Maxim-um2(侏儒の言葉)


侏儒の言葉




(はじめに)
ここは皆さんの需要を無視した自己満足ページですw

「侏儒の言葉」は芥川龍之介の書いた箴言集です。
大多数の人にとって、かなり難しいと思いますが、秘められた含蓄たるや相当のものです。
挑戦する価値はあると思います。

(注1)
原文とは順番が異なります。
原文は こちら
こっちはルビもふってあり、ちっとはわかりやすいかも。

(注2)
文庫でいうと、僕の知っている限りでは、岩波・新潮・角川から出ています。
それぞれc/wが異なります(岩波は「或旧友へ贈る手記」など、新潮は「西方の人」など、
角川は「文芸的な、あまりに文芸的な」など)。
また、遺稿が多く載ってるのが岩波、注釈の多いのが新潮、読みやすい(と思う)のが角川です。




A.kuwagata!



Last Update:10.14 19:30





 運命

 遺伝、境遇、偶然、――我我の運命を司るものは畢竟この三者である。自ら喜ぶものは喜んでも善い。しかし他を云々するのは僣越である。


 芸術

 最も困難な芸術は自由に人生を送ることである。尤も「自由に」と云う意味は必ずしも厚顔にと云う意味ではない。


 恋愛

 恋愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。


 虚偽

 わたしは不幸にも知っている。時には嘘に依る外は語られぬ真実もあることを。


 幼児

 我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である。

 又

 我我の恬然と我我の愚を公にすることを恥じないのは幼い子供に対する時か、――或は、犬猫に対する時だけである。


 罪

「その罪を憎んでその人を憎まず」とは必しも行うに難いことではない。大抵の子は大抵の親にちゃんとこの格言を実行している。


 女人

 健全なる理性は命令している。――「爾、女人を近づくる勿れ。」
 しかし健全なる本能は全然反対に命令している。――「爾、女人を避くる勿れ。」

 又

 女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。


 結婚

 結婚は性慾を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。


 多忙

 我我を恋愛から救うものは理性よりも寧ろ多忙である。恋愛も亦完全に行われる為には何よりも時間を持たなければならぬ。ウエルテル、ロミオ、トリスタン――古来の恋人を考えて見ても、彼等は皆閑人ばかりである。


 人生

 革命に革命を重ねたとしても、我我人間の生活は「選ばれたる少数」を除きさえすれば、いつも暗澹としている筈である。しかも「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。


 可能

 我々はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう。


 悲劇

 悲劇とはみずから羞ずる所業を敢てしなければならぬことである。この故に万人に共通する悲劇は排泄作用を行うことである。


 言葉

 あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具えている。例えば「敏感な」と云う言葉の一面は畢竟「臆病な」と云うことに過ぎない。


 弁護

 他人を弁護するよりも自己を弁護するのは困難である。疑うものは弁護士を見よ。


 自然

 我我の自然を愛する所以は、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のように妬んだり欺いたりしないからである。


 処世術

 最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。


 理性

 理性のわたしに教えたものは畢竟理性の無力だった。


 運命

 運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」と云う言葉は決して等閑に生まれたものではない。


 敵意

 敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快であり、且又健康を保つ上には何びとにも絶対に必要である。


 ユウトピア

 完全なるユウトピアの生れない所以は大体下の通りである。――人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものも忽ち不完全に感ぜられてしまう。


 危険思想

 危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。


 悪

 芸術的気質を持った青年の「人間の悪」を発見するのは誰よりも遅いのを常としている。


 奴隷

 奴隷廃止と云うことは唯奴隷たる自意識を廃止すると云うことである。我我の社会は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和国さえ、奴隷の存在を予想しているのは必ずしも偶然ではないのである。

