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楽天の再登録の表示のままに設定したら、以前一度登録したことのある gaia2014 に画面が変わり、戻れない。ジョージ「本当に岡山に行かずに帰っていいの? 前回も行かなかったんだろう。後悔しないといえる?」アニー「It's my life. And that's the way life is.(私の人生よ。そしてそれが人生っていうものなの)」
2022.03.28
2022年3月28日報徳記を読む 第一集 【5】先生桜町陣屋にあり艱難に素し興復の道を行ふ 6私ひそかに婦人ふじんに命めいじて曰いはく、彼かれ性せい大おほいに酒さけを好このめり、朝あさ起おきるを待まつて酒肴しゆかうを備そなへ彼かれに告つげて曰いへ、子し此この地ちに至いたるより以来いらい、実じつに邑中いふちゆうの為ために労らうすること容易よういならず、責せめては一盃はいを飲のみて其その労らうを補おぎなひ玉たまへと、金次郎きんじらう妾せふに命めいじて邑中いふちゆうに至いたれりと。酒肴しゆかう尽つくる時ときは別べつに備そなへ置おき又また之これを出だすべし。終日しうじつ酒肴しゆかうを絶たつことなかれ、是これも亦また方法ほうはふ成業せいげふの一端たんなり、必かならず過あやまつことなかれと。婦人ふじん其その言げんの如ごとくにして美酒びしゆ佳肴かかうを出だす。某ぼう大おほいに悦よろこび、再さい三之これを謝しやして飲食いんしよくする終日しうじつ息やまず。爾来じらい日々にちにち此この如ごとくにして一日にちも酒肴しゆかうを備そなへざることなし。某ぼう弥々いよいよ悦よろこび、其その酒肴しゆかうに飽あく事ことを楽たのしみとなし敢あへて邑中いふちゆうに至いたらず。奸民かんみん屡々しばしば来きたるといへども、某ぼう沈酔ちんすゐ言語げんご分明ぶんめいならず、奸民かんみん之これが為ために謀はかりごとを合がつするを得えず。先生せんせい此この時ときに当あたり、専もつぱら邑中いふちゆうに力ちからを尽つくし困民こんみんを撫ぶし、荒蕪くわうぶを開ひらき、凡およそ旧復きうふくの事業じげふ夜よる以もつて日ひに継つぐ丹誠たんせいあり。数歳すうさいの後のち、某ぼう終つひに自みずから省かへりみ自みづからを責せめ、慚愧ざんきして前非ぜんぴを改あらため、興復こうふくの道みちを勉励べんれいするに至いたる。是こゝに於おいて其その有益いうえきも亦また少すくなからず、実じつに徳化とくくわの然しからしむこと感かんずべし。・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等で輪読などされたい読書会等がありましたら、寄贈した図書館の本(「報徳記を読む」シリーズ)の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。令和4年2月26日現在「報徳記を読む」第一巻全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年3月発行)蔵書図書館一覧 全 62図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 35図書館北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、富山県、石川県、愛知県、三重県、京都府、奈良県、和歌山県、兵庫県、島根県、岡山県、広島県、徳島県、福岡県、長崎県、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島、沖縄県市区町村立図書館 192図書館(北海道)札幌、江別市、富良野市、旭川市、北斗市、帯広市、苫小牧市、小樽市、恵庭市、北見市、釧路市、芦別市、岩見沢市、比布町、京極町、美幌町、八雲町、厚岸町、別海町、佐呂間市(青森県)八戸市、十和田市、五戸市、五所川原市、藤崎町、板柳町、弘前市、平川市、三戸町、六ヶ所村、おいらせ町、野辺地町(秋田県)横手市(岩手県)盛岡市、奥州市、花巻市、遠野市、二戸市、大船渡市、金ヶ崎町(山形県)米沢市(宮城県)石巻市、名取市、加美町(福島県)郡山市、相馬市、南相馬市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市、須賀川市、南会津町、三春町、新地町、(栃木県)足利市、日光市、栃木市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市(茨城県)水戸市、ひたちなか市、土浦市、筑西市、常総市、桜川市、笠間市、常陸太田市、ゆうき市、八千代町(群馬県)藤岡市、館林市、渋川市、富岡市(埼玉県)さいたま市、所沢市、越生町(千葉県)千葉市、鎌ヶ谷市、市原市、流山市、成田市(神奈川県)横浜市、藤沢市、秦野市、相模原市、小田原市、小田原市立小田原駅東口、厚木市、大和市、海老名市、平塚市、伊勢原市、大磯町、逗子市、南足柄市、横須賀市、二宮町、寒川町(新潟県)五泉市、新発田市、南魚沼市(長野県)長野市、安曇野市、松川村、白馬村、(静岡県)静岡市立清水、浜松市、下田市、磐田市、袋井市、三島市、御殿場市、掛川市、富士市、森町、小山町、川根本町(富山県)富山市、滑川市、黒部市(石川県)金沢市、加賀市、羽咋市、七尾市(福井県)あわら市(愛知県)名古屋市、安城市、岡崎市、新城市、武豊町、愛西市、豊川市、津島市(三重県)名張市(京都府)南丹市、京丹後市(奈良県)奈良市(大阪府)大阪市(兵庫県)姫路市、三田市、赤穂市(島根県)松江市(広島県)広島市(山口県)防府市(徳島県)三好市、吉野川市、牟岐町、阿波市、小松島市、松茂町(香川県)善通寺市、観音寺市、高松市、東かがわ市(高知県)土佐市、四万十市、南国市、いの町(愛媛県)西条市、今治市、西予市、大洲市、伊予市、八幡浜市(大分県)佐伯市、臼杵市、日田市(長崎県)長崎市、佐世保市(佐賀県)多久市(熊本県)上天草市、水俣市、人吉市(宮崎県)宮崎市、都城市、えびの市、小林市、日南市、延岡市(鹿児島県)薩摩川内市、指宿市、日置市、姶良市、霧島市、与論町、大崎町、南大隅町(沖縄県)石垣市、北谷町💛りく「夫に妾がいて、それを心より許せる女子など、都にだっておりませぬ!夫がそんな物言いとは、懸命に御台たろうと励んでいる政子が憐れでなりませぬ」政子「女子同士でつまらぬ争いをしてしまったこと、恥ずかしく思います。肝心なのは夫の裏切り」りく「咎めるべきは夫のふしだら」源頼朝「黙れ!わしに指図するなど、もってのほか!源頼朝を愚弄すると、たとえおまえたちでも容赦はせぬぞ!身の程をわきまえよ!下がれ!」北条時政「源頼朝が何だってんだ!わしの大事な身内に、ようもそんな口を叩いてくれたな!たとえ鎌倉殿でも許せねぇ!」「時政殿は酔っておいでですよね」時政「言っちまったぁ。いや、シラフだ。どうやら、ここまでのようだ。小四郎、わしは降りた。伊豆へ帰る。やっぱり、鎌倉の暮らしは窮屈で性に合わん。伊豆へ帰って米を作っておる方がいい。小四郎、あとは任せた」
2022.03.28
信長のデスマスク:“本物”がテレビ初公開2014年07月30日 織田信長直系の子孫に代々伝わる“織田信長のデスマスク”が、29日放送のバラエティー番組「アメージパング!」(TBS)で、テレビ初公開された。デスマスクは、過去に数回、さまざまなテレビ番組で取り上げられてきたが、今まで紹介されていたのはレプリカだといい、“本物”が紹介されるのは今回が初という。番組リポーターを務めるオーストラリア人のクリス・グレンさんは、デスマスクを見て「結構鼻が高いですね。力強い感じがする」「威圧感がある」と、興奮気味に感想をつぶやいた。 当時「御霊(みたま)」と呼ばれていたというデスマスクは、信長に仕えていた外国人の部下・弥助(信長が日本名を命名)によってひそかに持ち出されたという信長の首から作成されたと伝えられている。信長直系の子孫に代々受け継がれ、現在は愛知県瀬戸市にある「西山自然歴史博物館」の館長で、43代目の子孫の西山さんが所有。とても柔らかく、窯で焼かなくてもすぐに乾燥する五斗薪粘土(ごとまきねんど)で作られている。五斗薪粘土は1582年から約300年間使用されていたが、今は採取できない素材ということから保管されているものは“本物”といわれており、木をくりぬいて作った箱の赤い布が敷かれた中に納められ、「信長公御霊」という文字が書かれた紙が添えられている。 これまではデスマスクは神聖なもので、テレビなど公の場に披露するものではないという考えから、レプリカを公開してきたが、同番組が「日本好き外国人が日本をリポートする」というコンセプトだったことと、信長が外国人を重んじたこと、信長の首からデスマスクを作らせた弥助も外国人だったということから、「(番組リポーターを務めるオーストラリア人の)クリス・グレンさんの願いなら、断るのは信長の意志に反する」と、デスマスクを所有する信長直系の43代目の子孫にあたる西山武さんが、今回のテレビ初公開を了承した。「アメージパング!」は、TBS(関東ローカル)で毎週深夜0時41分〜1時11分放送。
2014.08.02
ウイグル族元大学講師を起訴・・・授業中に「抗日戦と同じことだ。政府に抵抗せよ」=中国2014-07-31 新疆ウイグル自治区ウルムチ市検察院は30日、元中央民族大学講師のイリハム・トフティ氏を、国家分裂罪の疑いで起訴したと発表した。イリハム氏はウェブサイトを開設して「東トルキスタン独立」を訴えていたほか、中央民族大学の講義でも「ウイグル人は、かつて日本の侵略に抵抗した時と同様に政府に抵抗せよ」などと訴えたとされる。 中央民族大学は北京市内にある。「民族大学」、「民族学院」とは少数民族の幹部育成のために設けられた大学で、学生は基本的に少数民族。実際には中学からの課程を設けている場合が多い。北京にある中央民族大学(1951年設立)のほかに、西北民族大学(甘粛省蘭州市。1950年設立)、西南民族大学(四川省成都市。1951年設立)、中南民族大学(湖北省武漢市。1951年設立)などがある。 イリハム氏は北京市内の自宅で、ウルムチ警察に身柄を拘束されたとされる。ウルムチ警察は2月25日、家族に対して国家分裂罪で同月20日付で逮捕したと通達した。 イリハム氏はウエブサイト「ウイグル・オンライン」を開設し、同サイトのスタッフを組織。さまざまなデマにより民族間の対立や「新疆独立」をあおりたてたとされる。 中央民族大学の講義では、ウイグル関連で発生したテロ事件の実行者を「英雄」とたたえ、「ウイグル人は暴力を用いて闘争せよ」、「ウイグル人は、かつて日本の侵略に抵抗した時と同様に政府に抵抗せよ」と訴えたとされる。 ウルムチ警察は、「イリハム・トフティは教師の身分を利用し、勧誘や脅迫によりグループを形成した。国外の東トルキスタン独立勢力の中核と連携して人員を派遣して分裂活動に参加させた。警察は綿密な内偵で、イリハム・トフティに国家分裂罪の容疑がある確固たる証拠をつかんだ」と発表した。
2014.08.01
<原発再稼働>小泉元首相「原発はあきらめるしかない」毎日新聞 7月31日(木)19時1分配信<原発再稼働>小泉元首相「原発はあきらめるしかない」小泉純一郎元首相=矢頭智剛撮影 小泉純一郎元首相は31日、九州電力川内原発1、2号機の再稼働に関連し「政府が安全だから(再稼働を)進めると言うが、原子力規制委員長が安全とは言えないとしており、矛盾している。おかしい」と述べ、安倍政権が進める原発再稼働を強く批判した。細川護熙元首相と東京都内で開かれた太陽光発電などに関する展示会を視察後、記者団に語った。 小泉氏は「原発はあきらめるしかない。夢のある(再生可能)エネルギーは政治次第でうんと伸びる」と強調、原発ゼロと再生可能エネルギーの推進を改めて訴えた。
2014.08.01
非暴力は限りなく暴力に優り、情けは懲罸よりも男らしいといふ事を私は信ずる。情けは武士を飾る。しかし、情けとは懲罰の権力ある強者のみがもつ特権である。無力な弱者が情けをかけるということは意味をなさない。猫に食い殺されようとしているネズミが、猫に情をかけることはできない。故に、私はダイヤー将軍及その一味の者に対して、彼等の罪悪に相当する懲罰を加えよと叫ぶ人々の感情が分る。彼らはもしできることなら、ダイヤー将軍を八ツ裂きにしたいと思っているのだ。私は自分が無力な弱者であるとは思っていない。ただ私はインドの力と自分の力をより良き目的のために用いたいと考えているだけだ。 私の言うことを誤解してくれては困る。力は体力から生ずるものではない。それは不屈不撓の意志から生ずるのだ。普通のズールー人は体力では普通のイギリス人よりも遙かに優れている。ところが、ズールー人はイギリス人の少年を見ると怖がって逃げる。それは、その少年の持っている拳銃、又は少年のために拳銃を用いる人を怖れるからである。彼らは死を恐れるのだ、したがって身体が逞しいのに似合はず臆病なのだ。われわれはこのインドにおいて、十万のイギリス人が3億の人間を脅かす必要のない事をすぐ悟り得るであろう。それ故に、思い切った情けはわれわれの力の確認を意味する。文化的な情けと同時に、吾々の心の中に、ダイヤーやフランク・ジヨンソンのごとき徒をして、敬虔な印度人の頭に再び侮辱を加えしめないような強大な力の波が起らねばならない。現在私が自分の目的を達し得ないことは、私にとっては何でもないことだ。われわれは腹を立てず、怨みを抱かずにいるには、あまりに踏みつけられていることを感ずる。けれども私は、インドは懲罰の権力を振うことによってより利益を得ると公言することを控えなくてはならない。われわれは、世界のためになすべきより良い仕事と、宣(の)べるべき、よりよい使命をもっている。 私は夢想家ではない。私は実行的理想家でありたい。非暴力の宗教はただ聖徒や賢者のためにあるのではない。それは又普通人のためにあるのだ。暴力が動物の法則であるように、非暴力は人類の法則なのだ。動物にあっては精神は眠っている、動物は体力の法則の他には何らの法則を知らない。万物の霊長たる人間は、それよりもより高い法則――精神の力に従うを要する。 それ故に、私はあえてインドに自己犠牲という古い法則を提供したのだ。何となれば、サティアグラハ(真理の把持、真理の力)及びそれから生れた「非協力」や「市民的不服従」は、受難の法則の新らしい名前に過ぎないからである。暴力のまっただ中において非暴力の法則を見い出した聖者たちは、ニュートンより偉大な天才であった。彼らはウエリントンより偉大な戦士であった。武器の使用の範囲を知った彼らは、その無用なことを悟り、悩める世界に向って、救いは暴力に存せずして非暴力に存することを教えたのである。 動的状態における非暴力は、意識的の受難を意味する。それは悪をなす者の意志におとなしく服従することを意味しない。われわれの全精神を挙げて圧制者の意志に反抗することを意味する。人類のこの法則に従って行動するならば、一個人にしてよく不正な国家の全権力に反抗し、その名誉、宗教、霊魂を救い、国家の没落もしくは再生の基礎をうち建てることができる。 従って、私はインドが弱いから非暴力を実行せよというのではない。私は、インドがその力を自覚して、非暴力を実行することを望む。インドが自己の力を自覚するには、何らの軍隊的訓練を要しない。われわれがややもすれば自己は一塊の肉に過ぎないと考えるから、そんなものを必要だと思うのである。私はインドがあらゆる物質的弱点を超越して凱歌を挙げ、全世界の物質的結合を蔑視し得る不滅の霊魂をもつことを自覚することを望む。猿の群れを引き連れた一人の人間ラーマが、ランカの怒とうによって保護されている傲慢な十個の頭をもったラヴアンの力に反抗するという聖典中の物語は何を意味しているか。それは精神力の物質力征服を意味していないか。しかし、私は実行家として、インドが政治界における精神生活の実行力を認めるまで待ってはいられない。インドは自己が無力であると考えてイギリス人の機関銃や、戦車や、飛行機の前に萎縮した。そしてインドは自己が無力であるから「非協力を採用」した。この非協力は同じ目的に役立つに違いない、すなわち十分に多数のインド人がそれを実行するならば、イギリスの不正の荷担からインドを解放するに違いない。 私はこの「非協力」をアイルランドのシン・フェーン主義(アイルランドの政党。Sinn Feinはわれわれ自身の意味。1905年A.グリフィスが英国からの民族独立をめざす政治結社として結成。)と区別する。何となれば、「非協力」は暴力と肩を並べて進むことを許さないからである。私はこの平和的な「非協力」の試用を暴力派の人々に勧める。「非協力」はもともと弱いものだから、失敗することはないだろう。それは手答えがないために失敗するかも知れない。それが真に危険な時期である。国民的屈辱をもはや忍べなくなった高潔の士は、その怒りを漏らしたくなるであらう。彼らは暴力に訴えるであろう。しかし私の知る限りでは、彼らは彼ら自身又は彼らの祖国を非道な待遇から解放することができずに死ななければならない。もしインドが剣の教義を採用したら、一時的の勝利を得るかも知れない。が、その時には、インドは私の心の誇りとはならなくなる。私がインドに愛着を感ずるのは、私のすべてを印度に負うているからである。私はインドが世界に対しして一つの使命をもっていることを堅く信じている。インドは盲目的にヨーロッパを模倣してはならない。インドが剣の教義を採用する時は、私の試練の時であろう。私はその時が来ないことを望む。私の宗教は地理的限界をもたない。その信仰を把持する時それは私のインドに対する愛をも凌ぐであろう。私の生涯は、私がインド教の根柢であると信ずるところの非暴力の信仰によって、インドのために尽くすことに捧げられるであろう。 私は私を信じていない人にあえてお願いするが、私を暴力主義者と考えて、暴動を扇動し、始まったばかりの闘争の円滑な進行を妨げないように望む。私は、祕密は罪悪として嫌っている。試みに諸君は「非暴力的非協力」を行って見られよ、しからば私が何ら隠し立てをしていないことが分るであらう。 (1920年8月11日「ヤング・インデイア」紙所載)
2014.07.29
日常的に愛飲している人も多いコーヒー。ワインと同様に、こだわりを持つ人も多いが、意外にみんなが常識と思っていても、専門家が見ると間違っているコーヒー関連の知識は多い。ここでは、島根県松江市のカフェ「CAFFE VITA」オーナーである門脇裕二さんに正しいコーヒーの知識を紹介してもらう。自宅でコーヒーを淹れる人の中には、「コーヒーの風味が飛ばないように、豆や粉を冷蔵庫で保存する」という人は少なくないだろう。しかし、意外にもこれはNG。門脇さんによると、冷蔵庫だと、コーヒの脱臭作用によって冷蔵庫内のにおいがコーヒーに移ってしまうそう。コーヒーを淹れたときに冷蔵庫内のにおいがすることもあるいう。冷蔵庫のにおいするコーヒー……想像しただけでもゲンナリする。コーヒー豆や挽いた後の粉を保存するのに最も適している場所は「冷凍庫」。「凍ってしまわないの? 」という心配は無用。「焙煎後のコーヒー豆の水分含有率は約1%。なので、凍りません」と門脇さん。さらに、「冷凍庫は冷蔵庫より空気の回りがゆっくりなので、においも吸いにくいです」と冷凍庫保存のメリットを解説する。使用するときも解凍の必要はなく、常温のコーヒー豆やコーヒー粉と扱いは一緒。ただ、冷凍庫から取り出したらすぐに挽くなり、淹れるなりする点が重要。その理由は、「時間が経つと、温度上昇のため劣化してしまうから」とのこと。冷凍庫での保存期間は、豆のままであれば約3カ月、粉の状態であれば約1カ月はもつという。1週間ほどで使い切る場合も冷凍庫で保存すると劣化が防げるのでお勧めだ。
2014.07.28
