歴史一般 0
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宮部みゆきは、直木賞を受賞したベストセラー作家。他にも、吉川英治文学賞、司馬遼太郎賞、山本周五郎賞、日本SF大賞等々、多くの文学賞を総なめにしたともいえる、実力派の作家です。その作品は、超能力を扱ったミステリーやSFが特徴的でありますが、他にも、江戸に住む人々の人情を描いた時代小説から、現代社会の問題点を扱った作品に至るまで、幅広いジャンルの小説を世に生み出しています。宮部みゆきについては、昨年、このブログでも取り上げたことがありますが、私にとっても宮部みゆきは、「蒲生邸事件」を読んで以来、とても気になる作家であります。そうした、宮部作品を久しぶりに読みました。タイトルは「震える岩 霊験お初捕物控」。江戸・馬喰町の岡引き六蔵の妹、お初という町娘が主人公の捕物帳です。お初という町娘が、少女の頃に、自らが霊能力を持つことを自覚し始め、人に見えないものが見え、人が聞こえないものが聞こえるという霊験を利用し、難事件を解決していく物語。宮部みゆきお得意の、超能力ものの時代劇版とも言える内容です。冒頭、ろうそくの流れ買いをしている吉次という男が変死し、その後に、突然生き返ったという「死人憑き」の事件から物語が始まります。この事件に興味を持った江戸南町奉行・根岸鎮衛(ねぎしやすもり)は、お初と、与力の嫡男・古沢右京之介に密かに探りを入れさせることを命じ、お初が事件に関わっていくことになります。その後、相次いで起こる殺人事件。さらに、この事件とは別に、赤穂事件の際、浅野内匠頭が切腹した田村藩邸で、内匠頭切腹の跡に置かれていた大石が鳴動し始めたという不思議な現象が起こり、「死人憑き」事件は、やがて全く関係なく見える100年前の赤穂事件へとつながっていきます。世間知らずのぼんぼんである古沢右京之介とお初との軽妙なやりとりも、ほのぼのとしていて可笑みがありますし、意外な方向へと展開していく過程にわくわくしながらも、お初の霊能力により、物語は事件の真相に迫っていきます・・・・。ちなみに、この小説に登場する、南町奉行・根岸鎮衛は実在の人物。江戸時代中期に、佐渡奉行や勘定奉行・南町奉行等を歴任した旗本で、官職名は肥前守。庶民の暮らし向きにも目を配るなど、庶民感覚に優れていたと云われ、「耳袋」という、町の世間話を書き留めた随筆集を書き残したことでも有名です。この「耳袋」という本は、鎮衛が30年以上にわたって、書き溜めたものと云われ、同僚や古老から聞き取った珍談・奇談、ちょっと面白い話を拾い集められたものでありました。この小説の、田村藩邸の大石が動き出したという話も、この「耳袋」から題材をえたもので、また、殺人事件と赤穂浪士との接点についても、宮部さんが、赤穂にある浅野家の菩提寺である花岳寺に伝わる「義士出立の図」からヒントを得て筋立てしたものでありました。この作品。抜群のストーリーテーラーである、宮部みゆきの意欲作であるといえますが、ただ、怪奇事件が続発するので、お化け屋敷などが苦手の人には、少し怖いかも。
2008年04月13日
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江戸時代には、多くのお家騒動が起こりましたが、その中でも有名なのが、仙台の伊達騒動です。正式には寛文事件と呼ばれています。「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)という歌舞伎の演目にもなり、山本周五郎の小説「樅の木は残った」で取り上げられたことでも有名となりました。私の場合は、かなり昔(小学生の頃)のNHK大河ドラマで見た「樅の木は残った」のイメージが強いですが・・・。この騒動の発端は、伊達家3代藩主・綱宗が、吉原の遊女遊びにうつつをぬかしていたことがもとで、隠居させられて、幼君の亀千代が藩主に就いたことに始まります。江戸時代初期、万治3年(1660年)のこと。その後見人として、伊達兵部宗勝(政宗の十男)と田村右京宗良(政宗の孫)が指名され、幕府からも承認されました。しかし、後見人となった伊達兵部は、藩政の独断専横を始めます。藩政に対して批判したものには容赦なく誅罰を下し、兵部から処罰を受けた者の数は、120人にも達したといいます。