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2005年12月06日
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カテゴリ: 社会
今朝も集団登校で息子二人は登校した。本来なら小学一年生は集団下校のはずなのだがなし崩し的にそうではない。学校まではそんなに遠い方でもないし、ダウ遺体道一本でいける。またある意味見通しの良いところだから佐原割れって言うことはほとんど心配ないことであろう。だけどもしかすると、てっ思うことがある。小学一年生の子が続けて二人も殺害され、又一人の子が行方不明。やっぱり心配である。

一方で広島で小学生を殺害したという容疑で逮捕された日系ペルー人のことが気になる。「悪魔が入った」との発言。その事が本当かどうかということよりも、そう思ったときどういう状況にあったのだろうか。簡単に否定せずもう少し丁寧に聞き取ってみたい気がする。そこに本当に殺害をしたならその心境というか、何故やったのかということが見えてくるのではって思う。
殺害された両親からすればこの逮捕された人を「殺してやりたい」と思っているのだろう。我が子を殺されるって言うことを体験したことはないが、何ともいえないことだろう。無念さは何となくわかる。でも、殺したからと言ってすっきりするわけではないと思う。だって生き返っては来ないんだから。殺害者を殺して我が子が生き返ってくるのであるならばどんなに良いことだろうか。でもそう言うことはあり得ない。
死刑という法的な、公な殺人をしたとしても、関係者が殺したとしても殺害された子ども達の近親者は決してすっきりしないだろう。かえって好き入りするのはその事を他人事として傍観しているもの、悪者を仕立てて我身の問題としない人々にとっはすっきりするだろう。自分のやったことを我が身の死を持って償ったとしてもすっきり破しないだろう。加害者の死を持って問題を解決しようというのは間違いとしか言いようがない。
もしかすると誰かの死を持って問題を解決すればいいさと思うその思いこそが、殺人という罪を作っていくのかも知れない。

ふと宗祖親鸞聖人の女犯偈を思い出す。

 行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳


この「女犯偈」は相手によって傷つけられる者が、傷つける者を受け止めてあなたと共に生活いたしましょうと言っているんですね。そしていよいよあなたがこの世の生を終わっていく時に、私が導いて浄土にお連れいたしますと、このような言葉なんですね。これは観音菩薩が一人の美しい女性の姿になったとして語られていますが、自分を傷つけるものを受け止めてしまう。そのように共の生を具体的に明らかにしている言葉なんですね。つまり自分を傷つけ人を傷つけずには生きられない、だからどこにも共にの生が成り立たない。こういう問題を抱えて苦悩する親鸞に観音菩薩がこのような言葉をもって、あなたと共に生きていきましょうと、呼びかけて下さっているわけです。 (中川皓三郎氏の言葉)

罪を償うと言うことと女犯偈が繋がるのかどうか今ひとつはっきりしていないが、ちょっと気になっている。
罪の償いは死をもって終わるものでは決してないと思う。罪を償い続けて生ききることからしかは始まらないと思う。死ぬと言うことは償いが終わると言うことであり、終わらすことであると思う。





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最終更新日  2005年12月06日 09時54分18秒
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