「心の革命」199ページより私はある出会いから『心』というものの偉大さを知りました。 盛岡に『竹芳』という和菓子屋さんがあります。 長沢良武さんという人がやっているのですが、彼の名刺には「創菓師」と刷ってあった。 盛岡のような地方でも京都のような創造的なお菓子をつくりたいという彼の志がそこにあらわれているのです。 私は宮沢賢治が好きなので、毎年『賢治祭』に行くのですが、時々この竹芳に寄ってお菓子を買います。ところが、あるとき行ってみると、主人の長沢さんが出てこないのです。 奥さんがお菓子とお茶を出してくれましたが、主人はまかなか出てこない。 何か用事でもあって出かけているのだろうと思い、 「そろそろ帰ります」と言うと、 奥さんが「主人に会ってやってくれませんか」といいます。 二階の社長室にいるというので上がっていくと、出てこない理由がすぐにわかりました。 「いやあ、お久しぶり」と手を差し出したのですが、 二人の手がぴたっと合わないのです。 見えていないのです。 彼は両目とも見えなくなってしまっていました。 私はものすごくショックを受けました。 彼に話を聞いてみると、彼がこの店をオープンした3年前にすでに片目ガ見えなくなっていたそうです。それから3年間、朝起きるのが怖くて仕方がなかったといいます。 今日は見えるのだろうかと心配で、怖かったのです。 一方が見えていればまだお菓子はつくれますが、両目が見えなくなってしまえば、お菓子をつくることはできません。 機械でいえばスクラップも同然です。 彼は当初はやけくそになって死のうと思ったようです。しかし、彼は目が見えなくなって逆に見えるものがあることに気づいて死ぬことをとどまったといいます。 何が見えるようになったのですかと私が尋ねると、彼は東京に行ったときの話をしてくれました。 彼が用があって東京に出向いたとき、人に道をたずねると相手は目が見えないから口でいっただけではわからないだろうと、手を引いてその場所まで連れていってくれたそうです。またタクシーに乗ってあるビルに行きたいというと、運転手さんがちゃんとそのビルまで連れていってくれ、自分まで降りてビルの入り口まで手を引いてくれました。そういう体験をして、長沢さんは人の親切の心が見えたといいます。 目が見えていたときはそんなものを感じることはありませんでしたが、目がみえなくなって初めて人の親切、やさしさが見えてきたというのです。 目が見えていたときは、何もかも見えていたつもりだったが、実は目が見えているからこそ見えないこともあることに気づいたわけです。この話をある人にしたところ、自分の兄貴も同じような境遇にあるからちょっと会っていってくれないかといわれたことがあります。 長崎県の諫早に行ったときのことです。その人のお兄さんは、高校の体操の先生をしていましたが、交通事故で両目を失ってしまったといいます。その事故のあと、そのまま学校に勤め続けることもできましたが、彼はまわりの人に迷惑をかけるのを嫌って盲学校に入り、鍼灸の先生になりました。そして全世界盲人マラソン大会に出場し7位というすばらしい成績をおさめたそうです。どうやって練習するのですかと聞いたところ、毎朝4時頃にラジカセを持って学校のグラウンドに行くといいます。そしてスタート地点でラジカセを鳴らし、耳でその音をとらえながらグラウンドを周回するそうです。 一周だいたい100メートル。それを本番前には420州するというのです。それを聞いて、私は、この世に本当のハンディキャップはないと思いました。 『心』の持ち方ひとつによって、どんな逆境もプラスに転換できる、そうやって生きる力、生きる勇気を持つことができるのは人間だけに授けられた能力だといっていいでしょう。 自己変革のポイントの一つは、本当にできない理由はひとつもないと確信しました。できないのは無理なのではなく、自分の意識ができなくなってしているのではないか。 目が不自由でも、目が見えていたとき以上に活躍している二人に会って、私はそういうふうに感じたのです。 神様からのメッセージby大野勝彦それでも生きるんじゃ それだから生きるんじゃ何だ偉そうに「格好悪い。ああ人生はおしまいだ」なんて、一人前の口を叩くな あのな、お前が手を切って悲劇の主人公みたいな顔して ベッドで、うなっていた時なー家族みんな、誰も一言も声が出なかったんだぞ ご飯な、食卓に並べるのは並べるけど、 箸をつける者はだぁれもいなかったんだぞ これまで一度も、神様に手なんか合わせたことがない三人の子どもらナ毎晩、じいさんと一緒に、正座して神棚に手を合わせたんだぞ バカが そんな気持ちも分からんと「なんも生きる夢がのうなった」 「他の人がバカにする」そんなこと言うとるんだったら早よ、死ね こちらがおことわりじゃ お前のそんな顔見とうもナイワイ どっか行って、メソメソと遺書でも書いて、早よ、死ね なー体が欠けたんじゃ それでも生きるんじゃ それだから生きるんじゃ考えてみい、お前の両親いくつと思う腰曲がって、少々ボケて、もう年なんじゃ一度くらい、こやつが、私の子どもで良かった「ハイハイ、これは私達の自慢作です」って人前でいばらしてやらんかい もう時間がなかぞ両手切って、手は宝物だった持っているうちに、気づけば良かった それに気づかんと、おしいことをした それが分かったんだったら腰の曲がった、親の後ろ姿よー見てみい親孝行せにゃーと、お前が本気で思ったら それは、両手を切ったお陰じゃないか・・・・今度の事故はな あの老いた二人には、こたえとるわい親父な、無口な親父な七キロもやせたんだぞ「ありがとう」の一言も言うてみい涙流して喜ぶぞ、それが出来て初めて人ってもんだ子ども達に、お前はこれまで何してやった作りっぱなし、自分の気持ちでドナリッパナシ思うようにならんと子育てに失敗した、子育てに失敗した あたり前じゃ お前は、子育ての前に自分づくりに失敗しているじゃなかか あの三人は、いじらしいじゃないか病室に入って来る時ニコニコしとったろが お前は「子達は俺の痛みも分かっとらん」と俺にグチ、こぼしとった本当はな、病室の前で、涙を拭いて「お父さんの前では楽しか話ばっかりするとよ」と、確認して三人で頭でうなずき合ってからドアを開けたんだぞ学校へ行ってなー「俺のお父さんは手を切ってもすごいんだぞ。 何でも出来て、人前だって平気なんだぞ」 仲間に自慢しているっていうぞ その姿思ってみい先に逝った手が泣いて喜ぶぞ しゃんとせにゃ よし、俺が見届けてやろう お前が死ぬ時な「よーやった。お父さんすばらしかった。お父さんの子どもで良かった」 子どもが一人でも口走ったら俺の負けじゃ分かったか どうせまた、言い訳ばかりしてブツブツ言うんだろうが かかってこんかい! 歯をくいしばって、度胸を決めて ぶっつかってこんかい死んだつもりでやらんかい もう一遍言うぞ大切な人の喜ぶことをするのが人生ぞ大切な人の喜ぶことをするのが人生ぞ時間がなかぞ・・・・・・・時間がなかぞ・・・・・・・
2014.07.28
私たちのしていることは大海の一滴にすぎないと感じています けれど もしその一滴がなければ海はその一滴分 確かに少ないということです私たちは数や量では考えません いつもその時たったひとりの人を愛しているのです。どんな時でも いつも ひとりのその人に集中してお世話をしているのです「マザー・テレサの愛という仕事」56ページより1948年に私はロレッタ修道院を離れました。それが私にとって初めての旅であったわけですが、ちょうどカルカッタの市街を歩いているときに、一人の司祭が私の方に向かってやってきました。そして彼は、カトリックの出版物のために寄付をお願いしたい、というのです。 一瞬ためらいました。 私は旅立つ時は5ルピーを持っていたのですが、途中で貧しい人に4ルピーを渡してしまったので、手元には1ルピーしか残っていなかったからです。しかし私はその1ルピーを彼に寄付させてもらいました。その日の午後のことです。 先ほど出会った司祭が一通の封筒をもって、私を訪ねてきました。ある人物が、私が行おうとしていることを耳にしてぜひ援助したいということで、その封筒を司祭に預けられたのだそうです。 封筒を開けてみると、そこには50ルピーが入っていました。その時私は、神が私の仕事を祝福してくださっているのだと、実感しました。そしていかなることがあっても、私を見捨てられることはないだろう と改めて思ったのです。 「同書」80ページより私たちのしていることは、大海の一滴にしか過ぎないかもしれません。しかしもし私たちの誰かがこの活動を辞めてしまったなら、大海の水は確実に一滴減ってしまうのです。 私たちは弱気になってはならないのです。 勇気を失ったり、不幸になってもいけないのです。もちろん、イエスのために活動しているわけですから、そのようになることなどありえません。 全世界に向けて、私たちは活動していきたいのです。 全世界・・・・・。なんて壮大で力強い響きでしょう。 貧しい人々は無数に存在します。しかし私たちはそれぞれ、一度に一人のことしか考えることができません。 一度に一人の人には奉仕できるのです。その一人とは・・・そう、それはイエスです。 貧しい人に食べ物を与えてあげれば、その人はきっとこういうでしょう。 「私はとてもおなかが空いていたのです。あなたは私を元気づけてくれました」と。それはイエスの言葉でもあるのです。イエスはたった一人です。 私は貧しい人々の言葉をイエスの言葉として受け止めてきました。 「あなたは私のために・・・・をしてくれましたね」という言葉を・・・・。 一度に一人の人を救うことはできるのです。そして、一度に一人の人を愛することもできるのです。
2014.07.27
ハリウッドセレブ御用達トレーナーの、ハーレー・パスターナック氏が語ったレモンの驚くべき効果についてお伝えします。■1:食欲を抑えるグレープフルーツは、食欲を抑える効果があるとして知られていますが、レモンも同じく、食欲を満たすペクチンが豊富に含まれているため、同様の効果がみられます。お腹がすいたら、レモンをちょっとかじってみましょう。また、普段からサラダやお水などのドリンクに、レモンを加えるようにもしてみましょう。ペクチンはレモンの果肉、そして皮にも含まれています。■2:体重増加や脂肪も抑制レモンの皮に含まれるポリフェノールは、体重増加や脂肪の蓄積、またインスリン抵抗性を抑える効果があると証明されています。ただ注意したいのは、レモンの皮のみにあるので、サラダやソースなどの食事に必ず皮も入れるようにしましょう。■3:免疫力を高めるレモンと言えば、やっぱりビタミンC。ドイツの研究ではビタミンCを摂ると、抗体活性や感染への抵抗性が高まると発表されています。■4:消化を助けるレモンに含まれる豊富なフラバノンが、消化管の食物の通過を助けてくれます。■5:様々な病気の予防に抗酸化成分が多く含まれているレモン。そのため脂質異常症、アテローム性動脈硬化症やがん予防として、プラスの影響を与えてくれると言われています。
2014.07.27
メリーランド州にあるケースバレーGCで開催中の8カ国による国別対抗戦「インターナショナル・クラウン」の大会3日目。予選最終日となるこの日、日本は強敵韓国と対戦、1勝1敗で2ポイントを獲得。トータル8ポイントでプールB首位で予選を通過した。 この日も宮里藍と横峯さくらがペアを組みチェ・ナヨン、キム・インキョン組と対戦。昨日は終盤で巻き返し奇跡的な引き分けに持ち込んだ藍、さくら組は今日も1番を取られ1ダウンと苦しい立ち上がりとなった。その後も一進一退の展開で1ダウンで前半を折り返す。 1ダウンと劣勢で入った後半だったが、この日は後半立ち上がりの10番パー4で横峯のスーパーショットが炸裂。フェアウェイから放った2打目が直接カップイン。イーグルを獲得しオールスクエアに戻した。そのスーパーショットでオールスクエアに戻した日本は続く11番で宮里がバーディを奪いこの日初めて1アップのリード。次の12番パー5では韓国ペアがほぼOKバーディとなるベタピンにつけるも横峯がグリーン脇からの3打目を直接決め再びイーグル。2アップに伸ばす。さらに14番では今度は宮里がバンカーから直接チップインバーディのスーパーショットを披露、3アップにリードを拡げた。3アップのリードで迎えたドーミーホールとなった16番。タイ以上で日本の勝利が決まるこのホールで両チームともにパーでタイ。日本の勝利が確定した。
2014.07.27
英・ロンドンに「原宿」出現 「ハイパージャパン」に多くの人フジテレビ系(FNN) 7月27日(日)この週末、イギリス・ロンドン市内に「原宿」が出現し、多くの人々が詰めかけている。「ハイパージャパン」と名づけられたこのイベントは、イギリス最大のクールジャパンを紹介する催し物。2014年は、東京・原宿の街並みを会場内に再現した。「KAWAII(カワイイ)エリア」に、コスプレイヤーをはじめとする現地の若者らが群がったほか、現地で最近輸入が始まった食材「和牛」を使った巻きずしなど、日本の家庭料理を紹介するコーナーでは、多くのシニア層もくぎづけになり、クールジャパン・ブームの広がりと深まりを裏づけていた。来場者は「とってもおいしかったわ」と話した。「和食」、「盆栽」といった伝統文化から、「ロボット」や「B級グルメ」などの最新トレンドまでが一堂に会した会場には、25日からの3日間で、およそ8万人の有料入場者が見込まれているという。
2014.07.27
第二章 オリバーの伝記 私の仕事というのはオリバー・クロムウェルの手紙と演説とを順序正しく収集するということである。小事業であるが有用な事業であろう。少なくとも後に出る良い伝記の予備ともなろうか。クロムウェルの多くのくだらない著述に、また一つくだらないものが加わったというまでである。 自分がクロムウェルの言を集めて整理してみると、次のことが次第に明らかになったように思われる。すなわちクロムウェルはピューリタン革命の中心人物であって、彼がいなかったならばピューリタン革命は世界史に一期を画する大事件にはならなかったであろうということ。もう一つは世間の人の考えと正反対であるが、クロムウェルは虚偽悪逆の人間ではなくて、真実の人間であり、その言は大いに意味があるということ。この二つのことである。実にその言によって見れば、彼は立派な大人物であるとしか思えない。 善人か悪人かは別問題としても、とにかくオリバーの人格、その事業の性質は、その書簡・演説によって知ることができる。これらの言によって、彼は自分のうちにあるもの、自分の外にあるものを言いあらわそうと努めた。それゆえその言葉を知ることは彼の事件の精神を知るゆえんである。願わくは、この書が数人のまじめな読者に迎えられんことを。かのピューリタン事件がこの書によって少しなりとも明瞭になれば、後の著述家によってますます明瞭になることであろう。 在来のクロムウェル伝について言うのはあまり利益がない。その多くは、偉人伝中において、その馬鹿馬鹿しさ加減において群を抜いているという代物(しろもの)である。忘れさってよい書物である。葬ってしまうのがむしろ慈善である。マーク・ノーブルは「最初のクロムウェル伝記」を六つばかり挙げたが、その六つの伝はいずれも読む価値のないものである。クロムウェルを批難する伝はたくさんあるが、その拠り所はジェームズ・ヒースの「叛臣クロムウェルの生涯と死」という書である。これはつまらない書物である。このヒースという男はただ小冊子ばかり著していた憐れな文士であった。彼はまた「内乱の歴史」というものを著しているが、やはりくだらない書物である。近世の伝記でマーク・ノーブルのものは独創的といえばいえようか。クロムウェルに関するいろいろの材料をごたごた集めてあり、くだらない考証のような所もだいぶあるが、少しは価値のあるものもあろう。しかし、ノーブルは判断力と洞察力に乏しく、多くの誤謬に陥っている。この書は伝記ではなくて、むしろクロムウェル事典である。何でもかんでも、ごたごた集めたものである。しかし、その後のクロムウェルに関する著述は、皆材料をここから引き出したのである。ノーブルはまた「レジサイズの伝」〔訳者注、レジサイズRegicidesとは弑逆者の義でチャールズ一世に死刑の宣告を与えた人々をいう〕を著しているが、これはますます拙劣な書物である。ノーブルの意見は中立であり、前後矛盾の所も多いが、まあクロムウェルをやや良く見たものといわれる。ノーブルの書は、一七八七年の出版であるが、これを一六六三年のヒースの書に比べると面白い。クロムウェルの真相が、次第、次第に一般人士に明らかになり来ったことがわかる。一六九八年、ある無名の人が初めてクロムウェルを良く見る意見を発表し、その後バンクスという人が、さらに良く見る意見を発表した。しかしいずれも良い書物ではない。クロムウェルの朝廷に仕えたジョン・メードソンの人に送った手紙はクロムウェルを知る材料になる。これは一六五九年の日付であって、一七四二年に印刷されたもので、この人は善人でクロムウェルに忠実であった。この手紙はかの十七世紀の事件に光を投じ、またクロムウェルの人物をよく描き出してある。また官内官吏のハーヴェーは一六五九年に小冊子を著したが、これはメードソンのよりも確実で趣きがある。右の二は断片ながらかえって堂々たる伝記に勝る。ノーブルが監督ギブソンの著とした匿名のクロムウェル伝が一つある。これは、本当はキムバーという人の著書で、一七二四年の出版である。この人は中立的立場(ややクロムウェル側に傾いている)を取って、種々の材料を集めてあるが、肝心なクロムウェルの人格は一向あらわれていない、また不正確な点も多い。最後としてジョン・フォスターの一八四〇年に出版した「共和政時代の政治家」という書を挙げよう。この書も古い書物から寄せ集めたものであるが、新意見がないでもない。 オリバー・クロムウェルを知るには従来の文書はすべて役に立たない。そこで私は彼の書簡と演説とを集めて、その人物を知ろうと企てる。その残っている最初の書簡の年代より以前の彼の生涯を少し記しておこう。 第三章 クロムウェルの一族 後年、英国共和政の守護官(プロテクター)となったオリバー・クロムウェルは、一五九九年四月二十五日ハンチンドンに生まれ、その二十九日に洗礼を受けた。 その家は土地の農家である。父はロバート・クロムウェルと呼んでナイトの家から出た人、母はエリザベス・スチュワードと呼んでエライの農家の女で、その兄はナイトであった。エリザベスは、始めウィリアム・ラインという人に嫁して、寡婦となったのを、一五九一年ロバートがめとったのである。オリバーは夫妻の間の第五子で次男であった。兄弟は十人あったが七人だけ生育し、兄が死んでオリバーは独り息子となった。 ノーブル先生の書物などによると、母のエリザベスはたしかにスチュアート王家の系統を引いているそうである。なんでも面倒臭い考証のようなことをたくさんしているが、このエリザベスは王チャールス・スチュアートとだいぶ遠い親戚になるという結論を下している。この夫妻は土地を所有していて、農業に従事し、収入は年三百ポンドあった。今の千ポンドくらいに当る。まあ裕福な生計である。本家(父及び兄)は近くのヒンチンブルックに住んでいたが、そこに立派な邸宅を造った。この邸宅はオーズ河の左岸緑樹のうっそうとした間に立つ美しい建物で、今日もほとんど昔のままにのこっていて、クロムウェルの肖像等十九世紀及びそれ以後の史料たるべきものが保存してある。 ハンチンドンはオーズ河の左岸に横たわっている都会で、真ん中に一つの立派な街路があるが、これが主たるものである。寺院は二つある。郊外には田畑沼地などが広く延びている。オリバーはここでその若い時代を過ごしたのである。 その家は今もハンチンドンの住民は皆知っている。しかし既に二回建て直したもので、当時の遺跡は知る由もない。町の北部に立ち、街路の左側すなわちオーズ河へ近い方にある。ロバート・クロムウェルは酒の醸造をやったという伝説があるそうだが、よくはわからない。とにかく田畑を耕して穀物を刈ったことは事実で、それを麦のまま市場へ送ったか、モヤシとして送ったかは、どうでもよい話である。ロバート・クロムウェルは田舎の紳士として相当に活動して、公共事業にも関係し、若い時は一度代議士にも選ばれた。とにかく賢い、信心深い、まじめな、しっかりした人で、謙遜な、男らしい生涯を送ったのである。ハンチンドンブリックのナイトの外にも親戚がたくさんあり、皆、立派な生計(くらし)をしていた。だから、オリバーは貧窮であったという伝説は全く根もないことで、中流の生計を営んでいた一族に属していた
