元気力UP!

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2025年06月05日
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カテゴリ: 吾輩は猫である






障子の中で例の御師匠さんと下女が話しをしているのを手水鉢《ちょうずばち》の葉蘭の影に隠れて聞いているとこうであった。
「三毛は御飯をたべるかい」「いいえ今朝からまだ何《なん》にも食べません、あったかにして御火燵《おこた》に寝かしておきました」何だか猫らしくない。
まるで人間の取扱を受けている。
一方では自分の境遇と比べて見て羨《うらや》ましくもあるが、一方では己《おの》が愛している猫がかくまで厚遇を受けていると思えば嬉しくもある。
「どうも困るね、御飯をたべないと、身体《からだ》が疲れるばかりだからね」「そうでございますとも、私共でさえ一日|御※[#「飮のへん+善」、第4水準2-92-71]《ごぜん》をいただかないと、明くる日はとても働けませんもの」下女は自分より猫の方が上等な動物であるような返事をする。
実際この家《うち》では下女より猫の方が大切かも知れない。
「御医者様へ連れて行ったのかい」「ええ、あの御医者はよっぽど妙でございますよ。
私が三毛をだいて診察場へ行くと、風邪《かぜ》でも引いたのかって私の脈《みゃく》をとろうとするんでしょう。
いえ病人は私ではございません。
これですって三毛を膝の上へ直したら、にやにや笑いながら、猫の病気はわしにも分らん、抛《ほう》っておいたら今に癒《なお》るだろうってんですもの、あんまり苛《ひど》いじゃございませんか。
腹が立ったから、それじゃ見ていただかなくってもようございますこれでも大事の猫なんですって、三毛を懐《ふところ》へ入れてさっさと帰って参りました」「ほんにねえ」「ほんにねえ」は到底《とうてい》吾輩のうちなどで聞かれる言葉ではない。
やはり天璋院《てんしょういん》様の何とかの何とかでなくては使えない、はなはだ雅《が》であると感心した。
「何だかしくしく云うようだが……」「ええきっと風邪を引いて咽喉《のど》が痛むんでございますよ。
風邪を引くと、どなたでも御咳《おせき》が出ますからね……」天璋院様の何とかの何とかの下女だけに馬鹿|叮嚀《ていねい》な言葉を使う。
「それに近頃は肺病とか云うものが出来てのう」「ほんとにこの頃のように肺病だのペストだのって新しい病気ばかり殖《ふ》えた日にゃ油断も隙もなりゃしませんのでございますよ」「旧幕時代に無い者に碌《ろく》な者はないから御前も気をつけないといかんよ」「そうでございましょうかねえ」下女は大《おおい》に感動している。
「風邪《かぜ》を引くといってもあまり出あるきもしないようだったに……」「いえね、あなた、それが近頃は悪い友達が出来ましてね」下女は国事の秘密でも語る時のように大得意である。
「悪い友達?」「ええあの表通りの教師の所《とこ》にいる薄ぎたない雄猫《おねこ》でございますよ」「教師と云うのは、あの毎朝無作法な声を出す人かえ」「ええ顔を洗うたんびに鵝鳥《がちょう》が絞《し》め殺されるような声を出す人でござんす」鵝鳥が絞め殺されるような声はうまい形容である。
吾輩の主人は毎朝風呂場で含嗽《うがい》をやる時、楊枝《ようじ》で咽喉《のど》をつっ突いて妙な声を無遠慮に出す癖がある。
機嫌の悪い時はやけにがあがあやる、機嫌の好い時は元気づいてなおがあがあやる。
つまり機嫌のいい時も悪い時も休みなく勢よくがあがあやる。
細君の話しではここへ引越す前まではこんな癖はなかったそうだが、ある時ふとやり出してから今日《きょう》まで一日もやめた事がないという。
ちょっと厄介な癖であるが、なぜこんな事を根気よく続けているのか吾等猫などには到底《とうてい》想像もつかん。
それもまず善いとして「薄ぎたない猫」とは随分酷評をやるものだとなお耳を立ててあとを聞く。
「あんな声を出して何の呪《まじな》いになるか知らん。
御維新前《ごいっしんまえ》は中間《ちゅうげん》でも草履《ぞうり》取りでも相応の作法は心得たもので、屋敷町などで、あんな顔の洗い方をするものは一人もおらなかったよ」「そうでございましょうともねえ」下女は無暗《むやみ》に感服しては、無暗にねえ[#「ねえ」に傍点]を使用する。
「あんな主人を持っている猫だから、どうせ野良猫《のらねこ》さ、今度来たら少し叩《たた》いておやり」「叩いてやりますとも、三毛の病気になったのも全くあいつの御蔭に相違ございませんもの、きっと讐《かたき》をとってやります」飛んだ冤罪《えんざい》を蒙《こうむ》ったものだ。
こいつは滅多《めった》に近《ち》か寄《よ》れないと三毛子にはとうとう逢わずに帰った。
帰って見ると主人は書斎の中《うち》で何か沈吟《ちんぎん》の体《てい》で筆を執《と》っている。
二絃琴《にげんきん》の御師匠さんの所《とこ》で聞いた評判を話したら、さぞ怒《おこ》るだろうが、知らぬが仏とやらで、うんうん云いながら神聖な詩人になりすましている。


