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幕末史最大のミステリーといわれているのが、「近江屋」での坂本龍馬・中岡慎太郎の殺害事件。殺害犯は誰か、そして、その黒幕がいたのでは、幕府説・薩摩説をはじめ、土佐藩説・紀州藩説 等々、それぞれに論拠や動機が示され、議論百出状態で、それにより、さらに、この事件に対する関心が高まっていっているというのが現状です。この龍馬殺害事件については、事件当初、そして明治・大正と審議の進展や、様々な新証言が出てきたりということがあって、その段階ごとに犯人像が変遷してきたという経緯がありました。そこで、今回は、この龍馬殺害事件の犯人さがしについて、時代を追って、見ていきたいと思います。・・・・・まず、事件当初において、龍馬殺害犯として考えられていたのは、新選組でありました。その根拠となったのが、中岡慎太郎が死の間際に語ったという証言の内容と、事件当夜、犯人が近江屋に残したと思われる遺留品でありました。中岡慎太郎は、事件直後、重態ではあったものの、まだ話が出来る状態で、「刺客は”こなくそ”と叫んでいたので、四国人なのではないか、このようなことができるのは新選組のものだろう」と、駆けつけてきた土佐藩の谷守部(干城)に事件の様子を語っていたといいます。又、犯人の遺留品としては、料亭・瓢亭の刻印の入った下駄と刀の鞘が近江屋に残されていました。下駄の件は、瓢亭に問合せたところ「昨夜、新選組の方にお貸ししました。」との回答があり、刀の鞘についても、元新選組隊士に聞いたところ、原田左之助のものに相違ないとのこと。左之助は四国松山出身なので、慎太郎の証言とも一致します。こうしたことにより、殺害犯は新選組であるという見方が、大勢となっていきました。しかし、その一方、海援隊では、龍馬の殺害は、昨年の”いろは丸事件”の報復に違いないとして紀州藩が怪しいと考えていました。このため、陸奥陽之助を中心とする海援隊士が、紀州藩士・三浦休太郎を京都・天満屋で襲撃するという事件も起こっています。又、越前の松平春嶽が、事件直後「芋藩の仕業である」と語っているなど、薩摩藩が怪しいと考えている人も、当時から、いたようです。さて、それから数年後。やがて、戊辰戦争が終結し、箱館戦での降伏者への取調べが始まりました。この取調べの中では、近江屋事件についての尋問も行われたのですが、ここで、事件は新たな展開をみせることになります。明治3年に行われた近江屋事件についての取調べ。この中には、新選組の生き残り隊士も数名含まれていて、徹底した追及がなされるのですが、しかし、彼らは、頑として事件への関与を否定します。膠着した審議の中、やがて、今度は、元見廻組隊士の今井信郎というものが、龍馬殺害に関わったということを自供し始めます。見廻組というのは、幕末の京都の治安維持のため組織された集団で、京都守護職の配下にあり、新選組と同じような任務を行っていたのですが、隊士が幕臣から構成されているという点で、むしろ、新選組よりも正規の集団でありました。その今井信郎の証言によれば、見廻組与頭の佐々木只三郎を中心に、桂早之助、渡辺吉ニ郎ら見廻組隊士7名が決行に及び、今井は、その見張り役をしていたというもの。新政府も、この段階で、はじめて、見廻組がこの事件に関与していたということを認識するようになったようです。しかしながら、この時には、すでに、殺害犯は新選組であるということで、新政府はその処罰を行い、結論も出してしまっていました。そして、何より、新政府にとっては、新選組が犯人であるという方が都合が良かったということもあり、結局、この今井信郎の証言が、世間に公表されることはありませんでした。ところが、それから時が流れて、30年後のこと。今井信郎が、再び、この事件についての証言を始めます。そして、これにより、この事件は、再び脚光を浴びることとなり、さらに、新たな展開を見せることとなりました。