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もし、あなたのお子さんが或いは最愛の人が、心臓移植でしか助かる道はありませんと宣告されたらどうしますか…。 2010年7月、臓器移植法が改正され、日本国内に於いても15歳未満の臓器提供が認められようになり、移植を待ち続ける小さな患者や家族たちに一筋の光明が指した。しかし国内でのドナー提供の現状は非常に厳しい現実に置かれている。 人気テレビド ラマ「医龍3」も架橋に入っているが、朝田龍太郎のような天才心臓外科医の手を持ってしても救えない命がある。「医龍」は日本で初めて「バチスタ手術」を 実行した「須磨久善」医師を題材にして作られたフィクションではあるが、監修を須磨先生並びに順天堂大学教授の「天野篤」医師などによって、実際の医療現 場(特に心臓外科)をリアルに再現している。 ドラマの世界ではその殆どがHappy Endで終わる事が多い。心臓病に関わる専門用語もわたし等のように実際に心疾患を抱いている者にとっては、大いに参考となる番組だが、「おいおい、そこは違うだろ」的な場面は大目に見ても良く出来上がった番組だ。 心臓移植を待つ少年を救うため、自ら心臓に傷害を負った主人公…そして少年は国内で移植を受ける事が果たして出来るのだろうか… 福岡の病院に入院中の「麻生修希くん」は、僅か1歳11ヶ月。生まれ付きの心臓病の為に、これまで2回の心臓手術を受けて来たが、結果的にそれが要因となり重度の拡張型心筋症を患ってしまった。主治医は「心臓移植が助かる唯一の方法」だと家族に告げる。 酷な判断をするしかない主治医とチームの苦悩もこの移植と言う言葉だけで表現出来るものではなく、ましてやそれが最後の手段だと受け入れなくてはならない家族の気持ちは…。 保険適用外の アメリカでは、ご存知のように莫大な移植費用がかかる。わたしたち一般人が一生働いても手に入れることの出来ない金額だ。日本国内には15歳未満の移植例 は0である。国内での心臓移植を待っている時間が修希君には残されておらず、一刻一秒も早くアメリカに渡り、移植を受けなくてはならない。幸いに米国のロ マリンダ大学小児病院が修希くんを受け入れる事に内諾している。しかしながら、その前に大きく立ちはだかる現実が費用の算出問題。修希くんに必要な移植費 用は1億5千万円…途方もない金額である。 助かる命が金で買えるという現実は皮肉なものであるが、修希くんの持つ無限の可能性をわたしたち一人ひとりの力で支えて行きたい。 わたしは12月1日、三井記念病院に心不全のため入院しますが、このような体調の悪い時に修希くんの事を知ったのも、眼には見えない縁とエネルギーが作用しているのだろうと、わたしは思っている。わたしの命はともかく、今最優先するのは「修希くん」の小さな命。 みなさん、どうか力を貸して下さい。小さな命を守るため、みなさんの仏心をお貸し下さい。よろしくお願い致します。 (修ちゃんを救う会公式サイトはこちらです。)↓ http://syu-chan.com/index.php
2010.11.30
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まず始めに、この映像はフィクションである。 23日、北朝鮮が延坪島(ヨンピョンド・韓国領)に向け砲撃を繰り返し、韓 国軍と北朝鮮軍との間に緊張の糸が走った。韓国側に兵士も含め民間人にも死者が出ている。北朝鮮側のニュースは殆ど伝わって来ないが、相当の犠牲者が出て いると思われる。 北朝鮮の挑発行為もここまで来ると「テロ」と全く変わらない。人の背中を後ろから切るような卑劣な行為は断じて許してはならない。 北朝鮮のバックに見え隠れする中国やロシアの影がある為、アメリカもイラクを叩いた時のようにはいかず、相手の出方を見守る程度に留まっているが、演習と称して原子力空母「ジョージ・ワシントン」を南シナ海近辺に派遣し、圧力を掛けるようだ。 朝鮮戦争は中国とアメリカの代理戦争であり、双方も戦火が更に拡大し本格的な第二次朝鮮戦争勃発などという事を計算には入れていないだろうが、何をしでかすか分からない北朝鮮であるから、有次に備え準備しておかなければならない。 当然ながら日本も自衛隊の出動となる訳だが、そうなると憲法9条の改正が必要となるだろう。戦争勃発につては映像を見て頂ければ、一目瞭然。このシミュレーションが現実にならない事を祈るばかりである。
2010.11.26
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お月さま お月さま わたしとおんなじ一人の お月さま わたしマフラー編んでるの 今年の冬まで 間に合うように 母さん お風邪を引かぬよう 一生懸命編んでるの お月さま お月さま 見ててもよいけど 完成するまで内緒だよ だあれに言ってもいけません お月さま お月さま 学校行くより楽しいの お家でひとり マフラー編んでる方が楽しいの でもでも わたし 完成まえに 自分の首に巻いちゃった 細い細い首に巻いちゃった そしたら手編みのマフラーが わたしをお空に連れてった 遠い遠い空に連れてった お月さま お月さま わたし 今 あなたの隣にいるんです
2010.11.15
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NHKが主催する中高年バンドの祭典「熱血!オヤジバトル」も今回で14回目を向かえる。回を重ねるごとに多彩なオヤジバンド、ミュージシャンたちがステージ上で熱演を繰り広げて来たが、今年はわたしの友人である「江戸川レノン」こと石井ひろあきさんが、オリジナル曲「僕が生まれて来たのは」でエントリー。 一台のパソコンで一票投票可能。第一次投票は11月7日の23:59分締め切り、第二次投票は一次の上位10バンドに絞って11月10日の夕方から17日の23時59分締め切りで1バンドがネット選抜枠で決定。NHKが別途選ぶ数バンドと地区大会出場となります。 石井さんの動画・投票アドレスを下記に記して置きますので、皆さんからの応援、投票をお待ちしております。ブログにアップしている映像は今年4月25日、瑞江駅近くの「ハックルベリィ」にて収録したものです。 http://cgi2.nhk.or.jp/oyaji/selection/vote_east/band.cgi?pid=109
2010.11.04
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夕陽が溶け込む砂漠の公園で 少年が独り ブランコに揺れていた 影は何処までも長く 待ちくたびれて 飛ばしたズックは 砂に埋もれて戻らない 置き去りにされた悲しみを 揺れるブランコがなだめても 砂漠を抱いた少年の 心の乾きは癒せなかった
2010.10.09