 又

 暴君を暴君と呼ぶことは危険だったのに違いない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。


 女の顔

 女は情熱に駆られると、不思議にも少女らしい顔をするものである。尤もその情熱なるものはパラソルに対する情熱でも差支えない。


 徴候

 恋愛の徴候の一つは彼女は過去に何人の男を愛したか、或はどう言う男を愛したかを考え、その架空の何人かに漠然とした嫉妬を感ずることである。

 又

 又恋愛の徴候の一つは彼女に似た顔を発見することに極度に鋭敏になることである。


 恋愛と死と

 恋愛の死を想わせるのは進化論的根拠を持っているのかも知れない。蜘蛛や蜂は交尾を終ると、忽ち雄は雌の為に刺し殺されてしまうのである。わたしは伊太利の旅役者の歌劇「カルメン」を演ずるのを見た時、どうもカルメンの一挙一動に蜂を感じてならなかった。


 社交

 あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。もし寸毫の虚偽をも加えず、我我の友人知己に対する我我の本心を吐露するとすれば、古えの管鮑の交りと雖も破綻を生ぜずにはいなかったであろう。管鮑の交りは少時問わず、我我は皆多少にもせよ、我我の親密なる友人知己を憎悪し或は軽蔑している。が、憎悪も利害の前には鋭鋒を収めるのに相違ない。且又軽蔑は多々益々恬然と虚偽を吐かせるものである。この故に我我の友人知己と最も親密に交る為めには、互に利害と軽蔑とを最も完全に具えなければならぬ。これは勿論何びとにも甚だ困難なる条件である。さもなければ我我はとうの昔に礼譲に富んだ紳士になり、世界も亦とうの昔に黄金時代の平和を現出したであろう。


 神

 あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。

 又

 我我は神を罵殺する無数の理由を発見している。が、不幸にも日本人は罵殺するのに価いするほど、全能の神を信じていない。


 身代り

 我我は彼女を愛する為に往々彼女の外の女人を彼女の身代りにするものである。こう言う羽目に陥るのは必しも彼女の我我を却けた場合に限る訣ではない。我我は時には怯懦の為に、時には又美的要求の為にこの残酷な慰安の相手に一人の女人を使い兼ねぬのである。


 男子

 男子は由来恋愛よりも仕事を尊重するものである。


 処女崇拝

 我我は処女を妻とする為にどの位妻の選択に滑稽なる失敗を重ねて来たか、もうそろそろ処女崇拝には背中を向けても好い時分である。

 又

 処女崇拝は処女たる事実を知った後に始まるものである。即ち卒直なる感情よりも零細なる知識を重んずるものである。この故に処女崇拝者は恋愛上の衒学者と云わなければならぬ。あらゆる処女崇拝者の何か厳然と構えているのも或は偶然ではないかも知れない。

 又

 勿論処女らしさ崇拝は処女崇拝以外のものである。この二つを同義語とするものは恐らく女人の俳優的才能を余りに軽々に見ているものであろう。


 天国の民

 天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持っていない筈である。


 罰

 罰せられぬことほど苦しい罰はない。それも決して罰せられぬと神々でも保証すれば別問題である。


 罪

 道徳的並びに法律的範囲に於ける冒険的行為、――罪は畢竟こう云うことである。従って又どう云う罪も伝奇的色彩を帯びないことはない。


 或理想主義者

 彼は彼自身の現実主義者であることに少しも疑惑を抱いたことはなかった。しかしこう云う彼自身は畢竟理想化した彼自身だった。


 賭博

 偶然即ち神と闘うものは常に神秘的威厳に満ちている。賭博者も亦この例に洩れない。

 又

 古来賭博に熱中した厭世主義者のないことは如何に賭博の人生に酷似しているかを示すものである。

 又

 法律の賭博を禁ずるのは賭博に依る富の分配法そのものを非とする為ではない。実は唯その経済的ディレッタンティズムを非とする為である。


 諸君

 諸君は青年の芸術の為に堕落することを恐れている。しかしまず安心し給え。諸君ほどは容易に堕落しない。

 又

 諸君は芸術の国民を毒することを恐れている。しかしまず安心し給え。少くとも諸君を毒することは絶対に芸術には不可能である。二千年来芸術の魅力を理解せぬ諸君を毒することは。


