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2006年02月17日
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十

をとめの閨戸《ネヤド》をおとなふ風《フウ》は、何も、珍しげのない國中の爲來《シキタ》りであつた。
だが其にも、曾てはさうした風の、一切行はれて居なかつたことを、主張する村々があつた。
何時のほどにか、さうした村が、他村の、別々に守つて來た風習と、その古い爲來りとをふり替へることになつたのだ、と言ふ。
かき上る段になれば、何の雜作《ザフサ》もない石城《シキ》だけれど、あれを大昔からとり「廴+囘」して居た村と、さうでない村とがあつた。
こんな風に、しかつめらしい説明をする宿老《トネ》たちが、どうかすると居た。
多分やはり、語部《カタリベ》などの昔語りから、來た話なのであらう。
踏み越えても這入れ相《サウ》に見える石垣だが、大昔 交《カハ》された誓ひで、目に見えぬ鬼神《モノ》から、人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入りこまぬ事になつてゐる。

さうでない村々では、何者でも、垣を躍り越えて這入つて來る。
其は、別の何かの爲方《シカタ》で、防ぐ外はなかつた。
祭りの夜でなくても、村なかの男は何の憚りなく、垣を踏み越えて處女の蔀戸《シトミ》をほと/\と叩く。
石城《シキ》を圍《カコ》うた村には、そんなことは、一切なかつた。
だから、美《クハ》し女《メ》の家に、奴隷《ヤツコ》になつて住みこんだ古《イニシヘ》の貴《アデ》びともあつた。
娘の父にこき使はれて、三年五年、いつか處女に會はれよう、と忍び過した、身にしむ戀物語りもあるくらゐだ。
石城《シキ》を掘り崩すのは、何處からでも鬼神《モノ》に入りこんで來い、と呼びかけるのと同じことだ。
京の年よりにもあつたし、田舍の村々では、之を言ひ立てに、ちつとでも、石城を殘して置かうと爭うた人々が、多かつたのである。

さう言ふ家々では、實例として恐しい證據を擧げた。
卅年も昔、――天平八年嚴命が降つて、何事も命令のはか/″\しく行はれぬのは、朝臣《テウシン》が先つて行はぬからである。
汝等《ミマシタチ》進んで、石城を毀つて、新京の時世裝に叶うた家作りに改めよ、と仰せ下された。

ところが、其と時を同じくして、疱瘡《モガサ》がはやり出した。
越えて翌年、益々盛んになつて、四月北家を手初めに、京家南家と、主人から、まづ此 時疫《シエキ》に亡くなつて、八月にはとう/\、式家の宇合卿まで仆れた。
家に、防ぐ筈の石城が失せたからだ、と天下中の人が騷いだ。
其でまた、とり壞した家も、ぼつ/″\舊《モト》に戻したりしたことであつた。
こんなすさまじい事も、あつて過ぎた夢だ。けれどもまだ、まざ/″\と人の心に燒きついて離れぬ、現《ウツヽ》の恐しさであつた。


さうした求婚《ツマドヒ》の風を傳へなかつた氏々の間では、此は、忍び難い流行であつた。
其でも男たちは、のどかな風俗を喜んで、何とも思はぬやうになつた。
が、家庭の中では、母・妻・乳母《オモ》たちが、いまだにいきり立つて、さうした風儀になつて行く世間を、呪ひやめなかつた。
手近いところで言うても、大伴宿禰にせよ。
藤原朝臣にせよ。
さう謂ふ妻どひの式はなくて、數十代宮廷をめぐつて、仕へて來た邑々のあるじの家筋であつた。
でも何時か、さうした氏々の間にも、妻迎への式には、

八千矛の神のみことは、とほ/″\し、高志《コシ》の國に、美《クハ》し女《メ》をありと聞かして、賢《サカ》し女《メ》をありと聞《キコ》して……

から謠ひ起す神語歌《カミガタリウタ》を、語部に歌はせる風が、次第にひろまつて來るのを、防ぎとめることが出來なくなつて居た。
南家の郎女《イラツメ》にも、さう言ふ妻覓《ツママ》ぎ人が――いや人群《ヒトムレ》が、とりまいて居た。
唯、あの型ばかり取り殘された石城《シキ》の爲に、何だか屋敷へ入ることが、物忌み―たぶう―を犯すやうな危殆《ヒアヒ》な心持ちで、誰も彼も、柵まで又、門まで來ては、かいまみしてひき還すより上の勇氣が、出ぬのであつた。
通《カヨ》はせ文《ブミ》をおこすだけが、せめてものてだてゞ、其さへ無事に、姫の手に屆いて、見られてゐると言ふ、自信を持つ人は、一人としてなかつた。
事實、大抵、女部屋の老女《トシ》たちが、引つたくつて渡させなかつた。さうした文のとりつぎをする若人《ワカウド》―若女房―を呼びつけて、荒けなく叱つて居る事も、度々見かけられた。

