元気力UP!

元気力UP!

2016年02月22日
XML
カテゴリ: 吾輩は猫である
 校長も鄭重 なる返書を主人に送って、垣をするから待ってくれと云った。
しばらくすると二三人の職人が来て半日ばかりの間に主人の屋敷と、落雲館の境に、高さ三尺ばかりの四つ目垣が出来上がった。
これでようよう安心だと主人は喜こんだ。
主人は愚物である。
このくらいの事で君子の挙動の変化する訳がない。

全体人にからかうのは面白いものである。
吾輩のような猫ですら、時々は当家の令嬢にからかって遊ぶくらいだから、落雲館の君子が、気の利 かない苦沙弥先生にからかうのは至極
からかうと云う心理を解剖して見ると二つの要素がある。
第一からかわれる当人が平気ですましていてはならん。
第二からかう者が勢力において人数において相手より強くなくてはいかん。
この間主人が動物園から帰って来てしきりに感心して話した事がある。
聞いて見ると駱駝 と小犬の喧嘩を見たのだそうだ。
小犬が駱駝の周囲を疾風のごとく廻転して吠 え立てると、駱駝は何の気もつかずに、依然として背中 へ瘤 をこしらえて突っ立ったままであるそうだ。
いくら吠えても狂っても相手にせんので、しまいには犬も愛想
いくらからかうものが上手でも相手が駱駝と来ては成立しない。
さればと云って獅子 や虎 のように先方が強過ぎても者にならん。
からかいかけるや否や八つ裂きにされてしまう。
る、怒る事は怒るが、こっちをどうする事も出来ないと云う安心のある時に愉快は非常に多いものである。
なぜこんな事が面白いと云うとその理由はいろいろある。
まずひまつぶしに適している。
退屈な時には髯 の数さえ勘定して見たくなる者だ。
昔 し獄に投ぜられた囚人の一人は無聊 のあまり、房 の壁に三角形を重ねて画 いてその日をくらしたと云う話がある。
世の中に退屈ほど我慢の出来にくいものはない、何か活気を刺激する事件がないと生きているのがつらいものだ。
からかうと云うのもつまりこの刺激を作って遊ぶ一種の娯楽である。
但 し多少先方を怒らせるか、じらせるか、弱らせるかしなくては刺激にならんから、昔しからからかうと云う娯楽に耽 るものは人の気を知らない馬鹿大名のような退屈の多い者、もしくは自分のなぐさみ以外は考うるに暇 なきほど頭の発達が幼稚で、しかも活気の使い道に窮する少年かに限っている。
次には自己の優勢な事を実地に証明するものにはもっとも簡便な方法である。
人を殺したり、人を傷 けたり、または人を陥 れたりしても自己の優勢な事は証明出来る訳であるが、これらはむしろ殺したり、傷けたり、陥れたりするのが目的のときによるべき手段で、自己の優勢なる事はこの手段を遂行 した後 に必然の結果として起る現象に過ぎん。
だから一方には自分の勢力が示したくって、しかもそんなに人に害を与えたくないと云う場合には、からかうのが一番|御恰好 である。
多少人を傷けなければ自己のえらい事は事実の上に証拠だてられない。
事実になって出て来ないと、頭のうちで安心していても存外快楽のうすいものである。
人間は自己を恃 むものである。
否恃み難い場合でも恃みたいものである。
それだから自己はこれだけ恃める者だ、これなら安心だと云う事を、人に対して実地に応用して見ないと気がすまない。
しかも理窟 のわからない俗物や、あまり自己が恃みになりそうもなくて落ちつきのない者は、あらゆる機会を利用して、この証券を握ろうとする。
柔術使が時々人を投げて見たくなるのと同じ事である。
柔術の怪しいものは、どうか自分より弱い奴に、ただの一|返 でいいから出逢って見たい、素人 でも構わないから抛 げて見たいと至極危険な了見を抱 いて町内をあるくのもこれがためである。
その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから略する事に致す。
聞きたければ鰹節 の一折 も持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる。
以上に説くところを参考して推論して見ると、吾輩の考 では奥山 の猿 と、学校の教師がからかうには一番手頃である。
学校の教師をもって、奥山の猿に比較しては勿体 ない。
――猿に対して勿体ないのではない、教師に対して勿体ないのである。
しかしよく似ているから仕方がない、御承知の通り奥山の猿は鎖 で繋 がれている。
いくら歯をむき出しても、きゃっきゃっ騒いでも引き掻 かれる気遣 はない。
教師は鎖で繋がれておらない代りに月給で縛られている。
いくらからかったって大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐる事はない。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016年02月22日 20時24分12秒コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: