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手作り酵素のはなし たとえば、くだものと砂糖とやさしい手。 器の中で混ぜ合わされて ひとつになってゆく。 いつだってひとは酵素とともに生きてきた。 目には見えないけれど欠かせない大切な酵素。 がんばってきたこころと身体へ たくさんプレゼントしてあげよう。 「おいしくなあれ」の気持ちと一緒に。用意するもの素 材(りんご、柑橘類、野菜などなんでも・・・)上白糖(発酵のお手伝いをする酵母のごはん)*素材と上白糖は1:1.1を用意します。ふたつきの瓶☆失敗しない比率は、素材1に対して、砂糖1.1です。 糖度の高い果物などを使う場合は、砂糖の量を減らしてもいいと思いますが、 はじめてのときは、この比率を守ると失敗が少ないと思います。☆ふたつきの瓶を使う理由は? ホームセンターやスーパーなどで手に入れやすいので 梅酒などをつける瓶がおすすめです。 密封できるものでなくてもいいですが、 虫よけになるので、これからの時期はいいかなあ☆ ☆白い砂糖を使う理由は? 白砂糖、上白糖を使うことに違和感を抱く方も多いと思います。 わたしも普段は白いお砂糖をまったく使いません。 精製された白砂糖には不純物が混じっていないので、 発酵する過程の中で雑菌などが繁殖しにくいと言われています。 はじめての時は、白砂糖を使うのがベターだと思います。 発酵の過程で白砂糖の成分がブドウ糖に変化すると言われていて、 白砂糖そのものを摂取することになるわけではないそうです。 わたしも黒糖、てんさい糖などで作ってみましたが、 いろいろ考えて、試行錯誤をしてみた末、白砂糖に落ちつきました。 ☆さあ、作ってみよう☆1.瓶を熱湯消毒して、乾燥させる。 素材を軽く水洗いして、乾かす。 適当な大きさに切る。無農薬の素材なら皮ごと使ってください。2.出来上がったあとの実もとってもおいしく食べられるので、 皮をむいて、食べやすい大きさに切ってくださいな☆ 農薬や防腐剤がかかっていそうなものは、 皮などを取りのぞいてくださいね。3.素材の成分をたくさんしみ出させることが大切なので、 みかんなどは小袋のままではなく、横に切るなどして、 実の断面がより出るようにしてください。 わたしはめんどくさがりなのでできないけど^^ 小袋を取りのぞいて実を出して付けるのが最適ですね☆ 梅などの実は、ぷつぷつとフォークなどで穴をあけるとよいです。 もちろん刻んで入れる方が、いいですよ~☆ なんでもいいんです。面倒だと思ったら、次から作れないし。 大切なことは、自分ができる範囲で、 できることをやってみるってことだと思います☆ 4.消毒した瓶に素材(皮や種も)を入れ、 白砂糖(素材の1.1倍の量)をいれていきます。 まずは、素材、砂糖、素材、砂糖と交互に入れながら、 ざっくりと混ぜていきます。 *最後に覆うように砂糖でフタをするので、 その分の砂糖は置いておいてくださいね。 混ぜすぎると、発酵しすぎてお酒っぽくなってしまうので、ざっくり! *この素材と砂糖を混ぜて発酵が進むと、酵素ジュースになり、 その後はアルコールになり、その後はお酢になります。 酵素ジュースの段階で発酵を止めるために (それ以上発酵が進みにくくするために) 完成した酵素ジュースは、冷蔵庫などの冷暗所に保存してください☆ 5.ざっくりと素材と砂糖を混ぜた後で、残りの砂糖でフタをします。 そんなに丁寧に厳密に考えなくても大丈夫です☆ なんとなく上に砂糖がかかってる~って感じでOKですよ。 最後に、瓶のフタを閉めて、初日の作業はおしまいです☆ かんたん! わくわくしながら、眺めててください☆6.毎日、最低一度は素手でかき混ぜる。(1週間~2週間程度) はじめの頃は、下に砂糖が溜まっているので、底から上へ、底から上へ 「おいしくなあれ!おいしくなあれ!」と呪文を唱えながら手でまぜます☆ 手についている常在菌と素材の持つ酵素が仲良くなって、発酵が進みます。 これを飲むご家族全員が参加して、手でまぜまぜすることによって、 そのひとそれぞれのお腹に合った、オリジナルの飲みものが完成しますので みなさんでなかよくまぜまぜできると、いいなあ。 発酵の期間は、素材や室温によってまちまちです。 あたたかい場所の方が完成までの期間は短くなるようです。 手を入れて混ぜるときに、ぷくぷくと泡が立ってきたら出来上がり。 ざるなどで漉して、ガラス瓶やペットボトルなどの 保管しやすい容器に詰めかえてください。 発酵物なので、細菌が入らない限りは飲むことができますが、 異変を感じたときは、口にしないでください。 ☆ 大切なことは、むずかしく考えすぎないことです。 気軽な気持ちで試してみてくださいね☆ love