明治33年、「近畿評論」という雑誌に「今井信郎氏実歴談」と題した記事が掲載されました。ただ、この記事は、今井から話を聞き取った記者が、相当に脚色したため、今井信郎は見張り役から実行犯になっており、実行者も4人であったというように、色づけされて発表されたのです。そして、この記事に対して、猛烈に批判をはじめたのが、土佐出身で、今は明治政府の顕官となっていた谷干城でありました。谷は、事件当時、慎太郎から話を聞いていて、また、事件直後の状況も見ていた人です。この記事の内容は、事実と全く違うと猛抗議をし、さらに犯人は新選組であることに間違いないとした上で、これは今井信郎の売名行為であるとまで言って、激しく論難しました。そして、結局、この件が、大きく取り沙汰されたことにより、やがて、見廻組が犯行について証言をしているということが、世間一般に知られることとなってきました。さらに、この一件が呼び水となったのか、この後、龍馬殺害についての証言が、相次いで発表されていきます。明治33年、手代木直右衛門の証言。手代木は、見廻組与頭・佐々木只三郎の実兄で会津藩士です。彼は、死の直前、看取っていた長女に対して、近江屋事件について語ったといいます。「龍馬を斬ったのは、弟の只三郎である。あれは上様の命令であり、暗殺ではなく公務であったこれまでは、上様に累が及ぶのを避けるため、公表しなかったのだ。」手代木がいう上様とは、会津候・松平容保のこと、上意により、つまり職務として龍馬を殺したと話したのです。大正4年 渡辺篤の証言。渡辺は、元見廻組の隊士で、彼も死の直前に「龍馬を斬ったのは自分だった。」と語りました。これが、大阪朝日新聞に掲載され、注目を集めました。渡辺によると、近江屋に踏み込んだのは、渡辺の他に、佐々木只三郎・今井信郎・世良敏郎、他2名であり、近江屋に忘れていった刀の鞘は、世良のものであると話しました。また、龍馬を斬った刀といわれるものも存在します。見廻組・桂早之助が所有していたとされるもので、大正5年には、維新史料編纂委員がこの調査を行い、桂家の子孫から、事件当日の様子が聞き取りされました。と、いったような形で、明治末以降、龍馬殺害に関する証言が続々と現れてきました。果たして何が真実なのか。その後、近江屋事件についての研究が、さかんに行われるようになっていきます。・・・・・現在では、近江屋事件は見廻組の犯行であったというのが、ほぼ通説となっています。しかし、その黒幕は誰かということについては、色々な説が議論されています。中でも代表的なものが、薩摩藩黒幕説と幕府説ですが、これについて、以下、私見を交えて少し検討を・・・。まずは、薩摩藩黒幕説。武力討幕を目指していた薩摩藩にとって、大政奉還など平和路線を展開し始めた龍馬が目障りになってきて、犯行に及んだというのがこの説の大まかな論旨です。しかし、龍馬については仮にそうだとしても、一方では、慎太郎を殺害しているという点があります。討幕派である慎太郎は、薩摩にとっても頼りになる存在だったはずで、慎太郎を殺害する理由もメリットも、薩摩からは見出しがたいです。薩摩藩黒幕説というのは、話としては面白いですが、やはり、かなり無理がある説のような気がします。一方の、幕府説。見廻組が実行犯だとすると、指揮系統からして、指示したのは会津藩ということになります。手代木が言っているように、暗殺ではなく公務であったと考えるのが普通であるとは思います。当時、龍馬は、寺田屋で幕吏を射殺していることから、指名手配のようになっており、奉行所は、龍馬の動向を探っていました。勝海舟も、この事件について、寺田屋の報復ではないかと語っていたそうですが、幕府側、奉行所による龍馬の殺害という線が真実に近いように思われます。しかし、幕府説においても、幾つかの疑問が残ります。公務であったにしては、不自然な点があるためです。その一つは、公務であったなら、何故、すぐに公表しなかったのか。