2014.07.26
1 クロムウェル伝 上巻 カーライル原著 畔上謙造訳述[現代語表記] 序説第一章 衒学[学問・知識をひけらかす]者の愚 英国民がその第十七世紀の歴史を真に理解することは容易にできないと思われる。まことに我々は十七世紀及びその前の世紀において英国人を導いた精神より遙かに隔たってしまった。実に我らは遠くさまよってしまった。どうかして元にかえらなければならない。十七世紀の精神は現代の紛々とした思想とはまるで違う。これは最後の「神の治世」、最後の確信、最後の真実であり、その後は「悪魔の治世」、偽善横行、形式がはびこる世である。ああ我々のまじめに考えるべきことではないか。ああ出でよ。当時のピューリタンの歴史! ある文士が言う。「十七世紀の事業は有史以来最上のヒロイズムであるが、人間の愚かさはその真相を滅茶苦茶にしてしまった。一つは当時の精神が分らないため、一つは記録が整っていないため、現代人にはこのヒロイズムが理解されない。その当時の記録は混雑を極めたままになっていて、いまだに整頓されていない。物好きな人がひねくってみるくらいである。これら古い記録は、元来はやや、まじめに編集されたものであったが、人間の愚かな改訂をしばしば経て、今日は朦朧(もうろう)を極めてしまった。まじめな目的には何の役にも立たない有様で、むしろ無い方がよいくらいである。」 文士はなお言う。「我々は自国の偉人を皆こんなことにしてしまう。訳の分からない所へ追い込んでしまう。誠に結構な天国である!混沌とした国、端から端まで真っ暗な国、中に住む者は衒学者、世俗の好事家、妖怪、バケモノの類である。クロムウェル及びそのピューリタンの時代はこの中にあって、我々からは見えない。」「衒学者にはこれで面白いだろうが、まじめに、熱心に祖先の面影をうかがおうとする我らには困ったものである―ああ衒学者諸君、くだらない懐疑説や哲学など引っ込め、その代り、かのたくさんの記録を整理していたならば、人々のためになったであろうに」と。 まことにそうである。さて今日われわれが十七世紀を理解できない原因はどこにあるか、それは昔の人の心にあったキリスト教的信念が今の人にないからである。今あるのは真の信念ではなく、そのニセモノである。偽信である。偽信ならば、いっそ無いほうが遥かによい。宇宙、人生の神聖は消えてしまった。もちろん昔のままの信仰は口より口に伝えられているが、厳粛なる神命とはされず、ただうわべを飾る装飾物にされている。今日のキリスト教というものはすべてこれである。それゆえ、真の信仰から出た十七世紀の歴史のわからないのは当然である。 かの文士はなお言う。「印刷術も知らない国民が、歌謡や記念碑などによって立派に昔の事件を伝えたことがある。少なくとも昔のヒロイズムがそのままのこって、理解されて今の人の刺激になっている。その形は死んでも精神は立派にのこっている。今でも輝いている。歌になり、詩になる。ちょうど英国民とは反対である。さらば人間の記録というものは、かえって事件を暗中に葬るものであろうか。」「ギリシャ国民には活きたイリアッド(ホーマーの)があるのに、我々にあるクロムウェルに関する記録は死んでいる。何たる大なる相違であろう。我々の印刷物は沈黙以上の力を持っているとみえて、立派な事件を殺してしまう、神聖なる英雄の事業を暗中に葬りさる大天才―これは英国民の特色といえる。」「まことに、英国の過去の歴史は暗澹(あんたん)たる迷宮であって、これによって見れば英国民は一つも勇敢なことをしたことのない国民である。人間が書いた歴史ではなく、夜鬼の書いた歴史のようである。英国民といえば決して他国民に劣らない、いや有史以来最勇敢の国民であろう―しかし惜しいことに「言葉の痴呆」叙述の拙劣もまた第一等である。詩人シルレルは言った。痴呆には神様も適(かな)わないと、困ったものである」と。 けれども歴史というものは大抵こんなものである。これは痴呆のためのみでない、また運命のしからしめるところである。元来、人間の歴史は迷宮である、混沌である、ちょうど大きな藪(やぶ)のようなもので、今の青い葉の下に、無数の草木が枯死して、常に新陳代謝する、つまり完全な歴史はない。これはありうべからざるものである。過去の世紀はすべて朽ち去った、歴史家に眼識があり精神があれば、歴史も完全なのである。現在は過去の蓄積である。真の歴史学(衒学者と真史家との別)は、今、葉を出し花を開いている樹と、もう枯れてしまった樹とを識別することである。忘れるべきものは忘れ去り、覚えるべきものは覚えることである。これがうまくゆき、国民の精神が立派で真摯(しんし)であれば、真の歴史が出て、そうでなければ偽の歴史が出る、詩人僧侶が無益の議論や形式に走る今日、衒学者に至ってはますますはなはだしい、歴史の迷宮、年一年に暗黒を増し、高貴なヒロイズムは衒学者の手にゆだねられて、遂に暗中に葬られるのか。しかし私の言うべきことはこうであった。―ピューリタニズムは十九世紀のものでなく、十七世紀のものである。それゆえ、今の人にわからないのである。かつては天の命として貴まれ読まれた文書も、今の人にとっては不可解の謎の語である。現代人はそれを読むに堪えない。ピューリタニズムは全く不明になってしまった。その熱烈な説教、祈祷、文章も力を失ってしまった。ああ人間の言説も、永遠の真理に触れなければすべて消え去る。人界の事、何物かそうでないものがあろうか。この世の紛々たる流行のようにたちまち消え去るものである。ピューリタンの時代は消え去ったのみならず、全く私たちの心に反響を起こさない、その精神は不朽であるべきはずであるのに消え失せてしまった。かの文士の語をなお記そう。言う。「確かに十七世紀の事件はヒロイズムであり、その精神は永久の真実である。実に我が英国の土地に英雄があったのだ。その英雄は、神の正義がこの世を支配すること、神の味方として戦うことは善であり、悪魔の味方になることは悪であることを知っていた。ピューリタニズムは人間の最貴最高のヒロイズムであった。ただ不幸にして衒学者諸君にはわからない。天来の光輝も彼らにとっては無意味である。彼らは天来の光明には堪えないのである。ああ偉いかな衒学者諸君!」 かくてかの文士は、過去の事件の真相が次第に消え去り混沌暗黒の中に没し去ることを悲しんでいる。 しかり、過去のヒロイズムを復活するはなかなか容易のことではない。気が短い我が友(かの文士)が、だいぶん沮喪しているのも、もっともである。 しかしまあ、この辺でほとんど望みのない仕事に従事している我が友と別れよう。どうかもっと忍耐深くして予期以上の成功を収めんことを祈る。さてそこで今度は自分の小さい計画に移ろう。
2014.07.26
あのね、開けゴマという呪文があるじゃないハイ私は思うんだけど、昔の人は お話の中に隠して後の世代に大切なものを伝えようとしたんじゃないかなって思うんだ千夜一夜の膨大な話の中で、アリババと盗賊の話が今に伝わり、その中の 開けゴマ! は セサミ・ストリートのようなふうに展開している。つまりね、ゴマに含まれるパワーはそれほど人類にとって大切なものだということをお話によって言い伝えしようとしたものじゃないかなって初めてそんな説を聞きましたバレー曲で くるみ割り人形 ってあるじゃないあれも 不思議に その題名だけが 記憶に残っている。クルミは感じでは 胡桃 と書く。胡麻もそうだね。西方由来のものを胡と中国ではいった。桃は西遊記では大切な果物、天上の果物だ、日本の古事記でも伊弉諾のみことを黄泉(よみ)の悪鬼から守る役割を担う。だからね、ゴマを食べなさい、クルミを毎日少しずつ食べなさい。そうすれば健康な生活が送れる、そんなメッセージが 開けゴマやクルミ割人形には含まれているのかもハイ、クルミも好きです
2014.07.25
最近、朝起きた時、また寝るとき、布団の中でストレッチをやっている。先日、珍しく というのは 腰の痛みには無縁であったからだが違和感を覚えていろいろ工夫するなかで 自分なりに編み出したのだが、よく布団の中で足がつるときに、足の甲をそらして ケン を伸ばすものだが、その要領で 腕を上に というか 寝ているので 頭の先に 足も甲をそる要領で 精一杯のばす整体院で ぶら下がり機械で 腰をのばす要領を 寝た姿勢でやるそんなイメージである。数分ずつ3回もやると 息があらくなる 結構な運動量だ寝る前にやっていたら ストレッチ後の荒い息遣いに 家内から「うるさくて寝られない」と注意(^^)
2014.07.23
ハマスゲという植物は、非常に厄介な雑草だ。気づかないうちに地中で広がり、除草剤も、まるで炭酸水を撒いているように効果がない。しかし、このほど発表された研究によると、一部の古代民がこの雑草を歯ブラシ代わりに利用していたかもしれないという。 2000年前にスーダンで暮らしていた人々の遺骨の分析から、彼らがハマスゲを食べていたことが明らかになった。彼らは驚くほど健康な歯を持っていた。それは、ハマスゲの抗菌作用のおかげかもしれないと、論文を発表した研究者は指摘する。 古代の人類には一般に虫歯があまり見られない。理由の1つは、肉食中心で、炭水化物をそれほど摂らなかったことだ。 その後人類は農耕を発明し、穀物を多く食べ始めた。口の中で細菌が繁殖し、その細菌が吐き出す酸で歯が蝕まれていく。初期の農耕民は、狩猟採集民よりも虫歯が多い傾向があった。 ところが、研究論文の共著者でイタリアのスーダンおよびサハラ以南地域研究センター(CSSeS)のドナテッラ・ウサイ(Donatella Usai)氏によると、アルキダイ2(Al Khiday 2)と呼ばれる古代の墓地に約2000年前に埋葬された人々の歯を調べたところ、おそらく彼らは農耕民であったにもかかわらず、穴や膿瘍など、虫歯の徴候が見られる歯が1%にも満たなかったという。 硬化した歯垢片の分析から、この墓に埋葬された人々はハマスゲの塊茎を摂取していたことが分かった。おそらく食料として、また薬として食べていたと考えられる。遅くとも8700年前にアルキダイで埋葬された人も、農耕開始以前であるにもかかわらず、おそらく食料としてやはりハマスゲの塊茎を食べていた。 ほかの研究者の実験から、ハマスゲの抽出液が、虫歯に関わる最も一般的な細菌の繁殖を抑えることが分かっている。つまりハマスゲは、滋養のある食事として、また、意図的ではなかったにせよ、原始的抗菌薬として摂られていた可能性があると、研究者らは話す。ただし、そのつながりは証明されていないとの留保付きだ。 ミズーリ大学セントルイス校の生物学的人類学者サラ・レイシー(Sarah Lacy)氏も、そのような作用は確かにありうると指摘する。レイシー氏は今回の研究に関係していない。レイシー氏によると、特定の植物が古代人の虫歯を抑えていたという報告はこれまでに例がなく、この結果は「非常に刺激的だ」と話す。 ハマスゲの塊茎には多くの効用があるようだが、味が良いとはとても言えない。この論文の共著者でバルセロナ自治大学カタルーニャ高等研究所のカレン・ハーディ(Karen Hardy)氏は、古代人は塊茎を調理して苦みを抑えようと努力したかもしれないが、単純にまずさを我慢していたかもしれないと話す。「何らかの治療目的で用いていたとも考えられる。薬の味というのはいつでもひどいものだし、それが当たり前だっただろう」。 この研究は米オンライン科学誌「PLOS ONE」に7月16日付けで発表された
2014.07.20
斎藤一人さんの講演録より抜粋このことだけみんな覚えといたら、もしこのことを世界中が分かったら、世界中が平和になっちゃう。 それはなんですかっていったら、 自分は、どうも人間関係がうまくいっていないな、健康もイマイチだなっていう人がいたら、 どこかで人の機嫌をとってませんか? 私の隣に、機嫌の悪い人がいます。そうすると「どうしたの? 何か あったの?」って、機嫌をとっちゃダメですよ。あちらはあちらの都合で機嫌が悪いんです。こちらはこちらの都合で機嫌がいいんです。わかりますか? 隣がどんなにブスッとしてても、自分の機嫌をとるんです。 自分だけにこにこしてるんです。 分かりますか? 機嫌の悪いやつは「悪(わる)」なんです。 正しい人が「悪」に合わせちゃいけないんです。あくまでも自分が、「しあわせだね」だねとか、「ハッピーだね」とか、「ついてるね」。 「ツイてる」って、いってみな。 「ツイてる」とは、自分の気持ちをハッピーにする言葉なんですよね。それを、相手の機嫌をとると、いつまでも機嫌が直らない。そうすると自分まで機嫌が悪くなってくる。 分かりますか? 自分の機嫌もとれないような奴はろくなもんじゃないんです。それを精神的な勉強の好きな人はついつい相手の機嫌をとっちゃう。でも機嫌が悪いなんて嵐と同じ。 一過性なの。 嵐なんかなんぼ吹いたからって、日本が飛ばされたとかなんてそんなことないの。ほっときゃいいの。いつもにこにこしているの。 「いやー、うちに帰ると女房の具合が悪くてさ」 女房は女房の都合で具合が悪いの。(笑) 「お前は元気で具合を悪くしてろよ。俺は明るく頑張るからな」(笑・拍手) 常に機嫌のいい人が、この世の中をリードして、するとあくまでも自分の機嫌をくずさないと、周りがこっちにあわしてくるんです。 正しいほうが悪に合わしちゃいけないの。 分かった! 人の機嫌をとるんじゃないよ。 自分の機嫌をとるの。 もうブスッとしてる、如実に嫌なことあったら顔に現わすやつがいる。 相手の都合だからね、十日でも二十日でもブスッとしてればいいの。こっちはこっちの都合でニコニコしてる。そのために「ついてる、ついてる」とかいう言葉を言わないとダメなの。なまじ、同情してね、ちょっと構ってあげると抱き癖がついた子供と同じで、大人になってもブスッとすると構ってくれると思っているの。そういうのが会社で一番下で働いていればいいんだよ、それが間違って出世して、社長なんかになったりするとどのくらい人が迷惑するか分からないからね。 社長が機嫌が悪かろうが、部長が機嫌が悪かろうが、自分だけはニコニコしているんだよ。 自分の機嫌をとるの。 戦争を起こす人、人殺しする人、機嫌のいい人、一人もいないんだよ。 おおよそね、犯罪を犯す人でもそうなの。いらいらしてるの。 自分で自分の機嫌をとれないのは失格ですね。ということで、みんな自分が『ついてる、ついてる』ってそういう意味なんだ。 続きがあるの。それがね、出し切るという話なの。・・・」
2014.07.20
2014年7月19日(土)08:05 患者の8割が女性 「関節リウマチ」治療薬進歩、寛解が目標に(産経新聞) 免疫の異常で全身の関節に腫れや痛みが生じる関節リウマチ。国内の患者は60万~70万人とされる。最近は治療薬の進歩で、症状を押さえ込むことも可能になってきた。東京女子医大付属膠原(こうげん)病リウマチ痛風センターの桃原茂樹医師に聞いた。(油原聡子) ◆8割が女性 リウマチは、免疫の異常によって関節内にある滑膜(かつまく)(関節を包む膜)に炎症が起こり、腫れや痛み、こわばりなどの症状が出る。原因は分かっていないが、遺伝や環境などさまざまな要因が考えられている。桃原医師は「遺伝も関わるとされているが、家族がリウマチだからといって必ず発症するわけではありません」と話す。 主に30~50代で発病することが多く、患者の8割が女性だ。悪化すると関節全体に炎症が広がり、軟骨や骨が破壊され、変形が生じ、さらに進行すると、腎臓や肺に合併症が出現し、寝たきりになったりすることもあるという。 リウマチと間違えやすいのが、加齢による関節の痛み「変形性関節症」。「指の第一関節はリウマチになりにくい。第一関節だけ症状があるのなら変形性関節症の可能性が高い。第二、第三関節や手首に症状があるとリウマチの可能性が高くなる」(桃原医師)。リウマチは通常、腫れている部分が軟らかいが、変形性関節症は硬いという。 ◆選択肢いろいろ リウマチが疑われるときはリウマチ内科や整形外科を受診する。桃原医師は「早期発見、早期治療が大事」と話す。 治療の基本は薬物療法。国内では海外に比べて新規薬剤の導入が遅れていたが平成11年、免疫抑制剤「メトトレキサート」の認可を機に優れた治療薬が登場。治療の選択肢も広がった。以前から使用されていたステロイドのほか、最新のバイオテクノロジーを用いて誕生した生物学的製剤もある。生物学的製剤は高価で注射か点滴でしか使えない欠点もあるが、従来の薬にはない高い治療効果が得られる。 桃原医師は「最近は海外と同等の治療が国内でも受けられるようになった。治療薬をうまく使えば、症状を完全に押さえ込む『寛解』が具体的な治療目標にできるようになった」。 昨年7月に登場した分子標的薬「トファニシチブ(商品名・ゼルヤンツ)」は、炎症や免疫に働き掛ける物質を狙って作用し、症状を抑える。生物学的製剤と違って服薬でき、患者が扱いやすいのもメリットだ。ただ、副作用として感染症や悪性腫瘍、帯状疱疹(ほうしん)が懸念されている。 薬を飲んでも効果がない場合や関節が変形してしまった場合は外科手術も選択肢の一つとなる。この際、ストレスをためない▽睡眠を十分に取る▽受動喫煙も含め、たばこを吸わない-などの生活指導、関節機能回復のためのリハビリ指導も並行して行われる。 桃原医師は「リウマチは個人差が非常に大きい病気。個々人に応じた診察と治療が求められている。主治医と相談し、自分に合った治療を選択してほしい」と話している。 ■確定診断まで3カ月以上が5割 関節リウマチの患者のうち、確定診断までに3カ月以上も要している人が5割を超えることが、ファイザー(東京都渋谷区)の調査で分かった。調査は平成23年6月、薬剤による関節リウマチ治療中の患者500人に実施した。 それによると、自覚症状発現から確定診断までに要した期間は53.6%が3カ月以上。関節リウマチによる仕事の退職や転職について、「仕事を辞めたことがある」が31.6%、「仕事を変えたことがある」は11.6%だった。治療薬について重視する点は、生物学的製剤を使っている患者120人のうち71.6%、使用していない患者380人のうち60.5%が、「痛みが確実に取れる(長期にわたって安定)」とそれぞれ回答した関節炎とカキ、ミカン カキやミカンなどに多く含まれているカロテノイドの一種であるβ-クリプトキサンチンに関節炎の予防効果が見いだされました。 慢性間接リウマチ(リウマチ様関節炎)は、男性に比較して女性に多く、約3倍の罹患率です。症状の初期は、手指の朝のこわばり、関節の腫脹、貧血、発熱などがあり、次第に症状が強くなり、末期には関節が破壊される疾病です。わが国における患者数は30~50万人と推定されており、30~50歳代で発症しますが、現時点では、慢性間接リウマチの完全な治療法はないようですので予防が大切です。 約3万人の女性(55-69歳)を対象としてアメリカで行われた慢性関節リウマチに対する疫学調査(Iowa Women's Health study)から、β-クリプトキサンチンの摂取量が1日当たり40μgより少ない人は多い人に比べて慢性関節リウマチ発症のリスクが33%高いことが明らかにされました(1)。 今年に入って、イギリスのマンチェスター大学のチームは、ヨーロッパで行われたノーフォーク研究(The European Prospective Investigation of Cancer Incidence (EPIC)-Norfolk study)のデータを分析した結果、β-クリプロキサンチンを多く摂取すると慢性関節リウマチを含む炎症性多発性関節炎のリスクを低減できると発表しました(2)。 ヨーロッパに住む2万5千人以上の食習慣を調査し、カロテノイドと炎症性多発性関節炎との関係を調べた結果、ルテインやリコピンには両者の関連性は認められませんでしたが、β-クリプトキサンチンやゼアキサンチンを多く摂取している人は、発症のリスクが統計的に有意に少ないことが分かりました。 炎症性多発性関節炎の患者と健常者を比較したところ、患者は健常者に比べてβ-クリプトキサンチンやゼアキサンチンの1日の摂取量がそれぞれ40%、20%低いことが分かりました。また、β-クリプトキサンチンやゼアキサンチンを多く摂取している人は少ない人に対して炎症性多発関節炎の発生リスクがほぼ半分でした。 これらのデータは、β-クリプトキサンチンを多く含む新鮮なカキやミカンを摂取すれば慢性間接リウマチなどの炎症性多発性関節炎のリスクを軽減できることを示しています。夏から秋に変わり、カキやミカンの美味しい季節となりました。カキやミカンを毎日食べて疾病を予防し健康を維持しましょう。
