歌
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回覧板さんの詩「さくらのうた」につけた歌が聴けます。
「私を呼ぶ声」2(最終回)
私は彼に付き添って看病することにした。
「息子が目を開けて、話せるようになったのは
あなたのお陰」と彼のお母さんも許してくれた。
付き合ってたときはあれほど反対してたのにね。
だから短期間で付き合いは終わりになってしまったのだ。
すぐには思い出せないくらい。
彼は医者も不思議がるほどの回復をみせ、
車椅子で庭を散歩できるようになった。
私が彼の車椅子を押し、
木立の中を歩いていると、
金木犀の香りがした。
「この金木犀の香りがあなたの声を届けてくれたのよね。」
「そうだよ。僕も君もこの香りが好きだったから、
思い出してくれるんじゃないかと思って、
そうしてくれるように神様にお願いしたんだ。」
「祈りが通じるなんて、すごいことだわ。
普通は何も変わらないのに。」
「僕の思いの強さに根負けしたんじゃないかな。
眠ってる間、ずっと想いつづけていたから。」
「だから、眠り続けていたのね。
なんて、お祈りしたの。」
「死ぬ前に君に逢わせて欲しいと。
そうすれば他には何も望まない。
命さえも。」
「そんなことを言っては駄目よ。
死んじゃうかもしれないじゃない。」
「もう大丈夫だよ。
神様だって許してくれるさ。」
安心しきったように笑う彼を見てると、
かえって不安がさざなみのように押し寄せてきた。
でも、不安を押し込めて微笑むのだ。
「そうよね。きっともう大丈夫よ。」
しかし、彼は散歩して、
金木犀の香りをかぐ度、
少しずつ病状が悪くなっていくようだった。
「もう散歩に行くのはやめましょう。
外気に当たると体に障るわ。」
「外に出て、金木犀の香りをかぎたいんだ。
そうしなければ生きていけない気がする。」
「それは逆じゃないの?
かぐ度に悪くなってる気がするわ。」
「そんなことはないよ。
あの香りは君を連れてきてくれた。
だから僕には必要なんだ。」
「私ならもうここにいるじゃない。
金木犀の香りがなくても
もうどこにも行かないから大丈夫よ。」
「そうだよね。
金木犀の香りがしなくなったら、
君がどこかへ行ってしまいそうな気がしたんだ。」
「そんなことないわ。」と言いながら、
私は逆のことを考えていた。
『もしかしたら、
彼の方がどこかに行ってしまうのでは?
執行猶予は金木犀の香りのする間?
そんなはずない。
いくら神様だって、
そんな残酷なことする訳がない。』
かぶりを振りながらも、
頭に浮かんだ考えを振り払えなかった。
それからというもの、
車椅子で散歩に行けなくなってしまった彼の
枕元に金木犀を生けるようにした。
もう金木犀の季節も終わりかけている。
開花時期の遅い地域から取り寄せもした。
金木犀を切らしたら、
彼が死んでしまうような気がして、
必死だったのだ。
非科学的だと思いながらも、
彼との再会がそうだっただけに
否定できなかった。
そしてついに最後の金木犀の花になってしまった。
ぽろぽろと花が零れ落ち、
床に散らばっている。
その残り香だけが彼の命だ。
私の目からも涙がぽろぽろと零れ落ちてしまう。
彼の前では泣かないようにしてたのに。
「どうしたんだい。
何か哀しいことでもあったの。」
「何でもないわ。
金木犀が終わりになるのが淋しかっただけ。」
「君と僕の金木犀だものね。
でも、僕はずっと君のそばにいるよ。」
「当たり前じゃない。
そのために私を呼んだんでしょ。
また元気になってもらわないと。」
涙を振り払い、元気ありげに言う。
「そう思ってるんだけど、
なんだか力が入らないんだ。」
私は彼の手を取って、
また瞼、唇、首、胸と触れさせた。
彼の驚きの顔は微笑みに変わり、
私を抱き寄せた。
「ありがとう。
君を一人にしてしまうのは辛いけど、
僕は幸せだったから、
哀しまないで欲しいんだ。」
「何、弱気なこと言ってるの?
それに、もしあなたが居なくなったら、
私が哀しまないわけないじゃない。」
「泣いてもいいから、
いつかは泣き止んでね。」
「そんな口たたけないようにしてあげる」
私から唇をふさぎ、キスをした。
彼の手に力がこもり、抱きしめられる。
次の瞬間ふっと力が抜け、
彼の腕が垂れた。
「どうしたの。
行かないで。」
薄目を開ける彼。
「ごめんよ。
君と居られて良かった。
優しくしてくれてありがとう。」
「嫌よ。優しくなんかないわ。
これからは優しくするから、
一緒に居てよ。」
「もう逝かなければいけないんだ。
執行猶予は終わりだよ。
君も分かってたんだろ。
金木犀の香りが見せてくれた夢だって。」
「そんなの知らないわ。
金木犀なんてどうでもいい。
私のそばに居てよ。」
「君の心の中に居るよ。
いつでも呼んでくれれば
応えるから。」
「忘れないでよ。
約束だからね。
きっと戻ってきてよ。」
「ああ、金木犀の香りが
また僕の声を運んでくれるよ。」
残り香が
消えるように
彼の命も消えた。
そしてまた金木犀の季節が来る。
私は秋風を待っている。
私を呼ぶ声を。