これについては、慎太郎も一緒に殺してしまったからという説があります。指名手配になっていた龍馬はともかく、巻き添えとはいえ、何の前科もない慎太郎をも殺してしまったので、土佐藩とのもめごとになるのを避けて、公表しなかったというもの。これは、納得できる説明であるといえます。しかし、もう一つ、何故、最初に踏み込むときに十津川郷士を名乗ったのか。公務であれば、そうした手の込んだことをする必要はないでしょう。龍馬を油断させておいて取り逃がさないように、ということかも知れませんが、でも、そこまでしてという感がありますし、通常からいうと、それも少しやり過ぎのような気がします。そうしてみると、やはり、普通の公務ではなく、そこに何か秘密の指令でもあったのでは、ということを感じさせます。と、いうわけで、龍馬殺害については、やはり、どうしても不可解な点が残ってしまうのです。様々な証言がありながらも、それでいて、これが真実であるという決め手がない。そうした点が龍馬人気ともあいまって、この事件が、ミステリーとして多くの人に語られている所以であるのかも知れません。
2010年04月04日
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幕末、最終盤の慶応年間においても、徳川幕府後の政治体制をどうするかという事については、雄藩連合による政治を行うといった程度の議論がされているだけで、具体的な国家構想を考えていたのは、坂本龍馬くらいであったと思われます。ところが、それよりも、さらに明確な政治形態・職制を描いていた人物がいました。徳川慶喜です。とは言っても、実際に、これをまとめ起草したのは、慶喜本人ではなく、慶喜の政治顧問を務めていた西周(にしあまね)という人でありました。その中では、幕藩体制に替わって、西欧の議会制度を取り入れた新たな政治体制への移行が構想されていました。そこで、まずは、西周という人の略歴を少し。生まれは石見国津和野藩。父は津和野藩の藩医をしていて、藩校の養老館で儒学を学んだ後に、江戸に出て蘭学を学びました。その後、脱藩して蘭学者・手塚律蔵の門に入り、蘭学修業に専念。文久2年には幕府のオランダ留学生のひとりとして渡欧します。主にオランダで、法理学・国際公法学・経済学等を学び、慶応元年に帰国。翌年には幕臣にとり立てられて、幕府の洋学研究機関・ 開成所の教授に就任しました。将軍となった徳川慶喜は、こうした西周の英才に目をつけ、その後、彼を自らの側近・政治顧問として取り立てていたのでした。さて、慶応3年(1867年)10月13日のこと。西周は、二条城大広間にいた慶喜からにわかに召し出されます。時に城内では、ちょうど大政奉還をめぐる論議の真っただ中で、彼はこの場で、大広間の屏風を隔てて座っていた慶喜からの諮問に応じ、イギリスの議会制度や三権分立の仕組みについて詳細に論じたといいます。このとき慶喜は、新たなる政権構想を抱き、その具体的な成案を作り上げようと考えていたのでした。翌11月、西周は慶喜に対し、大政奉還後の政治体制を示した「議題草案」を提出します。それは、幕府という体制そのものを見直し、新たな統治体制を作ろうとしたものであったのです。西周が「議題草案」の中で述べている、今後の国家機構について、図にまとめたものです。立法、行政、天皇の権限を分立させ、慶喜は元首(大君)として行政・立法を総覧するといった内容になっていて、日本初の憲法私案ともいえるものでありました。さらに、慶喜は、こうした政権構想をかためる、その一方で、軍制・軍政の改革も大急ぎで進めていました。フランスからの援助で、横須賀製鉄所を設立するなど、小栗上野介を中心にして、すでに進められていた親フランス路線を引継ぎ、これをさらに、押し進めます。軍制改革では、旗本をすべて銃隊として組織。フランスから軍事顧問団を招き、徹底した軍事教練を受けさせました。又、軍政面でも、従来の陸軍奉行・海軍奉行の上に、老中格の陸軍総裁・海軍総裁を設置。