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「第三者委員会」ってところに立憲民主党らしさがある。 弁護士3名で構「成し結論を出さないまま幕引き。本人の不倫辞職で済ませる。東京に住みながら埼玉県議会議員選挙の候補者として公認したのは、立憲民主党。 当選後、コロナの最中にも東京から埼玉県議会に通っていたことの方が有権者を裏切る行為だが。 そういえば枝野君も弁護士だ。公認した責任について語らない。
2020.06.09
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1日、創価学会八王子平和会館で、両家の親族から祝福を受けながら娘が最高の伴侶に恵まれ、無事、結婚式を挙げました。運営スタッフの皆様の真心こもるキビキビとした動きに、心が洗われました。創価学会の会館での結婚式は最高の門出になると感激しました。同志の皆様にただただ感謝の思いでいっぱいです。藤生美樹さんには川越から八王子まで1日出張していただき、新郎新婦の着付けをしていただきました。挙式の後、浜寿しに移動して親族で食事会。途中からお店から勧められてカラオケ。娘の従姉妹の堀越美奈子・瞳さんの歌唱で冒頭から最高に盛り上がりました。娘の叔父の堀越則夫さんもさらに盛り上がりを最高潮にしてくださいました。新郎のお父さんさんが熱唱してくださったので、僕も、好きさ好きさ好きさを、高音部に声がでないことを承知の上で歌いました。ホッとしました。
2018.09.04
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「自衛官候補生」の初任給は引き上げても14万2100円です。本文から=「自衛官候補生」の初任給を現行の月額13万3500円から8600円増額するほか、定年まで務められる「一般曹候補生」は、高学歴化を踏まえて、大学卒業者の初任給を18万1100円から1万7000円増額するなどとしています。自衛官候補生とは=採用後「自衛官候補生」(特別職国家公務員)に任命され、自衛官となるために必要な基礎的教育訓練に専念する新しい採用制度です。自衛官候補生として所要の教育を経て3ヶ月後に2等陸・海・空士(任期制自衛官)に任官します。任期制自衛官とは、陸上自衛官は1年9ヶ月(一部技術系は2年9ヶ月)、海上・航空自衛官は2年9ヶ月を1任期(2任期目 以降は各2年)として勤務する隊員のことです。教育訓練を受けた後に各部隊・基地等に配属されます。約9ヶ月後、1等陸・海・空士に昇任し、さらに1年 後、陸・海・空士長に昇任します。
2019.10.22
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きょうを依頼されていたので、きのうは地域行事に参加した後、ホロコーストの2時間番組、今年8.15にBSジャパンが放映した兵士の証言の2時間番組を観た後、原稿を完成させました。7000字くらい。配布資料は完成済みだったので、40分の講演は、まあまあうまくいったようです。講演の後、みんなで秋の歌を歌いました。最初に歌ったのが、里の秋でした。歌ができるまでの経緯は初めて知りました。「ああ母さんと ただ二人」「ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す」そして三番「さよならさよなら 椰子(やし)の島 お舟にゆられて 帰られる ああ父さんよ 御無事でと 今夜も母さんと 祈ります」里の秋作詞:斎藤信夫、作曲:海沼 実、唄:川田正子1 静かな静かな 里の秋 お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は ああ母さんと ただ二人 栗の実煮てます いろりばた2 明るい明るい 星の空 鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す3 さよならさよなら 椰子(やし)の島 お舟にゆられて 帰られる ああ父さんよ 御無事でと 今夜も母さんと 祈ります 皆様、ぜひ、お読みください。http://www.aba.ne.jp/~takaichi/douyou/satonoaki.html 童謡、唱歌には季節の風物を唄ったものが多い。花鳥風月をシンプルに唄い込むという点で俳句と似ている。かつて高浜虚子(たかはまきょし)は俳句というものについて「花鳥を諷詠する文学」といったものだ。さてここで唱歌の中で秋を唄ったものの代表が「紅葉」だとするならば、それと双壁をなす秋の童謡がこの「里の秋」であると筆者は考えるのである。もちろん他にも「赤とんぼ」や「夕焼け小焼け」など秋を唄った優れた童謡があるけれどこの「里の秋」には独特の存在感がある。