魁!「ラジコン侍」改め「ガンプラ足軽」。(笑) 死して屍拾う者無し!!

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2012.01.08
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カテゴリ: その他

こんにちは、ぐんかんです。
以前ブログに書いたり、楽プロでつぶやいたりしましたが、
ぐんかんは 膠原病
膠原病とは? 「自分の免疫が自分の体を壊す」病気です。
大雑把過ぎますね。詳しくはコチラ ↓
ぐんかんの症状は2つ。
1.毛穴や傷口から細菌が体内に侵入しようとすると、人間の免疫機能はこれをやっつけようとするのですが、ぐんかんの場合、免疫が細菌だけでなく周りの組織をも攻撃してしまいます。すると皮膚は爛れ、潰瘍のようになってしまいます。暫くこの状態が続き、最終的には引きつった火傷の痕のようになります。このせいでぐんかんの体はまるで「全身火傷を負った人」のようになってます。普通の温泉とかって入れなくなりましたね。貸切りや部屋に温泉付いてる所でないと。なんせ、凄い目で見られますからね。
2.上のリンクにも載ってますが、「強直性脊椎炎」と呼ばれる病気です。背骨って骨と軟骨が交互に重なって構成されてますが、この軟骨の部分が新陳代謝とともに骨に作り替えられてしまう病気です。最終的にぐんかんの背骨は「1本の骨」になってしまうのです。
今でこそステロイド剤を服用してるおかげでほとんど痛まなくなりましたが、それ以前はもう気が狂うような激痛に常に襲われてました。例えるなら、ふくらはぎでおこるこむら返りの10倍位の痛みが、背中全体で起きてるって感じです。息するのさえ苦痛で、くしゃみや咳をしようものなら、気を失いそうになります(実際気を失ったり、倒れた事もあります)。
明確に「膠原病」と診断され、ステロイド剤の投与が始まったのが約6年前。それ以前は医者も訳がわからず、皮膚には抗生剤の軟膏、背中の痛みにはボルタレンという痛み止め(坐薬)が処方される程度でした。抗生剤の軟膏は全く効果がなく、痛み止めも多少痛みが和らぐ程度。この時期はホント、生き地獄でしたね。
膠原病の治療にはステロイド剤や免疫抑制剤が用いられます。でも治療といっても治る訳ではありません。病気の進行を遅らせ、症状を緩和する程度なんです。しかも膠原病は「急性増悪期」といって突然、今飲んでる薬の量では効かなくなる程、症状が悪化します。
だからぐんかんは年々飲むステロイドの量が増えていきました。
このステロイド剤ってのが厄介で、膠原病の症状を緩和するかわりに、激しい副作用を体にもたらします。
詳しくはまたコチラ ↓
ぐんかんは主だった副作用はほとんど出てしましましたね。医者もこれ以上ステロイド剤は増やせないって事で、去年から免疫抑制剤の投与が始まりました。これは元々抗ガン剤だったものを少量投与することで免疫機能を抑制し膠原病に効果があると言われてる物なのですが、ぐんかんにはあまり効果がないみたいです。ステロイド剤と違って、膠原病には必ず効果がある訳ではないそうです。
 ぐんかんはこの薬によってなんとか普通の生活を送れていますが、極端に体の抵抗力が落とされてるので、風邪等の感染症は合併症をおこし、最悪、死に至ります。インフルエンザになんかかかったら、マジ死ぬでしょうね。
ここまではぐんかんの症状や薬についてお話しました。
ここからは、この膠原病がぐんかんの人生にどう影響したかをお話します。
体の変調に気付いたのは20代後半。傷が治りづらくなったり、たまに背中が痛む程度だったので、とりあえず医者にも行かず放置してました。
症状が劇的に悪化したのは33歳の時。背中の激痛で動く事もままならず、皮膚の爛れもひどくなりました。医者に行っても(大学病院も2軒まわりました)原因不明。軟膏と痛み止めだけの処方でした。あまりの痛みに「いっそ死にたい。」と何度も思いましたが、下の息子はまだ3歳。上2人も小学生だったので、歯を食いしばって仕事もしてました。俺をぐんかんと呼ぶ下の息子と上の子達の笑顔だけが、心の支えでした。
