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2006年02月15日
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五

おれは活(い)きた。

闇い空間は、明りのやうなものを漂してゐた。
併し其は、蒼黒い靄の如く、たなびくものであつた。
巖ばかりであつた。壁も、牀(とこ)も、梁(はり)も、巖であつた。
自身のからだすらが、既に、巖になつて居たのだ。

壁が牀であつた。
巖ばかり――。
觸(さは)つても觸つても、巖ばかりである。
手を伸すと、更に堅い巖が、掌に觸れた。
脚をひろげると、もつと廣い磐石(ばんじやく)の面(おもて)が、感じられた。
纔かにさす薄光りも、黒い巖石が皆吸ひとつたやうに、岩窟(いはむろ)の中に見えるものはなかつた。
唯けはひ――彼の人の探り歩くらしい空氣の微動があつた。

思ひ出しだぞ。
おれが誰だつたか、――訣つたぞ。
おれだ。
此おれだ。


滋賀津彦(しがつひこ)。
其が、おれだつたのだ。

歡びの激情を迎へるやうに、岩窟(いはむろ)の中のすべての突角が哮(たけ)びの反響をあげた。
彼の人は、立つて居た。
一本の木だつた。

明りに照し出されるほど、まとまつた現(うつ)し身(み)をも、持たぬ彼(か)の人であつた。
唯、岩屋の中に矗立(しゆくりつ)した、立ち枯れの木に過ぎなかつた。

おれの名は、誰も傳へるものがない。
おれすら忘れて居た。
長く久しく、おれ自身にすら忘れられて居たのだ。
可愛(いと)しいおれの名は、さうだ。
語り傳へる子があつた筈だ。
語り傳へさせる筈の語部(かたりべ)も、出來て居たゞらうに。
――なぜか、おれの心は寂しい。
空虚な感じが、しく/\と胸を刺すやうだ。
――子代(こしろ)も、名代(なしろ)もない、おれにせられてしまつたのだ。さうだ。
其に違ひない。
この物足らぬ、大きな穴のあいた氣持ちは、其で、するのだ。
おれは、此世に居なかつたと同前の人間になつて、現(うつ)し身の人間どもには、忘れ了(ほ)されて居るのだ。
憐みのないおつかさま。
おまへさまは、おれの妻の、おれに殉死(ともじ)にするのを、見殺しになされた。
おれの妻の生んだ粟津子(あはつこ)は、罪びとの子として、何處かへ連れて行かれた。
野山のけだものゝ餌食(えじき)に、くれたのだらう。
可愛さうな妻よ。
哀なむすこよ。
だが、おれには、そんな事などは、何でもない。
おれの名が傳らない。
劫初(ごふしよ)から末代まで、此世に出ては消える、天(あめ)の下(した)の青人草(あをひとぐさ)と一列に、おれは、此世に、影も形も殘さない草の葉になるのは、いやだ。
どうあつても、不承知だ。
惠みのないおつかさま。
お前さまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうおいでゞない此世かも知れぬ。
くそ――外(そと)の世界が知りたい。
世の中の樣子が見たい。
だが、おれの耳は聞える。
其なのに、目が見えぬ。
この耳すら、世間の語を聞き別けなくなつて居る。
闇の中にばかり瞑(つぶ)つて居たおれの目よ。
も一度くわつと「目+爭」(みひら)いて、現し世のありのまゝをうつしてくれ、……土龍の目なと、おれに貸しをれ。

聲は再、寂かになつて行つた。
獨り言する其聲は、彼の人の耳にばかり聞えて居るのであらう。
丑刻(うし)に、靜謐の頂上に達した現(うつ)し世(よ)は、其が過ぎると共に、俄かに物音が起る。
月の、空を行く音すら聞えさうだつた四方の山々の上に、まづ木の葉が音もなくうごき出した。
次いではるかな谿のながれの色が、白々と見え出す。
更に遠く、大和國中(くになか)の何處からか起る一番鷄のつくるとき曉が來たのである。
里々の男は、今、女の家の閨戸(ねやど)から、ひそ/\と歸つて行くだらう。
月は早く傾いたけれど、光りは深夜の色を保つてゐる。
午前二時に朝の來る生活に、村びとも、宮びとも、忙しいとは思はずに、起きあがる。
短い曉の目覺めの後、又、物に倚りかゝつて、新しい眠りを繼ぐのである。
山風は頻りに、吹きおろす。
枝・木の葉の相軋(ひし)めく音が、やむ間なく聞える。
だが其も暫らくで、山は元のひつそとしたけしきに還る。
唯、すべてが薄暗く、すべてが隈を持つたやうに、朧ろになつて來た。
岩窟(いはむろ)は、沈々と黝(くら)くなつて冷えて行く。

した した。

水は、岩肌を絞つて垂れてゐる。

耳面刀自(みヽもとのじ)。
おれには、子がない。
子がなくなつた。
おれは、その榮えてゐる世の中には、跡を貽(のこ)して來なかつた。
子を生んでくれ。
おれの子を。
おれの名を語り傳へる子どもを――。

岩牀(どこ)の上に、再白々と横つて見えるのは、身じろぎもせぬからだである。
唯その眞裸な骨の上に、鋭い感覺ばかりが活きてゐるのであつた。
まだ反省のとり戻されぬむくろには、心になるものがあつて、心はなかつた。
耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、更に深い印象であつたに違ひはない。
自分すら忘れきつた、彼の人の出來あがらぬ心に、骨に沁み、干からびた髓の心(しん)までも、唯彫(え)りつけられたやうになつて、殘つてゐるのである。

萬法藏院の晨朝(じんてう)の鐘だ。
夜の曙色(あけいろ)に、一度 騷立(さわだ)つた物々の胸をおちつかせる樣に、鳴りわたる鐘の音(ね)だ。
一(いつ)ぱし白みかゝつて來た東は、更にほの暗い明(あ)け昏(ぐ)れの寂けさに返つた。
南家の郎女は、一莖の草のそよぎでも聽き取れる曉凪(あかつきなぎ)を、自身擾すことをすまいと言ふ風に、身じろきすらもせずに居る。
夜(よる)の間(ま)よりも暗くなつた盧(いほり)の中では、明王像の立ち處(ど)さへ見定められぬばかりになつて居る。
何處からか吹きこんだ朝 山颪(おろし)に、御燈(あかし)が消えたのである。
當麻語部(たぎまかたり)の姥も、薄闇に蹲つて居るのであらう。
姫は再、この老女の事を忘れてゐた。
たゞ一刻ばかり前、這入りの戸を搖つた物音があつた。
一度 二度 三度。
更に數度。
音は次第に激しくなつて行つた。
樞がまるで、おしちぎられでもするかと思ふほど、音に力のこもつて來た時、ちようど、鷄が鳴いた。
其きりぴつたり、戸にあたる者もなくなつた。

新しい物語が、一切、語部の口にのぼらぬ世が來てゐた。
けれども、頑(かたくな)な當麻氏(たぎまうぢ)の語部の古姥(ふるうば)の爲に 我々は今一度、去年以來の物語りをしておいても、よいであらう。
まことに其は、昨(きぞ)の日からはじまるのである。

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(^死^)





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最終更新日  2006年02月15日 04時10分38秒
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