PR
Keyword Search
Calendar
Category
Comments
八路軍の研究( 3 )
次に彭徳懐が行った抗日戦段階を示す。
第一時期―平型関戦闘( 1937 年 9 月 25 日)から武漢陥落( 1938 年 10 月 25 日)まで
第 2 時期―武漢陥落から百団大戦( 1940 年 8 月 20 日)
第 3 時期―百団大戦後( 1940 年末)から抗戦5周年( 1942 年7月7日)
まで
第4時期―抗戦 5 周年から現在まで
それぞれの時期の特徴を彭は敵方情勢、友軍情勢、我が方情勢にわけてまとめている。
第 1 時期
(敵方情勢)
日本軍は速戦速決で 3 か月以内に中国を滅亡させると豪語し、黄河以北を占領して棉花、石炭、鉄の産地を確保した後華中華南南洋まで南下する戦略だった。主要な敵国民党軍隊に対し日本軍は 12 個半師団合計約 30 万で正面から攻め、平、津、保定、石家庄、太原を占領し、北寧線、平綏線、正太線、同蒲線および平漢線、津浦線の北半分を占領した。
鉄道沿線と主要な都市にはトーチカを築いて防備した。
作戦の相手は八路軍とその友軍(後述)で日本軍に協力する偽軍は反共地方軍との合計約7万であった。
日本軍の戦術は突貫攻撃、単刀直入式から次第に分進合撃に変えた。
1000 人以上の兵力による掃蕩は 10 回
1 万人以上の兵力による掃蕩は 5 回
行った。
(友軍情勢)
抗戦初期は国民党中央軍、西北軍、東北軍、晉綏軍、河北の楊秀峯、山東の範筑先などの地方軍など 75 万で士気は一般的に高かった。しかし数度の戦闘、南口の戦、忻口の戦では国民党の勇敢な将兵の殉職が相次ぎ、破れて次第に戦意を消失していった。戦闘方法は正面単純防御で運動戦と陣地戦は結合せず、ゲリラ戦は行わなかった。闘っても局部的な小戦闘だけで、高級将校は死を避け、やがて抵抗せず、闘わずして破れた。大衆の支援というものはなかった。
(我方情勢)八路軍の参加は約 8 万。このうち4. 5 人が編成されて給与を受け、 115 , 120 , 129 の名称を授けられた。 9 月中原を出発し、黄河を渡って北進した。この時の我々の覚悟は長期戦、基本は遊撃戦であると認識していた。
115 の師団長は林彪であり、副団長は聶栄臻。平型関(後述)で大勝した。その後は交通線の破壊、忻口会戦、娘子関の闘いで友軍を側面援助し、太原を守り、河北省とチャハル省の失地を回復した。 120 師 は雁門関で戦った。 129 師は陽明堡飛行場で敵軍の飛行機 20 を破壊した。 129 師は友軍の撤退を援護した。などなど。この時期は国民党軍の補助、側面援護的な役割をした。
1938 年、平綏線、平漢線、北寧線、津浦線、同蒲線など 2938 キロを破壊した。
この頃、友軍との協同から単独作戦になり、敵の後方に抗日根拠地をつくり遊撃戦を行った。抗日根拠地は山岳地帯で、五台山、大行山、呂梁山など、敵が自動車などの機械化部隊で攻められずにすみ、敵の動きをみて集中して攻撃した。国民党中央軍の徐州戦、漢口戦に呼応して敵の生力量(兵力)の消滅につくした。
また偽軍 5000 を消滅させ、抗日政府管轄下の人民は 1000 万人以上に達した。
第 2 時期―武漢陥落から百団大戦まで( 1940 年 8 月20日)
(敵方情勢)
1938 年 8 , 9 月、日本軍は国民党側に対しては政治的な降伏勧誘を主にし、軍事進攻の重点を八路軍に移した。日本軍兵力は 22 個師団、 44 万である。 3 分軍事、 7 分政治方針とし、点(都市)と線(鉄道、道路)を固めたうえ、面に拡大する戦術で、池を乾して魚をとる戦術、区ごとに掃蕩する戦術、牛刀で鶏頭を斬る戦術などと言った。解放区をしめつけて封鎖を厳密にし、無衣無食の状態に追い詰める政策であった。
掃蕩の規模は大規模化し、抗戦2,3年間に
1000 人以上兵力による掃蕩 109 回、
1 万人~ 2 万人兵力による掃蕩 7回
3万人以上兵力による掃蕩 2 回
6 万人以上兵力による掃蕩 1 回
に及んだ。 1939 年~ 40 年における修復した鉄道は 1870 キロになった。我々の抗日根拠地を封鎖、きりとり、蚕食、掃蕩を行ったが、敵の弱点は兵力不足で、偽軍(皇協軍、剿共軍)の増強で行った。偽軍は 1940 年末 14.5 万人となった。
(友軍情勢)華北の国民党軍隊は抗戦から反共に変わり、解放区を匪区と呼び、 1939 年冬、第一次反共行動が高まった。日本軍は国民党軍と中共軍が闘っているときは観戦的態度を持し、国民党軍の攻撃を差し止めた。国民党には消極的だが抗日をすてない派と頑固派があり、頑固派は抗日より反共で、日本軍と通じた。
(我が方情勢)
この時期はまことに苦しい時期で、遊撃戦と運動戦をおぎあいながら行った。軍民が共同して交通破壊戦を行った。 1938 年から 1939 年の間に 4 回の大掃蕩があり、敵は毒ガスを使用した。 1939 年 7 月は 6 万の兵力で 9 路から包囲して完全殲滅を期してきた。わが方は狙撃により阿部中将以下幕僚を戦死させる戦果をあげた。機械化部隊で侵攻してきたが、我が方はよくこれを防ぎ、根拠地を固めた。
敵の囚籠政策に対して我が方は交通闘争を発動した。交通闘争とは、軍事闘争ではなく大衆闘争である。軍隊と人民が結び、鉄道の両側に建てた敵の封鎖溝や堤を破壊した。特に敵が物資を運ぶ幹線には 5 人以上を動員し、抗戦 3 年目に華北全体で 2660 キロの鉄道、 8200 キロの道路を破壊し、電柱 42220 本を引き抜き、電線 10926 キロを奪った。 4 年目にはさらにそれを増やした。
平原地区作戦では、深さメートル、幅 1.7 メートルを掘り、敵はわが軍を射撃できないようにした。
敵の拠点を取り除く作戦は、 6 つの方法を使った。常時的な襲撃、強攻、釣魚 敵をおびき出して伏撃する、敵の拠点付近までしのびこみ、敵に対して意想外の襲撃、坑道を使って爆破、地道戦、村と村を坑道でつなぎ、退避や作戦を行う。特に日本軍が井径炭鉱から石炭を運び出す正太線を重点的に攻撃した。