2014.07.19
血液型と性格の関連性に科学的根拠はないとする統計学的な解析結果を、九州大の縄田健悟講師(社会心理学)が発表した。 日米の1万人以上を対象にした意識調査のデータを分析した。「A型の人は真面目」「B型は自己中心的」といった血液型による性格診断は、国内で広く信じられているが、就職や人事などで差別される「ブラッドタイプ(血液型)・ハラスメント」の問題も指摘されており、一石を投じそうだ。 研究成果は6月25日に発行された日本心理学会の機関誌「心理学研究」に掲載された。 縄田講師によると、血液型と性格を結びつける考え方は国内では流布しているが、海外ではほとんど知られていない。1970年代に出版された関連本がきっかけで、その後もテレビ番組などで紹介されたことで広がったという。 縄田講師は、経済学分野の研究チームが、2004~05年に日米の1万人以上を対象に、生活上の様々な好き嫌いなどを尋ねた意識調査に、回答者の血液型が記載されていることに注目。血液型によって回答に違いがあるかどうかを解析した。 その結果、「楽しみは後に取っておきたい」「ギャンブルはすべきではない」など、計68項目の質問に対する回答のうち、血液型によって差があったのは「子供の将来が気にかかる」などの3項目だけで、その差もごくわずかだった。このため「無関連であることを強く示した」と結論づけた。 血液型を巡っては、特定の血液型の人格が否定的にとらえられる例があり、問題視されている。厚生労働省によると、採用面接などで血液型を尋ねられるケースは後を絶たず、同省は「血液型は職務能力や適性とは全く関係ない」として、血液型を質問しないよう企業に求めている。大阪労働局によると、採用試験の応募用紙に血液型などの記入欄を設けていた企業に対し、是正するよう行政指導した例があるという。
2014.07.19
在宅で介護を必要としている六十五歳以上のお年寄りのうち、六十五歳以上の家族が主に介護を担っている「老老介護」の割合が二〇一三年時点で51・2%と、〇一年の調査開始以来、初めて五割を超えた。厚生労働省が十五日に発表した国民生活基礎調査で分かった。 介護が必要な人と担う人が六十五歳以上同士は前回一〇年調査より5・3ポイント増えた。七十五歳以上同士の老老介護も29%と前回より3・5ポイント増え、過去最高になった。 六十五歳以上同士の老老介護で、介護をする側の68・1%は女性だった。厚労省は「高齢の妻に負担がかかっている可能性が高い」と分析している。 高齢者のみか、高齢者と十八歳未満の未婚者が一緒に暮らす世帯は一〇年より百四十万七千世帯増の千百六十一万四千世帯に上り、過去最多。全世帯の23・2%を占めている。厚労省は「高齢世帯が拡大する中、老老介護は当面減らない」と予測している。 国民生活基礎調査は一九八六年から、世帯数や所得などの推移を調べる目的で毎年実施。一三年は三年ごとの大規模調査の年に当たる。 介護については、介護保険制度が始まった〇〇年以降、三年ごとに集計している。一三年六月、心身の症状が重い要介護やより軽い要支援の認定を受け自宅で暮らす七千二百七十人を対象に実施し、六千四百六十三人から回答を得た。
2014.07.16
あなたの才能がそちらに向かわないで、こちらに向うことを祈る。以上。 一六四三年一月二三日、ハンチンドンにて オリバー・クロムウェル 信友 ロバート・バーナード様この頃クロムウェルは郷里にあって、東部連合のために熱心奔走し、ひたすら民党のために尽くし、王党の事業をくじかんと努力していた。この家宅捜索に対して「理不尽の処置」というバーナードの抗議を受けて、クロムウェルはこのように特徴のある返答をしたのである。 クロムウェルが大尉から大佐にのぼったのは確かにこの頃のことである。東部連合において、自らの主義をもって作った騎兵連隊の長となったのである。 (三)書簡第五一六四三年二月末、クロムウェル大佐はケンブリッジにあった。たまたまカブル卿が大軍を率いて来って侵略しようとし、警報がしきりに飛んだ。敵将ラパート親王の軍と等しく奪略荒盗をほしいままにすることであろう。東部連合は中心人物クロムウェルの活動により、一万二千の兵をもってこれに備えたところ、カブル卿は早くも逃げ去ってしまった。この男も元は議会の勇将であったが、華族にされてたちまち王党になってしまったのだ。東部連合は将来に備えるためケンブリッジに守備隊を設け、町の防衛を固くした。これは一六四三年の春のまだ浅い頃のことで、クロムウェル以下多忙を極めた。この頃クロムウェル、トーマス・マーチン等八人の名をもってフェン・ドレイトン村民に送った文書がある。それは防衛のためにケンブリッジの町に防御工事を施す必要のあること、願わくは州のためにこの大事業に献金せられたいこと、かつこの工事の善事業であることなどを記したものである。日付は一六四三年三月八日となっている。以来ケンブリッジは東部連合の中心地となった。守備隊長はクック大佐であったが、実はクロムウェル大佐が万事の先導者であって、東奔西走、すべての事に当たったのである。次に掲げる書簡はこの頃書かれたものである。 紳士諸君金銭問題という面白くない問題について、毎度あなた方を煩わすは気の毒である。しかしネルソン大尉は金の欠乏のために弾薬も十分でないほどの窮境にいる。このようではノーフォックのためのこの仕事が失敗することは必定である。私は彼の勇気を沮喪することを恐れる。願わくは彼を思い、また民党を思いたまえ。これは貴いことではないか。そうであれば応分のご助力をノーフォークにすることをひとえに願う。彼は一日も軍隊の費えにたえぬ境遇の下にいる。以上。 一六四三年三月一〇日ケンブリッジにて オリバー・クロムウェル サフォーク州の代表士官諸君追伸、私もまた諸兄を助けよう。御指揮の下に主のたすけをもって我らは速やかにこれらの事件の結末を付けよう。ネルソン大尉は百ポンドを得たように文書に記してある。 (四)ローエストフ前の手紙に「ノーフォックのための仕事」と記してあるのは多分裏切り者に関することであろう。裏切が二、三あったので、クロムウェルは温言もって鎮撫をはかり、聴かなければ強圧をもって粉砕した。次はその一例。一六四三年三月一三日(月曜日)にハーツ州の知事トーマス・コニピーは下院で訊問された。それは民党に背く手段に出て、たちまちクロムウェル大佐に捕らえられたのであった。彼はロンドン塔に送られた。なお一つ次の例がある。これが前の手紙にあった「これらの事件の結末」であった。これはジョン・コリーという人の書簡によって分ったので、クロムウェルがローエストフ町に行って一八人の王党を捕らえたことの有様が記してある。これがクロムウェルの属していた東部連合の中の最後の忠君的企画であった。この東部連合にはハンチンドン州は既に加盟し、またリンカン州もクロムウェルの助力でよって困難を排して、九月には加入した。以後「七州連合」と呼ばれ、単に「連合」といえばこの連合のことであった。そして勇進な一人物を中心としていたため、その連合地域には一歩も敵を入れなかった。(五)書簡第六―第八一六四三年の両党抗争の中心点は極西南部(サー・ラルフ・ポプトンとスタムフォード伯と戦う)と、北部主としてヨーク州(ニューカッスル伯とフェアファックス卿と戦う)とであった。譬えるとこの二点においてはエンエンたる猛火が天を焦がす有様、その余の地方でも黒い煙がモウモウと渦巻きたって、今にもぱっと燃え上がるばかりである。総督のエセクス卿は精鋭を率いウィンザーに陣を張っているが、王がオクスフォードにいて、議会と協定を計っているので、全く無為に日を送っている。もう妥協や談判などはいくらしたって駄目なのだ。人民は争乱と困窮の中にいる。時々王の本営からは敏捷なラパート親王が飛び出し略奪をしたり破壊したり放火をやる。ハムデン大佐等は怒って総督に迫ったけれども、エクセスはなかなか動かない。このごたごたの中に残ったクロムウェルの手紙が三つある。東部連合におけるオリバーの面影がこれによって少しわかる。書簡第六エセックス州のコルチェスタ町はラングレーを隊長に一隊の兵をケンブリッジに送ったが軍費が十分でない。クロムウェルはどうかしなければならない。紳士諸君貴殿らの町民がケンブリッジに来たが、ラングレー大尉は部下を指揮する方法を知らないということで、私に適当な隊長を任命するよう委嘱された。すなわちこの手紙の持参者ドッズワース大尉こそは、その人であり、正直、敬虔、勇猛の士である。彼は部下の訓練に効果を収めたが、不幸にして給料を受けず、また士卒に払うべき金もとうの昔になくなっている。彼は慎重さと美しい振舞いと借金とによって、部下を治めているが、もはやこれもダメとなり、このままでは部下はたちまち離散するであろう。このようになっては残念至極である。(彼らは他に劣らない良い中隊となるものである、かつ今や大いに彼らを要する時である。私は総督から事の結末をつけるため、軍勢を率いて進軍すべしとの特別命令を受けた。―すべてのたすけは神より来る。神がもし助けるならば、この願いはやすやす達するであろう。そうであれば願わくは、この大尉と貴地より来た兵卒とについて熟慮され、適当の処置に出られることを懇願する。以上。 一六四三年三月二三日、ケンブリッジにて オリバー・クロムウェル コルチェスターの町長その他諸君 ドッズワース大尉に託してこの頃一種の大計画があったのだが、それはそのままに済んでしまった。しかし、ちょっと面白い。ラパート親王が大軍でエルズバリ町まで出てきたという報を得て、議会では速やかにこれを撃破すべしという熱烈な声が起こり、エクセス卿が東部連合などの援助によって、ウィンザーから大挙オクスフォードまで押しかけるという計画が起こったらしい。 この企画はすぐ潰れたが、ハムデンなどがこのような企画を抱き、かつやや実行の端をなしたことは明らかである。前節のことは当時の記録にあるのだが、これと、クロムウェルの手紙にある「特別命令云々」のところと合せて証拠になっている。
2014.07.15
「炎のランナー」の遺言が人生を変えた 日本人支えた英宣教師産経新聞2014年7月15日(火)20:16 第二次大戦中、日本軍に捕らわれながら、戦後半世紀以上にわたり、宗教面から日本人を支えた英国人の宣教師スティーブン・メティカフ氏がこの6月、永眠した。86歳だった。 同氏は17歳になった1944年の冬、中国にある日本軍の収容所でランニングシューズをプレゼントされた。贈り主は、24年のパリ五輪男子400メートルで金メダルをとった後、宣教師として中国に渡ったエリック・リデル氏だった。その人生は、後に映画「炎のランナー」で描かれた。リデル氏は脳腫瘍を患い、収容所の過酷な暮らしの中、43歳で他界。シューズは若者への形見の品となった。もう一つ残したのが、「敵を愛せよ」という聖書の言葉だった。 自分たちを苦しめた敵をどう愛せというのか。「憎めば自己中心的になるが、祈れば、神が中心となる。神が愛している人を憎むことは難しい。祈りは、君の人生の姿勢を変える」 遺言は若者を変えた。25歳から38年間、北海道や青森、宮城、千葉などで宣教活動に従事し、帰国後も15年間にわたり英国の日本人教会を支えてきた。 ロンドンの教会で行われた葬儀は、家族や友人のほか、英国在住の日本人も参列し、しめやかに執り行われた。愛とゆるしに貫かれた生涯は多くの日本人に心の平安と救いを与えている。(内藤泰朗)
2014.07.15
17歳以下の子どものうち、おととし、貧困の状態にあるとされた子どもの割合は推計で16%を超え、これまでで最も高くなりました。厚生労働省は「母子世帯や非正規で働く人が増え、子どもがいる世帯の所得が減少したためではないか」と分析しています。厚生労働省は、3年ごとに家庭での一人当たりの可処分所得が一定レベルを下回り、OECD=経済協力開発機構の基準で貧困の状態にある人の割合について調査していて、おととしの調査結果が公表されました。それによりますと、17歳以下の子どものうち、貧困の状態にある子どもの割合は推計で16.3%で、3年前の調査より0.6ポイント増え、調査を始めた昭和60年以降最も高くなりました。OECDがことし5月に公表した加盟する34か国のデータによりますと、貧困の状態にある子どもの割合が最も低いのは、デンマークの3.7%で、次いでフィンランドの3.9%でした。反対に最も高いのは、イスラエルの28.5%、次いでトルコの27.5%で、日本は9番目に高くなっています。厚生労働省世帯統計室の田邉勝美室長は「おととしはデフレの真っただ中で、母子世帯の増加や非正規で働く人が増えるなどして、子どもがいる世帯の所得が減少したためではないか」と分析しています。
2014.07.15
○○君へ現在取り組んでいる第5集は内村鑑三の不敬事件とカーライルのクロムウェル伝です。特にクロムウェル伝は現在入手が困難です。入手できても、畔上訳は手紙が候文で訳されているために現代人が読んで理解するのは困難です。残念ながら、原文の英語から現代語訳するほどの英語力はないので、畔上訳の現代語表記を行うだけでも貴重な資料となることでしょう♪今回の内村鑑三についての記述は、クロムウェル伝にならって 内村自身の手紙と作品によって物語る方法によることとしました。第4集までの資料編を別に設けるのではなく、一体化しました。土曜日は○○さんの協力でクロムウェル伝序文を輪読しながら、読み上げ校正ができました。今度の日曜日までに整理できたものを郵送するので、ざっとでいいですから見てもらえますか?(略)五日市先生に「お金の喜ぶ使い方」があります。まあ、個人的な遊びや飲むのにお金や時間を使うよりも、「報徳」や「人類のため」のそったいい使い方といえましょうか。承知いたしました。そのようにいたします。
2014.07.14
第二章 オリバーの伝記 私の仕事というのはオリバー・クロムウェルの手紙と演説とを順序正しく収集するということである。小事業であるが有用な事業であろう。少なくとも後に出る良い伝記の予備ともなろうか。クロムウェルの多くのくだらない著述に、また一つくだらないものが加わったというまでである。 自分がクロムウェルの言を集めて整理してみると、次のことが次第に明らかになったように思われる。すなわちクロムウェルはピューリタン革命の中心人物であって、彼がいなかったならばピューリタン革命は世界史に一期を画する大事件にはならなかったであろうということ。もう一つは世間の人の考えと正反対であるが、クロムウェルは虚偽悪逆の人間ではなくて、真実の人間であり、その言は大いに意味があるということ。この二つのことである。実にその言によって見れば、彼は立派な大人物であるとしか思えない。 善人か悪人かは別問題としても、とにかくオリバーの人格、その事業の性質は、その書簡・演説によって知ることができる。これらの言によって、彼は自分のうちにあるもの、自分の外にあるものを言いあらわそうと努めた。それゆえその言葉を知ることは彼の事件の精神を知るゆえんである。願わくはこの書が数人の真面目な読者に迎えられんことを。かのピューリタン事件がこの書によって少しなりとも明瞭になれば、後の著述家によってますます明瞭になることであろう。 在来のクロムウェル伝について言うのはあまり利益がない。その多くは、偉人伝中において、その馬鹿馬鹿しさ加減において群を抜いているという代物(しろもの)である。忘れさってよい書物である。葬ってしまうのがむしろ慈善である。マーク・ノーブルは「最初のクロムウェル伝記」を六つばかり挙げたが、その六つの伝はいずれも読む価値のないものである。クロムウェルを批難する伝はたくさんあるが、その拠り所はジェームズ・ヒースの「叛臣クロムウェルの生涯と死」という書である。これはつまらない書物である。このヒースという男はただ小冊子ばかり著していた憐れな文士であった。彼はまた「内乱の歴史」というものを著しているが、やはりくだらない書物である。近世の伝記でマーク・ノーブルのものは独創的といえばいえようか。クロムウェルに関するいろいろの材料をごたごた集めてあり、くだらない考証のような所もだいぶあるが、少しは価値のあるものもあろう。しかし、ノーブルは判断力と洞察力に乏しく、多くの誤謬に陥っている。この書は伝記ではなくて、むしろクロムウェル事典である。何でもかんでも、ごたごた集めたものである。しかし、その後のクロムウェルに関する著述は、皆材料をここから引き出したのである。ノーブルはまた「レジサイズの伝」〔訳者注、レジサイズRegicidesとは弑逆者の義でチャールズ一世に死刑の宣告を与えた人々をいう〕を著しているが、これはますます拙劣な書物である。ノーブルの意見は中立であり、前後矛盾の所も多いが、まあクロムウェルをやや良く見たものといわれる。ノーブルの書は一七八七年の出版であるが、これを一六六三年のヒースの書に比べると面白い。クロムウェルの真相が、次第、次第に一般人士に明らかになり来ったことがわかる。一六九八年、ある無名の人が初めてクロムウェルを良く見る意見を発表し、その後バンクスという人が、さらに良く見る意見を発表した。しかしいずれも良い書物ではない。クロムウェルの朝廷に仕えたジョン・メードソンの人に送った手紙はクロムウェルを知る材料になる。これは一六五九年の日付であって、一七四二年に印刷されたもの、この人は善人でクロムウェルに忠実であった。この手紙はかの十七世紀の事件に光を投じ、またクロムウェルの人物をよく描き出してある。また官内官吏のハーヴェーは一六五九年に小冊子を著したが、これはメードソンのよりも確実で趣きがある。右の二は断片ながらかえって堂々たる伝記に勝る。ノーブルが監督ギブソンの著とした匿名のクロムウェル伝が一つある。これは、本当はキムバーという人の著で、一七二四年の出版である。この人は中立的立場(ややクロムウェル側に傾いている)を取って、種々の材料を集めてあるが、肝心なクロムウェルの人格は一向あらわれていない、また不正確な点も多い。最後としてジョン・フォスターの一八四〇年に出版した「共和政時代の政治家」という書を挙げよう。この書を挙げえよう。この書も古い書物から寄せ集めたものであるが、新意見がないでもない。 オリバー・クロムウェルを知るには従来の文書はすべて役に立たない。そこで私は彼の書簡と演説とを集めて、その人物を知ろうと企てる。その残っている最初の書簡の年代より以前の彼の生涯を少し記しておこう。CHAPTER II OF THE BIOGRAPHIES OF OLIVER OURS is a very small enterprise, but seemingly a useful one ; preparatory perhaps to greater and more useful, on this same matter : The collecting of the Letters and Speeches of Oliver Cromwell, and presenting them in natural sequence, with the still possible elucidation, to ingenuous readers. This is a thing that can be done ; and after some reflection, it has appeared worth doing. No great thing : one other dull Book added to the thousand, dull everyone of them, which have been issued on this subject ! But situated as we are, new Dulness is unhappily inevitable ; readers do not reascend out of deep confusions with- out some trouble as they climb. These authentic utterances of the man Oliver himself I have gathered them from far and near ; fished them up from the foul Lethean quagmires where they lay buried ; I have washed, or endeavoured to wash them clean from foreign stupidities (such a job of buck washing as I do not long to repeat) ; and the world shall now see them in their own shape. Working for long years in those unspeakable Historic Provinces, of which the reader has already had account, it becomes more and more apparent to one, That this man Oliver Cromwell was, as the popular fancy represents him, the soul of the Puritan Revolt, without whom it had never been a revolt transcendently memorable, and an Epoch in the World's History ; that in fact he, more than is common in such cases, does deserve to give his name to the Period in question, and have the Puritan Revolt considered as a Cromwelliad, which issue is already very visible
