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あき@たいわんさん
婆裟羅大将さんコメント新着

パリコレが終わった後、私たちは80年代に俄然クローズアップされてきたミラノに飛んだ。パリを飛び立ったアリタリア航空の飛行機では、機内アナウンスもイタリア語とフランス語だけ。さっぱりわからなかった。
リニャーテ空港から到着したホテルは、DUOMOの真横にあった。あまり近すぎて、DUOMOの威容がわからないほど。正面の広場に群がる鳩を見て、「なんだ、浅草とそう変わらないじゃないか」と思った。
まだスピーガ通りにも「おっ!」と目を引くショップも少なく、ようやくアルマーニが注目されはじめ、ベネトンが後染め技術でショップ展開を本格化する前だった。まだまだローマブランドが中心で、せいぜいフィオルッチが異色だったころではないだろうか。
ヨーロッパ中の生地のコレクションであるイデアコモに行った。ミラノ北駅から、昔の南武線みたいな電車で行く。コモ北駅から会場はコモ湖畔を歩いてすぐだったのだが、湖の向こうに真っ白なアルプスが見えたのには感動した。
コモ北駅近くにセントマリアデレグラツィエがあったので、「もしかしたら?」と入ってみたら、やはり「最後の晩餐」が飾られている教会だった。最後の晩餐はつい去年あたりに工事の完成を見たようだが、30年ぐらいかけて修復をしていたことになる。
帰り道、パリ経由で帰ったのだが、ミリタリールックに身を包んだ私はアラブゲリラの嫌疑をかけられ、空港警察に裸にされての取り調べを受けた。ただでさえショックで飛行機に乗り込んだのに、帰り道のアンカレッジが濃霧で降りられず、フェアバンクスに降りて半日ぐらい時間つぶしをすることになった。
スッチーたちは業務放棄をしてしまうし、最悪の環境だったのだが唯一良い報せ。鈴木義行総理大臣がたまたま訪米の帰りに、やはり霧でフェアバンクスにいたことだ。本来なら成田の門限で帰れないところだったが、総理大臣の飛行機が帰るってことで、オマケで一緒に成田に降ろしてもらえた。・・・日本に帰れたのはうれしかったのだが、成田から自宅のある横浜までのタクシーが遠かったこと、高かったこと。なんだか最後までトラブル続きだったのだが、だからこそ印象に残った初旅行だった。