元気力UP!

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2014年12月23日
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カテゴリ: 吾輩は猫である




何だとうとう担がれたのか、あまり書き方が真面目だものだからつい仕舞まで本気にして読んでいた。
新年匆々こんな悪戯をやる迷亭はよっぽどひま人だなあと主人は笑いながら云った。

 それから四五日は別段の事もなく過ぎ去った。
白磁の水仙がだんだん凋んで、青軸の梅が瓶ながらだんだん開きかかるのを眺め暮らしてばかりいてもつまらんと思って、一両度三毛子を訪問して見たが逢われない。
最初は留守だと思ったが、二返目には病気で寝ているという事が知れた。
障子の中で例の御師匠さんと下女が話しをしているのを手水鉢の葉蘭の影に隠れて聞いているとこうであった。

「三毛は御飯をたべるかい」「いいえ今朝からまだ何にも食べません、あったかにして御火燵に寝かしておきました」何だか猫らしくない。
まるで人間の取扱を受けている。

 一方では自分の境遇と比べて見て羨ましくもあるが、一方では己が愛している猫がかくまで厚遇を受けていると思えば嬉しくもある。

「どうも困るね、御飯をたべないと、身体が疲れるばかりだからね」「そうでございますとも、私共でさえ一日御※をいただかないと、明くる日はとても働けませんもの」
 下女は自分より猫の方が上等な動物であるような返事をする。
実際この家では下女より猫の方が大切かも知れない。

「御医者様へ連れて行ったのかい」「ええ、あの御医者はよっぽど妙でございますよ。
私が三毛をだいて診察場へ行くと、風邪でも引いたのかって私の脈をとろうとするんでしょう。
いえ病人は私ではございません。
これですって三毛を膝の上へ直したら、にやにや笑いながら、猫の病気はわしにも分らん、抛っておいたら今に癒るだろうってんですもの、あんまり苛いじゃございませんか。
腹が立ったから、それじゃ見ていただかなくってもようございますこれでも大事の猫なんですって、三毛を懐へ入れてさっさと帰って参りました」「ほんにねえ」
「ほんにねえ」は到底吾輩のうちなどで聞かれる言葉ではない。
やはり天璋院様の何とかの何とかでなくては使えない、はなはだ雅であると感心した。

「何だかしくしく云うようだが……」「ええきっと風邪を引いて咽喉が痛むんでございますよ。
風邪を引くと、どなたでも御咳が出ますからね……」
 天璋院様の何とかの何とかの下女だけに馬鹿叮嚀な言葉を使う。

「それに近頃は肺病とか云うものが出来てのう」「ほんとにこの頃のように肺病だのペストだのって新しい病気ばかり殖えた日にゃ油断も隙もなりゃしませんのでございますよ」「旧幕時代に無い者に碌な者はないから御前も気をつけないといかんよ」「そうでございましょうかねえ」
 下女は大に感動している。

「風邪を引くといってもあまり出あるきもしないようだったに……」「いえね、あなた、それが近頃は悪い友達が出来ましてね」
 下女は国事の秘密でも語る時のように大得意である。

「悪い友達?」「ええあの表通りの教師の所にいる薄ぎたない雄猫でございますよ」「教師と云うのは、あの毎朝無作法な声を出す人かえ」「ええ顔を洗うたんびに鵝鳥が絞め殺されるような声を出す人でござんす」
 鵝鳥が絞め殺されるような声はうまい形容である。
吾輩の主人は毎朝風呂場で含嗽をやる時、楊枝で咽喉をつっ突いて妙な声を無遠慮に出す癖がある。
機嫌の悪い時はやけにがあがあやる、機嫌の好い時は元気づいてなおがあがあやる。
つまり機嫌のいい時も悪い時も休みなく勢よくがあがあやる。
細君の話しではここへ引越す前まではこんな癖はなかったそうだが、ある時ふとやり出してから今日まで一日もやめた事がないという。
ちょっと厄介な癖であるが、なぜこんな事を根気よく続けているのか吾等猫などには到底想像もつかん。
それもまず善いとして「薄ぎたない猫」とは随分酷評をやるものだとなお耳を立ててあとを聞く。

「あんな声を出して何の呪いになるか知らん。
御維新前は中間でも草履取りでも相応の作法は心得たもので、屋敷町などで、あんな顔の洗い方をするものは一人もおらなかったよ」「そうでございましょうともねえ」
 下女は無暗に感服しては、無暗にねえを使用する。

「あんな主人を持っている猫だから、どうせ野良猫さ、今度来たら少し叩いておやり」「叩いてやりますとも、三毛の病気になったのも全くあいつの御蔭に相違ございませんもの、きっと讐をとってやります」


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2025年03月15日 17時02分49秒
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