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2006年08月12日
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七

円明寺の杉が焦(こ)げたように赭黒(あかぐろ)くなった。

天気の好い日には、風に洗われた空の端(は)ずれに、白い筋の嶮(けわ)しく見える山が出た。
年は宗助(そうすけ)夫婦を駆(か)って日ごとに寒い方へ吹き寄せた。
朝になると欠かさず通る納豆売(なっとううり)の声が、瓦(かわら)を鎖(とざ)す霜(しも)の色を連想せしめた。
宗助は床の中でその声を聞きながら、また冬が来たと思い出した。
御米(およね)は台所で、今年も去年のように水道の栓(せん)が氷ってくれなければ助かるがと、暮から春へ掛けての取越苦労をした。

そうして広島や福岡の暖かい冬を羨(うら)やんだ。

「まるで前の本多さんみたようね」と御米が笑った。
前の本多さんと云うのは、やはり同じ構内(かまえうち)に住んで、同じ坂井の貸家を借りている隠居夫婦であった。
小女(こおんな)を一人使って、朝から晩までことりと音もしないように静かな生計(くらし)を立てていた。
御米が茶の間で、たった一人裁縫(しごと)をしていると、時々御爺(おじい)さんと云う声がした。
それはこの本多の御婆さんが夫を呼ぶ声であった。
門口(かどぐち)などで行き逢うと、丁寧(ていねい)に時候の挨拶(あいさつ)をして、ちと御話にいらっしゃいと云うが、ついぞ行った事もなければ、向うからも来た試(ためし)がない。
したがって夫婦の本多さんに関する知識は極(きわ)めて乏しかった。
ただ息子が一人あって、それが朝鮮の統監府(とうかんふ)とかで、立派な役人になっているから、月々その方の仕送(しおくり)で、
気楽に暮らして行かれるのだと云う事だけを、出入(でいり)の商人のあるものから耳にした。

「御爺さんはやっぱり植木を弄(いじ)っているかい」



話はそれから前の家(うち)を離れて、家主(やぬし)の方へ移った。
これは、本多とはまるで反対で、夫婦から見ると、この上もない賑(にぎ)やかそうな家庭に思われた。
この頃は庭が荒れているので、大勢の小供が崖(がけ)の上へ出て騒ぐ事はなくなったが、ピヤノの音は毎晩のようにする。
折々は下女か何ぞの、台所の方で高笑をする声さえ、宗助の茶の間まで響いて来た。


この問は今までも幾度か御米に向って繰り返されたものであった。

「何にもしないで遊(あす)んでるんでしょう。地面や家作を持って」と御米が答えた。
この答も今までにもう何遍か宗助に向って繰り返されたものであった。

宗助はこれより以上立ち入って、坂井の事を聞いた事がなかった。
学校をやめた当座は、順境にいて得意な振舞をするものに逢うと、今に見ろと云う気も起った。
それがしばらくすると、単なる憎悪(ぞうお)の念に変化した。
ところが一二年このかたは全く自他の差違に無頓着(むとんじゃく)になって、
自分は自分のように生れついたもの、
先は先のような運を持って世の中へ出て来たもの、
両方共始から別種類の人間だから、ただ人間として生息する以外に、何の交渉も利害もないのだと考えるようになってきた。
たまに世間話のついでとして、ありゃいったい何をしている人だぐらいは聞きもするが、それより先は、教えて貰う努力さえ出すのが面倒だった。
御米にもこれと同じ傾きがあった。けれどもその夜(よ)は珍らしく、
坂井の主人は四十恰好(かっこう)の髯(ひげ)のない人であると云う事やら、
ピヤノを弾くのは惣領(そうりょう)の娘で十二三になると云う事やら、
またほかの家(うち)の小供が遊びに来ても、ブランコへ乗せてやらないと云う事やらを話した。

「なぜほかの家の子供はブランコへ乗せないんだい」

「つまり吝(けち)なんでしょう。早く悪くなるから」

宗助は笑い出した。
彼はそのくらい吝嗇(けち)な家主が、屋根が漏(も)ると云えば、すぐ瓦師(かわらし)を寄こしてくれる、垣が腐ったと訴えればすぐ植木屋に手を入れさしてくれるのは矛盾だと思ったのである。