 強弱

 強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一撃に敵を打ち倒すことには何の痛痒も感じない代りに、知らず識らず友人を傷つけることには児女に似た恐怖を感ずるものである。
 弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る処に架空の敵ばかり発見するものである。


 S・Mの智慧

 これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。
 弁証法の功績。――所詮何ものも莫迦げていると云う結論に到達せしめたこと。
 少女。――どこまで行っても清冽な浅瀬。
 早教育。――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にいるうちに智慧の悲しみを知ることには責任を持つことにも当らないからね。
 追憶。――地平線の遠い風景画。ちゃんと仕上げもかかっている。
 女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出来ているものらしい。
 年少時代。――年少時代の憂欝は全宇宙に対する驕慢である。
 艱難汝を玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。
 我等如何に生くべき乎。――未知の世界を少し残して置くこと。


 民衆

 民衆は穏健なる保守主義者である。制度、思想、芸術、宗教、――何ものも民衆に愛される為には、前時代の古色を帯びなければならぬ。所謂民衆芸術家の民衆の為に愛されないのは必ずしも彼等の罪ばかりではない。

 又

 民衆の愚を発見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我我自身も亦民衆であることを発見するのは兎も角も誇るに足ることである。

 又

 古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。丁度まだこの上にも愚にすることの出来るように。――或は又どうかすれば賢にでもすることの出来るように。


 創作

 芸術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は芸術家の意識を超越した神秘の世界に存している。一半? 或は大半と云っても好い。
 我我は妙に問うに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はおのずから作品に露るることを免れない。一刀一拝した古人の用意はこの無意識の境に対する畏怖を語ってはいないであろうか?
 創作は常に冒険である。所詮は人力を尽した後、天命に委かせるより仕方はない。


 鑑賞

 芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具えている。しかし種々の鑑賞を可能にすると云う意味はアナトオル・フランスの云うように、何処か曖昧に出来ている為、どう云う解釈を加えるのもたやすいと云う意味ではあるまい。寧ろ廬山の峯々のように、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具えているのであろう。


 古典

 古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。

 又

 我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでいることである。


 幻滅した芸術家

 或一群の芸術家は幻滅の世界に住している。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のように無何有の砂漠を家としている。その点は成程気の毒かも知れない。しかし美しい蜃気楼は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵芸術には幻滅していない。


 告白

 完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。


 人生 ――石黒定一君に――

 もし游泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もし又ランニングを学ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、こう云う莫迦げた命令を負わされているのも同じことである。
 我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。すると我我も創痍を負わずに人生の競技場を出られる筈はない。
 成程世人は云うかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飲んでおり、その又ランナアは一人残らず競技場の土にまみれている。見給え、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに渋面を隠しているではないか?
 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。

 又

 人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。

 又

 人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかし兎に角一部を成している。


 暴力

 人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にある筈はない。この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
 しかし亦権力も畢竟はパテントを得た暴力である。我我人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない。


 「人間らしさ」

 わたしは不幸にも「人間らしさ」に礼拝する勇気は持っていない。いや、屡「人間らしさ」に軽蔑を感ずることは事実である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事実である。愛を?――或は愛よりも憐憫かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬようになったとすれば、人生は到底住するに堪えない精神病院に変りそうである。


 椎の葉

 完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権である。如何なる楽天主義者にもせよ、笑顔に終始することの出来るものではない。いや、もし真に楽天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯如何に幸福に絶望するかと云うことのみである。
「家にあれば笥にもる飯を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは行旅の情をうたったばかりではない。我我は常に「ありたい」ものの代りに「あり得る」ものと妥協するのである。学者はこの椎の葉にさまざまの美名を与えるであろう。が、無遠慮に手に取って見れば、椎の葉はいつも椎の葉である。


 政治的天才

 古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。寧ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云うのである。少くとも民衆の意志であるかのように信ぜしめるものを云うのである。この故に政治的天才は俳優的天才を伴うらしい。

 又

 民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも抛たないものである。唯民衆を支配する為には大義の仮面を用いなければならぬ。しかし一度用いたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。


