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白虎隊とは・・・
会津藩の藩祖、保科正之(ほしなまさゆき)は
二代将軍徳川秀忠の子で「家訓十五箇条」を残し、
代々受け継がれていました。
そこには徳川将軍家に忠節をつくせとの文言もありました。
三代藩主正容(まさかた)の時に松平姓を名乗るように
なり、会津松平家は御三家につぐ御家門という家格を
持っていました。
幕末、幕府の力が衰えはじめると京都の治安の回復の
ために「京都守護職」が創設され、会津藩に白羽の矢が
立ちました。
藩内では「今、この重職を引き受けるのは、薪を背おって
火にとびこむようなもの」と反対意見が多数をしめ、
九代藩主松平容保公も固辞していましたが、幕府の
重臣は「家訓十五箇条」を引き合いにだすなどして、
最後は強引に容保公に引き受けさせました。
会津藩は倒幕勢力の矢面に立たされてしまったのです(文久2年)。
翌年には近藤勇ら「壬生浪士組」に「新撰組」の名を与え、
京都市中の取り締まりにあたらせました。
慶応4年(1868年)「戊辰戦争」という国内を
二分する大きな戦争になりました。
薩摩、長州藩などの倒幕勢力と会津、長岡藩などの
旧幕府勢力との戦いになりました。
会津藩の軍は当時交流のあったフランスの軍制に習い
年齢別に編成され、中国の故事で「方位の守護神」と
呼ばれていた空想上の動物の名前、
玄武(北)、青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)
を隊名につけました。
玄武隊(50歳以上)青龍隊(36歳から49歳)
朱雀隊(18歳から35歳)白虎隊(16,17歳)
に大きく分けられ、更に身分により、士中(しちゅう)、
寄合(よりあい)、足軽隊に分けられていました。
「白虎隊」は全部で約340名おり、親の身分により
「士中一、二番」「寄合一、二番」「足軽隊」の5隊に
分けられていました。
この中の上級武士の子弟で構成されていた「士中二番隊」
42名が、慶応4年8月23日(今の暦では10月8日)に
猪苗代湖近くの「戸ノ口原」で戦いましたが敗退し、
うち20名(人数には異説あり)が飯盛山に逃れて
きましたが、城下で発生していた戦火に包まれた
鶴ヶ城をみて、もはや落城したものと思い自刃(じじん)
したのです。
元号が「明治」に変わる16日前の出来事でした。
この時ただ一人、飯沼貞吉(いいぬまさだきち)氏だけ
が通りかかった地元の人に救われたため、この話が
知られることとなりました。
実際には城はおちておらず、籠城戦を1ヶ月戦いましたが、
最終的には会津藩は降伏しました。
会津を占領した新政府軍は見せしめとして会津側の戦死者の
埋葬を禁じたため、白虎隊をはじめ会津藩戦死者の遺骸は
約半年もの間、無残にも野ざらしにされ、カラスや野犬に
食い荒らされたそうです。
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