軍組織の強化を図っていました。海軍では、オランダに発注していた、当時、世界最新鋭の軍艦「開陽丸」が完成。榎本釜次郎(武揚)がこれに乗り帰国してきます。遅まきながらも、薩長の討幕に向けた軍備に対抗する軍備強化を急ピッチで進めていたのです。大政奉還の後も、実質上、旧来通り幕府中心の体制が続いており、近い将来、雄藩会議が開かれた時には、この新しい国家構想を示して、政局をリードしていける・・・。この時点において、慶喜は、その後の政権運営について、自信満々であったのではないかと思われます。幕末期には、その後の日本をどのような国にしていくか、様々な選択肢があったのだと思います。その後の歴史が決めることですから、明治政府がとった国家体制が、日本にとって最善であったかどうかは、何とも云えません。ただ、慶喜が考えていた、こうした政権構想というものも、この時、一つの選択肢として可能性があったのではないかと思いますね。
2010年02月20日
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少し仕事が立て込んでいて、久々の更新となりました。今回は、私の家にあるちょっとした縁起物について、話をしましょう。玄関先にある粽(ちまき)についてです。「これを玄関に飾っておくといいよ。」といって、父からこれを貰ったのは、もう半年以上前。ハイハイと言って、特に深く考えることなく、それから、すぐに玄関先に吊るしました。その”ちまき”がこれです。そこには、「蘇民将来之子孫也」と書かれた、赤いお札がついています。蘇民将来之子孫、って何??と疑問に思いながらも、そのまま玄関に吊るしていました。もちろん、食べるための”ちまき”ではありません。しかし、最近、この”ちまき”について調べる機会があり、この”ちまき”が、実は、祇園祭りの時に販売されている縁起物であり、蘇民将来というのは、人の名であるということがわかりました。蘇民将来というのも、変った名前ですが、八坂神社の祭神である牛頭天王の逸話に出てくる人物であるとのこと。祇園祭りは、八坂神社の祭礼でありますから、”ちまき”は、このお話とも深く結びついているわけです。以下が、その蘇民将来伝説です。牛頭天王が南へ向かう旅の途中、裕福な家に住む、巨旦将来(こたんしょうらい)という人に一夜の宿を乞いました。しかし、巨旦将来は、にべもなく、これを断ってしまいます。ところが、一方、巨旦将来の兄が、蘇民将来という人で、とても貧しい生活を送っていましたが、訪れてきた牛頭天王を暖かく迎え入れ、心を込めて、もてなしをしました。牛頭天王は、これを大層喜こび、「疫禍あれば茅の輪を作って、門に懸けよ」と言い、さらに、「蘇民将来の子孫は、必ず厄病から免れさせる」という約束をしました。その後、疫病が盛んに流行った時、蘇民将来は、牛頭天王から教えられたとおり、茅の輪を家の門に揚げました。すると、疫病は蘇民将来の家を避けて行き、一家は災厄から逃れました。こうして、蘇民将来の一族はその後も災厄から護られて、彼の子孫は後々まで大いに栄えました。・・・・・ ちなみに、この牛頭天王というのは、祇園精舎というインドの寺院(釈迦が説法を行ったとされる場所)の守護神で、疫病や災いをもたらすほどの強い神様。日本神話でいえば、スサノオにあたるとされていて、それが習合して牛頭天王=スサノオと考えられていました。平安時代においては、災厄とは不遇に死を遂げた人の怨霊のなせる業であると考えられ、疫神を慰め、和ませることで、災厄を防ごうとしました。そうした災厄をもたらす神として、牛頭天王が八坂神社に祀られ、その祭礼が「祇園御霊会」、祇園祭りとなっていったのです。ここが、京都の八坂神社です。この正面の入口を入っていって、すぐのところに疫神社(やくじんじゃ)という小さな摂社があります。この疫神社が、「蘇民将来」を祭神として祀っています。祇園祭りというのは、宵山や山鉾巡行以外にも、前後、1カ月にわたって色々な儀式や祭事があるのですが、その最終を締めくくるのが、この疫神社で行われる「夏越祭」。鳥居には、大きな茅の輪が取り付けられ、参拝者はこれをくぐって、厄を祓います。「蘇民将来之子孫也」の札をつけた茅輪を門口に揚げておけば厄除けとなり、その一家は繁盛するという古くから伝わる習俗。祇園祭りの”ちまき”というのは、こうした厄払いを行う習俗の中から生まれたものですから、ちょっとした、厄払いのお裾分けと云えるのかも知れません。