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第35回江戸川区花火大会が8月7日、江戸川河川敷で行われた。約14000発もの花火が夜空を乱舞するこの大会は、国内最大級の花火大会である。 東京と千葉をまたぐことから観衆は約150万人にまで上り、会場近くの篠崎駅付近はこの日だけ別次元へと変貌する。同じ日に板橋花火大会もあり、わたしの住む西台駅も同様に浴衣姿の若い女性やカップルの姿が目立った。 わたしにして見れば江戸川区は古巣であり、家族4人で暮らした地。瑞江駅から徒歩12分程度の所にマンションを構えていた。地理的に言えば、南篠崎と谷河内にまたがる場所だった。江戸川河川敷きまで足を伸ばしたのは10年ぶりだろうか。 石井ひろあきさんと篠崎駅で待ち合わせをするも、神保町辺りから既に都営新宿線は大混雑。平日のラッシュ時を遥かに上回る満員電車の中で、身動きが取れないのと人の熱気でクーラーは役に立っていなかった。 篠崎駅に到着するも、大混雑で前に中々進めない。石井さんと携帯で連絡を取り合いながら、やっとの思いで花火会場へと向かった。 この混雑の中におそらく娘もいるのだろうと思いつつ、家族4人で自転車を漕ぎながら篠崎へ向かった日のことを思い出していた。 予定通り19時15分、暮れかかる昼間の余韻を残した空に、待ちわびた大観衆の拍手と歓声に迎えられて花火の乱舞が始まった。 今年この花火大会を友人や何処か近くにいるであろう娘と共に見られたことを感謝する。世の中の全ての災いも不幸もこの花火が消し去ってくれる。江戸川に浮かぶ屋形船の輪郭が提灯の灯りで揺れている。そして花火の音が心の奥に木霊し、人々の幸せを打ち鳴らす。 大会の終わる30分ほど前に会場を後にして、篠崎駅近くのバーミヤンで石井さんと花火のことや音楽のことなどについて語り合った。 来年もこのような幸せに満たされるようにと、群集の中に紛れて家路に着いた。ところで、この映像の中に未確認飛行物体(UFO?)が写り込んでいるのだが、それに気付いた人はいただろうか。
2010.08.26
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1945年(昭和20年)1月9日、神戸信夫(父13歳)は、自宅近くにある蓮正寺の境内で日向ぼっこを楽しんでいた。 戦時中の正月がどのようなものであったか定かではないが、食料の配給下では満足に腹を充たす事など皆無ではなかったかと思う。 藤枝では有数の資産家だった神戸家にとって見れば、戦争の影響による衣食住に困窮する事は全く無かったが、家族二人が南方へと出兵し帰らぬ人となっている。この二人の戦死は後に神戸家衰退の大きな要因となった。 日当たりの良い境内に胡坐をかき、高級もののタバコに火を点け一点の陰りもない正月の空を仰いでいた。この頃から不良少年だった信夫は町内のガキ大将で有名だった。 朝の静寂を切り裂く空襲警報が町中に鳴り響き、青い空を恐怖で震えさせる。神戸家はお稲荷さんを祭っており、その裏側に家族全員が入れる防空壕があった。 藤枝市(旧藤枝町)の片田舎にも米軍爆撃機B-29が飛来したのである。東から西に飛来した1機のB-29は5発の爆弾を投下し去って行ったが、その目的は単に機体を軽くするためだったという。 この空爆で藤枝町役場の職員十数名が犠牲となった。一発の爆弾が落ちた場所は、藤枝市役所の直ぐ脇であり、そこは戦後埋め尽くされることもなく戦争の傷痕として残されたが、いつしか湧き水によって鯉が数十匹泳ぎ、夏にはここで水浴びを楽しんだり、釣りをする子どもたちの憩いの場へと変わっていった。 子どもの頃、父からこのような戦争の話をよく聞かされたが、当時(昭和30年代)の子どもたちの間で流行っていたのは「戦争ごっこ」。ただし、太平洋戦争ではなく「日露戦争」「日清戦争」が遊びのモチーフになっていた。負けた戦争より、勝った戦争で遊べと大人から言われていたのかも知れない。 そしてやはり子ども時代によく口ずさんだ歌が「軍歌」だった。「ラバウル小唄」「麦と兵隊」などは強く印象に残っている。そしてもう一曲が「酋長の娘」、こちらは軍歌ではないと思われるが、当時のわたしはこの曲も軍歌だと認識していた。詞の内容がそのように思えたのである。―わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人― この歌は「酋長」の部分が好ましい表現ではないとされ放送禁止歌になっており、現在歌われることはない。 今年65回目の終戦を迎えたが、この戦争に直接間接を問わず多くの人間が関わって来た。人によっては、いまだ戦争を終わらせることが出来ず、悩み苦しんでいる人たちも多い。わたしたち現代人の生活の中にも戦争の影を垣間見ることがある。 子どもたちがプールや風呂場で戯れ遊ぶ時に使う「水鉄砲」や冬になれば厚手のコートを羽織って外出するが、これは軍服がモチーフとなって今に至っている。人間同士が殺し合う戦争は絶対に避けるべきであるが、それ以外にも戦争と呼べるものは多くあり、いまだに「万歳」を叫ぶ日本人がわたしには理解不可能。 戦争からわたしたちは一体何を学んで来たのか、本当の戦争の姿は何処にあるのか、もう一度歴史を振り返りつつ、後世に戦争の有り様を残し伝えて行かなくてはならない。
2010.08.16
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年々増え続ける児童虐待が今年最多とうい「子ども受難時代」が本格的に到来したようだ。明るみになっている数字は氷山の一角に過ぎず、隠れ虐待が日常的に日本の至る所で起こっており、子どもの発するSOSが途絶える事はない。 子どもの背中にライターで火を点けたり、小さな木箱に人形を押し込むように閉じ込めて殺してしまったり、子育てが嫌になり放置した若い母親など虐待のパターンは様々であるが、最も悲惨な事は幼い命が紙くずのように奪われることだ。 アルコール依存と同じで、虐待もまた依存という心に巣食う闇の病気であり、救うべきは子どもではなく、元凶の親である。 一時的に子どもを保護したとしても、いずれまた親元に戻り再び虐待の日々に晒されることとなる。それをわたしは幼少時に嫌と言うほど味わって来た。 酒を飲むと必ずわたしに暴力を振るう父。酔った父に対する恐怖心がピークに達したのは、初めて「殺される」と思った夜のことだった。 父の右手にはわたしの頭ほどの大きさの石が握られており、酒で崩れた真っ赤な顔は鬼の如く頭には角が生えているように見えた。 その鬼が石を持ちながらわたしを追いかけ回す。わたしはまだ小学4年生で、どんなに抵抗しても大人の男の力に敵うはずもなかったが、それでも必死で抵抗を試みた。 殴られ蹴られながら逃げ回り、泣く暇もなかった。恐怖が身体を突き抜けると悲鳴も止まってしまう。「家の中にいたら殺される」そう思うと、障子戸を蹴破って裸足で裏庭に出た。足の裏に突き刺さる小石などはどうでもよく、わたしが逃げ込んだのは「服部さん」宅だった。 顔を血だらけにして行き成り飛び込んで来たわたしに、菊枝おばさんは唖然としていた。わたしは「博ちゃん」の勉強机の下で丸くなり震えていたそうだ。 父が刑務所に入っている間は、親戚の家で世話になる。三食小遣い付き、しかも毎日お弁当を食べられるから「登校拒否」にもならずに済む。 父からの暴力を心配する必要もない日々は、本来の子どもの姿に戻れる一時だった。父が刑期を終えて出所する日が近づいて来ると、複雑な心境になった。 父に会いたい反面、父との暮らしが、またあの辛い日々が始まる・・・そう思うと実にやりきれなかった。わたしを助けるよりも荒れ狂う父を何とかして欲しい、それが本音だった。 ネグレクト(養育放棄)こんな言葉が普通に使われ始めた世の中で、大人たちの責任を検めて問い直してみる必要が迫られているのではないだろうか。