2014.07.13
書簡第六九フェアファクスはコルチェスターにあり、クロムウェルは今、ベルウィク州に入り、敵将モンローの兵は既にトウィード河を過ぎてしまった。少佐コーエルは、ブレストンに死んで、寡婦の哀求がある。よってこの手紙が出された。貴兄よ、コーエル少佐が死んで、その妻が来て哀泣し、また哀訴した。少佐は正直で高貴な人で、貴兄及び国家のため尽くして死す。ロンドンの大商人であったが国を愛するため、これを棄て、国のために財産を費やした。彼は多額払った残金を受けるはずであった。妻と三児があり、目下窮乏している。臨終に際しての少佐の遺言もある。未亡人が大兄を訪れれば、よろしく取り計られたい。唐突無礼の段、おゆるしあれ。以上。一六四八年九月一一日、アルンウィクにて オリバー・クロムウェル議会軍総督フェアファクス卿殿翌年六月この未亡人は未払金の交付を得た。彼女が唯一の希望が達せられたか。憐れな婦人よ。
2014.07.12
かくて敵将モンローはアブルピーにあり、クロムウェルは敵を追って次第に北進し、各処の残兵を撃破してベルウィクの方向へ進み、敵は急速力をもってスコットランドに帰り着いた。九月八日クロムウェルはダーハムにあって、敵将モンローを威嚇しつつ次の公示を行った。公示ハミルトン指揮下のスコットランド軍は、神の助けによって議会軍に破られ、捕虜は数千を数える。しかしその捕虜の数が多いことと収容所の欠乏していることは、自ら彼らが逃亡に便ならしめ、国内処々に潜む者が多い。このようなスコットランド人を捕えて、係りの士官に引渡せば、我が国のため功績を立てたことになる。係りの士官を見つけられない時は委員会、守備隊長等に引渡されたい。委員会、守備隊長等はこのような場合には、逃亡した捕虜を確保されたい。反抗する者は殺してもよい。しかし従順な者を残虐に処遇してはならない。一六四八年九月八日、ダーハムにて オリバー・クロムウェル
2014.07.12
書簡第六八もう一つ私信がある。ホワートン卿にあてたもので、嫡男の誕生を祝った手紙と見えるが、このたびの戦勝についての神に対する感謝の念が溢れている。このホワートン卿という人もやはりダービーハウス委員会の一人である。そして熱心なピューリタンで、議会党の人である。卿よ、ご承知のごとく筆不精(ぶしょう)の私のことながら、短い書簡を差し上げる。やがて面会の機会を与えられた時に申し上げたいが、我ら、我らの神を思うに、そもそも我らは何者ぞや。おお賎しめられ嘲られる聖徒全体に対しての彼の慈愛よ!彼らをしてその嘲笑を続けしめよ。我らは皆聖徒にてありたい!神は知りたまう。我らの最優者も弱い聖徒たるに過ぎない。弱いけれども、聖徒である。羊でないけれども、子羊である。されば食養を要する。我らは日々、霊の糧(かて)を賜っている。この後もまたそうであろう。外的恩恵を通じて信仰、忍耐、愛、希望等は全うされよう。然り、キリストが宿って、我らのうちに完全な人を起さなければならない。外的、内的と区別するとも、区別は実はその人によるべく、俗人には外的と見えるか。貴兄の受けし特別の恩恵を祝う。いたずらに生まれた児の出世を願わず、すべてを天父にまかせられることを切に望む。皆々様によろしく。以上。一六四八年九月二日、ナンスバローにおいて オリバー・クロムウェル
2014.07.12
(三)書簡第六七-第六九モンローは敗れたハミルトン軍の後陣を率いて、スコットランド・イングランドの国境付近を数週間うろつき、英国人、スコットランド人、アイルランド人の嫌いなく、王党の残片をよせ集めて、うまくいけば新しい軍を起そうと志し、暫くはイングランドの北部諸州で掠奪をほしいままにした。クロムウェルはハミルトンを追撃したランバートが帰って本隊と合流するのを待ちて、事件の結末をつけるため、北方に進軍した。次の十三の書簡はこの時の消息を物語る。 書簡第六七この手紙の名宛人、オリバー・セント・ジョンはクロムウェルの友人で、両王国委員会すなわちダービーハウス委員会に列し、その他常に重要な位置に立った人である。貴君よ、私は何事も語ることができない。ただ主なる我らの神は偉大にして栄光ある神であることは疑い無い。彼のみ怖るべく、また頼るべきもの、彼の出現こそ特に待ち望まれる。彼は彼の民を棄てない。生きとし生ける者は、ことごとく主を讃美せよ!。我が親しき兄弟エーチ・ヴェートンによろしく伝えられたい、私は彼が神の外的配置〔訳者曰く、戦勝を指す〕を軽んじ過ぎないことを願う。しかし私も重んじ過ぎないよう留意しなければならない。要は神の助けによって真誠の心を持って忍耐深くこれに当らなければならない。我らをして人々がこの事件をいかに発展させるべきかについては、あまりに心労してはならない。彼らが願っても願わなくても、自ら神意を行う結果になろう。我らはこの民のために尽さなければならない。我らの安息はこの世以外に有り、この安息は永久である。我らは明日の事を思いわずらうことがない。何事も思いわずらわない。イザヤ書八章10,11,14節を読まれたい。八章(*)全体を読まれたい。これが私の大支柱である。以上。一六四八年九月一日、ナンスバローにて オリバー・クロムウェルリンカン法律協会にある畏友 大状師オリバー・セント・ジョン様*イザヤ書第8章 8:1 主はわたしに言われた、「一枚の大きな札を取って、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』と書きなさい」。8:2 そこで、わたしは確かな証人として、祭司ウリヤおよびエベレキヤの子ゼカリヤを立てた。8:3 わたしが預言者の妻に近づくと、彼女はみごもって男の子を産んだ。その時、主はわたしに言われた、「その名をマヘル・シャラル・ハシ・バズと呼びなさい。8:4 それはこの子がまだ『おとうさん、おかあさん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの富と、サマリヤのぶんどり品とが、アッスリヤ王の前に奪い去られるからである」。8:5 主はまた重ねてわたしに言われた、8:6 「この民はゆるやかに流れるシロアの水を捨てて、レヂンとレマリヤの子の前に恐れくじける。8:7 それゆえ見よ、主は勢いたけく、みなぎりわたる大川の水を彼らにむかってせき入れられる。これはアッスリヤの王と、そのもろもろの威勢とであって、そのすべての支流にはびこり、すべての岸を越え、8:8 ユダに流れ入り、あふれみなぎって、首にまで及ぶ。インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる」。8:9 もろもろの民よ、打ち破られて、驚きあわてよ。遠き国々のものよ、耳を傾けよ。腰に帯して、驚きあわてよ。腰に帯して、驚きあわてよ。8:10 ともに計れ、しかし、成らない。言葉を出せ、しかし、行われない。神がわれわれと共におられるからである。8:11 主は強いみ手をもって、わたしを捕え、わたしに語り、この民の道に歩まないように、さとして言われた、8:12 「この民がすべて陰謀ととなえるものを陰謀ととなえてはならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。8:13 あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。8:14 主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。8:15 多くの者はこれにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられる」。8:16 わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。8:17 主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。8:18 見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである8:19 人々があなたがたにむかって「さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ」という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。8:20 ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。8:21 彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。8:22 また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。
2014.07.12
書簡第六六紳士諸君、聞くところによれば、ハミルトン公は敗残の騎兵を率いてポンテフラクトに進んでいるとのこと。多分その地に宿営するであろう。ランパート少将は大軍をもって彼を追跡している。願わくは速やかに兵を集めて赴き、ラムパートの軍に加わらんことを切望する。以上。一六四八年八月二三日、ワイガンにて オリバー・クロムウェルヨーク州委員御中二五日(金曜日)に、スタンフォード州アトクセターにおいて、ハミルトンは議会軍の包囲に陥り、味方の反乱に遇い、弱り果てて遂に降伏した。後、公は断頭台の露と消えた。実に不幸中の不幸なる人!才幹あって、しかも一事にも成功しない人の類いであった。頑強な抵抗をしたコルチェスター城も遂に議会軍に」降り(8月28日)、その2将は即座に死刑に処せられ、他の2人も議会にて審問を受けて降伏し、その一人は頭を失った。ダウンズにあったラパート親王はたちまちオランダに逃れ去った。第二内乱はプレストンで背骨を折られて、たちまちおしまいとなってしまう。もう消滅したも同様である。敗亡の報が、一度スコットランドに伝わるや、青年子弟はまた起って軍隊を興し、デーヴィッド・レスレーをもって将軍とした。エジンバラ城には老雄リーヴンがあり、ハミルトンの残兵が現われれば直ちにこれを砲撃した。クロムウェルは北方に進み、遂にエジンバラにいたり、現下の状態を正しくしようとする。
2014.07.11
(二)書簡第六三-第六六プレストンの会戦プレストンの会戦は三日間続き、舞台は湿潤なランカ州の幾マイルにわたった。実に広い、また混みいった戦いであった。クロムウェルはリブル河の谷を下って、敵将ハミルトンの兵が雑然としてプレストンを北方に進んで行くのを発見し、人数は少ないけれど、敏捷で堅固な軍をもって、敵勢を衝(つ)いてこれを中断し、半(なかば)を北に、半を南に撃破して世にも稀な大勝利を得たのである。この戦いの実験記としてはクロムウェルの二つの書簡の外に三つの記事がある。これらを参照して見るとこの極めて重大な会戦のありさまが髣髴(ほうふつ)として眼に迫るのである。スコットランド軍に従ったサー・ジェームズ・ターナーが記していう。『我らの間に、ランカ州に入ろうかヨーク州に進もうか、あるいは他の州に入ろうかという問題が起こった。各人の意見が一致しなかったが、自分はヨーク州が充分に訓練を経ている立派な議会軍と戦うには、敵に多くの利便を与えるランカ州よりもヨーク州の方がよいと思ったからである。しかしハミルトン公はランカ州進入を選び、固く取って動かなかったため、遂にそう定まったのであるが、この道を取って我らは破滅に至ったのである。』『我らの進軍は雨と嵐のために大変困難であった。サー・マーマジュークはいつも先鋒を承っていて、敵の動静を探りつつ進んだのであるが、何の不幸か、我が軍は不用意に敵の来襲を食ったのである。実に我らは緩怠な列をなしていたので、左翼は右翼の様子を知らず、先鋒と殿軍(しんがり)とは二、三〇マイルも離れていた。クロムウェルの側面攻撃を受ける軍隊としては、余りにも締りのない行軍であった。』『一六四八年八月一六日(水曜日)ハミルトン公は歩兵の本隊を率いてプレストンに到着した。』と。 この翌朝、クロムウェルの軍はハミルトンの軍を襲ったのである。ハミルトンは議会軍に襲われたとは知るものの、これがクロムウェルの軍であるとは一日中知らなかった。この夜更けてクロムウェルは急いで次の手紙を書いた。 書簡第六三紳士諸君、神は今日我が軍をして敵を破らしめ、もってその大能を示したまう。我らは昨夜ストーニーハーストに宿り、今朝は敵に会せんと欲して早くプレストンに向かって進んだ。我らがプレストンを去る四マイルの所に進んだところ我が軍の決死隊は既に敵と銃火を交え、我が全軍は進んで敵を衝(つ)いた。このようにして三、四時間の激戦の後に、神は我らに勝利を賜った。貴州の兵の力は、またはなはだ大きい。我らはこの機に乗じて、神の助けにより、さらに敵軍の覆滅を期すであろう。敵の死傷・捕虜を数えるいとまもなく、今詳細に報告しかねる。とにかく捕虜が多く、死者も多く、敵将は散乱したといえる。この報知によって事の状態は諸君に明らかになると考える。我らはこの勝利をして有終の美となすように、貴州における募兵の儀をなにとぞお願する。諸君にして諸君の責任を果すならば、彼らの全滅も期して待つべきであろう。一六四八年八月一七日、プレストンにて オリバー・クロムウェルマンチェスターにあるランカ州委員会御中 書簡第六四貴下よ、この地方において、我らに勝利を与えた神の恩恵を伝えるため、私はこの紳士(ペリー少佐)を派遣する。〔訳者曰く、この間に三日間にわたれる戦いの詳報あり。今是を略す。その要点をいえば、敵は三倍に近かったが、クロムウェル軍のために全く覆滅された。戦闘は三日間にわたり、三十マイルに及んだ。二つに分かれたハミルトン軍は、三日間ただ逐われどおしに逐われ、敗(ま)けたいだけ敗けた。敵の死傷捕虜無数で残軍は全く散乱し姿を止めなくなった。〕これ神の貴下に与えた成功の詳報で、目下多用、残念ながらこれだけ記したわけである。しかし神の助け故、これより短く記すわけにいかない。これより詳(つまび)らかに記せば人間の誇りが入ることとなろう。ただ一事申しあげたいことは、敵と味方の人数が大いに相違することで、これを知れば誰もが神の援助を信じるであろう。敵は総勢二万一千で武具も立派で、戦闘ごとに二、三時間は争った。議会軍〔クロムウェルの軍〕は八千五百である。そして敵の死者二千、捕虜八、九千を数えるありさまであった。貴下よ、これは神の為すところに外ならない。今日は神のみ高められる日である。この世のものが高められるならば、神はこれを引きおろしたまうであろう。そうであれば私は貴下及びすべて神を認める人々の、神を崇め、神の愛する民を憎まないことを祈るほかに無い。かつまた貴下が職責を尽し、国家の平和と幸福を求め、もって主の業をなすところの勇猛心を起こされることを。及び平和の人をたすけ、国賊の輩を速やかに滅ぼされることを祈っていつ。然らば神は貴下を恵み、善人は貴下に興り、国は貴下によって、幸福を得るであろう。これが私の切願するところである。以上。一六四八年八月二〇日、ウェリントンにて オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿大成功の報知をもたらした少佐ペリーは二百ポンドを与えられ、大尉エドワード・セクスピーは百ポンドを与えられた。「国内全般は感謝の一日を守るべし」という命令が発せられ、感謝すべき条目の表は各処の人一万人に配布された。
2014.07.10