要約(第22話):


主人公の吾輩(トラ猫)は、親しみを感じていた雌猫・三毛子に会うために彼女の家を訪ねる。初回は留守かと思ったが、再訪すると病気で寝ていると知れる。葉蘭の影に隠れて様子を窺うと、三毛子の御師匠さんと下女の会話が聞こえてきた。二人は三毛子をまるで人間のように大切に扱い、医者にも診せたものの、医者は猫の病気は知らぬと診察を断るという始末だった。
吾輩はその厚遇ぶりに嫉妬と喜びを同時に覚えつつ、会うことを断念する。しかし会話の中で自分(吾輩)が「悪い雄猫」として非難され、三毛子が病気になった原因とまで決めつけられていることを知って驚愕する。特に下女が主人(吾輩の)を「毎朝があがあと喉を鳴らす無作法な教師」と批判している様子は侮辱的であった。
結局、三毛子には会えずに帰宅した吾輩。家では主人が詩人ぶって筆をとっている姿を見かけるが、三毛子の家での酷評を聞いたらどれほど怒るだろうかと思いつつ、何も伝えずそっとしておく。吾輩は苦笑いしながら、己の立場を受け入れるのだった。

🧭解説(時代背景・主題)


この章では、猫という存在を通じて「人間社会の偏見と擬人化」を風刺的に描いています。舞台となる明治時代は、文明開化を経て西洋文化が日本社会に急速に浸透した時期。家畜や動物への接し方も変化しつつあり、裕福な家庭ではペットが家族同然に扱われることが珍しくなくなっていました。
三毛子が人間同様に布団で寝かされ、医者にまでかかるという描写は当時としてはやや戯画的ですが、それだけに庶民との価値観の差や、身分意識の名残が浮き彫りになります。また、下女の誇張された丁寧語や御師匠さんの雅な表現は、旧幕府時代の名残や身分階級の影響を表しており、それが「吾輩」の立場と対比されることで、猫を通した社会階層の縮図が浮かび上がります。
また、吾輩が三毛子への想いを断ち切る理由が「悪い雄猫」として一方的に非難されるからという点も注目に値します。これは一種の「レッテル貼り」や「陰口」による社会的排除を象徴しており、猫社会を借りて人間社会の陰湿さや無理解を批判しているのです。
風呂場でうがいする主人の癖が近隣に侮蔑的に語られる様子もまた、日常の些細な癖や生活音が「社会的品位」や「教養」といった軸で評価される当時の都市文化の一面を皮肉に描いています。
本章は、猫の目線で人間の偏見、噂、格差を巧みに描き出すと同時に、主人公の内面的な感情と社会的孤立がより際立つ印象的な一幕となっています。






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Last updated  2025年06月05日 14時16分07秒
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