その晩宗助の夢には本多の植木鉢も坂井のブランコもなかった。
彼は十時半頃床に入って、万象に疲れた人のように鼾(いびき)をかいた。
この間から頭の具合がよくないため、寝付(ねつき)の悪いのを苦にしていた御米は、時々眼を開けて薄暗い部屋を眺(なが)めた。
細い灯(ひ)が床の間の上に乗せてあった。
夫婦は夜中(よじゅう)灯火(あかり)を点(つ)けておく習慣がついているので、寝る時はいつでも心(しん)を細目にして洋灯(ランプ)をここへ上げた。

御米は気にするように枕の位置を動かした。
そうしてそのたびに、下にしている方の肩の骨を、蒲団(ふとん)の上で滑(すべ)らした。
しまいには腹這(はらばい)になったまま、両肱(りょうひじ)を突いて、しばらく夫の方を眺めていた。
それから起き上って、夜具の裾(すそ)に掛けてあった不断着を、寝巻(ねまき)の上へ羽織(はお)ったなり、床の間の洋灯を取り上げた。

「あなたあなた」と宗助の枕元へ来て曲(こご)みながら呼んだ。
その時夫はもう鼾をかいていなかった。
けれども、元の通り深い眠(ねむり)から来る呼吸(いき)を続けていた。御米はまた立ち上って、洋灯を手にしたまま、間(あい)の襖(ふすま)を開けて茶の間へ出た。
暗い部屋が茫漠(ぼんやり)手元の灯に照らされた時、御米は鈍く光る箪笥(たんす)の環(かん)を認めた。
それを通り過ぎると黒く燻(くす)ぶった台所に、腰障子(こししょうじ)の紙だけが白く見えた。
御米は火の気(け)のない真中に、しばらく佇(たた)ずんでいたが、
やがて右手に当る下女部屋の戸を、音のしないようにそっと引いて、中へ洋灯の灯を翳(かざ)した。
下女は縞(しま)も色も判然(はっきり)映らない夜具の中に、土竜(もぐら)のごとく塊(かた)まって寝ていた。
今度は左側の六畳を覗(のぞ)いた。
がらんとして淋(さみ)しい中に、例の鏡台が置いてあって、鏡の表が夜中だけに凄(すご)く眼に応(こた)えた。

御米は家中を一回(ひとまわり)回った後(あと)、すべてに異状のない事を確かめた上、また床の中へ戻った。
そうしてようやく眼を眠った。
今度は好い具合に、眼蓋(まぶた)のあたりに気を遣(つか)わないで済むように覚えて、しばらくするうちに、うとうととした。

するとまたふと眼が開(あ)いた。
何だかずしんと枕元で響いたような心持がする。
耳を枕から離して考えると、それはある大きな重いものが、裏の崖から自分達の寝ている座敷の縁の外へ転がり落ちたとしか思われなかった。
しかし今眼が覚(さ)めるすぐ前に起った出来事で、けっして夢の続じゃないと考えた時、御米は急に気味を悪くした。
そうして傍に寝ている夫の夜具の袖(そで)を引いて、今度は真面目(まじめ)に宗助を起し始めた。

宗助はそれまで全くよく寝ていたが、急に眼が覚(さ)めると、
御米が、
「あなたちょっと起きて下さい」と揺(ゆす)っていたので、
半分は夢中に、
「おい、好し」とすぐ蒲団(ふとん)の上へ起き直った。
御米は小声で先刻(さっき)からの様子を話した。

「音は一遍した限(ぎり)なのかい」

「だって今したばかりなのよ」

二人はそれで黙った。
ただじっと外の様子を伺っていた。
けれども世間は森(しん)と静であった。
いつまで耳を峙(そばだ)てていても、再び物の落ちて来る気色(けしき)はなかった。
宗助は寒いと云いながら、単衣(ひとえ)の寝巻の上へ羽織を被(かぶ)って、縁側(えんがわ)へ出て、雨戸を一枚繰った。
外を覗(のぞ)くと何にも見えない。
ただ暗い中から寒い空気がにわかに肌に逼(せま)って来た。
宗助はすぐ戸を閉(た)てた。