2010年11月21日
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奈良時代から平安初期にかけては、藤原氏がその権勢を確立していった時代でもありますが、その中でも、藤原氏自体が四家に分かれ、それぞれが、盛衰を繰り返していきました。藤原不比等が亡くなった時に、四人の息子 武智麻呂(むちまろ) 房前(ふささき) 宇合(うまかい) 麻呂(まろ)と二人の娘 宮子(みやこ) 安宿媛(あすかべひめ)がいました。娘たちは、それぞれ天皇家に嫁いでおり、四人の息子たちは、不比等の後を引き継いで政権を担いました。この頃の藤原四家の関係について、まとめたものが、次の略系図です。(藤原四兄弟と長屋王)不比等の死後、四兄弟は、時の天皇・聖武の妃であった安宿媛を皇后にして、自家の勢力を強めようと考えていました。ところが、皇族以外で皇后になった人はこれまでにないとして反対があり、その中心となっていたのが長屋王でありました。ここで、四兄弟は、政敵であり、当時上位の政権者でもあった長屋王の抹殺を企てます。長屋王の変です。長屋王は、謀反の企てがあるとして自殺させられ、そればかりか、その妃・子供までが、自殺に追い込まれました。長屋王亡き後は、安宿媛が正式に聖武天皇の皇后(光明皇后)となり、その後は、藤原四兄弟が政権を牛耳るようになりました。ところが、藤原四兄弟の政権は長くは続きませんでした。因果応報というべきでしょうか、この時期、天然痘が大流行。藤原四兄弟の全員が、相次いで病死したのです。こうした天然痘の流行やまた、聖武・光明の間に子供が生まれないこと等、これらは、長屋王の祟りであると考えられました。そうした中で、これらの鎮静を願って建立されたのが、東大寺の大仏であったのです。(藤原四家の成立)藤原四兄弟が相次いで病死。しかし、藤原氏の隆盛は、それでもとどまることはありませんでした。四兄弟の子供たちが、それぞれに勢力を伸ばしやがて、藤原氏は四家に分かれていくことになります。武智麻呂の系統が、南家房前の系統が、北家宇合の系統が、式家麻呂の系統が、京家と呼ばれました。この後、この四家が、順番に盛衰を繰り返していくことになります。(南家の全盛期・恵美押勝)この四家の中で最初に、勢力を強めたのが南家でした。中でも、仲麻呂は聖武の娘孝謙女帝と、光明皇后からの信任を受けて政権と軍事の両方を掌握していきました。仲麻呂は、彼の推す淳仁天皇を即位させ孝謙女帝からは、恵美押勝(そなたを見ると笑ましく思わすの意)の名まで与えられました。結局、彼は人臣では、初めての太政大臣にまで登りつめていきます。しかし、そうした中で、仲麻呂にライバルが登場しました。孝謙上皇の病を癒したことから、上皇の信任を得ることとなった僧の道鏡です。仲麻呂は、孝謙のもとで出世を続ける道鏡に対して兵を集め反乱の準備を進めました。しかし、孝謙は軍学者として名高い吉備真備を呼び、仲麻呂追討を命じます。仲麻呂は破れ、捕らえられたのち、斬首されました。(恵美押勝の乱)この事件の詳細は、以前に書いた関連記事 恵美押勝と道鏡 を参照下さい。仲麻呂の没落により、南家は急激にその勢力を失っていくことになりました。(式家の台頭・藤原百川)次に、繁栄したのが式家。その繁栄のきっかけを作ったのが百川(ももかわ)でした。