2010.08.08
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蛍を捕まえて来てと 君が泣く 今は冬だからと 君の傍らに寄り添い なだめてみるが それでも君は 蛍を捕まえて来てと 涙で訴える 冬の瞬く夜に出て 夏を探しに出かける 冷たいベッドに沈む 君のために 蛍を探しに出かけてみる 凍てつく空と 枯れた地上の間に 埋もれた夏を 見つけるために そうしないと 君が 蛍になってしまうから 蛍の啼く夜には もう 帰りたくないからね
2010.07.28
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詩人・歌人である葛原りょう氏に始めて会ったのは2009年4月27日、吉祥寺のライブハウス「曼荼羅」だった。 ライブの後、交流会も兼ねた二次会に参加し、葛原氏の隣に席を設けた。彼の詩に対する思いや精力的な活動に圧倒されつつも、わたしと彼との間に多くの共通点がある事を発見し、「詩人・葛原りょう」を更に深く知りたくなった。 彼の紡ぎ出す言葉の力は、日本語が元来持っている「美」を「怒り」「悲しみ」「喜び」に置き換え、正当な日本語として、圧倒的なまでの迫力で表現する彼の手法に心を打たれたのである。 「出版社を作りたいんです…」 思いも寄らぬ彼の言葉にわたしはビールを零しそうになったが、30歳というこの青年が持ち続けて来た、おそらくは彼の「夢」であろうと思われるその大胆さに、自分が非常に小さい存在に思えてならなかった。 ―詩は消費されたがっている。一部詩人の占有物でなく、普遍に、当たり前に暮らしている人々の心に寄り添いたがっている。読まれたがっている。― これは、彼自身の言葉であるが、わたしも実際に詩集を出版してみて、日本に於ける「詩」の現状に落胆を隠せないでいた。 欧米と違い日本は仏教の国であるが故に、詩の歴史そのものが非常に浅い。現代詩の書き手たちは自分の懐から出ようとせず、内なる世界で難解な言葉遊びで自己満足している。 表現者として大衆の面前に自分をさらけ出すことに躊躇しているばかりだ。例えば聖書は最高の詩集であるだろう。神の言葉は全て詩として表現されている。 そしてインディアンの言葉に耳を傾ければ、それは星を物語り、山や河を越えて、海の果てまで届いて行く。 「詩の回復の試み、自らの役割」と言う彼の宣言に、わたしは共感し出版社の立ち上げに賛同・参加を決めたのである。 主な賛同者に、角川春樹、新川和江、白石かずこ等がおり、このプロジェクトをなんとしてでも成功させたいと心から願っている。 現時点での執筆確定者はわたしも含め23名ですが、更に多くの参加者・賛同者を求めたく、記事を公開致しました。 短歌、俳句、川柳、小説、絵画、写真、漫画…ジャンルは問わない。 創刊号120ページ(カラー20ページ) A5判 定価1,000円。 ISBNコード付き。 原稿締め切りは8月15日必着、9月末刊行予定。興味を持たれた方はまずわたし宛にメールを下されば、詳しい内容を記したパンフレットをお送り致します。
2010.07.17
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財団法人 日本相撲協会は名称を改め、本日より「大日本賭博協会」と致しました。 日本人力士がどうして弱いのか漸く分かった。外人力士が強すぎるとばかり思っていたが、それはわたし の買被りだった。 野球の試合結果ばかり気になる力士たちは、稽古や勝負に全く実が入らなかったようだ。本来の相撲は そっちのけで、野球賭博に骨身を削る力士や親方たちに愛想を尽かしたのは、わたしたちだけでなく、最も大切なスポンサーまでもが、ソッポを向いてしまった。 自業自得と言えばそれまでだが、前回の記事で、「NHKが放送を自粛すればよいと」提案した事が現実 となり、相撲離れが加速する一方だ。横綱白鵬にまで飛び火した賭博問題は、白鵬自身が花札賭博に手を染めた事が、彼自身の言葉で明るみに出たが、ギャンブルの怖さは、最初は遊びのつもりで始めた賭け金が気づくと万単位になり、更にエスカレーとして行き、万 札が何枚も宙を飛ぶ結果となる。 ギャンブルは覚せい剤的な依存性があるから、場合によっては一家離散というケースが幾つもあり、人生 を台無しにしてしまったという話しをよく聞く。 今回の件で、悪質性が最も高い元大関琴光喜と、元大嶽親方が解雇という処分になったが、後の関係者は 謹慎処分と減俸という、生ぬるい処分に留まっている。 歴史の長い国技と言われる相撲道に、取り返しの付かない最も不名誉な汚点を残してしまった事に対し、 理事会の「名古屋場所開催」の開催は恥の上塗りに他ならない。 相撲をやっている場合か?本当に猛反省しているのか?と言った疑問が全く解消されていない。野球賭博 の全貌解明も未だに出来ていない状態での場所開催は、理事会の傲慢そのものだ。膿を出し切らない内は、やはり名古屋場所を中止し、その時間を徹底解明に当 てるべきである。 もちろん、名古屋場所を楽しみにしている相撲ファンも大勢いるが、中止したとしても理解は得られる筈 で、暴力団との決別が明らかになった時点で出直す事が、ファンに対する礼儀でもある。 数十人近い力士が土俵に上がれず、天皇杯や外部からの表彰も辞退する事になり、そのような状態でまと もな場所を開催出来る筈がない。 ここまで名古屋場所開催に固執する相撲協会の考えは理解に苦しむ。開催すべきという意見も一部にあったが、やはり中止する勇気を持つことこそ、真の相撲道には必要なことであるだろう。 スポーツには全体責任という言葉があうように、一人の失態は全員の責任という、徹底した管理と規律を 重んじるのであれば、責任を当事者だけに押し付けてしまうのは、自浄作用とは程遠い内容であり、改めて相撲界の特異な体質が根深い事を裏付けるものである。 今回の野球賭博問題を受けて、外部有識者による独立委員会も設置されたようだが、メンバーに些か疑問 が残る。 彼ら全員が相撲界とは利害関係のない人物かどうかである。各メンバーの肩書きなどを見ても、本当に正当な機能を果たすのか疑問が拭えない。 いっそのこと相撲協会を株式会社にしてしまった方が、自浄作用は働くのではないかと思える。そうなる と相撲は国技と呼べなくなるが、「国技」に拘る必要は既に残ってはいない。 すべてを一新して再スタートを切るのであれば、そのくらいの大改革が必要ではないだろうか。
2010.07.14
