元気力UP!

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2015年01月09日
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カテゴリ: 吾輩は猫である


二三日は事もなく過ぎたが、或る日の午後二時頃また迷亭先生は例のごとく空々として偶然童子のごとく舞い込んで来た。
座に着くと、いきなり「君、越智東風の高輪事件を聞いたかい」と旅順陥落の号外を知らせに来たほどの勢を示す。
「知らん、近頃は合わんから」と主人は平生の通り陰気である。
「きょうはその東風子の失策物語を御報道に及ぼうと思って忙しいところをわざわざ来たんだよ」「またそんな仰山な事を云う、君は全体不埒な男だ」「ハハハハハ不埒と云わんよりむしろ無埒の方だろう。
それだけはちょっと区別しておいて貰わんと名誉に関係するからな」「おんなし事だ」と主人は嘯いている。
純然たる天然居士の再来だ。
「この前の日曜に東風子が高輪泉岳寺に行ったんだそうだ。
この寒いのによせばいいのに――第一今時泉岳寺などへ参るのはさも東京を知らない、田舎者のようじゃないか」「それは東風の勝手さ。
君がそれを留める権利はない」「なるほど権利は正にない。
権利はどうでもいいが、あの寺内に義士遺物保存会と云う見世物があるだろう。
君知ってるか」「うんにゃ」「知らない? だって泉岳寺へ行った事はあるだろう」「いいや」「ない? こりゃ驚ろいた。
道理で大変東風を弁護すると思った。
江戸っ子が泉岳寺を知らないのは情けない」「知らなくても教師は務まるからな」と主人はいよいよ天然居士になる。
「そりゃ好いが、その展覧場へ東風が這入って見物していると、そこへ独逸人が夫婦連で来たんだって。
それが最初は日本語で東風に何か質問したそうだ。
ところが先生例の通り独逸語が使って見たくてたまらん男だろう。
そら二口三口べらべらやって見たとさ。
すると存外うまく出来たんだ――あとで考えるとそれが災の本さね」「それからどうした」と主人はついに釣り込まれる。
「独逸人が大鷹源吾の蒔絵の印籠を見て、これを買いたいが売ってくれるだろうかと聞くんだそうだ。
その時東風の返事が面白いじゃないか、日本人は清廉の君子ばかりだから到底駄目だと云ったんだとさ。
その辺は大分景気がよかったが、それから独逸人の方では恰好な通弁を得たつもりでしきりに聞くそうだ」「何を?」「それがさ、何だか分るくらいなら心配はないんだが、早口で無暗に問い掛けるものだから少しも要領を得ないのさ。
たまに分るかと思うと鳶口や掛矢の事を聞かれる。
西洋の鳶口や掛矢は先生何と翻訳して善いのか習った事が無いんだから弱わらあね」「もっともだ」と主人は教師の身の上に引き較べて同情を表する。
「ところへ閑人が物珍しそうにぽつぽつ集ってくる。
仕舞には東風と独逸人を四方から取り巻いて見物する。
東風は顔を赤くしてへどもどする。
初めの勢に引き易えて先生大弱りの体さ」「結局どうなったんだい」「仕舞に東風が我慢出来なくなったと見えてさいならと日本語で云ってぐんぐん帰って来たそうだ、さいならは少し変だ君の国ではさよならをさいならと云うかって聞いて見たら何やっぱりさよならですが相手が西洋人だから調和を計るために、さいならにしたんだって、東風子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心した」「さいならはいいが西洋人はどうした」「西洋人はあっけに取られて茫然と見ていたそうだハハハハ面白いじゃないか」「別段面白い事もないようだ。
それをわざわざ報知に来る君の方がよっぽど面白いぜ」と主人は巻煙草の灰を火桶の中へはたき落す。
折柄格子戸のベルが飛び上るほど鳴って「御免なさい」と鋭どい女の声がする。
迷亭と主人は思わず顔を見合わせて沈黙する。

 主人のうちへ女客は稀有だなと見ていると、かの鋭どい声の所有主は縮緬の二枚重ねを畳へ擦り付けながら這入って来る。
年は四十の上を少し超したくらいだろう。
抜け上った生え際から前髪が堤防工事のように高く聳えて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせり出している。
眼が切り通しの坂くらいな勾配で、直線に釣るし上げられて左右に対立する。
直線とは鯨より細いという形容である。
鼻だけは無暗に大きい。
人の鼻を盗んで来て顔の真中へ据え付けたように見える。
三坪ほどの小庭へ招魂社の石灯籠を移した時のごとく、独りで幅を利かしているが、何となく落ちつかない。
その鼻はいわゆる鍵鼻で、ひと度は精一杯高くなって見たが、これではあんまりだと中途から謙遜して、先の方へ行くと、初めの勢に似ず垂れかかって、下にある唇を覗き込んでいる。
かく著るしい鼻だから、この女が物を言うときは口が物を言うと云わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。
吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して鼻子鼻子と呼ぶつもりである。
鼻子は先ず初対面の挨拶を終って「どうも結構な御住居ですこと」と座敷中を睨め廻わす。
主人は「嘘をつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか煙草をふかす。
迷亭は天井を見ながら「君、ありゃ雨洩りか、板の木目か、妙な模様が出ているぜ」と暗に主人を促がす。
「無論雨の洩りさ」と主人が答えると「結構だなあ」と迷亭がすまして云う。
鼻子は社交を知らぬ人達だと腹の中で憤る。
しばらくは三人鼎坐のまま無言である。



本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。

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Last updated  2025年03月25日 11時32分47秒
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