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現代は、人間とは誰にも冒されることのない唯一絶対の人権をもった尊厳なものであるという、自我的観念の人間観に立っています。この人間観はキリスト教思想を背景として、アメリカの独立宣言(1776)やフランスの人権宣言(1789)においてあらわれた人間観であります。現在では、この人間観が世界中にひろがり、日本においても、この人間観に立って社会の隅々まで法律が体系化され、また児童ならびに青少年の教育がおこなわれております。私ども真宗の教えをいただく者といえども、現代人であるかぎり、この人間観によって成り立っている社会の一員として、日々社会生活を営んでいるのであります。
このように、親鸞聖人の人間観と現代の人間観とのあいだには天と地ほどの落差があります。この落差のところに、〈真宗〉と現代とのあいだの大きな乖離(かいり)があるのです。真宗の教えをいただく私どもも、その乖離をあまり意識しないで、むしろ現代の人間観に立って生活しているのが実際ではないでしょうか。したがって、この乖離を直視せずして、いくら現代社会にかかわっていこうとしても、そこには現代社会との妥協をもたらし、そのかかわり方がすべて〈真宗〉ではなくなってしまうのであります。
かつて親鸞聖人が出家された養和元年(1181)から2年にかけての大飢饉は凄まじく、養和2年の4月、5月の 2ヵ月間で京の都の餓死者の数は4万2300余人にのぼったと鴨長明の『方丈記』は記しております。その惨状の記述の中にあっても「その思ひまさりて深き者、必ず、先立ちて死ぬ。」と述べていることに胸を突かれます。「思ひ」とは愛情のことですが、その愛情の深いものほど先に死んで行ったというのであります。なぜか。それは、苦労してたまたま手に入れた食べ物ですら、自分のことは二の次にして、愛するものに譲ったからである、とその理由を記しています。したがって親子の場合はかならず親が先に死んでいったと記しているのです。「愛」は凄まじい大飢饉の中にあっても失われてはいなかったのです。
ところが、科学文明の進んだ現代はどうでしょうか。子が親を殴り殺し、親が子を殺し、夫が妻を殺し妻が夫を殺し、さらには何の関係もない人を「むしゃくしゃしたから」といって無差別に殺すという事件が毎日のように報道されています。そこには得手勝手な自己中心的な自我と欲望の野放図な氾濫があります。その荒廃は目をおおうばかりであります。親子夫婦という人間関係の基本がこのような様相を呈しているということは、人間関係の基盤自体が腐食しつつあることを、否定しようもなく物語っているといわざるをえません。
このような惨状は、人間の尊厳と価値を憲法で保証され、人格の尊重をうたわれた教育基本法で教育を受けたはずの人々において起っている事柄であり、近代の美しい人間規定は実際にはまったく破綻してしまっていることを証明しているのではないでしょうか。ここにおいて近代の人間観ではなく、〈真宗〉の人間観こそがよりリアルに現実の人間を言い当てていることはあきらかであります。
近代は理性の時代でありました。ことに日本では20世紀は理性の世紀でありました。したがって明治以降の教学は、理性をもって「浄土三部経」の神話性を破砕し、理念化し哲学化することをいたしました。いいかえれば神話を非神話化して、近代人の合理的知性に受け入れられやすいように解釈し直すということでありました。しかしそれから百年、現代はむしろその近代的理性の闇という問題性が指摘されるようになりました。もはや近代知がなんの疑問もなく肯定される時代ではなくなったのです。近代知こそが問われているのであります。
曽我量深先生の教えを通して清沢満之先生の教えを真宗教学にしっかりと位置づけ、もって真宗同朋会運動の道しるべとして、人類救済の原理である真宗教学を明らかにすべきであると思量するのであります。
61年前の今日は 2006年08月15日
親鸞の視線で釈尊のことばを読み解く 2006年08月08日 コメント(1)