元気力UP!

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2015年07月17日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
あの渺々 たる、あの漫々 たる、大海 を日となく夜となく続けざまに石炭を焚 いて探 がしてあるいても古往|今来 一匹も魚が上がっておらんところをもって推論すれば、魚はよほど丈夫なものに違ないと云う断案はすぐに下す事が出来る。
それならなぜ魚がそんなに丈夫なのかと云えばこれまた人間を待ってしかる後 に知らざるなりで、訳
すぐ分る。
全く潮水 を呑んで始終海水浴をやっているからだ。
海水浴の功能はしかく魚に取って顕著 である。
魚に取って顕著である以上は人間に取っても顕著でなくてはならん。
一七五〇年にドクトル・リチャード・ラッセルがブライトンの海水に飛込めば四百四病|即席 全快と大袈裟 な広告を出したのは遅い遅いと笑ってもよろしい。
猫といえども相当の時機が到着すれば、みんな鎌倉あたりへ出掛けるつもりでいる。
但
物には時機がある。
御維新前 の日本人が海水浴の功能を味わう事が出来ずに死んだごとく、今日 の猫はいまだ裸体で海の中へ飛び込むべき機会に遭遇 しておらん。
んずる、今日のように築地 へ打っちゃられに行った猫が無事に帰宅せん間は無暗 に飛び込む訳には行かん。
進化の法則で吾等猫輩の機能が狂瀾怒濤 に対して適当の抵抗力を生ずるに至るまでは――換言すれば猫が死んだと云う代りに猫が上がったと云う語が一般に使用せらるるまでは――容易に海水浴は出来ん。

海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取り極 めた。
どうも二十世紀の今日 運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きがわるい。
運動をせんと、運動せんのではない。
運動が出来んのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。
昔は運動したものが折助 と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見做 されている。
吾人の評価は時と場合に応じ吾輩の眼玉のごとく変化する。
吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲 とくると真逆 かさまにひっくり返る。
ひっくり返っても差 し支 えはない。
物には両面がある、両端 がある。
両端を叩 いて黒白 の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。
方寸を逆 かさまにして見ると寸方となるところに愛嬌 がある。
天 の橋立 を股倉 から覗 いて見るとまた格別な趣 が出る。
セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。
偶 には股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに云う者がないと、文界も進歩しないだろう。
だから運動をわるく云った連中が急に運動がしたくなって、女までがラケットを持って往来をあるき廻ったって一向 不思議はない。
ただ猫が運動するのを利 いた風だなどと笑いさえしなければよい。
さて吾輩の運動はいかなる種類の運動かと不審を抱 く者があるかも知れんから一応説明しようと思う。
御承知のごとく不幸にして機械を持つ事が出来ん。
だからボールもバットも取り扱い方に困窮する。
次には金がないから買う訳 に行かない。
この二つの源因からして吾輩の選んだ運動は一文 いらず器械なしと名づくべき種類に属する者と思う。
そんなら、のそのそ歩くか、あるいは鮪 の切身を啣 えて馳 け出す事と考えるかも知れんが、ただ四本の足を力学的に運動させて、地球の引力に順 って、大地を横行するのは、あまり単簡 で興味がない。
いくら運動と名がついても、主人の時々実行するような、読んで字のごとき運動はどうも運動の神聖を汚 がす者だろうと思う。
勿論 ただの運動でもある刺激の下 にはやらんとは限らん。
鰹節競争 、鮭探 しなどは結構だがこれは肝心 の対象物があっての上の事で、この刺激を取り去ると索然 として没趣味なものになってしまう。
懸賞的興奮剤がないとすれば何か芸のある運動がして見たい。
吾輩はいろいろ考えた。
台所の廂 から家根 に飛び上がる方、家根の天辺 にある梅花形 の瓦 の上に四本足で立つ術、物干竿 を渡る事――これはとうてい成功しない、竹がつるつる滑 べって爪が立たない。
後 ろから不意に小供に飛びつく事、――これはすこぶる興味のある運動の一 だが滅多 にやるとひどい目に逢うから、高々 月に三度くらいしか試みない。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2015年07月17日 11時25分27秒コメント(0) | コメントを書く


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