2012.04.12
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ゴクリ つばを飲み込む音が聞こえてしまいそうなほどの静寂。 ただなにも音が聞こえない静寂ではない。 そこでは、人のつくったものの一切が消え去って その自然の中にあるものすべてが音を立てている ゆたかないのちの静寂。 わたしのこころは穏やかになり、なんの物音もせず、 なんの心配もこころを悩ませる雑音も消え去ってゆく。 森とは、宇宙そのものなのだ。 煌めく漆黒の中、 すべてのものの音は消え去り、 壮大なたったひとつのものとなる。 森の白い雑音は その大気の中で溶け合って それぞれの語らいは ひとつのおおいなる静寂としてただ在る。 森とは、宇宙なのだ。 わたしはその森の中にあり、 宇宙のひとつの星として存在していた。 宇宙の息吹を感じながら、 わたしはエネルギーの中心部分へと足を進めてゆく。 一歩一歩、ゆっくりゆっくりと。 足元のちいさな石に生える苔、 太い枝に網を張り住まう蜘蛛、 飛び交うちいさな羽虫 あらゆるいのちたちの場に、 突如侵入するおおきな生物としてのわたし。 その前へ出す一歩ごとに、 生き物たちと交流ができるように、 彼らの調和を乱さないように そっと息を吸い、そして息を吐く。 「お邪魔します。あなたたちのスペースへ」 そんな気持ちで歩いていると 「お前はまた、思い違いをしている」 厳しい声が響いてくる。 「思い違い? 間違っている? どうして?」 「お前もまた、この森で生きるもの」 「わたしも? わたしが?」 その「声」の意味することを感じとるために、 立ち止まって、わたしは地面を見る。 大地を眺めているわたしの目は、その焦点をぼやかしはじめる。 やがて視点は裏返って目は内側を見はじめた。 宙を見る、内側を見る。空を見る、内側を見る。 「わたしもまた、この森で生きるもの」 一言一言を噛みしめるように、こころの中で反芻してゆく。 「わたしもまた、この森で生きるもの」 はじめてきたんだよ、この山には。 でも、そんなことは関係ないんだよね。 ねぇ。わたしはなにが間違っていたの? ううん、これは、あなたへの問いかけじゃなくて、 わたし自身への問いかけです。 教えてくれなくて、いいよ。 「わたしもまた、この森で生きるもの」 「ああっ」 気づきはいつも、一瞬にして訪れる。 それは、忘れていたものを想い出すこと。 「気づき」とは、ただそれだけの儀式だからだ。 すべてはひとつ。 わたしはあなたで、わたしはこのちいさな苔でもある。 この森は、わたしだ。 この地球のありとあらゆる場所、どの瞬間にもわたしは、在る。 なぜなら、わたしが地球だからだ。ね どうして、いつも忘れてしまうんだろう。 ほんとうの意味では、まだ「ひとつ」ということを 感じきっていないからなのかなあ? 「お前が、自分を信頼していないからだ。 劣っているわけでも、鈍いわけでもない。 お前自身を愛していないから、分離が起きている。 ただそれだけのことなのだ 遠くに存在し、決して手に入らないもののように、 あこがれのように口にする愛。 おまえこそが、その「愛」そのものであることを 忘れなければいい」 愛は不調和を生み出さない。 なぜなら、愛とは調和そのものだからだ。 わたしが森の中に存在すること、それを不調和だと感じるならば、 わたしは中心から外れて存在しているということにほかならない。 ただただ在る時、そこには不調和だと感じる意識は存在しない。 森は宇宙そのものだ。 