(かきがね)をおろして座敷へ戻るや否や、また蒲団の中へ潜(もぐ)り込んだが、
「何にも変った事はありゃしない。
多分御前(おまい)の夢だろう」と云って、宗助は横になった。
御米はけっして夢でないと主張した。
たしかに頭の上で大きな音がしたのだと固執(こしつ)した。宗助は夜具から半分出した顔を、御米の方へ振り向けて、
「御米、お前は神経が過敏になって、近頃どうかしているよ。
もう少し頭を休めてよく寝る工夫でもしなくっちゃいけない」と云った。

その時次の間の柱時計が二時を打った。
その音で二人ともちょっと言葉を途切らして、黙って見ると、夜はさらに静まり返ったように思われた。
二人は眼が冴(さ)えて、すぐ寝つかれそうにもなかった。
御米が、
「でもあなたは気楽ね。横になると十分経(た)たないうちに、もう寝ていらっしゃるんだから」と云った。

「寝る事は寝るが、気が楽で寝られるんじゃない。つまり疲れるからよく寝るんだろう」と宗助が答えた。

こんな話をしているうちに、宗助はまた寝入ってしまった。
御米は依然として、のつそつ床の中で動いていた。
すると表をがらがらと烈(はげ)しい音を立てて車が一台通った。
近頃御米は時々夜明前の車の音を聞いて驚ろかされる事があった。
そうしてそれを思い合わせると、いつも似寄った刻限なので、必竟(ひっきょう)は毎朝同じ車が同じ所を通るのだろうと推測した。
多分牛乳を配達するためかなどで、ああ急ぐに違ないときめていたから、この音を聞くと等しく、もう夜が明けて、隣人の活動が始ったごとくに、心丈夫になった。
そうこうしていると、どこかで鶏(とり)の声が聞えた。
またしばらくすると、下駄(げた)の音を高く立てて往来を通るものがあった。
そのうち清(きよ)が下女部屋の戸を開けて厠(かわや)へ起きた模様だったが、やがて茶の間へ来て時計を見ているらしかった。
この時床の間に置いた洋灯(ランプ)の油が減って、短かい心(しん)に届かなくなったので、御米の寝ている所は真暗になっていた。
そこへ清の手にした灯火(あかり)の影が、襖(ふすま)の間から射し込んだ。

「清かい」と御米が声を掛けた。

清はそれからすぐ起きた。
三十分ほど経(た)って御米も起きた。
また三十分ほど経って宗助もついに起きた。
平常(いつも)は好い時分に御米がやって来て、「もう起きてもよくってよ」と云うのが例であった。
日曜とたまの旗日(はたび)には、それが、
「さあもう起きてちょうだい」に変るだけであった。
しかし今日は昨夕(ゆうべ)の事が何となく気にかかるので、御米の迎(むかえ)に来ないうち宗助は床を離れた。
そうして直(すぐ)崖下の雨戸を繰った。

下から覗(のぞ)くと、寒い竹が朝の空気に鎖(とざ)されてじっとしている後(うしろ)から、霜(しも)を破る日の色が射して、幾分か頂(いただき)を染めていた。
その二尺ほど下の勾配(こうばい)の一番急な所に生えている枯草が、妙に摺(す)り剥(む)けて、赤土の肌を生々(なまなま)しく露出した様子に、宗助はちょっと驚ろかされた。
それから一直線に降(お)りて、ちょうど自分の立っている縁鼻(えんばな)の土が、霜柱を摧(くだ)いたように荒れていた。
宗助は大きな犬でも上から転がり落ちたのじゃなかろうかと思った。
しかし犬にしてはいくら大きいにしても、余り勢が烈し過ぎると思った。 



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最終更新日  2006年08月12日 05時43分42秒
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