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仙台の予備校生だったようですね。全く思慮が足りないとしか言いようがありませんが、カンニングに近い勉強法は、(ある意味)、私のお薦めしているところです。 どういうことかと言えば、(古典的なカンニングですが)カンニングは、まず、情報量が限られているわけです。消しゴムの裏や、鉛筆に記すにしろ、手に描くにしろ、圧倒的に限定的にならざるを得ない。 とすると、何が、重要かを判断する能力が必要です。勉強をしなければ、重要キーワードを特定できない。 さらに、特定できても、それでも、情報量は多すぎる。それらを、何らかで、抽象化して、シンボライズする必要がある。そして、そのシンボルを見ると、それがトリガーとなって、記憶から情報が引き出せるようにする。 万一、消しゴムの裏を発見されても、それが、モロ、文字でなくて、ヘンテコな記号だったら、少しは言い逃れができる(かもしれない)。 ともかく、これって、私は勉強の王道だと思う。勉強が苦手な子は、すべて文字で覚えようとする。あるシンボルから、一瞬で、映像で思いだせるようにしておかなくては。
2011.03.03
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最近、パソコンを家族が奪い合い、なかなか、更新できなくなった寅さんです。 パソコンに向かえない分、本を読んで過ごしていますが、最近、「戦略思想家事典」(前原透・片岡徹也)を開いています。その最後に、日本軍の戦略思想について、いかに、それが貧困であったかが、記されています。 と同時に、私は、そこから反面教師として科学的認識の育まれる条件を、読み取らせてもらっています。 日本軍の軍事思想は、明治42年の歩兵操典あたりから、変質しているようです。本来なら、日清・日露で直接体験を重ねた教訓から、もっとすばらしい戦略観をもって良いはずが、日本軍は、そこから、独自に教訓を抽出することが、少なかったのです。 かえって、せいぜい、外国雑誌の翻訳を通してそれを吸収したくらいです。 その頃から、既に、冷静に自己の行動を分析・反省する風土が欠落していたのです。それは、当事者への遠慮という心遣いが、厳しい批判を阻んでいました。 そして、別の誤った解釈が付け加えられていったのです。 そして、昭和3年の教育総監は、「必勝の信念」こそが、最もトップに置かれ、これこそが、戦略そのものに置き換えられていきます。 昭和16年7月参謀本部の辻政信のお言葉です。「日本軍人たる者が必勝の信念を失って任務の達成ができると思うか…戦争というものは、勝ち目があるからやる、ないからやめるというばかりではない…勝利を信じて開戦を決断するのだ…日本軍が必勝の信念を抱いて作戦すれば、必ずや勝利は我が手に帰する…勝算の有無を問題にする前に、まず必勝の信念を抱け…それが武人たるものの心がけだ…ただいえることは、勝利はこれを信じるものが勝つ」これは、一頑固親父や、教師の言葉ではないのです。日本軍の「参謀本部」の中の言葉なのです。何という「美しい」言葉でしょう。 ここに美しい言葉の危険性が表されています。 「必勝の信念」は、もう呪文になってます。これを唱えれば、見たくないものを見なくてすむのです。考えたくないものを低く評価できるのです。 昭和4年の戦闘綱要の制定に際し、教育総監部本部長は「必勝の信念を害するがごとき、有害無益の言動を慎むべきことについては、深甚の注意を求む」と議論に釘を刺しています。 必勝の信念は、相手の議論を封じる役割を演じているのです。 日本軍は、部下の将兵を無駄死にさせることへの良心の問題をついに持たないで終わりました。ベスト以上の努力をして、なお玉砕。餓死の途しか採ることのできなかった将兵の立場を殉国の一語をもって、説明できるのでしょうか?これも「美しい生き方」だったのでしょうか?帰還するだけの油をもたせずに、攻撃に出すことは武士道のどこから出てくるのでしょうか?日本の武士道は、こうも軽々しく将兵の命を扱うものだったのでしょうか? 科学的立場を彼らは、卑怯・臆病者とあざけりました。美しく生きるのは、結構です。しかし、その美しさの解釈は、人それぞれであり、複数の価値観を斟酌できる者でなければリーダーになってはいけません。 美しさを求める人は、至ってマジメです。そのマジメの裏で、多くの悲惨が、積み上げられていくのが人類の歴史が実証してきたことです。 なぜでしょう?人間の認識は、ほとんどすべてが錯覚だからです。ゆがんだものばかりだからです。この目で見たから、正しいとか、この耳で聞いたから正しいということは、言えないのです。ましてや、こう感じるから判断するなんて、責任ある者の口から出てはいけません。自己一人の認識を土台に、物事を判断してはいけないのです。 少なくとも、いつも自分の判断は、間違っているだろうという前提で行動しなくてはならないのです。 これが嫌なら、宗教の世界、芸術の世界に入ればいいのです。 「信念の魔術」という言葉がありますが、自己責任で、個人的に魔術を使うのは結構です。しかし、組織で使ってはいけないと、私は思っています。 教育は、美しい言葉を体得させることではなく、美しい言葉に踊らされない人間を育成するためにあると私は考えています。
2008.09.23
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