「里の秋」の作詞者である斎藤信夫(さいとうのぶお)はかつて小学校の教師をしていた。そして詩を書くことが好きで仕事の合間にせっせと詩作しては童謡雑誌に投稿していた。「里の秋」の美しいメロディーの作曲者・海沼實(かいぬまみのる)との出会いは昭和12年ごろである。あるとき「遊戯と唱歌」という教育者向けの雑誌を見ていると、いつも童謡の新曲を投稿している海沼實という名前が目についた。この頃の海沼實は作曲家としてはまだ全く無名だった。彼が作った合唱団「音羽ゆりかご会」の運営もようやく軌道に乗り始めたばかりで生活は苦しかった。海沼に興味を持った斎藤は東京の護国寺を訪ねた。この寺の幼稚園が当時の「音羽ゆりかご会」の練習会場だった。お互い駆け出し同士、童謡にかける抱負などを語り合ったのだろう。それから月日は流れ、日本は次第にアメリカとの戦争へと傾いていく。「里の秋」の原型となる「星月夜」という詩を書き上げたのはそんな頃だ。千葉県の九十九里浜に近い成東町(なるとうちょう)に住んでいた斎藤は夜になると星空を見上げながら詩想を練った。当時は今と違って、地方の町の夜は真っ暗になる。満天に無数の星がまたたくのを眺めていると吸い込まれそうな感覚になる。それはまさに「里の秋」の歌詞に出てくる「明るい、明るい 星の空」という表現そのままである。 千葉県成東町に行くと「里の秋」の歌碑が城跡公園の片隅にひっそりと立っている。 昭和57年に成東町が郷土の詩人斎藤信夫を顕彰するために立てたものである。 裏面には成東町の刻印がある。 この「星月夜」が後に名作童謡「里の秋」として知られるようになるのだが、詞の内容は我々が知っている「里の秋」とは大きく違っていたのである。「里の秋」は周知のように1番と2番で秋が深まりゆく山里の静かな生活を歌っているのに対し、3番では太平洋戦争が終り南方の島々から引き上げてくる兵士たち、つまり「父さん」の航海の無事を祈りますと結んでいる。ところが「星月夜」には4番まであったのである。1、2番は「里の秋」と全く同じだが、3番では出征している父さんの武運を祈り、4番は自分も大きくなったら兵隊さんになって国を守りますという子供の抱負をうたっていた。「星月夜」が書かれたのは昭和16年であり、まさに太平洋戦争が始まろうとしていた頃だったのでこのような内容になるのは至極当然であった。斎藤はこの作品をを海沼實のもとへも送っていた。しかし海沼からは何の反応も無く月日が過ぎていった。やがて戦争が激化していくなかで斎藤自身もこの作品のことは忘れていただろう。もしも海沼がこの「星月夜」にすぐに曲をつけ、戦前に発表していたら現在の「里の秋」は無かったわけであり、やはり名曲の誕生には何か運命的なものがつきまとっているのだろう。昭和20年に入ると日本という国にとっても運命の時が迫りつつあった。日本軍は祖国から何千キロも離れた南海の島々で追い詰められていた。レイテ、サイパン、ガダルカナルなどで無謀な突撃玉砕が繰り返され、何万人もの兵士が犠牲になった。その多くは赤紙一枚で駆り出されてきた若者たちであっただろう。「なぜ我々は祖国からこんなに遠くまで来て戦い、死んでいかなければならないのか」という悲痛な叫びとともに戦場に散っていった。そして昭和20年8月15日、幾多の犠牲をもたらした太平洋戦争は終った。斎藤はこの時期激しく悩んでいた。彼は戦時中、日本の軍国主義を素直に信じ、授業でも子供たちに神州不滅と教えていた。だがその神州が敗れ去った以上、自分は大勢の子供たちに嘘をついてきたことになる。とうとう彼は教壇に立つことに耐えられなくなり、教師をやめてしまう。この頃の日本には自分の過ちを素直に悔い、職さえも投げ出す骨太の教師がまだたくさんいたのだ。だからこそ、戦後の日本の教育はつい最近まで世界最高の水準を維持することができた。それはともかく、終戦直後のことであるから教師をやめても他に仕事のあてはなく、千葉の実家でぶらぶらするしかなかった。そんな頃一通の電報が届いた。文面には「スグオイデコフ、カイヌマ」とだけ書かれている。カイヌマといえば、あの作曲家の海沼實のことだろうか。しかし彼とは何年も前に一回会ったきりでその後は特につき合いはない。でもこうしてわざわざ電報を打ってきている以上無視するわけにもいかない。とにかく東京まで行ってみることにした。応接室で緊張して待っていると、海沼はニコニコしながら現れた。手には何やら古い雑誌を持っている。そして、その雑誌をペラペラめくりながら意外なことを言い出した。それは斎藤が以前書いた詩を書き直してほしいという話であった。雑誌のページに載っていたのは彼が昭和16年に発表した「星月夜」だった。詳しい事情はこうだ。 約1週間後に神奈川県の浦賀港に南方からの復員兵を乗せた船がやってくる。今後も続々と入港してくるであろう。NHKでは復員してくる兵隊さん達を歓迎する番組を放送することになり、そのときに流す歌を作ることを海沼のもとへ依頼した。