元気力UP!

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2016年02月19日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
 従ってこの問題を決するためには勢い向う側に陣取っている君子の性質を明かにせんければならん。
人間だか動物だか分らない先に君子と称するのははなはだ早計のようではあるが大抵君子で間違はない。
梁上 の君子などと云って泥棒さえ君子と云う世の中である。
但 しこの場合における君子は決して警察の厄介になるような君子ではない。
警察の厄介にならない代りに、数でこなした者と見えて沢山いる。
うじゃうじゃいる。
落雲館
名前が落雲館だから風流な君子ばかりかと思うと、それがそもそもの間違になる。
その信用すべからざる事は群鶴館 に鶴の下りざるごとく、臥竜窟に猫がいるようなものである。
学士とか教師とか号するものに主人苦沙弥君のごとき気違のある事を知った以上は落雲館の君子が風流漢ばかりでないと云う事がわかる訳 だ。
それがわからんと主張するならまず三日ばかり主人のうちへ宿 りに来て見るがいい。

前 申すごとく、ここへ引き越しの当時は、例の空地 に垣がないので、落雲館の君子は車屋の黒のごとく、のそのそと桐畠 に這入 の上に寝転 ぶ――いろいろの事をやったものだ。
それからは弁当の死骸|即 ち竹の皮、古新聞、あるいは古草履 、古下駄、ふると云う名のつくものを大概ここへ棄てたようだ。
めんつもりであったのか分らない。
ところが彼等諸君子は学校で教育を受くるに従って、だんだん君子らしくなったものと見えて、次第に北側から南側の方面へ向けて蚕食 を企だてて来た。
蚕食と云う語が君子に不似合ならやめてもよろしい。
但 しほかに言葉がないのである。
彼等は水草 を追うて居を変ずる沙漠 の住民のごとく、桐 の木を去って檜 の方に進んで来た。
檜のある所は座敷の正面である。
よほど大胆なる君子でなければこれほどの行動は取れんはずである。
一両日の後 彼等の大胆はさらに一層の大を加えて大々胆 となった。
教育の結果ほど恐しいものはない。
彼等は単に座敷の正面に逼 るのみならず、この正面において歌をうたいだした。
何と云う歌か忘れてしまったが、決して三十一文字 の類 ではない、もっと活溌 で、もっと俗耳 に入り易 い歌であった。
驚ろいたのは主人ばかりではない、吾輩までも彼等君子の才芸に嘆服 して覚えず耳を傾けたくらいである。
しかし読者もご案内であろうが、嘆服と云う事と邪魔と云う事は時として両立する場合がある。
この両者がこの際|図 らずも合して一となったのは、今から考えて見ても返す返す残念である。
主人も残念であったろうが、やむを得ず書斎から飛び出して行って、ここは君等の這入 る所ではない、出給えと云って、二三度追い出したようだ。
ところが教育のある君子の事だから、こんな事でおとなしく聞く訳がない。
追い出されればすぐ這入る。
這入れば活溌なる歌をうたう。
高声 に談話をする。
しかも君子の談話だから一風 違って、おめえだの知らねえのと云う。
そんな言葉は御維新前 は折助 と雲助 と三助 の専門的知識に属していたそうだが、二十世紀になってから教育ある君子の学ぶ唯一の言語であるそうだ。
一般から軽蔑 せられたる運動が、かくのごとく今日 歓迎せらるるようになったのと同一の現象だと説明した人がある。
主人はまた書斎から飛び出してこの君子流の言葉にもっとも堪能 なる一人を捉 まえて、なぜここへ這入るかと詰問したら、君子はたちまち「おめえ、知らねえ」の上品な言葉を忘れて「ここは学校の植物園かと思いました」とすこぶる下品な言葉で答えた。
主人は将来を戒 めて放してやった。
放してやるのは亀の子のようでおかしいが、実際彼は君子の袖 を捉 えて談判したのである。
このくらいやかましく云ったらもうよかろうと主人は思っていたそうだ。
ところが実際は女※氏 の時代から予期と違うもので、主人はまた失敗した。
今度は北側から邸内を横断して表門から抜ける、表門をがらりとあけるから御客かと思うと桐畠の方で笑う声がする。
形勢はますます不穏である。
教育の功果はいよいよ顕著になってくる。
気の毒な主人はこいつは手に合わんと、それから書斎へ立て籠 って、恭 しく一書を落雲館校長に奉って、少々御取締をと哀願した。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。






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Last updated  2016年02月19日 18時56分18秒
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