陶玄郷だより (フラクタルの森)
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自殺志願者に訴えたい。究極の損得を考えてみてくださいと。人は、誰でも自分が得になる事をしようとします。でも、多くは、目先の事、自分の事、狭い時間と空間での損得ばかりを考えてしまうものです。では、何が、究極的な損得なのでしょうか。それを理解するためには、人間学が必要です。人間とは何か?人間の生きている時間と空間はどれだけの広がりが有るのか?そもそも、私たちを含めて、この宇宙はどのような構造になっているのか?また、どのような使命と目的が有って存在しているのか?正しい世界認識が無ければ、究極的な損得など分からないでしょう。損と思っている事が得になり、得になると思ってした事が損になっていったりします。そのためにも「真理の探究」が必要であり、それに基づく「正しき心の探究」が不可避なものとなるでしょう。フラクタルの森で考えていきますと、人の心の遺伝子には、「お役に立ちたい」という理念が書き込まれています。それが自己の存在意義として心の満足に大きく関わります。その心の満足こそが最大の得となるものでしょう。ただ、それがストレートに出てこないで屈折して出てきます。狭い空間だけ(自己中)で考えると変な自慢話をしてみたり、変な自己顕示欲になって、社会のお役に立った結果得られるもので自分を飾ろうとします。それがお金だったり、高級車だったり、社会的名声地位であったりします。原因、背景がともなったものであるのなら当然の事でありますが、欲と絡めて結果だけに固執しがちにもなります。念が強くても結果を出せなかったときには、その反動が出て、反社会的な行動をとったりします。私も覚えが有りますが、心が暴走している時は結果主義になっていて自己顕示欲だけが前面に出て周囲に迷惑をかけます。しかし、その心の奥では「自分は、お役に立てる存在意義の有る人間なんだ」と叫んでいたように思います。客観的に見れば蛇行して振れているだけなのですが・・・・極端まで行くと寝屋川の少年犯罪などのように全く逆の行動に出たりもします。また、念の方向が逆に働き反対に蛇行すると自分自身を滅ぼすような行動にも出ます。自分を傷つけたり自殺する事が有ります。他人に害を及ばさずに自分自身の命を絶つわけですから、それほどの罪悪感は無いでしょうけれど、先にあげた事と現象として両極端が現れているにすぎません。結果主義や焦る気持ちが有ると、大きくぶれる事になります。友人や家族を悲しませたとしても、他人を傷つけたりしないのだから良いような気もします。死ねば全てが終わり、何の責任も負わなくて良いのなら自殺も良いでしょう。この世的な友人や家族の悲しみは一時的なものであり過ぎゆくものです。しかし、死=無ではない。心の世界は残る。幽霊話が有るようにあの世はある。責任をとらなくてはならない世界が有る。次のコラムを参考にして下さいhttp://www.furakutaru.com/furakutaru/030513.htm
2005.02.23
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