 地獄

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであろう。況や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまう筈である。


 醜聞

 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」
 グルモンの答は中っている。が、必ずしもそればかりではない。
 醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦を弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。

 又

 天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。


 輿論

 輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。

 又

 輿論の存在に価する理由は唯輿論を蹂躙する興味を与えることばかりである。


 礼法

 或女学生はわたしの友人にこう云う事を尋ねたそうである。
「一体接吻をする時には目をつぶっているものなのでしょうか? それともあいているものなのでしょうか?」
 あらゆる女学校の教課の中に恋愛に関する礼法のないのはわたしもこの女学生と共に甚だ遺憾に思っている。


 制限

 天才もそれぞれ乗り越え難い或制限に拘束されている。その制限を発見することは多少の寂しさを与えぬこともない。が、それはいつの間にか却って親しみを与えるものである。丁度竹は竹であり、蔦は蔦である事を知ったように。


 火星

 火星の住民の有無を問うことは我我の五感に感ずることの出来る住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしも我我の五感に感ずることの出来る条件を具えるとは限っていない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保っているとすれば、彼等の一群は今夜も亦篠懸を黄ばませる秋風と共に銀座へ来ているかも知れないのである。


 庸才

 庸才の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。


 機智

 機智とは三段論法を欠いた思想であり、彼等の所謂「思想」とは思想を欠いた三段論法である。

 又

 機智に対する嫌悪の念は人類の疲労に根ざしている。


 政治家

 政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事実の知識だけである。畢竟某党の某首領はどう言う帽子をかぶっているかと言うのと大差のない知識ばかりである。

 又

 所謂「床屋政治家」とはこう言う知識のない政治家である。若し夫れ識見を論ずれば必ずしも政治家に劣るものではない。且又利害を超越した情熱に富んでいることは常に政治家よりも高尚である。


 事実

 しかし紛紛たる事実の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言うことではない。クリストは私生児かどうかと言うことである。


 親子

 親は子供を養育するのに適しているかどうかは疑問である。成種牛馬は親の為に養育されるのに違いない。しかし自然の名のもとにこの旧習の弁護するのは確かに親の我儘である。若し自然の名のもとに如何なる旧習も弁護出来るならば、まず我我は未開人種の掠奪結婚を弁護しなければならぬ。

 又

 子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与える影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。

 又

 人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。

 又

 古来如何に大勢の親はこう言う言葉を繰り返したであろう。――「わたしは畢竟失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」


 大作

 大作を傑作と混同するものは確かに鑑賞上の物質主義である。大作は手間賃の問題にすぎない。わたしはミケル・アンジェロの「最後の審判」の壁画よりも遥かに六十何歳かのレムブラントの自画像を愛している。


 わたしの愛する作品

 わたしの愛する作品は、――文芸上の作品は畢竟作家の人間を感ずることの出来る作品である。人間を――頭脳と心臓と官能とを一人前に具えた人間を。


 経験

 経験ばかりにたよるのは消化力を考えずに食物ばかりにたよるものである。同時に又経験を徒らにしない能力ばかりにたよるのもやはり食物を考えずに消化力ばかりにたよるものである。


 アキレス

 希臘の英雄アキレスは踵だけ不死身ではなかったそうである。――即ちアキレスを知る為にはアキレスの踵を知らなければならぬ。


 芸術家の幸福

 最も幸福な芸術家は晩年に名声を得る芸術家である。国木田独歩もそれを思えば、必しも不幸な芸術家ではない。


 好人物

 女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。

 又

 好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのに好い。第二に不平を訴えるのに好い。第三に――いてもいないでも好い。


 桃李

「桃李言わざれども、下自ら蹊を成す」とは確かに知者の言である。尤も「桃李言わざれども」ではない。実は「桃李言わざれば」である。


芸術

 画力は三百年、書力は五百年、文章の力は千古無窮とは王世貞の言う所である。しかし敦煌の発掘品等に徴すれば、書画は五百年を閲した後にも依然として力を保っているらしい。のみならず文章も千古無窮に力を保つかどうかは疑問である。観念も時の支配の外に超然としていることの出来るものではない。我我の祖先は「神」と言う言葉に衣冠束帯の人物を髣髴していた。しかし我我は同じ言葉に髯の長い西洋人を髣髴している。これはひとり神に限らず、何ごとにも起り得るものと思わなければならぬ。