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「このタイミングで消費税を口にするのはまずいだろう…」小沢元幹事長が苦虫を潰したような顔をして呟いた。菅総理が自ら消費税10%に言及した事で、参議院選挙の行方に民主党幹部たちから溜息が漏れている。過去の例から見ても、選挙戦に「消費税」を掲げた自民党は常に敗北を帰して来た。財政難に喘ぐ日本は借金の穴埋めに消費税を導入し、国民にそのツケを回してきたが、その目的は果たされず、借金は減るどころか益々増え続け、挙句の果てに景気後退と異常なまでのデフレに見舞われて、底なしの不況にまみれることとなった。出口の見えないこの状況を打破するには、税金の無駄を無くし、スリムな国家体制を整える必要があった。そして始まったのが「事業仕分け」であったが、それが功を奏するには数年の歳月がかかる。最も効果的なのはやはり「増税」で、国民に負担を押し付けてしまうのが手っ取り早い確実な方法であるが、民主党内で「消費税」についての扱いが吟味されていないまま、菅総理の増税発言が一人歩きし始め、選挙にマイナスイメージを植えつけてしまった。選挙の争点が「消費税」ばかりに向いてしまうのも政治バランスとしては、あまり好ましくない。人間の身体と同じで、国も歳を取るし老体化する。血気盛んな若かりし頃の勢いは既になく、現状維持もままならない状況下で、日本列島に栄養が行き渡らず、一極集中型の経済には景気回復の兆しは見えない。少子高齢化がもたらす、医療と社会保障制度の崩壊が既に始まっていると言うのに、税金の使い道さえ、定まらない政治に日本を建て直す力などある筈がないと思う。政治家全員が頭を丸めて修行から出直した方が良さそうだ。
2010.07.02
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以前アップした「こんにちは、お相撲さん」の中で、琴光喜と野球賭博については既に語っているが、あの時の彼は野球賭博関与に対し、完全否定を貫いていた。ところが、僅か一ヶ月余りで手の平を返したように関与を認め、更には琴光喜以外にも多数の力士が賭け事に手を染めていることが発覚。数十人以上の関与が明るみに出ている以上、関与した力士全員の名前を公表することが相撲協会の責務である。部屋ぐるみでの関与が明るみに出たことで、角界は一気に夏を迎えることなく冬の時代へ突入。野球賭博と言えば思い出すのが「黒い霧」事件。1969年~1971年にかけて起こった、日本プロ野球の八百長試合のことである。この野球界最悪の醜聞で数名の選手が永久追放となった。この厳しい処置と比べると相撲協会は力士たちに対し、非常に甘い。厳重注意か「名古屋場所自粛」程度で蓋を閉めて終わりにしてしまうようであれば、多くの相撲ファンを失うことになる。横綱の品格を問われ、事実上角界を追放された「元横綱朝青龍」への対処と比べてみても、一人の首を切って安泰を手入れるという、全体主義の最たる見本だ。野球賭博だけでなく、賭けマージャンや花札等が日常的に行われていたことも伺える。親方は弟子が可愛いのではなく、恐いのいだろう。だから見て見ぬ振りをするか、注意はするものの「バレなければいい」と言う、品格などとは全く逆の立場で土俵の外は無法地帯。品格とは何かと問われて応えられる相撲関係者はいるのだろうか。モラルなき相撲道の今後は俵が荊に入れ替わり、それを踏むのかどうか相撲界全体に重く圧し掛かっている。関与した力士全員を引退させれば、相撲はその時点で長い歴史を閉じることになるやも知れぬ。しかし、「うみを出す」と宣言しているのであれば、それも覚悟して徹底的に調べあげ、場合によっては相撲教育の一新も必要かと思うのだが。この際NHKも相撲の放送を自粛したらどうかと思う。暴力団と相撲界の繋がりは今始まったことではなく、その歴史は意外と長い。相撲に限らず芸能界や音楽界そして政治家、宗教団体、NPO、と関係を持つ組織は至るところに転がっている。警察でさえ、場合によっては暴力団を利用し犯人逮捕や情報源として彼らを野放しにしている。つまり、暴力団は必要悪だと言えるかも知れない。だからこの地上から暴力団が消え去ることはないのだ。父が生前話していた中に相撲の地方巡業の話題があった。父の所へ相撲巡業担当者らしき人が訪れ、何やら頼みごとをして行ったことがある。それから数日経ってから舎弟分が数人父の元に訪れ、相撲の話しをしていた。わたしの幼い記憶では場所のことだったと思う。神戸家はわたしが産まれる以前に関取専用の旅館を営んでいたことから、相撲については祖父が非常に詳しかった。幼いながらも何故相撲の相談を父にして行ったのか、なんとなくではあったが理解出来た。更に暴力団の資金源になっているものが、違法行為なものばかりだと思ったら大間違いである。わたしたちが普段利用する自動販売機でさえ、その売り上げの一部が暴力団に流れているのだ。つまり、わたしたちは気づかない内に暴力団へ資金提供しているのである。裏の世界は非常に奥深く、闇の中に幾つもの闇が蜘蛛の巣のように張り巡らせれていることをお忘れなく。
2010.06.27
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小惑星探査機「はやぶさ」が7年の歳月を経て、漸く地球へと帰還した。はやぶさ本体は、大気圏でその命を待ちわびた多くの人間にその雄姿を見せる事なく燃え尽きた。60億キロという、孤独な宇宙空間を旅した彼の思いは計り知れない。小惑星イトカワに辿り着くまでには様々なトラブルに見舞われつつも、全人類の期待を一身に受け期待を裏切る訳にはいかない彼の孤独と、それを上回る信念が多くの技術者に支えられながら、母星「地球」を最後に一目みようと必死の努力を積み重ね、帰還したのである。イトカワの岩石がどれほど重要であるか彼は十分理解していた、だからこの任務は自分の命を掛けたプロジェクトでもあったのだ。月より遥かに遠い天体「イトカワ」はおそらくそんな彼の行動に感激し、岩石の採取に惜しみない協力を提供しただろう。この帰還は愛犬が数千キロ離れた飼い主の元に戻るという姿にも似ている。だから人を感動の渦に巻き込むのであろう。宇宙のすべてが命であるように、わたしたちは「はやぶさ」通して、守るべきものが何であるかを痛感したに違いない。この映像はあなた自身がはやぶさになり代わって地球を思う気持ちを表した、もうひとつのラブストーリーである。オーストラリア南部の上空で燃え尽きたはやぶさに「お疲れさま、ありがとう」と賛美の言葉を掛けてあげようではないか。
2010.06.21