続いて、幼君亀千代の毒殺未遂事件が起こり、これも、兵部が自らが藩主になろうとして画策したものであるとも言われていました。兵部の配下では、奉行職の国老・原田甲斐宗輔が、暗躍していました。そうした中、兵部のやり方に反対する勢力が、反発を強めていきます。その代表的な人物が、一門の一人、伊達安芸宗重でした。当時、伊達安芸には新田開発に伴う、境界争いが起こっていましたが、伊達兵部は、この領地紛争にも介入し、安芸にとって不利となる裁定を下しました。これも、伊達兵部が、幼君の補佐と称して権力の座を濫用して行ったものでした。伊達安芸の、兵部の専横に対する不満は日ごとに募り、憤慨した安芸は、ついに、この境界争いを幕府に提訴することを決意します。幕府の裁定を仰ぐとともに、後見人伊達兵部とその配下の奉行原田甲斐の横暴を幕府に訴え出ようとしたのです。寛文11年(1671年)。江戸、大老・酒井雅楽頭邸にて、伊達家関係者に対する尋問が始まりました。安芸にとって、この場は、まさに、兵部等を退け藩政を是正する最後の機会であると考えていました。しかし、尋問終了の直後、予期せぬ出来事が起こりました。原田甲斐が突然刃傷に及び、その場で伊達安芸は絶命してしまったのです。原田も駆けつけてきた、酒井家の家臣に斬り伏せられ絶命。この結果、原田甲斐の家は断絶とされ、その息子達も死罪。田村右京は、閉門蟄居。伊達安芸については、おとがめなし。伊達兵部は土佐(小高坂村)への流罪となりました。ただ、伊達藩そのものの責任は、藩主がまだ幼少であるこというから不問とされ、何とか、お家断絶という最悪の事態は免れることができました。以上が、伊達騒動のあらまし。しかし、この事件の真相については、良く分からないことが多いというのが実情です。定説では、兵部派が逆臣、安芸派が忠臣とされていて、原田甲斐は、兵部の手先として動き、酒井雅楽頭邸で狼藉を働いた極悪人と見なされてきました。しかし、原田甲斐悪人説を否定し、原田甲斐は逆に伊達家お取りつぶしの危機を、自らが悪人になりおおせることで、伊達家を救った忠臣であるとしたのが、山本周五郎の小説「樅の木は残った」でした。酒井邸の刃傷事件にまつわる経緯について、「樅の木は残った」では・・・。大老・酒井雅楽頭と伊達兵部の間には、兵部に伊達藩を分与するとした密約があり、その証文を原田甲斐が入手していました。評定の場でそれが持ち出されることを知った酒井雅楽頭は、その証拠を隠滅するため、集まっている伊達藩の家老たちを斬殺しようとし、さらに、それを原田甲斐が乱心の上行った事として、処理しようとしていました。酒井家の家臣たちは、詰めの間に控えている伊達安芸・原田甲斐ら伊達藩家老に、突然斬りかかります。斬られて息絶え絶えになっている原田甲斐。しかし、この時、自らの刀に血をぬりつけて、「これは、私が一人でやったこと、甲斐が乱心して、この所業に及びました。」と言い残してから絶命しました。酒井雅楽頭が、密約の証拠を表ざたにならないようにするため、甲斐の乱心という形で事をうやむやにし、評定不可能にしようとしているという事を、甲斐は察していたのです。また、それと引き換えに、伊達家の安泰を保証しようとしている雅楽頭の意図がわかったため、甲斐は、それに乗ってみせたのでした・・・。居合わせた関係者たちがみな、命を落としてしまったため、結局、事件の真相は追求することが出来なくなってしまい、仙台藩62万石はおとがめなしということになりました。この事件。やはり真相ははっきりしません。また、「樅の木は残った」も、あくまでも小説ですので、真実を描いたものではありません。実際は、甲斐の一族は死に絶え、彼の立場を弁護するものもなかったため、彼が悪者にされてしまったのかもしれません。原田甲斐については、当時から、彼の人柄を慕う人が多くいて、原田家が断絶したのちも、甲斐の追悼が秘密裏に、事件当時から行われていたといいます。密かに葬られた甲斐の首塚の方角に寺の本尊を置き、本尊を拝むふりをして、密かに甲斐の供養が行われていたとか。原田家菩提寺の東陽寺では、その後もなお、甲斐を供養するための法要が、毎年続けられているといいます。
2008年03月23日