 又

 芸術も女と同じことである。最も美しく見える為には一時代の精神的雰囲気或は流行に包まれなければならぬ。

 又

 のみならず芸術は空間的にもやはり軛を負わされている。一国民の芸術を愛する為には一国民の生活を知らなければならぬ。


 天才

 天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。

 又

 天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚いている。

 又

 民衆も天才を認めることに吝かであるとは信じ難い。しかしその認めかたは常に頗る滑稽である。

 又

 天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心の好い名声」を与えられることである。

 又

 耶蘇「我笛吹けども、汝等踊らず。」
 彼等「我等踊れども、汝足らわず。」


 嘘

 我我は如何なる場合にも、我我の利益を擁護せぬものに「清き一票」を投ずる筈はない。この「我我の利益」の代りに「天下の利益」を置き換えるのは全共和制度の嘘である。この嘘だけはソヴィエットの治下にも消滅せぬものと思わなければならぬ。

 又

 一体になった二つの観念を採り、その接触点を吟味すれば、諸君は如何に多数の嘘に養われているかを発見するであろう。あらゆる成語はこの故に常に一つの問題である。

 又

 我我の社会に合理的外観を与えるものは実はその不合理の――その余りに甚しい不合理の為ではないであろうか?


 懐疑主義

 懐疑主義も一つの信念の上に、――疑うことは疑わぬと言う信念の上に立つものである。成程それは矛盾かも知れない。しかし懐疑主義は同時に又少しも信念の上に立たぬ哲学のあることをも疑うものである。


 正直

 若し正直になるとすれば、我我は忽ち何びとも正直になられぬことを見出すであろう。この故に我我は正直になることに不安を感ぜずにはいられぬのである。


 忍従

 忍従はロマンティックな卑屈である。


 企図

 成すことは必しも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少くとも成すに足ることを欲するのは。

 又

 彼等の大小を知らんとするものは彼等の成したことに依り、彼等の成さんとしたことを見なければならぬ。


 兵卒

 理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に批判を加えぬことである。即ち理想的兵卒はまず理性を失わなければならぬ。

 又

 理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。即ち理想的兵卒はまず無責任を好まなければならぬ。


 自由

 誰も自由を求めぬものはない。が、それは外見だけである。実は誰も肚の底では少しも自由を求めていない。その証拠には人命を奪うことに少しも躊躇しない無頼漢さえ、金甌無欠の国家の為に某某を殺したと言っているではないか?しかし自由とは我我の行為に何の拘束もないことであり、即ち神だの道徳だの或は又社会的習慣だのと連帯責任を負うことを潔しとしないものである。

 又

 自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。

 又

 まことに自由を眺めることは直ちに神々の顔を見ることである。

 又

 自由主義、自由恋愛、自由貿易、――どの「自由」も生憎杯の中に多量の水を混じている。しかも大抵はたまり水を。


 言行一致

 言行一致の美名を得る為にはまず自己弁護に長じなければならぬ。


 方便

 一人を欺かぬ聖賢はあっても、天下を欺かぬ聖賢はない。仏家の所謂善巧方便とは畢竟精神上のマキアヴェリズムである。


 芸術至上主義者

 古来熱烈なる芸術至上主義者は大抵芸術上の去勢者である。丁度熱烈なる国家主義者は大抵亡国の民であるように――我我は誰でも我我自身の持っているものを欲しがるものではない。