百川は、孝謙(称徳)天皇が跡継ぎを定めないまま崩御した際、吉備真備らの反対をくつがえして、光仁天皇を擁立しました。これは、しばらく天武系の天皇が続いていたところに、天智系の天皇を復活させるという意味合いを持つ、クーデターでもあったのです。百川は、辣腕家として知られた人で、次の、桓武天皇を擁立させるように運んだのも、百川でありました。百川は娘の乙牟漏(おとむろ)を桓武の皇后にするなど、天皇家とつながりを強めていきます。以後の桓武朝においても、天皇の式家に対する信頼は厚く、平安遷都の際の中心勢力ともなりました。しばらくの間、式家の全盛期が続いていきます、(京家と北家)京家は、結局、最後まで振るうことがありませんでした。式家は、やがて衰退していきますが、藤原四家の中で、最終的に勝ち残っていったのが、北家でありました。最も遅れて繁栄期を迎えた北家でありますが、やがて、摂関政治を確立し、道長や頼通などの”わが世の春”を現出していきます。以上、ここまで、奈良時代を中心とした藤原四家成立の概略でしたが、次は、平安時代、いくつかの事件を点描していきたいと思っています。
2009年02月15日
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三味線を奏でながら唄われる都々逸。高杉晋作は、都々逸が好きで、折ある毎に即興で都々逸を作り、唄っていました。そのために、折りたたみ式の携帯三味線まで、常に持ち歩いていたといいます。三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたいこの都々逸は、高杉晋作が京で芸者と遊んでいる時に、即興で作ったものといわれ高杉が作った都々逸の中でも、最もよく知られているものです。粋な艶っぽさが、この唄の魅力であると言えるでしょう。都々逸は、和歌や俳句のように、文芸として一般的ではありませんが、七七七五の音律を持つ短詩であり、三味線とともに唄われることが多く、庶民的な流行歌でもありました。幕末から明治にかけて、特に流行し、恋の歌が多いことも、その特徴です。高杉は、松陰門下の中でも秀才として知られ、もちろん、和歌や漢詩の素養も高く多くの歌を残していますが、やはり、都々逸に、一番高杉らしい個性が表れていると思います。また、高杉には勤皇の志士らしく、幕末の政治状況を写した都々逸もあります。わしとおまえは焼山かつら うらは切れても根は切れぬ ~これは、絵堂・大田の戦い(高杉ら尊皇派が、長州俗論党と争った戦い)のさなか、 山県狂介(のちの有朋)が送ってきた和歌に、高杉が返歌として送ったものと言われています。 共に戦おうといった意味でしょうか。萩にゃ行きたし 小倉も未練 ここが思案の下関~これも、絵堂・大田の戦いで、小倉に幕府軍がいるので萩の俗論党を攻撃できない、 といった状況で詠まれたもの。聞いておそろし見ていやらしい 添うてうれしい奇兵隊 ~これは、奇兵隊の応援歌?とも言えるものです。これらの都々逸は、幕末という時代の情景を、さらに身近に感じさせてくれる文芸であると言えるでしょう。 ただ今、青森へ長期出張中。 ホテルのインターネットコーナーから、アクセスしています。 週末には戻る予定です。 それでは、また。
2007年09月24日
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最近、仕事で、月一回程度千葉市に行っているのですが、その時に目にするのが「花の都・ちば」というキャッチフレーズ。JR千葉駅の駅前には、Jリーグ・ジェフユナイテッドの応援キャラクターとともに「花の都・ちば」と書かれたモニュメントがあり、目をひきます。そういえば、数年前に、千葉マリンスタジアムにロッテ戦の試合を見に行った時にも、幕張に同様のモニュメントがあったことを思い出しました。町をあげてのキャンペーンなのかなと思い家に帰って調べてみると、千葉市が推進している、都市イメージのプロジェクトのようです。