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「時は、元禄15年12月14日」赤穂浪士の吉良邸討ち入り。12月のこの時期、季節の風物誌でもあります。小説やドラマなどで、数多く取り上げられている、この赤穂事件ですが、実のところ、後世に作られた脚色や義人譚も多く、意外と、真相がはっきりとわからない部分が多い事件でもあります。その事件の発端となったのは、松之廊下の刃傷事件。勅使饗応役をつとめる浅野内匠頭が、指南役の吉良上野介を殿中で斬りつけました。しかし、この事件も、吉良上野介と浅野内匠頭の間に何があったのか、今でもはっきりわかっていません。将軍綱吉は、この刃傷事件に激怒し、審議もほとんどしないまま、直裁で処分を決定しました。浅野内匠頭は切腹の上、お家取り潰し。一方、吉良は、その振る舞い神妙であるとしてお咎めなしとする裁定です。しかし、この裁定が禍根を残し、吉良邸討ち入りへと発展していきます。当時、武士の間の争いについては、喧嘩両成敗という考え方が原則でした。争いに至るまでの事情を勘案し、因果関係も含め、両者に罪を認めるというもの。現代の刑事事件の考え方とは異なります。浅野だけに、処分が加えられたということで、浅野の家臣たちは、この裁定に納得しませんでした。又、幕府内部も含めた、世間一般も、この一方的な裁定には、疑問を持ちました。そうした背景の中で、赤穂浪士の事件は進展していきます。赤穂藩側の中心人物は、筆頭家老の大石内蔵助。藩取り潰し後の事後処理を進め、紛糾する家中をまとめて、赤穂城を開城します。その後、内蔵助は、つてを通じて、御家の再興と吉良上野介の処分を、幕府に求める活動を続けますが、その願いは聞き届けられることはありませんでした。ついに、内蔵助は、吉良を討ち取って主君の仇を討つことに方針を定めます。元禄15年(1702年)12月14日。大石内蔵助を始めとする赤穂浪士、四十七士は吉良邸へ討ち入り、念願の吉良上野介の首を挙げました。 この吉良邸討ち入り事件は、江戸の町を興奮させ、江戸の庶民は、赤穂浪士に対し喝采を送りました。一方、幕府の中でも、お抱えの儒学者たちの間で、赤穂浪士の行為を善とみなすか、悪とみなすかについて、論争が繰り広げられます。結局、赤穂浪士に対する処分は切腹。道義的には称えられるが、法においては罪であるとする意見が採用されました。この事件が、単なる仇討ち事件ではないところは、松の廊下の刃傷事件に対する、幕府の処分が片手落ち、不公平であった事に、大石内蔵助ら浪士が異を唱え、社会問題化させたところにあったと思います。庶民も幕府の処分に対して憤激していて、赤穂浪士を応援しました。この時代においては、珍しいくらい世論が盛り上がった出来事だったのでしょう。さらに、その後も、この事件は民衆の間で語り継がれていきました。事件から47年後の、寛延元年(1748年)。歌舞伎、人形浄瑠璃の演目として「仮名手本忠臣蔵」が発表され、この作品が、大ヒット。忠臣蔵物語の代表作となっていきます。「忠臣蔵」と呼ばれるようになったのも、この作品からでした。その後、芝居や映画でも、不入りの時には「忠臣蔵」を出せば当たると云われるほどの、人気の出し物となっていきます。そうした中で、様々な脚色・義談が挿入されて、現在のような、忠臣蔵物語が出来上がっていきました。講談、小説、映画、テレビ等々、その生み出された、関連作品の多さは、いかに、日本人に愛され続けてきたかを示しています。いじめをこらえながらも、刃傷に及んだ浅野内匠頭。その復讐を誓い、しかし、その素志を隠しながらも準備を進める浪士たち。それを、陰から支える人たち。同志から脱落していく人たち。そして、吉良を討ち取って、本懐を遂げ、最後は潔く、切腹して果てていく。「忠臣蔵」の中には、日本人の大好きな物語が、いくつも詰め込まれています。まさに、日本的な精神構造の中から生み出された、物語り群であるともいえます。近年「忠臣蔵」は、以前ほど、もてはやされることが、なくなってきているようにも思いますが、現代の日本人が忘れかけているものが、ここにはあるのかも知れません。
2007年12月08日