そしてわたしは、宇宙の中に存在するひとつのしずく。 あのおおいなる海は、 一滴のしずくがこぼれ落ちたからといって、 乱されたりはしない。 しずくによって生まれる波紋は、 ただただ広がり海を彩る波となる。 わたしはわたしを信頼することを学ぶとともに、 森を信頼することを学ばなければならない。 「たくさんあるね、学ぶべきことは・・・」 「学びだと思うからだ。ただ、楽しむことだ。 それにはこころをひらけばよい」 優しくて厳しい、いつもわたしを見守り導く「声」 わたしたちは、どうして この「声」を聞くことをやめてしまったんだろう。 いまも、この物語をあなたが読んでいるこの瞬間も「声」は、 あなたのこころにささやきかけている。 あなたが、目をつぶり、こころを落ち着けて、 内側からわいてくる「声」に耳を傾ける その瞬間を待ちながら・・・ ひとつおおきく深呼吸をして、わたしは足を踏み出してゆく。 わたしは、森。この森は、わたし。 わたしの森。森のわたし。 わたしの地球。地球のわたし。 その概念は傲慢ではなく、もっとも謙虚なことだ。 所有でもなく、所属でもない。 わたしであることは、すべてであること。 わたしが体感したことは、あなたが体感したことだ。 何度も、何度も、このこころに、そのこころに刻み込まれるように この魂の、その魂の種火が、おおきな炎となるまで、 繰り返し語りつづけてゆこう。 元々ひとつだったものが、ある日長い旅に出て、 やっと帰ってきたかのように。 わたしは、わたしである森に参加する。2006年01月03日日記より
2012.04.09
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イザナギとイザナミの黄泉平坂の分断。それは、とても悲しい物語なの。記紀神話の中でイザナギとイザナミの兄弟の神さまは、愛し合い夫婦となり、淡路島、四国、九州、本州というこの島々を生み出す。次に神産みと呼ばれる、多くの神々を誕生させてゆく。火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)という名前の通りの火の神さまを産んだ時に、イザナミは女陰に火傷を負ってしまい、病に伏せってやがて死んでしまう。悲しみ怒りに狂ったイザナギは、十拳剣で生まれたばかりの我が子カグツチを斬り殺して、むせび泣く。最愛の妻との別れを受け入れることができずにイザナギは、死者が住む黄泉の国へ渡ってしまったイザナミを、生きている身でありながら黄泉の国へ降りて連れ戻しにゆく。光がどこからも射さない真っ暗な黄泉の国、暗闇の中でイザナギは愛しき妻に「どうか帰ってきて欲しい」と語りかける。「黄泉の国の食べ物を食べてしまったため、もとの世界には戻れないのです」というイザナミに、イザナギは「どうしても戻ってきて欲しい」と嘆願する。黄泉の国まで追いかけてきて連れ戻そうとまでしてくれる夫の想いに胸打たれて、イザナミはひとつ提案をする。「これからわたしは、黄泉の神さまにもとの世界に戻してもらえるようにお願いをしてきます。ただ、その間、決してわたしの姿を見ないでください」イザナギは愛しい妻の言葉に喜び、決して見ないと約束をして、妻が戻ってくるのを待つこととなった。けれど、いつまで経っても戻ってこないイザナミにしびれをきらしたイザナギは、髪に挿していた櫛に火を灯してしまう。ちいさな炎が照らし出した黄泉の国、そこにいたのは記憶の中の美しい妻イザナミではなく、蛆にたかられ八柱の雷神がまとわりつく異形の女神だった。「見るなと言うたに、なぜ見た!」イザナミは、約束を破り火を灯したイザナギに怒りをあらわにする。驚いたイザナギは黄泉の国からあわてて逃げ出してしまう。約束を破って火を灯し、見られたくなかった醜い姿をのぞき見たイザナギに絶望と悲しみと怒りを燃やしたイザナミは、黄泉の国の民にイザナギを追うことを命じる。多くの追跡者をかわしてイザナギは逃げつづける。黄泉平坂という、黄泉の国ともとの世界とを結ぶ場所にたどり着いた時、とうとうイザナミが追いついた。イザナギは千人がかりでなければ動かないような大岩で黄泉平坂を塞いで、イザナミが入ってこれないようにする。