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菅新内閣の顔ぶれが決まり、新内閣がスタートを切った。 次の選挙までの単なる中継ぎで終わってしまう事のないよう、菅総理にお願いするのは、長期政権でいられるよう努力して頂きたい。 野党からは誹謗中傷めいた声が聞こえるが、それは羨望の裏返しだから気にすることはない。 わたし個人はこの内閣に期待しているわけではないが、日本が安定する為には安定した政権が必須。 それにしても鳩山前総理が辞任する直前の支持率21%が菅総理誕生とともに60%まで急上昇するという極端な数値の動きは、如何に政治が混乱の最中であるかをはっきりと示している。 これが株取引だったら、売り買いのタイミングが実に分かり易く大儲けするところだが。 入閣者の顔はそれほど際立った部分はなく、鳩山政権をそのまま引き継いだ 形であるが、事業仕分けでその手腕を発揮し注目を浴びた蓮舫氏の起用と、小沢よりの議員を排除した部分がいかにも脱小沢を前面に出し、生ま れ変わった民主を国民にアピールする形となっている。 政治の中身はそう簡単には変わらないし、じっくり時間をかけて煮込んで行かなければ、その素材の持つ旨みを引き出すことは出来ない。 つまり料理と同じことなのだ。 電子レンジで「チン」して出来上がりのようなインスタント内閣・政権で終わることのないよう努力して頂きたい。 短期間で答えを出すことは容易ではないから、野党や外部の人たちの意見にも耳を傾け、様々な意見の長所を集約して最もよい方法を選択すれば、沈みかけた日本が浮上するのもそう遠い話しではないと思う。 政治家が政治に対し信念を持ち努力を惜しまず仕事を続けて行けば、国民もあなた方の出した答えに 「ノー」とは言わないだろう。 それにしても影の薄い自民党の低迷ぶりにも困ったものだ。 民主党がだめだからやはり自民党に…と言う訳には全くならない 現実。 ここまで自民党が落ちぶれてしまうとは正直思わなかった。
2010.06.11
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感染の拡大が止まらない口蹄疫のニュースが滝のように毎日流れる。 発生から一ヶ月以上が経過した頃になって漸く宮崎の地を訪れた鳩山前総理だったが、知事に掛けた言葉はどこか虚ろで他人事のように見えた。 言葉では有難く受け止めている総理の訪問であったが、東国原県知事の心中は穏やかではなかっただろう。 宮崎を追い越し沖縄への訪問は普天間問題が最優先だという事の表れに他ならない。 もちろん、一国を代表する人間となれば仕事は山積み。 聖徳太子でない限り仕事に優先順位をつけなければ先に進む事は不可能。 宮崎の問題は赤松農林水産省の担当であるから、総理自ら手を下す事はないにしても国で発生した混乱を統治する決定権は総理にあるが、この時の鳩山氏に判断を仰ぐ事は些かたじろいでしまうだろう。 苦しんでいるのは何も家畜業者だけではない。 毎日ワクチンを打たれ、不安に怯え震えている牛や豚の姿。 悲鳴にも似た泣き声が豚舎や牛舎に響き渡っている。 彼らの流す涙を君は見ただろうか? 家畜たちは自分の運命を自分で決める事は出来ない。 人間たちに作りあげられ、改良され、ホルモン剤を打たれそして丸々と肥えて行く。 その先に待ち構えている運命さえ知らず貪るように餌を食べ続けるのだ。 大量に処分された豚の屍が穴に放り込まれて行くのを見た時、わたしはナチスのユダヤ人大量虐殺を思い起こし、実に不快な気分になってしまった。 マスコミよ、ニュースを垂れ流すのも、真実の姿を見せるのもよいが、せめて一言でよいから死にいく者の命に弔いの言葉を掛けてくれ給え。 PS:義援金詐欺なるものが横行しているようなので、募金の際は十分注意した方が良いと思われます。
2010.06.05
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普天間移設問題は、与党野党そして国民をも巻き込んだ政党間の 戦争と言ってもよい。 基地移設が辺野古に舞い戻ってしまったのはアメリカの思惑に 「ノー」と言えない日本の弱みがあるからであると同時に、沖縄が日本に返還されたのは形式だけに留まっていると言う事の裏返しであるだろう。 沖縄の基地問題を根本的に解決しようとするならば、「ポツダム 宣言」にまで言及しなくてはならない。 日本が戦争に負け、「無条件降伏」したことを忘れたわけではな いから、過去の忌まわしい呪縛から解き放たれる事が出来ないでいるのだ。 罷免された福島瑞穂氏と鳩山総理とでは根本的に思想の違いがあ り、社民党を背負う福島氏が署名を拒否するのは、辺野古の地名が上がった時から既に分かり切っていた事である。 福島氏にして見れば、辺野古の署名は政権離脱の「踏み絵」も同 然。 天草四郎ほどの力量と実行力はないにしても、一波乱起こす位の 度胸はあったということであるが、これも結局のところ先に控える選挙の票取りが見え隠れしていることも事実であるだろう。 全国の知事を一同に集めて、普天間問題の解決策と現状に対する 理解を求めた鳩山氏であったが、批判する人間ばかりで、焼け石に水状態。 この問題を自分の事として真剣に模索する人間の一人もいなかっ た事は、面倒な事は全て国のトップである人間任せという、非協力的な政治家の集まりを露呈したようなものであった。 誰一人として沖縄人の気持ちを汲み入れ、問題解決に向けて提案 する者のいないこの国の政治とそして将来は他力本願と強い依存心で凝り固まっているようにも見える。 化けの皮が剥がれた政治家たちと、自分の立場でしかものを言え ない懐の浅い者たちに日本を動かす原動力は残っていないだろう。
2010.06.02
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千秋楽を待たずして早々と優勝を決めてしまった白鵬であるが、彼の強さだけが際立った夏場所だったと言えようか。 朝青龍が土俵を去った後、一人横綱として大相撲を牽引して行かなければならないプレッシャーがあるにしても、横綱が強すぎるのかそれと も他の力士が弱すぎるのか…。 この夏場所は特に波乱もなく淡々と勝負が進み、いつの間にか13日目を迎えた時点で、あっさりと優勝を決めてしまう白鵬。 琴欧州との一戦はそれでも見応えはあったものの、やはり粘り強さで定評のある白鵬の前に力尽きた琴欧州。 それにしても、結局のところ土俵を湧かせているのは外人力士たちばかりであり、大関に昇進した把瑠都がどこまで優勝戦線に食い込むか注 目を浴びた場所でもあった。 そんな外人力士の話題ばかり目立つ中で、相撲ファンを喜ばせる唯一の話題は、魁皇の1000勝達成だっただろう。 元横綱・千代の富士に続く史上二人目の記録は見事であり、相撲の歴史をまた一つ塗り替える予感を感じさせる大記録である。 このようにベテラン力士が頑張っている中で、若手力士たちの低迷ぶりに相撲ファンから落胆のため息が聞こえてきそうである。 相撲界の人材不足も深刻であり、国外に人材を求めるのもやむを得ないが、一昔前のような力士の育つ土壌が失われつつあるもの事実であ り、それが相撲の国際化に拍車を掛けているのだろう。 金髪や茶髪のマゲに違和感さえ抱かなくなってしまい、最近では日本人よりマゲが似合う外人力士たちの台頭に危機感さえ覚えないというの は、日本人の相撲が失われてしまった事に対する嫉妬ではないだろうかと思ったりもする。 日本人力士で一番強いのは一体誰なんだろう…。 この際、日本人力士場所を新たに作って争ってみては如何だろう。 そうすれば少しは発奮してやる気を出す力士が増えるかも知れない。 ところで、某週刊誌のネタにされている琴光喜の今後が気になるところ。 野球賭博に手を染めた事が事実であれば、土俵外での乱闘騒ぎでは済まされない相撲界の汚点がまたしても相撲道を汚すことになる。 朝青龍が去っても相撲界の闇は消える事はないのだろうか?