約1年位、何とかやってましたが、徐々に症状が悪化。あまりに頻繁に倒れるもんで仕事も続けられなくなりました。そして遂にカミさんから「あたしは4人の子供の面倒はみれない。でも、アンタがいなかったらあたしと子供達でなんとかやっていける。だから別れて。」と言われました。ぐんかんは頷く事しか出来ませんでした。「家族の負担にはなりたくない。」そう自分に言い聞かせ、ぐんかんは家を出ました。でも、心は折れるどころか、完全に砕け散ってました。この頃が多分一番病んでましたね。
ぐんかんの両親はすでに亡くなっていたので、天涯孤独状態。その為、保証人が立てられないので自力でアパートも借りられない。しょうがないので寮付きの仕事を探しました。
そして長野にやってきました。はじめに住んだのは松本。どんなに体が痛くても、生きていく為には働かなきゃならない。それに子供達の養育費を払う事だけが、ぐんかんに残された子供達との唯一の繋がり。でも、砕けた心は悪魔の囁きのようにぐんかんを楽な方へと誘います。「痛い、死にたい。」と「でも、子供達の養育費稼がないと。 」この2つの事しか考えてませんでした。家にいる時は、痛みと寂しさと悲しさで常に泣いてました。
「死にたい。」とは常に考えてましたが、本当に突然、発作的に死のうとしました。
たまたま止めてくれた人がいたので、事無きを得ましたが、今ではこの人に感謝してます。
仕事も長続きせず、次は長野市へ。
ここでぐんかんは長野市民病院に通う事になるのですが、ここでぐんかんの運命はまた大きく動きます。
この病院ではじめてぐんかんは膠原病と診断され、ステロイド剤の投与が始まります。
症状は劇的に改善され、皮膚の爛れも治まり背中の痛みも殆んどなくなりました。
前は背中の痛みで下の物をかがんで取るとか、ましてや走るなんて絶対出来なかったんですが、何年か振りにまともに動ける自分に感動しました。
長野市にいたのは半年、そして転勤で伊那市へ。
伊那に来たばっかりの頃は、体は動くようになりましたが心は砕けっぱなし。だだ機械のように朝起きて、仕事行って、帰ってきて飯食って寝るの繰り返しでした。
伊那に来て半年ぐらいたった頃、別れてから一切連絡を取ってなかったカミさんからメールがきました。内容は、「お母さんが、ガンで死んじゃう。」でした。
カミさんは初めて経験する親の死。看病しながら日々やつれていくお義母さんを見てるのに耐え切れなくなり、ぐんかんに助けを求めてきました。
「病気の自分を切り捨てた女を許したのか?」 ええ、許しました。嫌になって別れた訳じゃないし、何といっても子供達にまた会える。
こうしてカミさんとヨリが戻り、お義母さんの葬式の時に子供達とも再会出来ました。これ以降、カミさんと子供達は年末年始、ゴールデンウィーク、お盆休みにぐんかんの所に遊びに来るようになりました。
でも、母子家庭のほうが都合がいいとの事で再入籍はしませんでした。子供達も苗字がコロコロ変わるのもアレですし。 前は養育費だけだったのに、+αを要求されましたね。そして事実上の単身赴任仕送り小遣い生活がスタートしたわけです。
去年は転職や転勤で、家族は一度も遊びに来れませんでした。
砕けた心もつぎはぎだらけながら、復活したみたいです。
でも、寂しさでたまにボッキリ折れそうになりますが、楽天プロフィールのコメントに励まされ、何とかもっています。楽天プロフィール、始めてよかった。皆さん、本当にありがとう。
明日を生きる勇気を貰ってます。これからもぐんかんをよろしくお願いします。
以上、ぐんかんの「野暮でイナたい人生を、照れる事なく語ろう。俺の心の闇。」でした。





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最終更新日  2012.01.09 03:08:16 コメント(5) | コメントを書く


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