この岩を挟んで、ふたりは言い争いをはじめる。「愛しい夫イザナギよ、 あなたがわたしを拒みこのようなことをするのなら、あなたの国の人たちを毎日千人しめ殺してみせましょう」「愛しい妻イザナミよ、おまえがそうするなら、わたしは毎日千五百人の子どもが産まれるように産屋を立てよう」この島を生み出し、神々を産み出した夫婦は、大岩を挟んでいまだに夫婦げんかをつづけている。それ以来、黄泉の国と現世は大岩で分断されている。なんて切なく悲しい物語なのだろうか。これを書きながら、わたしの胸は締めつけられて、悲鳴をあげている。いまもまだ、ふたりはいがみ合い、ののしり合い、愛から生まれた子供たちを殺し合っているのだろうか。この物語から読み取れるのは、男と女の行き違いの悲しさ。イザナギは生者でありながらもタブーを冒して死者の国までイザナミを迎えに行ったのに、「それでもお前を愛している」と「どんな姿であっても、きみは変わらない」とどうして言ってあげることができなかったんだろう。怒り狂ったイザナミは、子孫である子どもたちを一日千人殺しつづける。イザナギは、その理由がわからないのだろう。そして、かつては愛したイザナミに問い続ける。「あなたの『愛』とは、なんなのだろう? なぜに、罪なき子どもたちを苦しめるのか・・・」 それが、イザナギの抱える永遠の悲しみの根源かもしれない。イザナミはなぜそれほどまでに怒り狂ったのだろうか。それは、愛する人には見られたくはなかった姿を見られてしまったからかもしれない。たいせつな人だったからこそ、愛するイザナギにだったからこそ、怒り狂った。そして、見られたくなかった醜い姿を見られただけではなく、真実の姿を見たとたんに逃げ帰ってしまう、夫の背中を見てしまった、その悲しみが怒りの理由なのだろう。「あなたの言う『愛』とは、一体なんなのだろう? 死してもわたしの魂はなにもかわらないというのに。 虫たちの栄養となり森に戻りつつあるわたしを、あなたは受け入れることはできないのか」 それが、イザナミの悲しみの根源かもしれない。イザナギとイザナミの子孫であるわたしたちには、この夫婦の悲しみや苦しみや痛みや傷が刻み込まれている。歴史の涙を癒してゆくこと、断層をつないでゆくこと、それがいま必要なのだろう。親神の愛憎を和解へと導き、わたしたちを分断している黄泉平坂の大岩を取り除き、すべての封印を解き放つ時なのだ。そして、もうひとつこの神話に描かれている大切なこと。それは「火」火の神カグツチを産んだことで、創造の女神は死に至る。そして、火の神は生まれてすぐに斬り殺されてしまう。一度は現世へ戻ろうとしたイザナギとイザナミを引き離す要因となったのもイザナギが灯した「火」記紀神話を描いたわたしたちの祖先は、なぜに「火」をそれほどまでに畏れ忌み嫌ったのだろうか。黄泉の国のイザナミを包み込んでいる雷神。天と地を結び、一瞬にして爆発する稲妻のエネルギー。雲を呼び風を呼び、大雨を降らせて大地を潤す雷の力。屍となったイザナミを食べはじめている蛆虫たち。すべての生き物は、ほかの生き物の屍を食べて生きている。死したものを食らうもの、食らうものをさらに食べるもの。そうして、いのちの連鎖はとまることなくつづいてゆく。いのちを終えて森に横たわり、その骸は多くのものの糧となり、大地へと還ってゆく。イザナミと蛆。米とわたし。フライドチキンとわたしでもかまわない。そこになんの違いがあるというのだろうか。生と死で成り立ついのちの循環が、この神話の中ではすべて否定されている。ここで否定されていることは、すべていのちの循環には欠かすことのできない大切なことだ。一体、誰がこのような物語をつくりだしたのだろう。これこそが、わたしたちの思考を縛る封印だ。この神話、日本人なら誰でもが一度は目にしたことのある物語。その中に、巧妙に呪縛装置が仕組まれている。大岩を、取りはずなさなくてはならない。こころの中に存在する、豊かなる地球とわたしを分断する大岩を。黄泉平坂に風を吹かせて、消えかけているいのちの火を燃やしはじめなければならない。
2012.04.06
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