2010.05.29
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「総 理・・・、九州方面で感染が確認されたようです」 「感 染?何の感染?インフルエンザはもう終わっただろう・・・」 「い え、総理、どうも家畜のようなんですが・・・」 「家 畜?鳥インフルか・・・」 「い え、それがどうも口蹄疫のようでして・・・」 「口 てい疫??聞いたことないねぇ、新種か」 「ま あいい、専門家に任せておいてくれ、わたしは普天間で手一杯だ」 「何 か問題が発生したら赤松君に回してくれ」 こ んなやり取りが首相官邸であったかどうかは別にして、ウイルスの強襲を受けた宮崎県の畜産農家から悲鳴が届く。 家 畜伝染病に指定されている口蹄疫(こうていえき)だが、専門家や業者でなければこの名前を知っている人は非常に限られると思う。 わ たし自身も今回のニュースで初めて耳にしたのだが、家畜を生業とする人たちにとっては致命的な伝染病のようだ。 口 蹄疫に罹患した牛や豚は発見されしだい殺処分されるという。 こ の病気の特徴は非常に伝播力が強く、幼獣にいたっては高致死率という、おそろしいほどの破壊力を持つウイルスである。 問 題が起こる度にその対応が遅いなどと批判を受けるが、政党が変わってもその対応振りは変わらなかった。 こ れは役人や政治家全体に広がる危機管理意識の低下や欠如であって、責任の所在云々以前の根本的問題だからなお更始末が悪い。 口 蹄疫に最も有効だと言われる消毒剤「ビルコン」であるが、本数が大幅に不足しているため、ワクチンとビルコンの確保に翻弄されていて、実際に防疫が完了す るには随分先の話になりそうだ。 口 蹄疫に関するニュースはこれまであまり話題に登っていなかったが、感染がここまで拡大してしまうと、さすがに沈黙と言う訳にはいかなくなる。 先 日、ニュースに登場していた東国原知事の引きつった表情が、混乱と暗雲垂れ込む宮崎の現状をよく映し出していたと思う。 報 道の垂れ流しも困るが、抑制することもある意味では必要かもしれない。 被 害が日本全国に及ぶような事になれば、わたしたちの食生活も大きく変化する事は避けられない。 黒 マグロだけでなく、牛や豚肉まで簡単に食べられなくなる時代がやって来るとしたら・・・。 免 疫力が低下しているのは人間だけではなかったという事でしょう。
2010.05.24
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母の日が来ることを 待ちわびたまま 少年は いつしか大人になった 思い出せない子守唄を 口ずさみながら あなたの乳房に 夢を見る 大人になっても 停まった時間は 幼子のまま 聞こえぬ子守唄を 待っていた 寝息も立てずに 待っていた
2010.05.16
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決着どころか益々混迷の度合いを増す普天間基地移設問題は、宇宙人鳩山総理もお手上げ状態。 先日の徳之島でも完全拒否されたが、これは既に分かり切った上での訪問で、自分の努力を国民にアピールする為のパフォー マンス。 普天間基地移設は日本とアメリカそして、中国・ロシアとの軍事バランスを含んでいるので、厄介な代物だろう。 仮に自民党政権下であっても答えを出すのは簡単ではなく、同じように県外と県内を行ったり来たりで、県民を納得させるだ けの材料もなく、反発のみを招き結果支持率は急降下する。 この問題は民主党鳩山政権だけの問題と捉えるのは無責任な話しであり、国の防衛を左右しかねないリスクを伴う問題である から、野党も批判するだけでなく、無い頭を振り絞って協力し合うのが本来の政治である。 これは基地移転にのみ拘っているところに大きな落とし穴がある。 それ以前に提案する問題はある筈で、極論を言えば、問題となっているヘリコプター部隊を無くしてしまえばよい。 つまり軍事削減である。 イラク・アフガン戦争で、アメリカは在庫武器を一掃したから、新たに兵器を量産し軍需産業によって経済の上昇を企んでい る。 日本がそれに加担する必要は何もなく、核兵器削減ばかりを訴えるオバマ大統領の腹のうちは、後退する景気に歯止めを掛け る手立てを探ることで手一杯である。 アメリカにとっては基地が何処に決まろうと大した問題ではなく、日本に金を使わせればそれで満足なのである。 さて、沖縄再訪問を控えた宇宙人鳩山総理は、この問題について最後の切り札を使うのだろうか。
2010.05.12
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WIEGENLIED独身になってから迎えるゴールデンウィークはこれで2回目になるが、昨年は退院したばかりであり、自宅療養を余儀なくされていたため、何処かへ出掛ける予定など全くなかったので、自宅で大人しくしていたが今年は違った。身体が元気になってくると人間は不思議なもので、ジッとしていられなくなる。精神も肉体も活気ある物を求めたくなるのだろう。1日に東海道新幹線に乗り、一路浜松方面へ。途中の掛川で下車、友人と合流。車で友人宅の磐田へ。わたしの思い付きで飲み会に出席しそうな友人たちに声を掛け、2日の夕方浜松駅北口集合となった。昨年11月の同窓会から半年余りで御馴染みの顔ぶれが数人集まり、再開の祝杯を上げた。浜松市内は3日から始まる「浜松まつり」の準備で、街のあちこちから「前夜祭」の掛け声が響き渡っていた。ほろ酔い気分で店を出た矢先、前夜祭の集団に遭遇した。すかさず、カメラを向けハイビジョン撮影。太鼓やラッパ、威勢の良い掛け声にファインダー越しに見とれていた。幼い子どもの無邪気な姿のなんと愛らしいこと。記憶にはなかったが、わたしが3歳の頃、藤枝大まつりに半被を着て参加した時の写真を思い出した。浜松祭りは3日から5日まで、中田島砂丘で凧揚げ合戦が行われる事で有名。実際にその凧揚げを見たことはないが、6畳ほどの大凧が砂丘の空を埋め尽くす。壮観な空の舞であるが、実際は喧嘩凧であり、単なる凧上げとは異なる。相手の組の凧糸(ほぼ太いロープ)を切り合うという凧同士の壮絶な争いだ。おそらく三方ヶ原合戦に由来するものだろうと勝手に思っている。静岡県の西部地区には、わたしの友人が多くいる。こちらに帰省し、友人たちに会うたびにわたしは元気を貰う。支えてくれる人たちがいる事に感謝しながら、一路藤枝に向かった。
2010.05.05
