というのは、桜舞い散る花吹雪のような辛い時期という意味に加え、人生のはじめの1/4、つまり20歳くらいまでの怒涛の時期、という意味を表しているのでしょう。










高度4メートルの空にぶらさがり背広着しゆゑ星ともなれず



安定か、挑戦か。
そのどちらを選ぶかは特に男にとっては永遠のテーマでしょう。
ここではサラリーマンの悲哀とでもいったものが描かれています。
「星」とは「理想の姿」とでも解釈しましょうか。
つまり完全に思い通りの状態のことを指しているのでしょう。
自己実現、ってやつですか。
高度4メートルの空、という表現がすごく利いてます。
先の見えた人生、という意味と同時に、「4」という死を連想させる数字。
まぁここまで悲観するのもどうかと思いますが、いずれにしろ、
あわよくば「地上の星」を目指したいものです。

ちなみに、静かにしてっていうときに使う「シーーッ」も「死」からきているといわれています。
日本語文化って面白いですね。






わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む



父性への憧れを歌った歌。
「棲む」はほとんど「住む」と同義ですが、同棲という熟語でもわかるように、
すみかとしている、のニュアンスが若干強いです。
果樹園というのは、楽園というか、辛いことのない社会の比喩。
しかし、その果樹園を守る小屋の中は暗い。
この対比が上手いですね。
世の中には辛いこと、汚いことがあるのは、心ではわかっているが、敢えて目をそらしている。
しかし、その現実と正面から向き合う大人の男もいる。
そういう強い男への憧れは、少年なら誰しも持っているでしょう。








ダリアの蟻灰皿にたどりつくまでをうつくしき嘘まとめつついき



ここに歌われているのは人生そのものです。
「人は死んで灰になる」といいますが、灰皿は死を意味しています。
ダリアは美しい花。人間はそれに群がる蟻。やがてその蟻は死へと少しずつ向かっていく。
灰皿までの道のりは、「うつくしき嘘」をまとめる過程。
つまり寺山は、人生というのはうつくしき嘘(=自己弁護?)の積み重ねである、と言いたかったのでしょう。

文豪太宰治は、
「けっきょくね、生きているのだからね、何かインチキをやっているに違いないのさ」と、
その作中で語りました。
そんな太宰の影響を大きく受けた寺山修司の人生観が垣間見える一首です。

佐佐木幸綱にも、
「君は信じるぎんぎんぎらぎら人間の原点はかがやくという嘘を」
って歌があります。
これもこれで表現はストレートですが、そのぶん押し迫る迫力のある歌です。


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