 小説

 本当らしい小説とは単に事件の発展に偶然性の少ないばかりではない。恐らくは人生に於けるよりも偶然性の少ない小説である。


 文章

 文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。

 又

 彼等は皆樗牛のように「文は人なり」と称している。が、いずれも内心では「人は文なり」と思っているらしい。


 世間智

 消火は放火ほど容易ではない。こう言う世間智の代表的所有者は確かに「ベル・アミ」の主人公であろう。彼は恋人をつくる時にもちゃんともう絶縁することを考えている。

 又

 単に世間に処するだけならば、情熱の不足などは患わずとも好い。それよりも寧ろ危険なのは明らかに冷淡さの不足である。


 恒産

 恒産のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものは寧ろ恒心のないものらしい。


 作家

 文を作るのに欠くべからざるものは何よりも創作的情熱である。その又創作的情熱を燃え立たせるのに欠くべからざるものは何よりも或程度の健康である。瑞典式体操、菜食主義、複方ジアスタアゼ等を軽んずるのは文を作らんとするものの志ではない。

 又

 文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持っていなければならぬ。

 又

 文を作らんとするものの彼自身を恥ずるのは罪悪である。彼自身を恥ずる心の上には如何なる独創の芽も生えたことはない。

 又

 百足 ちっとは足でも歩いて見ろ。
 蝶  ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ。

 又

 気韻は作家の後頭部である。作家自身には見えるものではない。若し又無理に見ようとすれば、頸の骨を折るのに了るだけであろう。

 又

 批評家 君は勤め人の生活しか書けないね?
 作家  誰か何でも書けた人がいたかね?

 又

 あらゆる古来の天才は、我我凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけている。尤も踏み台はなかった訣ではない。

 又

 しかしああ言う踏み台だけはどこの古道具屋にも転がっている。

 又

 あらゆる作家は一面には指物師の面目を具えている。が、それは恥辱ではない。あらゆる指物師も一面には作家の面目を具えている。

 又

 のみならず又あらゆる作家は一面には店を開いている。何、わたしは作品は売らない? それは君、買い手のない時にはね。或は売らずとも好い時にはね。

 又

 俳優や歌手の幸福は彼等の作品ののこらぬことである。――と思うこともない訣ではない。


 教授

 若し医家の用語を借りれば、苟くも文芸を講ずるには臨床的でなければならぬ筈である。しかも彼等は未だ嘗て人生の脈搏に触れたことはない。殊に彼等の或るものは英仏の文芸には通じても彼等を生んだ祖国の文芸には通じていないと称している。


 知徳合一

 我我は我我自身さえ知らない。況や我我の知ったことを行に移すのは困難である。


 自由思想家

 自由思想家の弱点は自由思想家であることである。彼は到底狂信者のように獰猛に戦うことは出来ない。


 宿命

 宿命は後悔の子かも知れない。――或は後悔は宿命の子かも知れない。


 小説家

 最も善い小説家は「世故に通じた詩人」である。


 或物質主義者の信条

「わたしは神を信じていない。しかし神経を信じている。」


 阿呆

 阿呆はいつも彼以外の人人を悉く阿呆と考えている。


 処世的才能

 何と言っても「憎悪する」ことは処世的才能の一つである。


 懺悔

 古人は神の前に懺悔した。今人は社会の前に懺悔している。すると阿呆や悪党を除けば、何びとも何かに懺悔せずには娑婆苦に堪えることは出来ないのかも知れない。

 又

 しかしどちらの懺悔にしても、どの位信用出来るかと云うことはおのずから又別問題である。


 恐怖

 我我に武器を執らしめるものはいつも敵に対する恐怖である。しかも屡実在しない架空の敵に対する恐怖である。


 我我

 我我は皆我我自身を恥じ、同時に又彼等を恐れている。が、誰も卒直にこう云う事実を語るものはない。


 或老練家

 彼はさすがに老練家だった。醜聞を起さぬ時でなければ、恋愛さえ滅多にしたことはない。


 自殺

 万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

 又

 自殺に対するモンテェエヌの弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしないのではない。自殺することの出来ないのである。

 又

 死にたければいつでも死ねるからね。
 ではためしにやって見給え。


 革命

 革命の上に革命を加えよ。然らば我等は今日よりも合理的に娑婆苦を嘗むることを得べし。


 死

 マインレンデルは頗る正確に死の魅力を記述している。実際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るのである。