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去年から今年にかけて、世界中をパニック状態に陥れた「新型インフルエンザ」も終息し、厚労省が国外から取り寄せ備蓄したワクチンが大量に残り、それらが有効期限を過ぎてしまい廃棄処分 する結果となってしまったが、これは多額の税金を溝に捨てたようなものである。 インフルエンザに対し過剰反応した結果だが、ある意味それも仕方のない事かも知れない。 政治家たちが無意味な税金を使い捨てるよりはまだマシな方である。 わたしは心臓疾患を抱える身だから、真っ先にワクチンの接種をするべきだったかも知れないが、結局受けないまま何事もなく済んでしまった。 さて、インフルエンザの脅威から完全に脱した訳ではないものの、街中を歩いていると一つだけ減らない物がある。 そう、マスクである。 爽やかな春風に乗って気分は上々と行きたい所だが、この季節が苦手な人も多い。 花粉の舞い散る午後に、恋人とマスクをしながらお茶や歓談は少し色気がなく、くしゃみや鼻水が止まらず、会話にならないというのは、些かいただけないがこればっかりは仕方がない。 ならばせめてマスクをオリジナルに変えて気分をリフレッシュしたいものだ。 マスクの売れ行きが好調という背景もあり、各メーカーからは様々な形態のマスクが最近では見かけることがあり、マスクを購入するのにどれにしようか等と迷ったりと、これまでにはなかった 選択を迫られてみたりする。 女性向けや子ども用などでは、かわいい花柄があったり、色も豊富でピンク、ブルー、イエローとカラフルになってきた。 ただ気になるのはどれも割と大きめのサイズであり、顔の小柄な人だったりすると、顔の半分以上がマスクに覆われてしまい、せっかくの美貌が発揮出来ないなんてこともある。 男性の場合は特に気にすることもないが、女性は意外と気を使っているのだろうと思う。 マスクで気をつけなければならないのは、その殆どが使い捨てタイプなので、一日一枚を心がけてもらいたい。 多少値段が高いものや、丈夫そうで何度か繰り返し使用できそうでも、見た目は汚れていなくとも、一度使ったものには雑菌が繁殖するので、口元や肌のトラブルを招く恐れがある。 これからのマスクは魅せるもの、ファッションマスクとして定着して行くのではないだろうか。 アレルギー性鼻炎で、マスクが手放せないわたしでした。
2010.04.27
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現在の日本には残念ながら政治の 道標となれる人物が存在しない。 日本政治の混乱はこれが致命傷と なっている為、いつまで経っても纏まらない。 野党は相も変わらず与党の批判を 繰り返す。立場が逆転しても旧態依然として全く同じ国会の姿しか見えてこない。 夏の参議院選挙が目前に迫りつつ ある中、一向に国民が自民党に傾かない事に憂いとしびれを切らした人たちが、土の中から春の日差しを待ちわびた虫たちのように蠢き出している。 平沼赳夫、与謝野馨、この両氏を 代表とした新党「たちあがれ日本」が誕生したばかりだが、聞こえて来るのは落胆のため息や批判などで、国民の殆どが期待を寄せていないようだ。 この新党はネーミングから既に失 敗している。 応援団長が石原都知事?結局のと ころ中身は「旧自民党」であって、名前が変わっただけである。 しかも、垢抜けないネーミング。 メンバーの顔ぶれを見ても迫力の ない人たちばかりで、全くインパクトと言うものが足りない。 頼りないのである。 政治はある意味ギャンブルだとわ たしは思っている。 一番分かり易いのは、丁半博打だ ろう。 国のトップである総理が親でサイ コロを振る。 それに賭けるのが国民(客)で、 他の議員は子分と言うところか。 親が勝ちすぎると、客は文句を言 い、親を引きずり降ろそうとする。 不平不満が起こらないよう、親は 適当に勝ったり負けたりを繰り返し、客の顔色を伺いながらゲームを進めていく。 しかし、ゲームを面白くするのも 親の役目。 時には一か八かのハッタリを喰ら わせて、その場に緊張感を与えてやる。 盛り上がりのないギャンブルや ゲームほど詰まらないものはなく、人は直ぐに飽きてソッポを向いてしまう。 国民を飽きさせない政治、或いは 政治家が今最も求められているのである。 真っ先に自民党を離党した鳩山邦 夫氏であるが、たちあがれ日本からは何のお呼びも掛からなかった。 彼も新党を立ち上げる事を前提に 離党したのだが、「友人の友人はアルカイダ」なので、そんな物騒な人に着いて行く人も声を掛ける人もいない。 孤立した感のある鳩山氏だが、こ れからは無所属で活動するのか、或いは由紀夫氏に世話になるのかどちらにしろ、翼の折れた鳩である事は間違いない。 協調路線を敷いてお互い日本をど う良くしていくか、政権奪取ばかり考えていては何も変わらないし、国民はとっくに立ち上がっていて、立ち上がっていないのは政治家だけである。 だからこんなネーミングを着けて しまうのだ。
2010.04.23
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砂浜に書いた あなたの名前を 波が跡形もなく 消していく 未練さえも残さずに きれいさっぱり 消していく 片鱗くらいは残してと 意地張るわたしを 風がわらって 戯れる 寄せてはかえす 恋の波 乗れないわたしは もう泳げない
2010.04.16
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江戸川レノンさんの歌を聴くのも約1年ぶり。昨年、わたしは入退院の繰り返しで音楽を聴きに行くどころの騒ぎではなかった。それでも好きな音楽を片時も離さず聴いていたいため、入院中も病室にウォークマンを持ち込み、点滴を打ちながらビートルズの懐かしいナンバーを聴いていた。足でリズムを取りながら気分よさそうにしていると、「神戸さん、何を聴いているの?」と、若い看護師が声をかけてくる。わたしよりふた周りも若い健康体を持つ、かわいい女性に声をかけられるのは入院中でしかあり得ないだろうと思いながら、「ビートルズだよ」と返答する。どんなに時代が流れても、そしてどんな世代でもビートルズは知っている。「わたしのお母さんがビートルズのファンだったの…」「へえ、そうなんだ」「武道館のライブに行ったと自慢してたよ」随分と昔の話題で話しが弾んだ。12日の午前中、あの「順ちゃん」がわたしの身体を心配して、わざわざ藤枝から車を飛ばしてやって来てくれた。懐かしいシングル版を十数枚持ってきてくれたのだが、あいにくレコードプレーヤーがなかったので、その場で1965年の音を聴く事は出来なかったが、あの「ツイスト&シャウト」と44年ぶりの再会となった。初回版なので赤版。350円。B面は「ロール・オーバー・ベートーベン」。他に「プリーズ・プリーズ・ミー」「恋する二人」「ミッシェル」「ガール」「ひとりぼっちのあいつ」「消えた恋」など。当時のビートルズの曲は東芝「Odeon」から発売されていた。そんなビートルズファンでありながら、わたしが最初に購入した曲は「ゲット・バック」。そして「ヘイ・ジュード」「レボリューション」「レット・イット・ビー」など。初期のビートルズは一枚も持っていなかったのである。小遣い10円ではレコード盤など買える筈もなかったからそれは仕方の無いこと。わたしの身体が更に元気になった時は、江戸川レノンさんと一緒に「ラブミードゥー」をやってみたいと思っている。