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江戸時代に2人の女性天皇が即位しました。明正天皇と後桜町天皇です。現在の皇室典範は、男系の男子にのみ継承権を認めているため後桜町天皇が今のところ、史上最後の女性天皇ということになります。後桜町天皇は、桃園天皇が22才の若さで崩御したことから急遽即位することになりました。この時、本来次の皇位継承者は桃園天皇の長男秀仁親王でしたが、まだ5才で幼少だったため、秀仁親王が元服するまでの間ということで、桃園天皇の姉・智子内親王が継承することになったのです。宝暦12年(1762年)後桜町天皇が即位。在位9年の後、予定通り秀仁親王(後桃園天皇)に譲位しました。後桜町天皇は、天皇としては中継ぎでしたが、譲位した後に活躍の機会がありました。まず、皇位継承の問題が持ち上がります。後桃園天皇も22才の若さで崩御。しかも、子供がなかったため、近い親族に候補者がいなくなってしまいました。そこで、後桜町上皇をはじめ公卿が集まり協議した結果、閑院宮家から天皇を迎える事に決めました。閑院宮家といいますのは、新井白石の提言により創設された新しい宮家で、皇室に万一皇位継承者がいなくなった場合に、継承者が出せるように備える目的で創設された宮家です。閑院宮家から初めての天皇が誕生。光格天皇です。そして、後桜町上皇は光格天皇の教育係としてその後半生を過ごすこととなります。以下、光格天皇と後桜町上皇の教育について。光格天皇は傍系であるため、幕府からも軽く見られがちでした。そこで、後桜町上皇は学問に力を入れるようにと光格天皇を指導します。光格天皇は若い公家を集めて勉強会を開くなどして学問に励み、天皇としての理念を持つようになっていったといいます。光格天皇は長く途絶えていた天皇家のしきたりや行事を復活させ、「天皇」という称号も復活させました。光格天皇は、幕末・維新を前にして、天皇家の体制・権威を再構築した天皇であると言われています。その後の孝明天皇・明治天皇から続く今の天皇家は光格天皇直系の子孫にあたります。一方、後桜町上皇は、朝廷と幕府が対立した時に、「御代長久が第一の孝行」と言って諌めるなど、光格天皇をよく補佐しました。後桜町上皇は、光格天皇に朝廷の権威向上・尊皇思想の定着を導いたことにより、「国母」とも言われ評価されています。
2006年10月15日
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小石房子は女性史を中心に多くの歴史小説を発表している作家です。とは言っても、読んでみたいとは思いながらも、書評を見る程度で、まだ読んだ事はないのですけど。推古天皇からの女性天皇を取り上げた「日本の女帝シリーズ」の連作があり、愛子様の誕生で女性天皇が話題になっていることもあり、評判のようです。「葵の帝」は小石房子「日本の女帝シリーズ」の第4作。江戸時代の女帝で、徳川将軍家の血筋を受け継いだ天皇・明正天皇を描いています。明正天皇は、奈良時代の称徳天皇以来、859年ぶりに誕生した女性天皇でした。以下、明正天皇即位の背景と経緯についてまとめてみます。明正天皇の母は徳川秀忠の娘、東福門院・和子。家康が皇統に徳川の血を注ぎ込むために、後水尾天皇との婚儀を進め、政略結婚により嫁ぎました。東福門院は、皇室の権威をそこねないようにしながらも一方で朝廷を思うがままに操りたい将軍家の狙いがあり、その狭間で苦労したようです。後水尾天皇との間に五女二男をもうけていますが、皇子は早世しています。元和9年(1624年) に明正天皇が生まれています。幼名は、女一宮。諱は興子(おきこ)。この頃、父の後水尾天皇は、将軍家の権力に対して皇室の権威を守ろうと幕府に反発していました。その代表的な事件が紫衣事件(寛永4年)です。1629年(寛永6年)には、家光の乳母お福が参内して、後水尾天皇や東福門院に拝謁、「春日局」の称号が授けられました。しかし、この一件でも、無官のお福の参内を許したことが問題となります。これらの事件が背景にあったのでしょう、そうした中で後水尾天皇が突然退位します。その後を継いで即位したのが明正天皇でした。この譲位も、皇室の権威を蔑ろにする幕府の横暴に対し後水尾天皇が反発したという意味合いが強いと考えられます。さらに、皇室には婿取りの前例が無いことから、朝廷側としては、徳川の血統を明正天皇一代で断ちたいとする考えもあったように思われます。