元気力UP!

元気力UP!

2016年12月11日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
「坊やちゃん、元禄が濡れるから御よしなさい、ね」と姉が洒落 れた事を云う。
その癖 この姉はついこの間まで元禄と双六 とを間違えていた物識 りである。

元禄で思い出したからついでに喋舌 ってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事は夥 しいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を云ってる。
火事で茸 が飛んで来たり、御茶 の味噌 の女学校へ行ったり、恵比寿 、台所 と並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店 の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き糺 して見ると裏店 と藁店を混同していたりする。
主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬 を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。

坊やは――当人は坊やとは云わない。
いつでも坊ばと云う――元禄が濡れたのを見て「元 どこがべたい」と云って泣き出した。
元禄が冷たくては大変だから、御三が台所から飛び出して来て、雑巾を取上げて着物を拭 いてやる。
この騒動中比較的静かであったのは、次女のすん子嬢である。

第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭をキューと撫 でたから竪 に一本白い筋が通って、鼻のありかがいささか分明 になって来た。
次に塗りつけた指を転じて頬の上を摩擦したから、そこへもってきて、これまた白いかたまりが出来上った。
これだけ装飾がととのったところへ、下女がはいって来て坊ばの着物を拭いたついでに、すん子の顔もふいてしまった。
すん子は少々不満の体 に見えた。

吾輩はこの光景を横に見て、茶の間から主人の寝室まで来てもう起きたかとひそかに様子をうかがって見ると、主人の頭がどこにも見えない。
その代り十文半 の甲の高い足が、夜具の裾 から一本|食 み出している。
頭が出ていては起こされる時に迷惑だと思って、かくもぐり込んだのであろう。
亀の子のような男である。
ところへ書斎の掃除をしてしまった妻君がまた箒 とはたきを担 いでやってくる。
最前 のように襖 の入口から
「まだお起きにならないのですか」と声をかけたまま、しばらく立って、首の出ない夜具を見つめていた。

細君は入口から二歩 ばかり進んで、箒をとんと突きながら「まだなんですか、あなた」と重ねて返事を承わる。
この時主人はすでに目が覚 めている。
覚めているから、細君の襲撃にそなうるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立て籠 ったのである。
首さえ出さなければ、見逃 してくれる事もあろうかと、詰まらない事を頼みにして寝ていたところ、なかなか許しそうもない。
しかし第一回の声は敷居の上で、少くとも一間の間隔があったから、まず安心と腹のうちで思っていると、とんと突いた箒が何でも三尺くらいの距離に追っていたにはちょっと驚ろいた。


「九時までにいらっしゃるのでしょう。
早くなさらないと間に合いませんよ」
「そんなに言わなくても今起きる」と夜着 の袖口 から答えたのは奇観である。
妻君はいつでもこの手を食って、起きるかと思って安心していると、また寝込まれつけているから、油断は出来ないと「さあお起きなさい」とせめ立てる。
起きると云うのに、なお起きろと責めるのは気に食わんものだ。
主人のごとき我儘者 にはなお気に食わん。
ここにおいてか主人は今まで頭から被 っていた夜着を一度に跳 ねのけた。
見ると大きな眼を二つとも開 いている。

「何だ騒々しい。
起きると云えば起きるのだ」
「起きるとおっしゃってもお起きなさらんじゃありませんか」
「誰がいつ、そんな嘘 をついた」
「いつでもですわ」
「馬鹿を云え」
「どっちが馬鹿だか分りゃしない」と妻君ぷんとして箒を突いて枕元に立っているところは勇ましかった。
この時裏の車屋の子供、八っちゃんが急に大きな声をしてワーと泣き出す。
八っちゃんは主人が怒 り出しさえすれば必ず泣き出すべく、車屋のかみさんから命ぜられるのである。
かみさんは主人が怒るたんびに八っちゃんを泣かして小遣 になるかも知れんが、八っちゃんこそいい迷惑だ。
こんな御袋 を持ったが最後朝から晩まで泣き通しに泣いていなくてはならない。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2016年12月11日 09時00分58秒
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