其方《オモト》は、この姫樣こそ、藤原の氏神にお仕へ遊ばす、清らかな常處女《トコヲトメ》と申すのだ、と言ふことを知らぬのかえ。
神の咎めを憚るがえゝ。
宮から恐れ多いお召しがあつてすら、ふつにおいらへを申しあげぬのも、それ故だとは考へつかぬげな。
やくたい者。
とつとゝ失せたがよい。
そんな文とりついだ手を、率《イザ》川の一の瀬で淨めて來くさらう。
罰《バチ》知らずが……。

こんな風にわなりつけられた者は、併し、二人や三人ではなかつた。
横佩家の女部屋に住んだり、通うたりしてゐる若人は、一人殘らず一度は、經驗したことだと謂つても、うそではなかつた。
だが、郎女は、つひに一度そんな事のあつた樣子も、知らされずに來た。

上つ方の郎女《イラツメ》が、才《ザエ》をお習ひ遊ばすと言ふことが御座りませうか。
それは近(ツ)代、ずつと下《シモ》ざまのをなごの致すことゝ承ります。父君がどう仰らうとも、父御《テヽゴ》樣のお話は御一代。
お家の習しは、神さまの御意趣《オムネ》、とお思ひつかはされませ。

氏の掟の前には、氏上《ウヂノカミ》たる人の考へをすら、否みとほす事もある姥たちであつた。
其老女たちすら、郎女の天禀には、舌を捲きはじめて居た。

もう、自身たちの教へることもなうなつた。

かう思ひ出したのは、數年も前からである。
内に居る、身狹乳母《ムサノチオモ》・桃花鳥野乳母《ツキヌノマヽ》・波田坂上《ハタノサカノヘノ》刀自、皆故知らぬ喜びの不安から、歎息し續けてゐた。
時々伺ひに出る中臣(ノ)志斐嫗《シヒノオムナ》・三上水凝刀自女《ミカミノミヅコリノトジメ》なども、來る毎、目を見合せて、ほうつとした顏をする。
どうしよう、と相談するやうな人たちではない。
皆無言で、自分等の力の及ばぬ所まで來た、姫の魂の成長にあきれて、目をみはるばかりなのだ。

才《ザエ》を習ふなと言ふなら、まだ聞きも知らぬこと、教へて賜《タモ》れ。

素直な郎女の求めも、姥たちにとつては、骨を刺しとほされるやうな痛さであつた。

何を仰せられまする。
以前から、何一つお教へなど申したことがおざりませうか。目下《メシタ》の者が、目上のお方さまに、お教へ申すと言ふやうな考へは、神樣がお聞き屆けになりません。教へる者は目上、ならふ者は目下、と此が、神の代からの掟でおざりまする。

志斐[#(ノ)]嫗《オムナ》の負け色を救ふ爲に、身狹乳母《ムサノチオモ》も口を「插」む。

唯知つた事を申し上げるだけ。
其を聞きながら、御心がお育ち遊ばす。
さう思うて、姥たちも、覺えたゞけの事は、郎女樣のみ魂《タマ》を搖《イブ》る樣にして、歌ひもし、語りもして參りました。
教へたなど仰つては、私めらが、罰《バチ》を蒙らねばなりません。

こんな事をくり返して居る間に、刀自たちにも、自分らの恃む知識に對する、單純な自覺が出て來た。
此は一層、郎女の望むまゝに、才《ザエ》を習《ナラハ》した方が、よいのではないかと言ふ氣が、段々して來たのである。