かなわぬ中での、せめてもの抵抗だったのでしょう。明正天皇の即位は、久々の女帝誕生であり、徳川氏を外戚とする最初の天皇でもありました。明正の名は、奈良時代の女帝元明天皇とその娘元正天皇から取ったものと言われています。しかし、明正天皇は即位の時にわずか7才。彼女の存在は、男子の後継者が成人するまでの中継ぎ天皇でありました。自ら政事にかかわることもほとんどなく、治世中は後水尾上皇の院政が行われる事となります。1643年(寛永20年)に、異母弟の後光明天皇に譲位して太上天皇となりました。1696年(元禄9年)に崩御、享年74。その間、宮中での事跡やエピソード等も、特筆すべきものはないようです。政略の道具として翻弄されながらも、朝廷と徳川の間を取り持つ事を課せられた、哀しい生涯だったように思います。
2006年10月09日
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江戸時代の江戸の町「伊勢乞食に近江泥棒」という言葉がささやかれていたとか。これは、江戸の商人達が江戸で商売を繁盛させていた伊勢商人や近江商人のことを、ねたみ半分に言ったもののようです。当時の江戸の町には「伊勢屋」を始め、「越後屋」「丹波屋」など、伊勢商人の店が軒を連ねていました。これらの店は「江戸店」といって、東京支店とでもいうようなもので、「江戸店」持ちということが松阪商人の特色の一つでした。そうした松阪商人の中の代表的な人物が、越後屋呉服店(後の三越百貨店)そして三井財閥の基を築いた三井高利です。三井家はもともと三井越後守を名乗る武家でしたが、高利の父の代に商人となり、松坂で質屋の傍ら酒と味噌を売る店を始めました。14歳になると高利は江戸へ出て長兄の店を手伝いながら商才を磨き、28歳で松坂に帰って結婚、家業を継いだといいます。やがて高利は江戸に進出。呉服店「越後屋」(三越百貨店の前身)を開店したのは、52歳を過ぎてからの事でした。開店と同時に、高利は画期的な2つのサービス商法を開始します。「店前現銀掛値なし」と「小裂何程にても売ります」つまり店頭販売と切り売り販売でした。当時、いわゆる大店では現金扱いの小売りは行われておらず、見本を持って得意先を回る「見世物商い」か、品物を直接得意先に持ち込む「屋敷売り」がふつうで、支払い方法は盆と暮れの節季払いという掛売り方式が習慣となっていました。得意先が裕福な商家か大名や武士といった特権階級に限られていたためですが、これでは金利がかさむぶん商品の価格は高くなるうえ、資金の回転も悪かったのです。それを高利は、店先で販売する現金売りに改めました。これにより外回りの経費や金利がかからないため、掛け値なしの正札で販売することができるようになりました。この方式は当たり、越後屋の客層を広げることになりました。一方の「小裂何程にても売ります」も好評を博しました。当時は反物単位の販売しか行われていなかったため、切り売りは江戸町民に大いに支持されることとなったのです。こうした中、この繁栄ぶりに嫉妬した同業者から迫害され、組合からの追放や引き抜き、不買運動などが行われました。しかし、江戸の大火により店を焼失したのを機に、新たに「越後屋呉服店」を開店。さらに、呉服業の補助機関として「両替店」を設けました。ここは商業地ではなかったので、高利はビラを配ったり、雨が降ると越後屋のマーク入りの傘を無料で貸し出したりして、店のPRに努めました。そして、2年後には店を拡張するまでに業績を伸ばします。短期間で、呉服、両替ともに幕府の御用達になるほど発展させていったのです。 江戸での商売で、後発であった高利は、当時まったく呉服の購買層としては考えられていなかった庶民に目をつけました。元禄の好況を目前にしたこの時期、購買力をつけつつあった庶民を顧客とするためには、従来の商スタイルを根本から変える必要があったのです。そのために、高利はまったく新しいビジネスモデルというべき、画期的なシステムを創り出し、そのシステムはその後の流通のあり方を変えるほどのパワーをもっていました。現在のバーゲンセールや販売広告の元祖ともいえるでしょう。
2006年07月17日
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