 「いろは」短歌

 我我の生活に欠くべからざる思想は或は「いろは」短歌に尽きているかも知れない。


 嘲けるもの

 他を嘲るものは同時に又他に嘲られることを恐れるものである。


 或日本人の言葉

 我にスウィツルを与えよ。然らずんば言論の自由を与えよ。


 人間的な、余りに人間的な

 人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。


 希臘人

 復讐の神をジュピタアの上に置いた希臘人よ。君たちは何も彼も知り悉していた。

 又

 しかしこれは同時に又如何に我我人間の進歩の遅いかと云うことを示すものである。


 聖書

 一人の知慧は民族の知慧に若かない。唯もう少し簡潔であれば、……


 或左傾主義者

 彼は最左翼の更に左翼に位していた。従って最左翼をも軽蔑していた。


 無意識

 我我の性格上の特色は、――少くとも最も著しい特色は我我の意識を超越している。


 矜誇

 我我の最も誇りたいのは我我の持っていないものだけである。実例。――Tは独逸語に堪能だった。が、彼の机上にあるのはいつも英語の本ばかりだった。


 偶像

 何びとも偶像を破壊することに異存を持っているものはない。同時に又彼自身を偶像にすることに異存を持っているものもない。

 又

 しかし又泰然と偶像になり了せることは何びとにも出来ることではない。勿論天運を除外例としても。


 自己嫌悪

 最も著しい自己嫌悪の徴候はあらゆるものに嘘を見つけることである。いや、必ずしもそればかりではない。その又嘘を見つけることに少しも満足を感じないことである。


 外見

 由来最大の臆病者ほど最大の勇者に見えるものはない。


 人間的な

 我我人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すと云うことである。


 わたし

 わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。

   又

 わたしを感傷的にするものは唯(ただ)無邪気な子供だけである。


 鼻

 クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、世界の歴史はその為に一変していたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云うものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞は一たび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行われるのである。
(中略)
 こう云う我我の自己欺瞞はひとり恋愛に限ったことではない。我々は多少の相違さえ除けば、大抵我我の欲するままに、いろいろ実相を塗り変えている。たとえば歯科医の看板にしても、それが我我の眼にはいるのは看板の存在そのものよりも、看板のあることを欲する心、――牽いては我々の歯痛ではないか? 勿論我我の歯痛などは世界の歴史には没交渉であろう。しかしこう云う自己欺瞞は民心を知りたがる政治家にも、敵状を知りたがる軍人にも、或は又財況を知りたがる実業家にも同じようにきっと起るのである。わたしはこれを修正すべき理智の存在を否みはしない。同時に又百般の人事を統べる「偶然」の存在も認めるものである。が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い。「偶然」は云わば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歴史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。


 修身

 道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
    *
 道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である。
    *
 妄に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。
    *
 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。
    *
 強者は道徳を蹂躙するであろう。弱者は又道徳に愛撫されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
    *
 道徳は常に古着である。
    *
 良心は我我の口髭のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
    *
 一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。
    *
 我我の悲劇は年少の為、或は訓練の足りない為、まだ良心を捉え得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。
 我我の喜劇は年少の為、或は訓練の足りない為、破廉恥漢の非難を受けた後に、やっと良心を捉えることである。
    *
 良心とは厳粛なる趣味である。
    *
 良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ甞て、良心の良の字も造ったことはない。
    *
 良心もあらゆる趣味のように、病的なる愛好者を持っている。そう云う愛好者は十中八九、聡明なる貴族か富豪かである。


 好悪

 わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
ではなぜ我我は極寒の天にも、将に溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依ったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈である。いや、この二つの快不快は全然相容れぬものではない。寧ろ鹹水と淡水とのように、一つに融け合っているものである。
(中略)
 我我の行為を決するものは昔の希臘人の云った通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を汲み取らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿れ。』耶蘇さえ既にそう云ったではないか。賢人とは畢竟荊蕀の路にも、薔薇の花を咲かせるもののことである。


