昭和三八年四月二十一日の追悼式での弔辞 一 数年前、私は静岡県磐田市の青山士さんの家を訪れたことがある。そこは彼の祖先の地であり、昔代官屋敷と呼ばれた一廓で、由緒ある大きな屋敷に、青山さんは夫人と一男多恵君と一緒に暮らしていられた。老樹に囲まれ、庭には竹の植込みが清々しく、静かな一夜を私はここに御厄介になった。それから後、青山さんは何かの機会に一、二度上京されたらしいが、行き違ってお目にかかれず、今にして思えば、それが最後の対面となった。 そもそも、青山さんを初めて識ったのは、大正二、三年の交、私のまだ大学生時代で、彼がパナマ運河の工事から帰国された頃であったであろうか。それから約五十年の日が流れており、青山さんの生涯にも推移があったけれども、ただ一つ変わらないのは、その頭髪がいつまでも漆黒であったように、彼にはいつも若々しい精神―永遠の青年を想わしめるものがあったことである。引退の生活とはいうものの、静岡県ほか近県の土木事業の顧問や嘱託をせられ、地方・郷土の開発と、そして青年の教育に関心を持ち、つねに尽力されていたようである。私がその地を訪れたのも、彼の依頼による講演のためであった。 青山さんは、齢をとっても、常に未来を夢見、前方を望んで、めったに過去を語らず、ことに自分自身について話したことがない。生涯に唯一度『パナマ運河の話』という小冊子を書いたが、それは昭和十四年五月、わが国土木技師最高の地位である内務技監を辞せられて、私と同じ下落合に住んでいられたときで、恩師や友人の奨励と援助に対する感謝のためと、同時に後から来たるもののために幾分の参考にも、と書かれた報告書である。非売品であったため一般の人の手には入らなかったと思う。 青山さんはパナマから帰って後、大正年代と昭和の初年代の、いわば人生の働き盛りを、内務省土木技師として、われわれ東京都民が現在も恩沢を蒙るっている「荒川放水路工事」と、難工事と称せられた「信濃川分水工事」の二大事業の主任として、大きな功績を残されたが、その名を知る人は関係者以外には殆んどなかったと言ってよい。それが初めて世に紹介されるに至ったのは、戦後も昭和三十一年二月号の『ニューエイジ』と称する小冊子のルポタージュとして「治水工事の陰に―青山士の記録」においてであった。期せずして同年、小学校五年生のための副読本『ことわざ物語』の中の一節「放水路をつくったなかま―縁の下の力もち」として、その生涯が漸く日本の子供の間にも知られるようになった。 人間の真価とは、そういうものである。広く知られていないということと、その人の偉大さとは何の関係もないことである。 私は数日前に、青山さんを弔い、その遺蹟を偲ぶために、建設省の事務官に案内を請うて、荒川放水路の岩淵水門を訪ねた。そこは、われわれがかつて一高の生徒の時に墨堤からボートを漕いで遡って往ったところである。水門はちょうど荒川本流から隅田川に分れる入口に作られてある。工事事務所はその後荒川下流管理のためと高浪や地盤沈下に対する新しい修理工事のために現在もあり、当時青山さんの下で働いた技官一人、労務員二人、いずれも七十五歳を超えた人たちが残っており、いろいろ青山さんのことを懐かしみ語ってくれた。所長は、青山技師の構想の四十年後の今日に至っても雄大であることを称揚していた。この水門の近くに、余り大きくない楕円形の自然石に銅板をはめ込んだ記念碑が建てられてある。それも当初は地面にじかに据えられていたため、夏は青草に埋まるのが常であったのを、数年前、小高く台石を築いたという。 その碑文には、青山技師の文案で、 此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労トヲ払ヒタル我等ノ仲間を記憶セン為ニ」 と刻まれてある。そして、青山技師の名はどこにも見出せない。そこに青山士という人の謙譲と、労苦を偕にした仲間の者に対するいたわりと愛情がにじみ出ている。真に偉い人とは、このような人をいうのであり、自分は下積みになり、縁の下の力になって、他人の幸福のために労苦する人のことなのである。 二 さて、かように青山という人の偉大な功績は、次第に知られるようになっても、彼が、一人のキリスト者として、熱心な信仰を抱いていたことを知る人は未だ少ない。だが、彼の生涯の事業―パナマ運河開鑿―への参加をはじめ、荒川・信濃川の工事も、彼を奮い起たせ、働かしめた原動力は、実にその青年時代に与えられたキリスト教の信仰にほかならなかったのである。信濃川分水の記念碑に刻まれた、 「万象に天意を識る者は幸いなり」 という文句は、神を信ずる人にして、初めて言い得るところである。終戦後、連合軍は新潟にも進駐して来たが、以上の碑文の下に添えてあるエスペラント訳を読む人があって、この聖書に通ずる言葉を誰が書いたのかと、訊いて来たということである。 私はこのたび青山さんの親しい友人から聞いて初めて知ったのであるが、その生涯を通じて彼を導いたモットウは、 I wish to leave this world better than I was born. (私はこの世を私が生まれて来たときよりも、より良くして残したい) というのであった。これこそは、青山さんが一高生徒のころ私淑した内村鑑三先生の『求安録』から学んだ句で、氏が大学に入って土木工学を一生の業として選んだのも、この言葉が決定したのである。われわれの生まれたこの地―洪水が襲い、疫病が蔓るこの大地―を、少しでも良くして、後代に残したいというのが、神から示された青山さんの生涯の使命であったのである。宗教的信仰さえもが大きなマス・コミの波に流されている時代に、彼はその一生、おそらく信仰について、一片の文章も書かず、一度の説教も試みたことはなかった。ただ黙々と、己が命ぜられた「地の仕事」に、すべてを打ち込んだと言っていい。 だが、彼は一介の技師ではなかったと同時に、また、いわゆる世のクリスチャンとは異なって、その信仰は地に着いていた。人間的な教養と日本的=東洋的な趣味に豊かで、漢詩や俳句も愛誦した。それは青山家父祖伝来の精神かと思われるが、彼はよくその土台にキリスト教信仰を接木した人と称してよいであろう。令嬢が嫁するときに、日本の武士の家庭の習慣に従って、一振りの懐剣を与えたということであるが、そこには趣味以上にその性格と精神がよく象徴されている。青山士(あきら)はその字の示すごとく、実に士(さむらい)らしいキリスト者であった。彼はそれほど祖国日本とその伝統を愛した。だが、それと同時に、いな、それ以上に、人類と正義を愛した。前述の信濃川分水工事の記念碑の裏面には、「人類ノ為メ国ノ為メ」と、彼は誌した。日本の河川の工事を竣工する場合にも、それが人類の幸福と世界の平和につながるものであらんことを、青山技師は絶えず願ったのであった。太平洋戦争中、軍人がパナマ運河をどうしたならば破壊することができるかを教えを請うたとき、彼は答えて言った。「私は造ることは知っているけれども、壊し方は知らない」と。 青山さんは何にもまして聖書を読んだ。それも注解書を参考したり、また研究するというのではなく、唯ひとり聖書そのものを幾度も読んだ―あたかもその言が自分の血肉とならんことを願ったかのように。左に、彼が生涯において、なかんずく愛誦したと思われる聖書の言を引用した。 「我汝に命ぜしに非ずや。心を強くし且つ勇め。汝のすべて往く処にて汝の神エホバ偕にいませば懼るることなかれ。戦慄なかれ」(ヨシュア記一ノ九)