この都市イメージ確立のための取り組みについて、千葉市長のお話が、「ちばニュース」のホームページに掲載されていましたので、抜粋します。----------------------------------------------------------------------千葉市は、全国的に名前を知られる都市イメージが乏しいことを残念に思っていました。そこで、千葉市の特長は何かを考えてみたところ、温暖で、四季に応じた穏やかな変化がある気候であると思ったのです。この特長を活かした都市イメージを考えた結果、四季折々にいろいろな花を楽しめるまちづくりをする、すなわち「花の都・ちば」の実現を目指すことにしたのです 基本的なコンセプトは、「四季折々に花のあふれる協働のまちづくり」を掲げ、市内のあらゆるところで、市民、民間団体、企業、花の生産者などと連携を図りながら、様々な取り組みを展開します。私は、単に花を飾るということだけではなく、″緑を大切に,ごみのないきれいな街″そして″人の心もきれいな美しい街″を目指していきたいと思います。このように街を思いやる意識が高まり、市民の皆さんが、ご自分の家や、地域を花で飾り、ああ綺麗な町だなあ、ずっと住んでいたいと思えるようになったとき、目標が達成されるのではないかと思っています。----------------------------------------------------------------------なるほど。素晴らしい取り組みだと思います。私の住む大阪などでは、そうした市民レベルで共同して取り組んでいこうというような意識が希薄であるように感じます。そういえば、千葉で見かける電車の広告にも、市民への呼びかけのようなものが見られたりと、千葉というところは、何か、そうした市民意識の高さを感じたります。住みやすく魅力のあるまちにしたいという”まちづくり”についての意識も高いのかもしれません。この「花の都・ちば」は、行政主体の”まちづくり”への取り組みではありますが、住民が主体となった”まちづくり”の動きも、全国の色々な町で進められています。自然発生的な地域社会の結びつきが、希薄になっている現代社会。それだけに、こうした取り組みに対して、市民が意識を高めていくことが、これからは、より大きな意義を持ってくるのではないかと感じています。
2009年04月18日
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江戸時代には、多くのお家騒動が起こりましたが、その中でも有名なのが、仙台の伊達騒動です。正式には寛文事件と呼ばれています。「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)という歌舞伎の演目にもなり、山本周五郎の小説「樅の木は残った」で取り上げられたことでも有名となりました。私の場合は、かなり昔(小学生の頃)のNHK大河ドラマで見た「樅の木は残った」のイメージが強いですが・・・。この騒動の発端は、伊達家3代藩主・綱宗が、吉原の遊女遊びにうつつをぬかしていたことがもとで、隠居させられて、幼君の亀千代が藩主に就いたことに始まります。江戸時代初期、万治3年(1660年)のこと。その後見人として、伊達兵部宗勝(政宗の十男)と田村右京宗良(政宗の孫)が指名され、幕府からも承認されました。しかし、後見人となった伊達兵部は、藩政の独断専横を始めます。藩政に対して批判したものには容赦なく誅罰を下し、兵部から処罰を受けた者の数は、120人にも達したといいます。続いて、幼君亀千代の毒殺未遂事件が起こり、これも、兵部が自らが藩主になろうとして画策したものであるとも言われていました。兵部の配下では、奉行職の国老・原田甲斐宗輔が、暗躍していました。そうした中、兵部のやり方に反対する勢力が、反発を強めていきます。その代表的な人物が、一門の一人、伊達安芸宗重でした。