そして海沼が何か適当な詞はないものかと、古い童謡雑誌をひっくり返して調べているうちに斎藤信夫の「星月夜」に目がとまったのである。だが先にもふれたようにこの詩の3、4番はこのままでは使えない。そこで1、2番はそのまま使い、3、4番は捨てて新たに3番として復員兵を迎える内容の詞を書いてほしいと斎藤に頼んだのである。しかも放送まであまり日数が無いので急いで書いてくれという。少々厚かましい依頼とも思えたが仕事もなくぶらぶらしていた時期だったので受けることにした。軽い気持ちで引き受けたものの、詩のテーマの根本的な変更なのでなかなか筆が進まない。机の上に広げた原稿用紙をにらんであれこれ悩んでいるうちにとうとう放送の当日になってしまった。あわてて歌詞を書き上げ、NHKに駆けつけると童謡歌手の川田正子を連れた海沼が待ちかまえていた。ここで海沼からまたもや注文が入る。それは「星月夜」という題名が「ホシヅキヨ」と濁音が入るのは童謡の題名としてはあまり面白くない。1番の歌詞からとって「里の秋」としたらどうかということであった。とにかく時間がなかったので、もう題名など何でもよいという感じで海沼の意向に従うことにした。そして昭和20年12月24日、「外地引揚同胞激励の午後」という番組でああ 父さんよ ご無事でと今夜も 母さんと 祈ります川田正子が歌い終えたとき、スタジオ内がしーんと静まりかえった。そしてスタッフの誰もが一瞬、心が浄化されるのを感じた。次の一瞬、我にかえるとデスクの電話という電話がけたたましく鳴りだした。さっき放送された歌についての問い合わせがNHKに殺到したのである。さらに翌日以降も問い合わせや感想の手紙が束になって押し寄せた。一つの歌にこれほどの反響があったのはNHKでも初めてのことであった。かくて、一躍大ヒット曲の作詞者となった斎藤信夫はその後も海沼と組んで叙情的な作品を多く残すことになる。だが根っからの教師であった彼はプロの作詞家になる道は選ばず、やがて教職に復帰した。また、それまでの間は川田正子の家庭教師をして急場をしのいだ。もうひとつの隠れた名作「蛙の笛」を発表したのもこの頃のことである。 2001/10/30
2015.10.12
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『週刊文春』の記事によると… 東京電力ホールディングス(以下、東電)の元副社長・石崎芳行氏(64)が「週刊文春」の取材に応じ、福島県内に住む被災者A子さんと不適切な関係にあったことを認め、その後のトラブルについて語った。 「この半年間、悩み続けてきました。どうしたら死ねるのかという考えも頭をよぎりました。ただ文春から取材の連絡がきたときに決心しました。もう洗いざらいお話ししようと。そのために昨日、会社に退職願を提出しました。会社や家族、被災地の方々にご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」 1977年、東電に入社した石崎氏は、福島第二原発所長や副社長を経て、2013年1月に福島復興本社の初代代表に就任。昨年6月からは福島担当特別顧問だった。東電の最高幹部であり、“福島復興の顔”でもあった石崎氏は、3月28日に辞表を提出。同月31日付で福島担当特別顧問を退任している。 石崎氏のお相手は50代の独身女性A子さん。彼女は福島や東京を拠点に、被災地支援の活動を精力的に行う運動家でもある。A子さんが主宰する団体の活動はマスコミに度々取り上げられ、震災復興に尽力したとして、「日本復興の光大賞」を受賞したこともある。▼福島県内に住む被災者A子さんの正体は、前川喜平氏とも交流がある『番場さち子』だと特定される15年7月、東電の復興本社があったJヴィレッジで2人は出会った。翌16年4月に男女の仲となり、交際は1年半ほど続いた。東電の広報部は「(2人の関係、公私混同については)会社として承知しておらず、回答を差し控えたい」と答えた。4月5日(木)発売の「週刊文春」では、石崎氏、A子さんへの長時間のインタビューにより、福島の復興に水を差しかねないトラブルについて詳報している。また「週刊文春デジタル」では、石崎氏の告白動画《完全版》を同日朝5時より公開する。
2018.04.07
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少しだけ運営に携わりました。
2017.10.07
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おかげさまで川越市内に配達される公明新聞の部数が有権者の1%を超えました。ふぅー。よかった。
2017.01.26
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