内 乱(一六四二年-一六四九年)一六四二年八月二二日、王はノッテンガムに王旗を立てて忠君の士を全国より招いた。今や、国は王党、民党(又は議会党)の二つに分かれて争うこととなった。貴族、富豪、僧侶はたいてい王党にくみし、平民はおおむね民党に属した。既成教会に忠実なもの、旧教的なものは王党に属し、清教徒(Puritans)は民党に属した。王党と民党の争いは貴族と平民の争いであった。圧制と自由との衝突であった。民党のことを又円頂党とも呼んだ。後民党は二つに別れた。清教徒の中にも長老派的な脈を引くものとそうでないものがあったため、長老派、独立派の二つに別れたのである。戦うこと三年互いに勝敗があったが、ここに議会党の士官の中にオリバー・クロムウェルという一人の偉大な人物が現れた。彼は元来農業の人であったが、国難は彼の大きな才能をひろげ、騎兵の連隊長として勇名を馳せた。彼の兵は鉄騎隊と称せられて、皆信仰の篤い士、品行の厳正で名高かった。戦場に臨むや讃美歌を以て軍歌に代え、この連隊だけは戦って勝たないことはない有様であった。議会党の中、長老派は王に制限を加えて王政を復活しようとし、独立派は共和政を建設しなければ国の病を根本的に治療することができないとした。議会軍の将官はたいてい貴族であって長老派に属していたが、内乱の第三年目頃に独立派より因循姑息であると批難を受けた。長老派は王軍を撃破しつくしては王政の転覆を惹き起こすとして、退き譲るような態度を取ったのである。長老派は独立派から見れば「半王党」であった。独立派は、長老派の将官の下に軍が置かれる間は大事を行うことはできないとし、何とかしてこれらの将官を除きたいと思った。しかし公然と二派が争っては議会軍内部の争いとなり勢力が弱まるため、ここに一策を考えて「すべて議員は軍隊に位置を占めてはならない」という「自己否定律」を議会に提出してうまく通過し、そのためエクセス伯爵等の将官は軍隊を退く事となった。こうして長老派を除いた後の軍隊は全く独立派の手に帰し、サー・トマス・エアファックスを総司令官に戴き、クロムウェルは中将としてその次の位に立った。しかし実際は彼が独立派の頭首だった。(自己否定律によれば、当時議員であったクロムウェルは当然軍隊を退くべきで、彼はいったん退いたけれども、彼がいなくてはこの独立戦争を戦うことができないため、除外例として軍に入ることになった。) クロムウェルは直ちに自分の鉄騎隊にならって全軍の改造を計った。今や議会軍は誠実・熱烈・篤信の清教徒二万をもって限られ、祈祷を行い、讃美歌を唱えて戦場に出た。実に宗教的熱情のみの上に立つ軍であった。上はクロムウェルより、下は最低の兵卒に至るまで、神の名によって、教会と国家とにあるすべての圧制を打ち砕かんと決心していた。 さて第一内乱、第二内乱とあって、全く議会軍の勝利となってしまった。これは一六四八年のことである。 王は監禁されていたが、議会は長老派の方が多数を占めていたため、王と交渉して王政の持続を計ろうとした。もちろん王権にある制限を付してのことである。しかし王は王党の再び決起して議会軍を破ることを夢想して、誠意を以てこの交渉に当らなかった。国内は今紛々として蜂の巣を壊したような騒ぎとなった。どうすれば決着がつくのかわからない。かつ王党の余燼がいたるところに再燃しようとする有様である。グズグズしていると国はまた兵乱の巷(ちまた)となって折角得た自由の勝利も空しくなる。ここにおいてクロムウェル等独立派は高圧的手段を以て禍根を絶とうと決心した。 このようにしてまず「プライドの掃じょう」というものが起こった。プライド大佐が兵力をもって長老派議員を議会より追い出してしまったのである。このようにして下院議員は百名以下となり全部独立派となった。次に下院は王の審問を決議し高等法院を組織してチャールズ王を審問し、ついに死刑の宣告を下し数日にして王の頭は地に落ちた。時に一六四九年一月三〇日であった。共 和 政(一六四九年―一六六〇年) 下院は王政を覆し上院を閉じて共和政を創始し、行政の権限は四十一名より成る「国家参事会」の手に帰した。ブラッドショーがこの参事会の長であったが、実権はクロムウェルにあった。 共和政は初めより種々の困難に会った。チャールズの処刑は反感をひき起こし、ロシア、フランス、オランダはイングランドと交わることを欲せず、スコットランド人は元来自国の王であるチャールズの非業の最期を悲しんで、その王子を大ブリテン国の王位につけることを要求し、アイルランドもこれに賛成して、オランダは外からこれを助けようとした。イングランド内にも王党の残灰は盛んに燃えつつあった。 共和政府はまずアイルランドを討とうとし、クロムウェルは出征して、王党的軍勢を撃破し、更に国家参事会からの命令によってスコットランドに転戦し、一六五〇年ダンバーにスコットランド軍を蹴散らして信仰的勝利を示し、翌年同日ウースターにまた大勝し、全スコットランドは共和政府に服して、王子チャールズは海をわたってノルマンディーに逃れ去った。 共和政府はオランダと結んで国勢を強めようとしたが、オランダが応じないため、航海条例を発布してオランダを苦しめ(この条例は外国が自国以外の産物をイングランドに輸入することを禁じたもので、当時諸外国の物産を輸入していたオランダを苦しめるためのものである)、二国は戦端を開いたが、戦争は海戦で、イギリスの水軍提督ブレーク大将が勇名をはせたが、一六五四年に二国は和睦した。 議会解散後、一五六人の熱心な信者だけから成る新議会が召集されて、議会は聖書解釈や祈祷に多くの時を費やしたが、数か月の後、自ら全ての権利をクロムウェルに譲って解散してしまった。間もなく士官の参事会は国の無政府状態に陥ることを恐れて、クロムウェルに「共和政守護官」の名称を占めんことを勧め、偉大な人物の独裁政治によって国家の危機を救おうと望んだ。 共和政守護官としての彼のやり方は非常に圧制的であった。神の命令と信ずることをドシドシ実行したから、圧制といえば圧制なのである。議会は勝手に解散され、召集され、軍隊で国を治めるような有様で、法王党、王党は非常に迫害を受け、新聞は厳しい監視を受けた。そのアイルランドの王党に対する処置は非常に残虐なものであった。数千人は殺され、数千人は奴隷として西インドに送られ、四万人は海外に自由を求めた。 クロムウェルの高圧政治は国家を鎮静すると共に外国の畏怖を受けて、今や英国はヘンリー八世、エリザベス時代以後最強の勢いに達し、スペインのごう慢を挫いてジャマイカを奪い、法王に迫って新教徒の圧迫を止めさせた。 しかしながら、神の政治を行おうという誠意による彼の政治も、あまりの圧制果断に次第に破綻がいろいろな方面に出て来た。彼の目的は至善であったが、方法は必ずしもそうではなかった。多年の労苦と心痛は彼の健康を損じて、共和政の暗たんとした前途は彼の心を弱らせ、熱病におかされるところとなって、一六五八年九月三日ダンバー及びウースターの大勝の記念日に、彼の英魂はついに永久に地を去った。最後の言葉に言う。「我が業はすでに終れり。されどこの後も神は彼の民と共にいたまうことならん」と。時あたかも大暴風雨の日であった。(略) 国民はクロムウェルの共和政の欠陥だけを見てこれに飽きたので、たちまち王政復古の熱情を高め、チャールズはオランダから迎えられてチャールズ二世として王位に即位した。かつてスチュアート家の暗愚政治を蛇蝎視して共和政の建設に狂喜した国民は、わずか十余年でこのスチュアート家の一弱子を非常な熱情で歓迎し崇拝した。・・・・・このようにクロムウェルが心血を注いだ事業も失敗に帰したようであるが、英国の基礎を固めた功績以外に近世において自由民権の大根源を作ったものであって、後のフランス革命もアメリカ独立も十九世紀の民主的大運動も皆脈流を彼にひいているのである。その神の政治を地に行おうとする大確信と大勇気は、千歳の下、意気地のない男を起たせる。彼に欠点はあったけれども、彼の大なる精神に至っては驚嘆のほかない
2014.07.10
5 『クロムウェル伝』時勢及び生涯(畔上賢造述)ここにクロムウェル時代の時勢と彼の公の生涯とを併せて説いて、本書解読の準備知識としよう。詳しいことは本文にあるので、わざわざこんな叙述をする必要はないようであるが、カーライルのクロムウェル伝は、読者にその時代の歴史的知識があることを予想して書いてあるので、分かりにくい点もあろうかと、訳者の老婆心から、又一つには背景的な記述の必要も少しはあるだろうと思って、これをなすのである。なおこの記述は至極簡単なものであるが、これで我慢してもらいたい。なお又この記述と本文中の記述と重複するところもあるが、これは普通の歴史の立場から見たもの、彼はカーライルの眼で見たもとであるという違いがある。ジェームス一世の治世(一六〇三年―一六二五年)光輝くエリザベス治世が終わりを告げ、一六〇三年スチュアート家のジェームズ一世が即位して、イングランドとスコットランドと結んで大ブリテン国を造り、議会だけは両国おのおの有することになった。ジェームス一世は臆病で愚かで圧政的な王であった。女性的なために平和を好み、その治世には重大な戦争は起こらなかった。前のエリザベス女王が「エリザベス王」と呼ばれたのとちょうど正反対に、ジェームス王は「ジェームス女王」とアダナされた。王は「帝王神権説」を固く信じていて、世襲の王者は神に膏を注がれて立てられたもので、その権利は無限絶大であって、人民の疑いやまた人民の限る範囲に属しないとした。彼は言った。「神が行う所をかれこれ言うことは不信・冒涜であるように、王の行うところを臣下が色々批評するのは王を軽蔑する行為である」と、そして人民の多数もまたこの帝王神権説を信じて無茶苦茶な忠君思想を抱いて、人民の権利などいうことは少しも思想の中になかった。即位の時、王のいとこのアラベラ・スチュアートを王位につけようとする陰謀があったが、エリザベス時代の名臣サー・ヲーター・ローレーはこれに関与したという理由のない嫌疑で、ロンドン塔に監禁の身となった(十数年後、彼は断頭台の露と化した)。一六〇五年には有名な火薬陰謀が起こった。これはローマカトリック信徒のフォークス等の陰謀で、宗教上に関する王の処置に不満を抱き、議院の床下に爆薬物を敷いて、開院式に王が臨んだ所を貴族・大臣・議員等と共に殺害しようとしたのである。これは実行されない前に露見してしまった。王の時代は英国植民の端緒をひらいた時であって、かの清教徒の一隊が自由信仰の国にあこがれて北米ニューイングランドに渡ったのも、東インド商会がインドに地歩を占めたのもこの頃のことである。帝王神権説を抱く王と人民の代表者である議会(ことに下院)とあいいれないのは当然である。王は幾度も幾度も下院を解散した。両者の争いの中心点は立法課税に関する王の権力の制限及び下院の特権や権限の性質及び範囲であった。ジェームス王は自分の権力が無限であるかのように振る舞った。王は議会の協賛を経ないで、布告の名をもって法令を発布し、これに背くものには罰を課し、勝手に関税を高めて王の収益を増すなどした。これに対して下院は非立憲の理由をもって種々に反対した。下院の権限としては、種々ある中にも、下院においては国民の幸福のためには拘束も入牢の心配もなく、自由自在に議論をなすことのできる特権、すなわち議会における言論の自由を求めたのである。これに対して王は、議員の権利なるものは国王より付与したもので、穏当の議論を行う中はこの特権を与えて置くが、不穏の言動に出た時は、王はただちに議員よりこの権利を奪ってよいのであると主張した。一六二一年、下院は王の討議を禁じたある国事の攻究をあえて行い、王は叱責的態度で極めて明らかに下院の権利の否定をした。議員等は大いに怒ってその議事録に「大抗議」を発表して議会の権利を主張し、国家の事は一つとして議会の討論にのせえないものはないと説いた。王はこれを聞いて議事録を取り寄せてそのページを手ずから寸断し、怒って議会に停会を命じ議員の五、六名を牢獄に投じた―ああ帝王神権と自由民権、この二つはどちらか一方が消え失せるまでは争わなければならない運命を持つものである。ジェームズ一世は二十二年間イングランド・スコットランド両国の王であった後、一六二五年世を去った。ヒュームは言った。「彼ほど帝王の絶対権を強く信じていた王もかつていないが、又彼ほどこの権を支えるのに不適任な王もかつてなかった。」チャールズ一世の治世(一六二五年―一六四九年)チャールズ一世は父ジェームズと等しく帝王神権説を抱いて君臨した。これでは下院との争いは続かざるをえない。彼の治世の第一議会はたちまち解散され、第二議会もまた国内が紛糾した大もととして王の寵臣バッキンガム公を弾劾(だんがい)したため、たちまち王から解散を命じられた。王は議会なしに治め、国費を増やそうと努めたが、どうしてもうまく行かないため、また議会を召集することにした。この第三議会は王が「権利の請願」を許せば補助金を政府に納めようと言い出した。この「権利の請願」というのは、かの大憲章(マグナカルタ:英国の憲法)等の中に既に保証された英国人民の権利を新たに確保したいというだけのものであった。すなわち当然人民の受けるべき権利が近来受け入れられないため、更に確認を欲したのである。さらに次の四つの事項の禁止を求めた。(一)議会の協賛なしに政府が租税や公債によって歳入の増加を計ること。(二)専断的な投獄。(三)私人の家に兵士が集ること。(四)陪審員なしの審問。チャールズ王は渋々ながらこの請願に許しを与えたが、その条項を破ることくらいは平気であった。しかし、とにかくこれは人民の権利をますます明らかにしたという点においてはなはだ価値の有るものである。一六二九年から一六四〇年まで王は議会なしに国を治め、「権利の請願」の条項などには眼もくれず、勝手な租税や公債を起こして金を得、立憲君主国は名のみであって、専制王国の圧制的なものが北海に現出することになった。愚かなチャールズ王にはただ一人ではこれだけの高圧的な態度は取れなかった。バッキンガム公はすでに刺客の手で死んでいたが、王を補佐した二人の悪者がいる。すなわちトーマス・エントワスは内治において王を補佐し、王の権限を絶対的にし、人民の自由を奪うことに骨を折り、ロードはカンタベリーの大監督に任命されて、自由の信仰を抑圧し、王を以て英国宗教の頭首とし抑圧的な信条を人民に強制することに力を尽した。二人共に悪辣な官僚党の圧政家であった。ことに宗教家の名をかぶっているロードの卑劣な心ははなはだ憎むべきで、カーライルが幾度も彼を罵倒したのは無理もないことである。船舶税は王の悪税のいちじるしいものである。これは、昔、国難があった際に港や海に面した州に船舶又はその材料を献上させたことにならって、全国一般に船舶建造を名目として課税したのである。この非道な税を納入することを拒否した者の中にジャン・ハムデンという田舎紳士があった。事件は法廷の裁判に移ったが、ついにハムデンの負けとなった。ハムデンはオリバー・クロムウェルの親戚である。政治上、宗教上、王の圧制は極限に達し、神聖な司法もまた誤りを正す力はない。幾千の人は海を渡って新世界に自由の郷土を求めた。彼らは必ずしも君主に忠でなく愛国者でない民ではない。しかし信教の自由を何よりも尊んだために、愛する故郷がその敵となった以上は、やむを得ず広い世界に自由の地を求めることにしたのである。勇ましく、また悲しい覚悟ではないか。人間到る処青山あり。我ら広い世界を思わざるを得ないものである。王はスコットランドの長老派信者(プレスビデリアン)にイングランドの礼拝式を強制しようとした。彼らはこれを法王主義の復活として、盛大に反抗した。貴族も農夫も皆、宗教の革新のために最後まで争うという誓約(カペナント)をした。以後、彼らを誓約派と呼ぶ。時に一六三八年であった。王はこれを鎮圧しようとし、スコットランド人は兵により争うとした。このため王は軍資金を得るために議会を召集したが、下院は国憂について討論するだけだったのでこれを解散した。これを短期議会という。ところがスコットランド兵は国境に迫り王の国庫は乏しかったため、また議会を召集した。この議会はいわゆる「長期議会」で一六四〇年から十二年以上続いた。下院議員はたいてい真摯で熱烈な人々で飽くまで王の圧制に反対しようとしていた。そしてまず王の寵臣ストラフォード伯爵(エントワス)、ロード大僧正の二人を弾劾して断頭台に挙げ、三か所の悪裁判所を廃止し、非立憲的な解散の予防として議会自らの決議によらなくては解散できないと議決した。王はハムデン、ピムなど下院のおもな議員五名を捕えて下院を威嚇しようと、兵で下院に臨んだため、人民の非常な激昂を招いて、積年の不満はここに爆発してロンドン市民は武器をもって立ち上がり議員を保護するという騒ぎになった。王は高圧的な方法が失敗したことに驚いて宮廷を棄ててヨークに逃れ去った。これは一六四二年一月一〇日のことであり、これが内乱の端緒である。
2014.07.10
2 余が学びし二大政治書緒言、政治とは何ぞや余は政治家にあらず、また政治家たらんと欲する者にあらず。今日我が国において称えられる政治なるものは余の全然蔑視する所のものにして、余はこれに触るるをもって癩病患者に触るるがごときの感を懐く者なり。然れども余も人なり、アリストートルがかつて唱えし「政治的動物」の一人なり。故に政治その物は余の嫌悪するところにあらず。世には高尚なる政治と下劣なる政治とあり。ミルトンの政治論とマキャベリの政事策とあり。二者ともに政治の名を付すべしといえども、前者は人たる者の何人も攻究すべきものにして、後者は吾人の謹んで触れざるよう努むべき者なり。不肖余の如き者といえども、前者に対しては今日まで多少の注意を払いたり。政治の国家における、倫理の個人におけるがごとし。政治学一名、これを国家的倫理学というを得るなり。これに純理と応用とあるは個人的倫理にこの両面あるがごとし。而して個人的医術を社会全体に応用して社会衛生あるがごとく、個人的倫理を国家に応用して政治学はあるなり。政治学を以て、ことさらに高尚紛雑の学とみなす者は誤れり。政治は単純なる明白なる人道を国家全体に適用するの学と術とに外ならず。これミルトンの政治なりし。コロムウエル、リンコルンの政治なりし。彼らは別に政治策なるものを知らざりし。彼らは明白なる常識を彼らの施せし政治の規矩(きく)となせしのみ。(略) その一、聖書〔略す〕 その二、カーライルのクロムウエル伝「雑誌の雑誌」記者ステッド氏曰く「余を補益せし書は第一にキリスト教の聖書なり、第二にカーライルの著コロムウエル伝なり、第三に米国詩人ローエルの詩集なり」と。而してステッド氏と同一の経験を持ちしものは他にも多からん。 今日まで地上に顕れし最も大なる国家は英国なり。しかして英国の二大政治家とは一はエリザベス女王にして、他の者はオリバー・コロムウェルなり。二者共に政治を学ばざる天然的政治家なり。政治の術、豈これを政治書においてのみ学ぶべきものならんや。 カーライルの「コロムウェル伝」は彼の五十歳の時の作なり。これ実に彼の著述中最も大なるものなり。「フランス革命史」はそのドラマ的修飾において、「フレデリック大王伝」はその歴史的考証においてこれに優る所あらん。然れどもカーライルの精神はすべて彼のコロムウェル伝にこもれりといわざるべからず。彼の崇敬を呈せし人、彼が真誠に崇拝せし人はオリバー・コロムウェルその人なりし。 二百五十年間大逆無道の臣として英国人の脳裏に存在せしこの人を恥辱の墓の底より発掘し来り、彼を英国第一の愛国者として、再び世界に紹介せし歴史家カーライルの功は偉大なるかな。余はおもう、もしカーライルがコロムウェル伝を以て彼の著述事業を中止せしならば、彼は益のみを後世に遺して害を伝えざりしならんと。彼のフレデリック伝はあらずもがな。彼の「末世の冊子」は彼の公にすべからざりしものならん。彼の英雄崇拝論は多くの不健全なる思想を青年に供し、ことにその我が日本に伝わりてより以来、この書により生涯を誤りし青年少なしとせず。これカーライルの不平時代に成りし書にして、これを読んで多少不平病に侵されざる者なし。 然れどもコロムウェル伝に至りては全く然らず。これカーライル氏の「愛の著述」なりという。彼をしてこの書をなさしめし動機は彼の母より受けしものなりという。彼女の深き宗教心と強健なる常識とはこの誤解されし偉人において真正のキリスト教的ヒーローを発見せり。而して彼の幼時において彼女より注入されしこの思想はこの大著述となりて世に現れしなり。カーライルのコロムウェル伝は実に一平民が一大平民を弁護せし書なり。 オリバー・コロムウェル、彼は英国セントアイブスの一農夫なりし。家は富めりとは称すべからざりしも、さりとて貧しからざりき。畜類の飼育を以て業とし、大いにその道に熟達せりという。歳二十にして結婚し、清き幸福なるホームを作るを以て彼の唯一の目的となせり。かくて彼は政治家に成るの必要なく、またその野心もなかりしなり。彼は心に神を拝し、手に正業を取り、以てこの曲がれる世にあって罪なき生涯を送らんとせり。 彼が政治に入りしは四十歳の時なりし。しかも彼は大政治家となりて名誉を天下に博せんとて政治に入らざりしなり。彼は時の圧制を憤慨せり。ことに彼と同郷の人なるジョン・ブラインなる者が治安妨害的文書を頒布せりとて獄に投ぜられしを憤り、彼のために弁ぜんとて国会に入りしという。茅屋(ぼうおく)の下にて在て静かなる生涯を送らんと企だてし彼コロムウェルは人類的観念に迫られて止むを得ず国会議員と成れり。 然れども彼に政略なるもの一つもあらざりしなり。ありのままなる実に彼の如きはあらざりし。彼に丈夫の勇気ありて、また処女のそれの如き涙と愛情とありし。敵と戦いてかつて敗を取りし事なき彼は友人の反逆に会しては悲歎痛哭に憂き日月を送れり。朝にダンバーに敵の大軍を敗(やぶ)って夕に家郷の妻女に送るに心情溢るるばかりの恋文を以てせり。人は彼を以て大偽善者なりとみなせり。然れども彼は偽善者にはあらざりしなり。