当時、伊達安芸には新田開発に伴う、境界争いが起こっていましたが、伊達兵部は、この領地紛争にも介入し、安芸にとって不利となる裁定を下しました。これも、伊達兵部が、幼君の補佐と称して権力の座を濫用して行ったものでした。伊達安芸の、兵部の専横に対する不満は日ごとに募り、憤慨した安芸は、ついに、この境界争いを幕府に提訴することを決意します。幕府の裁定を仰ぐとともに、後見人伊達兵部とその配下の奉行原田甲斐の横暴を幕府に訴え出ようとしたのです。寛文11年(1671年)。江戸、大老・酒井雅楽頭邸にて、伊達家関係者に対する尋問が始まりました。安芸にとって、この場は、まさに、兵部等を退け藩政を是正する最後の機会であると考えていました。しかし、尋問終了の直後、予期せぬ出来事が起こりました。原田甲斐が突然刃傷に及び、その場で伊達安芸は絶命してしまったのです。原田も駆けつけてきた、酒井家の家臣に斬り伏せられ絶命。この結果、原田甲斐の家は断絶とされ、その息子達も死罪。田村右京は、閉門蟄居。伊達安芸については、おとがめなし。伊達兵部は土佐(小高坂村)への流罪となりました。ただ、伊達藩そのものの責任は、藩主がまだ幼少であるこというから不問とされ、何とか、お家断絶という最悪の事態は免れることができました。以上が、伊達騒動のあらまし。しかし、この事件の真相については、良く分からないことが多いというのが実情です。定説では、兵部派が逆臣、安芸派が忠臣とされていて、原田甲斐は、兵部の手先として動き、酒井雅楽頭邸で狼藉を働いた極悪人と見なされてきました。しかし、原田甲斐悪人説を否定し、原田甲斐は逆に伊達家お取りつぶしの危機を、自らが悪人になりおおせることで、伊達家を救った忠臣であるとしたのが、山本周五郎の小説「樅の木は残った」でした。酒井邸の刃傷事件にまつわる経緯について、「樅の木は残った」では・・・。大老・酒井雅楽頭と伊達兵部の間には、兵部に伊達藩を分与するとした密約があり、その証文を原田甲斐が入手していました。評定の場でそれが持ち出されることを知った酒井雅楽頭は、その証拠を隠滅するため、集まっている伊達藩の家老たちを斬殺しようとし、さらに、それを原田甲斐が乱心の上行った事として、処理しようとしていました。酒井家の家臣たちは、詰めの間に控えている伊達安芸・原田甲斐ら伊達藩家老に、突然斬りかかります。斬られて息絶え絶えになっている原田甲斐。しかし、この時、自らの刀に血をぬりつけて、「これは、私が一人でやったこと、甲斐が乱心して、この所業に及びました。」と言い残してから絶命しました。酒井雅楽頭が、密約の証拠を表ざたにならないようにするため、甲斐の乱心という形で事をうやむやにし、評定不可能にしようとしているという事を、甲斐は察していたのです。また、それと引き換えに、伊達家の安泰を保証しようとしている雅楽頭の意図がわかったため、甲斐は、それに乗ってみせたのでした・・・。居合わせた関係者たちがみな、命を落としてしまったため、結局、事件の真相は追求することが出来なくなってしまい、仙台藩62万石はおとがめなしということになりました。この事件。やはり真相ははっきりしません。また、「樅の木は残った」も、あくまでも小説ですので、真実を描いたものではありません。実際は、甲斐の一族は死に絶え、彼の立場を弁護するものもなかったため、彼が悪者にされてしまったのかもしれません。原田甲斐については、当時から、彼の人柄を慕う人が多くいて、原田家が断絶したのちも、甲斐の追悼が秘密裏に、事件当時から行われていたといいます。密かに葬られた甲斐の首塚の方角に寺の本尊を置き、本尊を拝むふりをして、密かに甲斐の供養が行われていたとか。原田家菩提寺の東陽寺では、その後もなお、甲斐を供養するための法要が、毎年続けられているといいます。
2008年03月23日
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