元気力UP!

元気力UP!

2016年05月01日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
 西洋と大 に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下 に発達しているのだ。
親子の関係が面白くないと云って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。
親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとして、その関係の下 に安心を求むる手段を講ずるにある。
夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物を観 るのもその通り。
――山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。

それだから君見給え。
禅家 でも儒家 でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。
いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日 を回 らす事も、加茂川を逆 に流す事も出来ない。
ただ出来るものは自分の心だけだからね。
心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。
ぴん助なんか愚 なかろう。
何でも昔しの坊主は人に斬 り付けられた時|電光影裏 に春風 を斬るとか、何とか洒落
心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。
僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっているようだ。
現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。
君の権力であの学校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。
もし積極的に出るとすれば金の問題になる。
多勢 に無勢 の問題になる。
換言すると君が金持に頭を下げなければならんと云う事になる。
衆を恃 む小供に恐れ入らなければならんと云う事になる。
君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのがそもそも君の不平の種さ。
どうだい分ったかい」
主人は分ったとも、分らないとも言わずに聞いていた。
珍客が帰ったあとで書斎へ這入 って書物も読まずに何か考えていた。

鈴木の藤 さんは金と衆とに従えと主人に教えたのである。
甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言 したのである。
最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法したのである。
主人がいずれを択 ぶかは主人の随意である。
ただこのままでは通されないに極 まっている。

九
主人は痘痕面 である。
御維新前 はあばたも大分 流行 ったものだそうだが日英同盟の今日 から見ると、こんな顔はいささか時候|後 れの感がある。
あばたの衰退は人口の増殖と反比例して近き将来には全くその迹 を絶つに至るだろうとは医学上の統計から精密に割り出されたる結論であって、吾輩のごとき猫といえども毫 も疑を挟 む余地のないほどの名論である。
現今地球上にあばたっ面 を有して生息している人間は何人くらいあるか知らんが、吾輩が交際の区域内において打算して見ると、猫には一匹もない。
人間にはたった一人ある。
しかしてその一人が即 ち主人である。
はなはだ気の毒である。

吾輩は主人の顔を見る度に考える。
まあ何の因果でこんな妙な顔をして臆面 なく二十世紀の空気を呼吸しているのだろう。
昔なら少しは幅も利 いたか知らんが、あらゆるあばたが二の腕へ立ち退 きを命ぜられた昨今、依然として鼻の頭や頬の上へ陣取って頑 として動かないのは自慢にならんのみか、かえってあばたの体面に関する訳だ。
出来る事なら今のうち取り払ったらよさそうなものだ。
あばた自身だって心細いに違いない。
それとも党勢不振の際、誓って落日を中天 に挽回 せずんばやまずと云う意気込みで、あんなに横風 に顔一面を占領しているのか知らん。
そうするとこのあばたは決して軽蔑 の意をもって視 るべきものでない。
滔々 たる流俗に抗する万古不磨 の穴の集合体であって、大 に吾人の尊敬に値する凸凹 と云って宜 しい。
ただきたならしいのが欠点である。

主人の小供のときに牛込の山伏町に浅田宗伯 と云う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ずかごに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。
ところが宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、かごがたちまち人力車に変じた。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。






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Last updated  2016年05月01日 14時48分18秒コメント(0) | コメントを書く


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