 神秘主義

 神秘主義は文明の為に衰退し去るものではない。寧ろ文明は神秘主義に長足の進歩を与えるものである。古人は我々人間の先祖はアダムであると信じていた。と云う意味は創世記を信じていたと云うことである。今人は既に中学生さえ、猿であると信じている。と云う意味はダアウインの著書を信じていると云うことである。つまり書物を信ずることは今人も古人も変りはない。その上古人は少くとも創世記に目を曝らしていた。今人は少数の専門家を除き、ダアウインの著書も読まぬ癖に、恬然とその説を信じている。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかった土、――アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉こう云う信念に安んじている。
 これは進化論ばかりではない。地球は円いと云うことさえ、ほんとうに知っているものは少数である。大多数は何時か教えられたように、円いと一図に信じているのに過ぎない。なぜ円いかと問いつめて見れば、上愚は総理大臣から下愚は腰弁に至る迄、説明の出来ないことは事実である。
 (中略)
 況や更にこみ入った問題は全然信念の上に立脚している。我々は理性に耳を借さない。いや、理性を超越した何物かのみに耳を借すのである。何物かに、――わたしは「何物か」と云う以前に、ふさわしい名前さえ発見出来ない。もし強いて名づけるとすれば、薔薇とか魚とか蝋燭とか、象徴を用うるばかりである。たとえば我々の帽子でも好い。
 (中略)
 すると偉大なる神秘主義者はスウエデンボルグだのベエメだのではない。実は我々文明の民である。同時に又我々の信念も三越の飾り窓と選ぶところはない。我々の信念を支配するものは常に捉え難い流行である。或は神意に似た好悪である。実際又西施や竜陽君の祖先もやはり猿だったと考えることは多少の満足を与えないでもない。




 自由意志と宿命と

 兎に角宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しない為に懲罰と云う意味も失われるから、罪人に対する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ずれば責任の観念を生ずる為に、良心の麻痺を免れるから、我我自身に対する我我の態度は厳粛になるのに相違ない。ではいずれに従おうとするのか?
 わたしは恬然と答えたい。半ばは自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。或は半ばは自由意志を疑い、半ばは宿命を疑うべきである。なぜと云えば我我は我我に負わされた宿命により、我我の妻を娶ったではないか? 同時に又我我は我我に恵まれた自由意志により、必ずしも妻の注文通り、羽織や帯を買ってやらぬではないか? 
 自由意志と宿命とに関らず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯懦、理性と信仰、――その他あらゆる天秤の両端にはこう云う態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸と呼んだ。中庸とは英吉利語の good sense である。わたしの信ずるところによれば、グッドセンスを待たない限り、如何なる幸福も得ることは出来ない。もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に団扇を揮ったりする痩せ我慢の幸福ばかりである。


 武器

 正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理窟をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。古来「正義の敵」と云う名は砲弾のように投げかわされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。
 日本人の労働者は単に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反している。亜米利加は新聞紙の伝える通り、「正義の敵」と云わなければならぬ。しかし支那人の労働者も単に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた。これも正義に反している。
 日本は新聞紙の伝える通り、――いや、日本は二千年来、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾はしなかったらしい。
 武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄弁である。


 ドストエフスキイ

 ドストエフスキイの小説はあらゆる戯画に充ち満ちている。尤もその又戯画の大半は悪魔をも憂鬱にするに違いない。


 フロオベル

 フロオベルのわたしに教えたものは美しい退屈もあると言うことである。


 モオパスサン

 モオパスサンは氷に似ている。尤も時には氷砂糖にも似ている。


 森鴎外

 畢竟鴎外先生は軍服に剣を下げた希臘人である。


 民衆

 シェクスピイアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衛門も滅びるであろう。しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残している。わたしは大正十二年に「たとい玉は砕けても、瓦は砕けない」と云うことを書いた。この確信は今日でも未だに少しも揺がずにいる。

 又

 打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和改元の第一日)

 又

わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。 (同上)


 或夜の感想

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。 (昭和改元の第二日)



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