彼は余りに感情の人なりしなり。故に彼は偽善者の如くに見えしのみ。 彼の政策とは何ぞ。他なし。英国を以て地上における天国となし、終に英国をとおして全世界を天国と成さんとするにありき。故に俗人の眼を以て評すれば彼の行為は狂的なりしなり。彼はなし得べからざる事をなさんとせり。しかも彼はこれをなし得べからずとは信ぜざりしなり。彼はもし英国人にしてことごとく彼の信仰を懐きなば、英国を以て真正の聖人国となし得べしと確信せり。しかしてミルトンは彼の書記官として彼のこの偉想を賛し、ブレークは彼の海軍を指揮して海上に彼のこの理想を実にせんとせり。世の智者はいう「幸福なるは無学なり」と。特別に政治学を究めざりしコロムウェルと彼の補助者とはこのイムポスビリチーを実行せんとせり。政治家の手を束(たば)ね彼の足を縛るものにして実に彼の政治学の如きはあらざるなり。「正しかれ、而して懼(おそ)るるなかれ」。正義に因りて進む、大国何か懼るるに足らん。コロムウェル時代の英国はヨーロッパ第三等国に上らざりし。第一等国はスペインにして、フランスとオーストリアとはこれに次ぎ、オランダ、また新たに勢力を得たり。イギリスと対比すべき国とては、北欧のスウェーデンかドイツ連邦の一二に止まりしなり。然れどもコロムウェルその主権を握りてより、イギリスは一躍してヨーロッパ大強国の一として算(かぞ)えらるるに至れり。意志と信仰とに富める一偉人の勢力もまた大ならずや。 時の大強国はすべてカトリック国なりし。しかして英国は新教国にしてコロムウェルは新教徒中の新教徒たりし。しかして彼は強国に媚びんために彼の信仰を曲げんとはなさざりし。否、彼は彼の信仰に基きて、弱き新教国を統一して強きカトリック国を挫(くじ)かんとせり。彼の外交政略なるものは、ただこの一事に存せり。彼が提督ブレークをして海上にスペインの船舶を捕獲せしめ、西インドにその領土をもとめ、テスリフ島にその海軍を殲(ほろぼ)さしめしは皆「大教敵スペイン」を挫かんとの方法に外ならざりし。彼がサボイ山中にある新教徒の虐殺を聞くや、直にフランスに通牒して無辜(むこ)の血を償わせしも、また彼のこの信仰に基づけり。彼は小にして新教国なるスウェーデンと同盟して大にして旧教国なるスペインに当らんとせり。彼の宗教的信仰は吾人の問うべきところにあらず。然れども彼の勇気と大胆とに至りては、実に余輩の嘆賞して措(お)くあたわざる所なり。 進歩的保守家、ハンガリーの愛国者ルイ・コスートの如き人、米国のワシントンの如き人、然りリンカーンの如き、グラッドストンの如き人、彼らは皆はなはだしく国人に誤解された人なり。しかしてコロムウェルはその最もはなはだしき者なり。彼の情性に貴族的分子ありたると同時にまた平民的分子ありたり。彼は天稟(てんぴん)の貴族が平民として生まれ来たりし者なり。彼の同情は平民にありし。然れども彼の平民なるものは凡俗の謂(いい)にはあらざりし。彼の平民とは彼並びに彼の書記生たりしジョン・ミルトンの如き者なりし。すなわち人たるの品性を具え、位階と勲章によらずして高貴なる人なりし。彼がついに彼の国人の棄つる所となりしはまた故なきにあらず。世の平民は多数者にして貴族は少数者なりと思う者は誤れり。貴族は実に多数者にして、平民は実に少数者なり。世にいわゆる平民なる者は実は貴族にして、彼らが平民的運動なるものを起こすゆえんのものは彼らが現在の貴族に代わりて自ら貴族と成らんがためなり。近くは東洋日本国の維新歴史においてこの事実を目撃するを得ん。薩長の族(やから)にして名なく位なき者、民の声なればとて四民平等を主張し、時の政府を倒し、而して自身権威の位置に立つや、直ちに新華族の制度を定め、己れ自ら貴族となりて天下に臨む。彼らは昨日の平民にして今日の貴族なり。四十年前の伊藤博文侯は渺(びょう)たる一平民にしてまた平民主義を唱え、時の貴族制度を憤りし者なり。今の平民主義者また然らざらんや。今の民間の政治家なる者も、一朝勢力の人となれば、直に貴族の中に列せん事を願う。彼らは貴族を嫌うにあらず。彼らは貴族を嫌うと称するのみ。彼らは実は生来の貴族にして、貴族たらんと欲して政海に乗り出せし者なり。言を休めよ。日本国の貴族は三千人にしてその平民は四千万人なりと。その平民四千万人の最大多数は貴族根性を以て生まれ来たりし者にして、彼らは機会あれば貴族たるを辞せざる者なり。吾人少しく歴史をひもときし者は彼らの平民主義なるものに欺かるべきにあらず。平民は平民を迫害す。これ隠語のごとく見えて実は明白なる事実なり。英国がついにコロムウェルを嫌悪するに至りしは、彼コロムウェルは余りにまじめなる平民なりしが故なり。彼らは彼が少しく殿様然として天下に臨み、少しく国民の弱点に乗じ、その名誉心を充たし、その利欲心を満足せんことを求めたり。然れどもコロムウェルは厳として彼の平民的態度を守りたり。故に彼らはついに大偽善者として彼を記憶の外に葬り去らんとせり。彼らは再び彼の如き政治家をもたざらん事を望めり。彼らはコロムウェルに勝り、暗主チャーレス第二世を愛したり。然れども少数なりといえどもこの宇宙は平民の属(もの)なり。コロムウェルは死後三百年の今日英国人の理想的政治家となれり。彼の肖像は、今は英国国会議場の前に建てられたり。「コロムウェル再び出でよ」とは今は英国人の声となれり。英国永久の光栄はコロムウェルの理想を実行するにありとはその多数の政治家の所信となれり。「コロムウェル出でよ」。英国においてのみならず、支那においても、朝鮮においても、ビルマにおいても、ベトナムにおいても、すべて腐敗せる政治家の横行する国はコロムウェルの現出を要す。上、貴族を挫き、下、衆愚を抑え、少数者なる平民の勢力を地上に扶植せんためには、コロムウェルは幾回かこの世に来たらざるべからず。カーライルのコロムウェル伝はかくのごとき事を教うる書なり。(明治三十三年十二月稿)
2014.07.10
スコットランド軍に従ったサー・ジェームズ・ターナーが記していう。『我らの間に、ランカ州に入ろうかヨーク州に進もうか、あるいは他の州に入ろうかという問題が起こった。各人の意見が一致しなかったが、自分はヨーク州が充分に訓練を経ている立派な議会軍と戦うには、敵に多くの利便を与えるランカ州よりもヨーク州の方がよいと思ったからである。しかしハミルトン公はランカ州進入を選び、固く取って動かなかったため、遂にそう定まったのであるが、この道を取って我らは破滅に至ったのである。』『我らの進軍は雨と嵐のために大変困難であった。サー・マーマジュークはいつも先鋒を承っていて、敵の動静を探りつつ進んだのであるが、何の不幸か、我が軍は不用意に敵の来襲を食ったのである。実に我らは緩怠な列をなしていたので、左翼は右翼の様子を知らず、先鋒と殿軍(しんがり)とは二、三〇マイルも離れていた。クロムウェルの側面攻撃を受ける軍隊としては、余りにも締りのない行軍であった。』『一六四八年八月一六日(水曜日)ハミルトン公は歩兵の本隊を率いてプレストンに到着した。』と。 この翌朝、クロムウェルの軍はハミルトンの軍を襲ったのである。ハミルトンは議会軍に襲われたとは知るものの、これがクロムウェルの軍であるとは一日中知らなかった。この夜更けてクロムウェルは急いで次の手紙を書いた。 書簡第六三紳士諸君、神は今日我が軍をして敵を破らしめ、もってその大能を示したまう。我らは昨夜ストーニーハーストに宿り、今朝は敵に会せんと欲して早くプレストンに向かって進んだ。我らがプレストンを去る4マイルの所に進んだところ我が軍の決死隊は既に敵と銃火を交え、我が全軍は進んで敵を衝(つ)いた。このようにして三、四時間の激戦の後に、神は我らに勝利を賜った。貴州の兵の力は、またはなはだ大きい。我らはこの機に乗じて、神の助けにより、さらに敵軍の覆滅を期すであろう。敵の死傷・捕虜を数えるいとまもなく、今詳細に報告しかねる。とにかく捕虜が多く、死者も多く、敵将は散乱したといえる。この報知によって事の状態は諸君に明らかになると考える。我らはこの勝利をして有終の美となすように、貴州における募兵の儀をなにとぞお願する。諸君にして諸君の責任を果すならば、彼らの全滅も期して待つべきであろう。一六四八年八月一七日、プレストンにて オリバー・クロムウェルマンチェスターにあるランカ州委員会御中
2014.07.08
七月五日。キングストンにも王党の一軍が起こり、フェアファクスがコルチェスター攻囲に全力を挙げている間に、千人に近いこの隊はレーゲートを目指して進撃した。議会軍の一隊はギボンズ少佐を隊長としてこれを撃破し、別にフェアファクス残した一隊はまた散々にこれを破り、敵将はほとんど皆死に、捕獲または戦死を免れた残兵は散り散りに逃げてしまった。七月八日。ハミルトン公は、スコットランド軍を率いて来てアナンを占拠し、将にイングランドに入ろうとした。兵数が四万人というは虚報であるが、二万はたしかにある。ラングデールは三千のヨーク州兵をもって先鋒となるべく、モンローは騎兵をもって殿軍(しんがり)となるべしと、一六四八年七月八日全軍がアナンを出発した。あわれなスコットランドは「異派の手から王を救う」と称して、この妄動に陥ったのある。いよいよ王を救った暁には王をどうする気なのか。その辺のことは全く無我夢中である。 書簡第六二貴下よ、ペムブローグの市街及び城砦が、今日(七月一一日)我が手に落ちた。その開城の条件は別紙のとおりである。特記した人々は、かつては我が党のものであったが、堕落して敵軍に入った者たちである。彼らは初めから王のために尽した者とは少し異なるところがある。私は彼らの罪は二重であると考える。すなわち光明の理に背いて敵党となることが一。一度民軍にあって大能の保護を実際に見ながらも、これに背いたことが二である。以上。一六四八年七月一一日夜一一時、ペムブロークにて オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿これによってウェールズの戦いは終結を告げ、クロムウェルは北方に急進してグロースター、オリックを経、ヨーク州の山間にラムバートと会した。七月二七日。これよりさき、艦隊の一部は叛いて、オランダ滞留の皇太子のもとに走り、皇太子は喜んで船に乗ってイギリスの海岸に来て、二七日頃、兵を募集したが、あまり効果もなく、次にはロンドン市に命じて味方に入るか、あるいは二万ポンドを貸せなどといった。今、事はすべてハミルトンとクロムウェルの上にかかる。ワイト島の王も、叛いた海軍も、ロンドンの長老派も、コルチェスターの城兵もー万人皆がこの二将の会戦の結果を手に汗を握って見ている。
2014.07.08
書簡第六〇〔省く〕 書簡第六一クロムウェルがロンドンを去りて後、市は上へ下へと騒擾した。横逆の事起こり横逆の人、生じた。書簡第五九に記してある「ケントにおける勝報云々」は次のごとくにして起こったのである。五月一六日。有名な「サレー請願」というものが起こった。すなわち王と平和を結ぶべきだということを唱えてサレーよりたくさんの人民が騎馬でやってきた。彼らは議会の守備兵と衝突して互いに剣を抜いて戦い、終わりに怒って郷里(くに)に帰った。こうして処々にロンドン市の長老派と相応ずる兵が起こった。フェアファクスは騒乱を鎮(しず)めるために病気にもかかわらず馬に乗った。七月一日。フェアファクスは叛乱の中心点に進んで、これをメードストンに撃破した。残余の敵は数日の後、エセクス州のコルチェスターに集り、フェアファクスは敵の頑強な抵抗を受けながら、今これを包囲している最中である。ケントにおける勝利というのはこの叛乱についていうのである。議会軍の将ラムパートは北方にあって、スコットランド兵の来襲を待っている、あちらこちらで王軍が起こって次第に勢威を振るいつつある。そうであればクロムウェルは一刻も早くペムプロークを陥(おと)さねばならないのであるが、敵将ボイヤーは頑強にして降伏しない。クロムウェルは砲兵及び軍資の欠乏のために、やや攻めあぐんでいるありさまである。貴兄よ、私は、数日前北方に向かって騎兵及びドラグーナーズを送った。送ったのは騎兵の隊四、ドラグーナーズの隊二である。私は各大佐と相談の結果、これより以上送ることができないと決定した。当地の敵は実にお話しにならないほど、頑強で、いよいよとなる最後まで固守しよとしている。我が軍が当地の包囲を開始して以来、各地に反乱もあり、国が貧しいため、我らは食糧を購入する資金もなく、パンと水だけで暮らしているありさまである。今日まで無事に支えていることは、偏えに神の恩による。我らの砲を積んだ舟は風の向きが悪いため来ない。そのため我らは敵の城を攻撃する適当な武器を欠いて、ただ「兵糧攻め」をしている始末である。しかしながら敵が弱って降伏するのも、もはや数日の後であろう。とにかく最上の時機に起こるべきものと信じている。神は、貴兄の努力を祝福したまうことは喜びの至りである。私は国民全部、我が民軍全部が、この際に神意と自己の職分とを認めることを祈っている。この王国の人民がなお怒りの目的物たることがないように、また束縛圧制の下に呻吟することも神はなされないと思っている。近頃起こったすべてのことは、彼のミデアンの日(*)におけるような〔士師記第6章参照〕圧制者を砕く神の大能の発現である。神はかの日と等しく今もなお自らの民を救いて敵を滅するものである。神は、大兄を祝福し、恩恵を増し加え、心を正しく保ちたまう。大兄は「この世の人」の気に入られなくとも、神の目には貴き人であるように。神は兄の角(つの)であり、また楯(たて)となられるであろう。以上。一六四八年六月二八日、ペンプローク包囲軍 オリバー・クロムウェル議会軍総督トーマス・フェアファクス卿殿*イスラエルの民が、ミディアン人による略奪に苦しんだとき、神はギデオンを通して介入し、イスラエルに勝利をもたらす(士師記6-8章)、この日をイザヤは「ミディアンの日」と呼ぶ。
2014.07.07
カーライルの「クロムウェル伝」と内村鑑三1 読書余録(『聖書之研究』一九〇九年一〇月)「カーライル著『コロムウエル伝』の余に及ぼせし感化については、余はこれを叙するに足るの言辞なきを歎ずる、余は英国版五冊物を麻布飯倉の古本屋橋爪(はしづめ)において購い求めた。時は明治の二十三年、余が嘱託教員として雇はれた時であった。余はこれを得て何物をも忘れて読み続けた。余はこれによりて自由と独立との愛すべく貴むべきを深く教へられた。而して読んで半ばに至りし時、余は高等学校の倫理講堂においてその頃発布せられし教育勅語に向いて礼拝的低頭を為せよ、と時の校長代理理学博士某に命ぜられた。然るにカーライルとコロムウエルとに心魂を奪われしその当時の余はいかにしても余の良心の許可を得て、この命令に服従することができなかった。余は彼らの勧奨によりて断然これを拒んだ。而してそれがために余の頭上に落ち来たりし雷鳴(いかづち)・・・・・・国賊、不忠・・・・・・脅嚇と怒喝・・・・・・その結果として余の忠実なる妻は病んで死し、余は数年間、余の愛するこの日本国において枕する所なきに至った。余の肉体の健康はそれがために永久に毀損せられ、余の愛国心は甚大の打撃を被りて余は再たび旧時の熱心をもって余の故国を愛するあたはざるに至った。実に余の全生涯に渉るこの世の不幸はすべてこの一瞬間より来った。然し余は今に至りこの事のありしを悲しまない。余は確かに信ずる。余の神がその時、特に余に命じて『コロムウエル伝』を購はしめ給ひしを。もしこの伝記が余に起こししこの事件なかりしならば、余の生涯は平々凡々取るに足りない者であったらふ。余は真個の洗礼をこの時に受けたのである。水の洗礼にあらずして、火の洗礼を余はこの時に受けたのである。而してこれによりて余は始めて少しく信者らしき信者となったのである。ただ取り返すあたはざるは余の憐れなる妻である。然し彼女もまたこれによりてキリストの天国において救はれたびであると信ずる。われらは国にそむいてこの事をなしたのではない。良心の声を重んじ、良心にそむくのは国を欺くのであると信じたからこの事をなしたのではない。良心の声を重んじ、良心にそむくのは国を欺くのであると信じたからこの事をなしたのである。ああカーライルの『コロムウエル伝』よ、汝は余に取りては火の書である。汝は余を益せしこと深きだけ、それだけ余に殃(わざわ)ひしたる書である。余は永久に汝を保存せん。而して汝の五冊が列を正しうして立つを見て、余の胸は感慨の涙に溢れ、余の思は高きかの国に遊ぶ。キリスト教の聖書を除いて汝ほど深刻に余を感化した書物はない。」
2014.07.07
書簡第五九これはこの包囲中にクロムウェルの発した第一の書簡である。貴下よ、ここにペムプロークの戦況をお知らせする。敵は著しく糧食の欠乏を感じ始め、二週間たてば餓死するであろうことはほとんど疑いが無い。聞く所によれば、敵兵は二、三の将校のためにこの境遇に陥ったことを恨んで、四、五日中に主将ポイアーの首を斬って、我が軍に降伏するであろうとのことである。まだ砲と弾薬が到着しないため困却している。十日ほど前、敵を攻めたがハシゴが短か過ぎて、乗り入れることができなかった。我らに四、五人の死者があったが、敵にはなお多くあったようである。我らは二週間以内に町を占領できよう。そうなれば城も直ちに手に入るであろう。彼らの糧食はほとんど尽きようとしている。ケントにおける勝利の知らせに接し、主の恩恵を思って、感謝と喜悦が溢れる。・・・・・・私は一四日以内に飢餓のため、敵が降伏することを確信している。以上。一六四八年六月一四日、ペムプロープ包囲軍 オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿たしかに一四日以内に攻撃を加え、そしてちょっと有望らしい結果もあったが、だいたいにおいて失敗に終わってしまった。
2014.07.06
第四編 第二内乱の記 一六四八年 (1)書簡第五九-第六二一六四八年五月の初め頃、各処に不穏の徴候がようやく表われて、風説は風説を生み、再度の内乱が近く爆発するだろうと思われた。スコットランド四万の挙兵はたしかに議決され、王は依然としてカリスブルクに監禁されている。長老派的王党は戦いの時期が近いと思っている。このようにしてウェールズの騒乱はまず第二内乱の幕を開く。ウェールズには、ボイアー大佐があって軍の解隊を拒んで、春中、不穏の中に過ぎた。この大佐は絶えずブランディーに酔っている男で、もちろん、まじめな人物ではないが、他にも二、三、彼と結ぶ将校があって、あちらこちらでいよいよ戦いが始まった。これよりさき、ボイアーは三月頃ペムブローグを得て根拠地とし、議会軍の大佐フレミングを通じての議会からの命令を拒み、遂にフレミングを敗死させた。王党の兵はボイヤーを助けようとし、議会軍の兵を討たんとして、共にペムプロークに集まる。たまたまスコットランドの挙兵の知らせがあって、全ウェールズは一時に起ち、王党の勢威はようやく振おうとした。こうなっては、とにかくクロムウェルが行かなければならない。すなわち彼は五月一日に出征の命令を受け、三日、軍を率いて出発した。早く行けよ、クロムウェル!議会軍の大佐ホートンは、クロムウェルの進軍中に、既に敵将の一人ローアンを撃破して勢威を示し、クロムウェルはチェプストー町を占領して、そこの城砦(じょうさい)の奪取を大佐ユーアーに託し(この大佐は四週間の後、城を取った)、自身は小敵を鎮圧しながら進んで、ペムプロークに到着した。しかし砲兵の欠乏のため長い間、包囲をしなければならない面倒に陥った。
2014.07.06