まことに其爲には、ゆくりない事が、幾重にも重つて起つた。
姫の帳臺の後から、遠くに居る父の心盡しだつたと見えて、二卷の女手《ヲンナデ》の寫經らしい物が出て來た。
姫にとつては、肉縁はないが、曾祖母《ヒオホバ》にも當る橘夫人の法華經、又其 御胎《オハラ》にいらせられる―筋から申せば、大叔母 御《ゴ》にもお當り遊ばす、今の 皇太后樣の樂毅論。
此二つの卷物が、美しい裝ひで、棚を架《カ》いた上に載せてあつた。

横佩大納言と謂はれた頃から、父は此二部を、自分の魂のやうに大事にして居た。
ちよつと出る旅にも、大きやかな箱に納めて、一人分の資人《トネリ》の荷として、持たせて行つたものである。
其魂の書物を、姫の守りに留めておきながら、誰にも言はずにゐたのである。
さすがに我強《ガヅヨ》い刀自たちも、此見覺えのある、美しい箱が出て來た時には、暫らく撲たれたやうに、顏を見合せて居た。さうして後《ノチ》、後《アト》で恥しからうことも忘れて、皆聲をあげて泣いたものであつた。
郎女は、父の心入れを聞いた。
姥たちの見る目には、併し豫期したやうな興奮は、認められなかつた。

唯一 途《ヅ》に素直に、心の底の美しさが匂ひ出たやうに、靜かな、美しい眼で、人々の感激する樣子を、驚いたやうに見まはして居た。
其からは、此二つの女手《ヲンナデ》の「本《ホン》」を、一心に習ひとほした。
偶然は友を誘《ヒ》くものであつた。
一月も立たぬ中の事である。
早く、此都に移つて居た飛鳥寺《アスカデラ》―元興寺《グワンコウジ》―から卷數《クワンズ》が屆けられた。
其には、難波にある帥の殿の立願《リフグワン》によつて、佛前に讀誦した經文の名目が、書き列ねてあつた。
其に添へて、一卷の縁起文が、此御館へ屆けられたのである。

父藤原豐成朝臣、亡父贈太政大臣七年の忌みに當る日に志を發《オコ》して、書き綴つた「佛本傳來記」を、其後二年立つて、元興寺《グワンコウジ》へ納めた。
飛鳥以來、藤原氏とも關係の深かつた寺なり、本尊なのである。
あらゆる念願と、報謝の心を籠めたもの、と言ふことは察せられる。
其一卷が、どう言ふ訣《ワケ》か、二十年もたつてゆくりなく、横佩家へ戻つて來たのである。
郎女の手に、此卷が渡つた時、姫は端近く膝行《ヰザ》り出て、元興寺の方を禮拜した。
其後で、

難波とやらは、どちらに當るかえ。

と尋ねて、示す方角へ、活き/\した顏を向けた。
其目からは、珠數の珠の水精《スヰシヤウ》のやうな涙が、こぼれ出てゐた。
其からと言ふものは、來る日もくる日も、此元興寺の縁起文を手寫した。
内典・外典其上に又、大日本《オホヤマト》びとなる父の書いた文《モン》。
指から腕腕から胸、胸から又心へ、沁み/\と深く、魂を育てる智慧の這入つて行くのを、覺えたのである。
大日本日高見《オホヤマトヒタカミ》の國。
國々に傳はるありとある歌諺《ウタコトワザ》、又 其舊辭《ソノモトツゴト》。
第一には、中臣の氏の神語り。
藤原の家の古物語り。
多くの語り詞《ゴト》を、絶えては考へ繼ぐ如く、語り進んでは途切れ勝ちに、呪々《ノロヽヽ》しく、くね/\しく、獨り語りする語部や、乳母《オモ》や、嚼母《マヽ》たちの唱へる詞が、今更めいて、寂しく胸に蘇つて來る。

をゝ、あれだけの習しを覺える、たゞ其だけで、此世に生きながらへて行かねばならぬみづからであつた。

父に感謝し、次には尊い大叔母《オホヲバ》君、其から見ぬ世の曾祖母《オホオバ》の尊に、何とお禮申してよいか、量り知れぬものが、心にたぐり上げて來る。
だがまづ、父よりも誰よりも、御禮申すべきは、み佛である。
この珍貴《ウヅ》の感覺《サトリ》を授け給ふ、限り知られぬ愛《メグ》みに充ちたよき人が、此世界の外に、居られたのである。
郎女は、塗香《ヅカウ》をとり寄せて、まづ髮に塗り、手に塗り、衣を薫るばかりに匂はした。

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最終更新日  2006年02月17日 03時24分01秒
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