石川遼、2年ぶりV…小田孔とのプレーオフ制す読売新聞2014年7月6日(日)15:18 男子ゴルフの長嶋茂雄招待セガサミーカップは6日、北海道千歳市のザ・ノースカントリーGC(7050ヤード、パー71)で最終ラウンドが行われ、2打差の3位から出た石川遼(22)が、通算10アンダーで並んだ小田孔明(36)とのプレーオフを制し、2012年の三井住友VISA太平洋マスターズ以来となるツアー通算11勝目を挙げ、優勝賞金4000万円を獲得した。 石川は1打差を追う18番でバーディーを奪って小田孔に追いつき、プレーオフ1、2ホール目は両者ともにバーディー、3ホール目でもバーディーを奪った石川に軍配が上がった。遼3位浮上!長嶋さんの前で猛チャージ 逆転Vへミスター「いける、いけるよ!」デイリースポーツ2014年7月6日(日)07:00 遼3位浮上!長嶋さんの前で猛チャージ 逆転Vへミスター「いける、いけるよ!」(デイリースポーツ) 「セガサミーカップ・第3日」(5日、ザ・ノースカントリーGC=パー71) 11位から出た石川遼(22)=CASIOが5バーディー、1ボギーの67で回り、通算6アンダーに伸ばして首位と2打差の3位に浮上した。大会名誉会長の長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督(78)が見守る前で終盤、一気の猛チャージ。2012年11月以来のツアー通算11勝目へミスターから「いけるよ!」とゲキを受けた。小田孔明(36)=フリー=が4バーディー、2ボギーの69で回り通算8アンダーで首位キープ。松山英樹(22)=LEXUS=は3日連続のイーブンパーで23位。 スターとスターの共鳴だろう。長嶋氏の足音が北の大地のコースに近づくにつれ、石川が猛然とチャージをかけていった。 14番までは我慢を強いられ1つ伸ばしただけだったが、15番で突然、「気持ちよく振れた」と一変した。右バンカーからの第2打をピン3メートルに付けバーディー。ミスターが会場入りした直後の17番は池越えの第2打をPWでピン1メートルにピタリ。1日の目標とする4バーディーを奪った。 そしてミスターが見つめていた最終18番パー5。右ラフから残り265ヤードの第2打を4Wで強振。グリーン右にこぼれたが、第3打を絶妙タッチで80センチに寄せた。連続バーディー締めで一気の通算6アンダー。首位と2打差のV圏内に入った。 石川は最後のバーディーパットを打つ前にビッグなオーラに気づいた。毎年、ミスターは最終日に来て表彰式のプレゼンターを務めていたため、「ビックリした。まさかもう来られているとは」。ラウンド後はミスターの元に駆け付け、ガッチリ握手。「トップと数打差だから分からない。いける、いけるよ!」と逆転優勝へ最高のゲキをもらった。 楽な1日ではなかった。13番では第1打を右の深いラフ。5分近く迷った末、グリーンを狙わず刻んだ。14番では第1打が左の林の中。ここは果敢に木の間を通すスーパーリカバリー。ともにパーセーブしたことが終盤の爆発につながった。 守りの遼、攻めの遼がかみ合ってきた。12年11月以来、602日ぶりツアー11勝目へムードは最高潮。「小細工するのではなく、自分の理想のゴルフを目指す中で優勝したい」と力を込めた。 北海道は95年、長嶋監督率いる巨人が11・5ゲーム差を大逆転し優勝した、あの伝説の“メークドラマ”の出発点。最終組で戦う最終日、「背中を押してくれている」ミスターが見守る前で遼がメークドラマを見せる。
2014.07.06
さて第三編が終るに当って、一つラッシウスの書から引用を許してもらいたい。これをよく読むと、この事の精神がよくわかる。この頃、ある日ウィンザーに諸将の集会があった。この集会のありさまを、高級副官アレンが書き残したが、これを左に掲げるのである、(この人の事は後に詳述する)、実にこれが彼らの当時、事を始めた有様である。読者願わくは、まじめにこれを読んで考えてもらいたい。『王及びその与党と協約を結ばんと我らの試みたことは、我らをしてますます混乱に陥らしめた。我らは分裂し、混迷し、擾乱し、悪という悪は我らに臨み、今まで栄えた我らの愛する主義も今は亡ぶように見えた。』『四八年の初頭より王は我らとの協約を望んで、議会は我らの行動を怒り、良民はまた、我らのこれまで歩んできた率直の道を離れて政略的方面に入ったことを快く思わないで離れ去った、さらに加えて我らもまた内紛を起こし、速やかに分裂して、ために敵に覆されようとするありさまに至った。そうであれば王党は我らを倒さんとして諸処に起こり、スコットランド人は大軍をもって我らを来って討たんとする、そして我らは分裂し、困乱し、異説紛々として起こった。ある者は武器を棄てて解隊する利を唱えた。』『また、ある者は主イエスにならって最後の苦痛を受けるべきだと説いた。また他の考えを持っていたものもあった。そのため、我らは自らを卑しうして神の前にひれ伏し、我らの禍いの源である我らの不義の何であるかを探るために、祈祷会を開くことにした。外に困難より免がれる方法はなかった。』『ここにおいて我らは48年の春ウィンザー城に会合して一日を祈祷に送った、〔読者よ、皆よく思え〕某日は何事も定まらなかったが、翌朝また集って祈り、中将クロムウェルは立って、軍隊の過去の行動を回想し、クリスチャンとして我らの行いを想って、そこに我らの不義の何であるかを見出すべきことを勧めた。このようにして我らは考慮するべき数か条を定めて、集会を閉じ、翌日また集って考察反省を続けた。』『このようにして我らは恩恵のみ手に導かれて、我らが主より離れし理由を知ることができた。これ我らが自らにたのみ、敵を恐怖し、信仰を失ったために行ったのが王及びその与党との交渉であった。これが我らの不義えあることを我らは一様に認めた。この時、ゴフェー少佐は、我が戒めに従いて心を改めよ、視よ、われ我が霊を汝らに注ぎ、我が言を汝らに示さん(旧約聖書詩篇第一章二三節)という語を引いて一同の悔改を望み、主の霊、我らに臨みて、我らは過去を悔い、我らの逆運を神の義として甘受した。』『このようにして我らは自らの罪を知り、職分を覚り、皆、涙を流して一言もなかった、〔近世の読者よ、よく記せよ。この流した涙と涙を流した人とを〕、泣いたのは、罪の苦しみに堪えず、不信を悔い、人の面を恐れたを悔やみ、かつ自らの智にたのんで、主の言に頼らなかったことを悔いたためである。主の言こそ唯一明智の道であり、他は皆迷誤であるのである。・・・・・・我らは主に導かれて全会一致、全軍を挙げて各地の敵を討つことを決定した。〔勇め!〕へりくだって主にのみ頼るならば、敵を滅することができよう。我らはまた、主が再び平和を賜る暁には、チャールズ・スチュアートに、主の道と民とに背いて流血の中に全国を沈めた責任を負わせようと、多くの理由をもって全会一致で決議した。〔これに注意せよ!〕』『而してこの年、主は義をやめて愛を賜い、いかに我らを恵みたまったか―私はその永久に忘れられないことを願う。』読者よ、読者は以上、アレン氏の記事をもって、不可解とし、暗黒とし、狂妄となすであろうか。狂妄はしばしば明智の傍らに横たわる。しかし、これは狂妄ではない。この暗黒は光明輝照の母である。これは全く正気(しょうき)である。
2014.07.06
(五)祈祷会 王を救おうとする四万人のスコットランド軍はいよいよ事実となって現われた。「害悪党」の首領ハミルトンが遂に議会に多数を制して、これを実現するに至ったのである。太鼓の響きはとうとうとしてスコットランドの山河に鳴った。「四万のスコットランド軍」は彗星のごとくイングランドの空にかかり、全イングランドは鼎(かなえ)の湧くありさまとなった。数週を経るならば、エールズも乱麻のごとく乱れるであろう。イングランドもまた・・・・・・。 この時〔一六四八年の春〕におけるイングランドの一小党〔軍隊〕の位置は、勇者の心をも沮喪させるものであった。四囲は皆敵で、勝つか、あるいは見苦しく敗れるかのみであった。島にあって大陰謀の中心である王は第一の敵であった。辛うじて征服したが再起の力が備わる王軍はその二であった。ロンドンを根拠地とした長老派はその三であった。獅子身中の虫たる「平等党」は第四の敵であった。あまつさえ下院は敵味方半数で形勢は逆転しかねない。スコットランド軍は次第に迫り来る有様であった。 そのためクロムウェルは民党の一致融和のためにこの頃全力を注いだように見える。軍隊と議会の貴族を自宅に招いて晩餐会を開くなどして、融合を計ったが、無効であった。議会は軍隊と一致せず、議会は二派に別れ、市は議会と一致することを欲しない。四月八日、クロムウェルは市会に出て、熱心に説くところがあったが、彼らは彼を軽んじて、その言葉に耳を傾けなかった。市はハミルトンのスコットランド軍に同情するものの、王党や長老派の叛乱の兆しはあるものの、果して四月九日に至って青年徒弟の暴動が起こり、諸門を占領して「神とチャールズ王!」と狂ったように叫び、四〇時間の後ようやく軍隊の鎮圧するところとなった。以上がこの頃の情勢である。
2014.07.06
書簡第五六〔略す〕 書簡第五七親しきロビンよ、王が逃亡を企て成功しなかったとの知らせが、ある人のもとに来た。王は窓から出て、絹ひもにすがって降りようとしたが、胸が広いためできなかったとのこと、二週間ほど前の暗夜のことである。貴君のところにいる一紳士が王の逃亡を導いた。守護隊はその夜、酒を持っていたとのことである。王の傍らにいる大尉チタスらは信用できがたい人物であると聞いている。王を導いた紳士はフィアプレースで、その他クレセント、バローエズ、チタスなどが疑わしい。逃亡を試みたは三月二〇日のことである。以上。一六四八年四月六日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェルワイト島守将ロバート・ハモンド殿王は議会と講和する心がなく、再び兵を挙げようと計りつつあったのである。そのため逃亡を企てたのであるが、ハモンド大佐は警戒をおさおさ怠らなかった。チタス、ジェームズ・ハリントン、トーマス・ハバート等は王の看守者として議会より命ぜられた人々であるが、皆、多少王に同情を有していたのである。ハモンド大佐の叔父の宮廷教師は、あまり王の贔屓(ひいき)をするために既に去年のクリスマス頃、島からおわれた。
2014.07.06
書簡第五五スコットランドにおいては、ハミルトン公を首領と戴く王党の一隊が勢威を張っているという報知が、クロムウェルのもとに来た。これは、軍勢を十分得て後、クロムウェル等の独立軍を破って王を救おうと計画した一派である。牧師スティーブン・マーシャルがこれを知らせたのだ。〔訳者曰く、この一党を独立派はthe Malignanntsまたはthe Malignant Partyと呼んだ、害悪党の意である〕〔前略〕北方よりの新しい知らせは極めて少ない。ただかの害悪党のスコットランド議会に跋扈(ばっこ)することあるだけである。彼らは王のための挙戦を熱望するも、僧侶たちはこれに反対しているとのこと。マーシャル氏が帰国しての話である。また同一趣旨の知らせが多い。この危険委員会(スコットランド議会)においては、一人の正しい議員に対して二人の害悪党員がある程の割合である。彼らは四万人の募兵を決議したとのことだがどうであろうか。奥様によろしくお願いあげる。以上一六四八年三月二八日、ファーンハムにて オリバー・クロムウェル尊い友なるリチャード・ノートン大佐殿 クロムウェルは軍事上の用事でファーンハイムに来ていたのであろうが、とにかくケント州はこの頃、危険状態にあったので、数週の後「四万人の募兵」が確実となるや、他の多くの場所と共に公然、議会に対して叛旗をひるがえしたのである。 この頃は、議会の出席者は大いに減少した。二〇〇より七〇に落ちた。議会の仕事は、ワイト島のチャールズ王との、解決がつきそうもない交渉であって、万事は未決の状態であり、前程も明らかでない、腰弱な議員は選挙区へ帰って形勢を観望した。
2014.07.06
書簡第五三〔略す〕 書簡第五四この頃、クロムウェルは重い病気にかかり、その回復した時、フェアファクスに次の手紙を送った。貴兄よ、神は私の危険な病気を癒したまう。病気が来訪したのは確かに天父の慈愛である。復活した主に信頼し、肉に頼ることをなくさせるために、私は死の宣告を受けたのである。日々に死ぬことは幸福である。現世に何の貴い事があろうか。肉の人、肉の事、いかに大きくても無である、空である。つらつら思いめぐらすに、主を愛し、かつ主の憐れな民(中以下の人民)のために計り、共に苦しむことこそが唯一の善である。そしてこのような人は、主より大恩恵を得るであろう。これに従事し撓(たゆ)まなければ、復活の光栄にあずかれるであろう。先日の手紙で大兄の友愛に今さらながら感泣した。何度もお礼申しあげる。なにとぞ奥様にもよろしくご声をおかけくだされたく、私は彼女の幸福と堅信とを祈っている。以上。一六四八年三月七日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェルウィンザーにある議会軍総督サー・トーマス・フェアファクス殿
2014.07.06
書簡第五一〔略す〕 書簡第五二ワイト島の守将ロバート・ハモンドは歩兵大佐で年少ながら優秀な人物であった。グロースターで大尉であった時、少佐グレーの虚言を怒って決闘しこれを殺し、審問を受けたが、敵の罪も大きかったため赦され、後大佐に昇進して、著名な武人となった。叔父のトーマス・ハモンドは砲兵中将でその民主主義において極めて固く、おじ、いとこ共に民軍のために奮闘したのであった。もう一人の叔父に博士(ドクター)ヘンロー・ハモンドという王党の名士があった。このヘンリーは宮殿の牧師として王の寵臣の一人であって、先ごろハムトン宮で、甥のロバートを王に、民党ではあるが、今はむしろ王党主義に近い者として紹介した。王がロバート・ハモンドに投じたのはこの事があったためであろう。ロバート大佐はプトニー軍がややもすれば過激主義に訴える方に傾くことを嫌って、辺地の守将である閑職に喜んで転じたのであるが、今や図らずも王が来たため、更に大きい紛糾の中に投ずることとなった。彼は王が来るにあたって、王を擁して起たんか、またはあくまで民党のために忠誠たらんかと大いに迷った。しかし彼はこの一大誘惑にかって前述のように計ることができた。この書簡はクロムウェルからロバート・ハモンド大佐におくったものである。親愛なるロビンよ、神の処置したもうところは皆良い、紛糾の中にあっても、栄光はその中より現れる。私は貴君とともに、また貴君のために主を讃美する。まことに今回の貴君の行動は神のみ名とみ教えに大いなる名誉を付け加えた。親愛なる、ロビンよ。このたびの事は、実にこの哀れな王国と我らすべてとに対しての大恩恵で有る。下院は主のなすところとスコットランド人のなすところの真意が今度はだいぶよくわかった様子である。貴君がもし敵の狡計を見るべき材料を得た時は、願わくは知らせたまえ。これは大いに役立つであろう。下院は今日、左の事項を決定した。(一)下院はもはや王と交渉しないこと、(二)上下両院の許可がなく、王に願い事を行ってはならないこと、そしてこれに背く者は背反者と見られるべきこと、(三)王より物を貰わないこと、(四)議員で両王国委員会に連なる者は、在来イングランドとスコットランドを代表したが、以後はイングランドとアイルランドを代表すること等 である。貴君の目下の兵力はどうか。もし増援を要するならば、申し出るように。ワイト島をよく守備することは最も必要であると思う。その上は、王を置く場所として他に類のない良所であろう。以上。一六四八年一月三日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェルワイト島守将ロバート・ハモンド大佐殿
2014.07.06
書簡第五〇港は皆閉ざされ、船舶はことごとく出港を停止された。旧記によると、ホーレー大佐は〔一一月〕一三日に議会へ呼び出されて調べられた時、事の顛末をつまびらかに述べて、かつクロムウェルから受け取った手紙を差し出した。その手紙というのはこれである。親しき従弟ホーレーよ、陛下のお体を害さんとの陰謀ある由、噂さに聞きたり。されば貴君の守備隊の監督を怠らぬよう願い申す。もし暗殺等のことあらば、そは最も恐ろしき事と申すべく・・・・・・。一六四七年一一月、プトニーにおいて オリバー・クロムウェルハムトン宮殿にある愛する従弟ホーレー大佐殿ホーレーを従弟(いとこ)というのは、彼はクロムウェルの叔母フランシスの子であるからである。一一月一五日、ワイト島の守将ロバート・ハモンド大佐から、王がワイト島に来たという報知があった。王は宮殿を出たものの、外(ほか)に行くところもなくて、やむなくこの島に上陸したのである。ハモンド大佐は命によって、直ちに王をカリスプルク城に監禁した。同じ一五日に平等党の集会が某所にあることを聞いて、クロムウェル等はそこに行き、その首領一一人を捕えて軍法会議を開き、うち三人を有罪と定め、そして三人のうち一人がくじ引きで銃殺された。クロムウェルはこの頃は王との協定を結んで国の平和を計ろうと努めていたので、勢い平等党の陰謀を抑える必要があったのである。この頃軍隊の本営はウィンザーに移る。
2014.07.06
日本のコミックや映画を原作にリメークすることが多かった米国のハリウッド映画界が、日本のSF小説に注目し始めている。来月四日公開の「ALL YOU NEED IS KILL(オール・ユー・ニード・イズ・キル)」(ダグ・ライマン監督)は桜坂洋さんの小説を原作に、トム・クルーズ主演で映画化された。日本の小説が国内での映画化を経ずに、いきなりハリウッド作品となる例は極めて珍しい。アニメやホラーの後塵(こうじん)を拝してきた日本SF小説の世界進出の先駆けとなるか。 (前田朋子) 原作は二〇〇四年に集英社から出版されたライトノベルで、異星人の侵略を受ける地球が舞台。出撃で命を落とすたびに出撃前日に戻る無限ループに迷い込んだ初年兵のキリヤ・ケイジが戦闘能力を身に付けて成長し、人類を救う物語だ。映画は主人公を戦闘経験ゼロの米軍広報担当少佐ウィリアム・ケイジ(トム・クルーズ)に置き換えた。 原作者の桜坂さんは、まだ著作は少ないが、編集者やファンから「発想や構成が日本人離れしている」と高く評価されている。 「オール・ユー~」の映画化が実現した背景には北米で出版された英訳本の成功が大きい。年間三百冊以上もの漫画を翻訳・出版する集英社などの北米関連会社ビズメディアは〇九年、SF・ファンタジー部門「ハイカソル」を立ち上げ「オール・ユー~」など数冊の英語版を出版。自身もSFファンというハイカソル編集長のワシントン真澄さんは「漫画やアニメとジャンルが近いSFであれば、翻訳作品に厳しい米出版界でも受け入れられると思った」と狙いを説明する。 映画化に当たっては、分厚い企画書や資料より英訳本一冊があるだけでスムーズに交渉が進むという。 近年、日本のアニメやホラーのリメークが続き、ハリウッドでも原作や脚本が枯渇しているのかと思えてくるが、ワシントンさんは今回の成功の鍵が作品の力にあるとして「タイトルのインパクト、アイデアの秀逸さ、ストーリーの設定、展開が映画関係者の心をとらえた」と説明する。 -映画の感想は? 想像を超えて面白かった。米軍の将来像を踏まえているようで「リアルな映像化ってこうなるんだ」と驚きました。設定や結末は原作と違いますが、製作陣が「俺は話の中にこういう魂をかぎ取ったから、これで行く」と翻案したならそれでいい。「曲がりくねったラインすべてが一人の人生だ」という芯の部分はそのままです。 -ほかの日本のSF小説も続くと思うか? (ハリウッドには)あまり向いていないかも。国内向けに、日本人が文明的に共有する部分に合わせて書くと外国では受けません。といって、完全に外国人が書くものと同じでは意味がない。じゃあどこにあえて日本人らしさを残すか、しかもそれがグローバルに通じるか。そのさじ加減の見極めは難しい。 映画は八人の脚本家が何度も書き換えたが、ラストに「日本らしさ」が残った。あの感じは今までのハリウッドにないパターンでしょう。たまたまうまく行ったのでしょうが、その「受けるラインの見極め」が今後の日本コンテンツ展開の鍵になると思います。 <さくらざか・ひろし> 1970年、東京都生まれ。2003年「よくわかる現代魔法」(シリーズ既刊6巻、集英社スーパーダッシュ文庫)でデビュー。他に「スラムオンライン」(ハヤカワ文庫)など。
2014.07.04
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