2010.04.09
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猫が わたしに ぴったり寄り添っている 指で 数えるほど 重くもない わずかな圧力が わたしには 耐えられない まぁるくなった こいつは わたしにお構いなく 夢うつつ この 元気な 命の塊が うらやましい わたしより 活き活きと 生きている こいつが うらやましい
2010.04.02
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海に生息する生物の種類はおよそ 1000万種類にも及ぶ。 その中で、人間の胃袋を充たす生 物はどの位の数に上るだろうか。 そんな事に興味を持つのは海洋学 者くらいのものだろうが、地球環境の破壊が現実化している現在に於いては誰もが当事者であり、目を逸らすような事は極力控えなければならない。 人間一人が一年間に消費する食料 は約1トンに及ぶ。 極論を言えば人間は食べる為に生 きているようなものだが、生命はエネルギーの塊であるから、それを維持するには補給が不可欠。 それが「食」の原点であり、生き る証と呼んでも過言ではない。 人間が嫌う悪臭やゴミ、垢、コケ 等を栄養源としている原生動物のバクテリアを見ると、自然環境の中には「無駄がない」ことを教えてくれる。 生物の排泄物もエネルギーとして 生まれ変わっている事を知ると、循環と還元の繰り返しによって、自然界のバランスが保たれているのだと思い知らされる。 先日、大西洋・地中海産クロマグロを巡って、世 界各国が一同に会し議論を繰り広げたが、モナコとEUが求めていた国際取引禁止は否決され、マグロに最も近い日本はその結果に胸を撫で下ろした。 日本の食卓からマグロが消えるのではと、不安がピークに達していただけに、関 係者も含め消費者からは安堵の声があちらこちらで上がった。 だが、問題が解決した訳ではない。 黒マグロがこのワシントン条約に上るような事態を招いた責任が、何も問われて いない事の方がより重要課題ではないかと思う。 そして、この審議の背景に「国益優先」がある事。 利権や利益が自国に与える影響が大きいとなれば、そちらに意見が傾き優先する という諸国の思惑が浮き彫りになったこの会議には、人間の矛盾を反映、そして傲慢なエゴイズムだけが残った。 いつまでもあると思うななんとやら・・・ではないが、資源は永遠ではない。 いつか必ず底を突く日がやって来 る。 絶滅危惧種に指定し保護する事は 必要であるが、そこまで追い込む人間の在り方が修正されなければ、根本的解決は望めないだろう。 最も必要なのは「海を育てる」事 ではないだろうか。 海洋汚染は人間の汚染に結び付 く。 このままでは本当に海から健康な マグロは愚か、全ての魚介類がバランスを崩し、消え去る日が来るかも知れない。 そして食の基本、文化をもう一度 根本から問うてみる必要があるのではないだろうか。 文化は人間の創造物であり、自然界の置物ではない事を再確認しなくてはならないだろう。
2010.03.26
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映画の楽しみ方を大別すると二通 りになると思う。 娯楽性と芸術性。この両方を兼ね 備えている作品が所謂「名作」と呼ぶかは別としても、見る側の感受性によって受け取り方は異なって来る。 先日、ロサンゼルスで行われた 「第82回アカデミー賞授賞式」で、6部門を制覇した「ハート・ロッカー」が興行収入成績を塗り替え話題となった「アバター」を大差で破り圧勝した。 ハート・ロッカーは、イラク(バ クダッド)を舞台に、「湾岸戦争以降」のイラク情勢を背景にしつつ、その戦地に赴く若き兵士たちの姿をドキュメンタリータッチで描いている。 似たような戦争映画に「ブラッ ク・ホーク・ダウン」があるが、ハート・ロッカーの主人公はこれまでの兵士とは異なる「爆弾処理班」である。 古い潜水服のようなスーツに身を 纏い、時間との勝負に生死を掛けた姿は、極限状態の人間心理を鋭く描写した作品として仕上がっている。 シーンは淡々と進み、特に際立っ た場面がある訳ではないが、そこに広がる戦争のリアルさがこの映画を見終わった後、ズシリとした鉛のような重さで見る者の心に残るのではないだろうか。 わたしはこの両作品を観ている が、「アバター」をもう一度観たいとは思わない。 この二つの作品に共通点は幾つか 見出せるが、ハリウッド特有の資金力で映画を作る手法にあまり馴染めないのである。 娯楽作品としては大いに楽しめる が、心の奥に深く残る印象はない。 3Dで表現する必然性が見受けら れないし、その世界観で言うならば、宮崎アニメが既に十分過ぎるほどに表現しており、「天空の城ラピュタ」や「風の谷のナウシカ」或いは「もののけ姫」等 を3D化した程度に感じられたのが本音である。 もちろん「アバター」がこれから の新しい映画の幕開けとしての役目を果たして行く事は十分認める所ではあるが、長い時を経ても色褪せる事のない作品こそが「名画」「名作」と呼ばれる所以 ではないだろうか。 アカデミー賞とほぼ同時期に、フ ランスのパリでは映画監督のタレント・北野武氏が話題に上っていた。 フランスの芸術文化勲章「コマン ドゥール」を受章したからである。 北野武氏は欧州に於いて「巨匠」として広く知られており、 1997年にはベネチア映画祭で映画「HANA-BI」が金獅子賞を受賞している。 俳優でもある彼が出演した作品で 最も印象に残っている作品は、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」。坂本龍一の音楽もさることながら、ビートたけし扮する「ハラ軍曹」が、英国陸軍捕 虜の「ジョン・ロレンス」に「メリークリスマス・ミスターロレンス」と笑顔を交えて語るシーンが記憶の底に焼きついている。 ハリウッド映画にはない日本人特 有の描写力は心の琴線に触れるには十分過ぎるほど繊細だ。 20代の頃、わたしは日本映画の 「ATG(アートシアターギルド)」作品にのめり込んでいた。 「ATGを観なくして映画を語る なかれ」などと生意気な映画評論家を気取っていたものである。 北野武がハリウッドで映画を創っ たら、どんな作品が出来上がるだろうと興味津々ではある。
2010.03.19
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食事に事欠くことが殆どない現在の日本は、飽食の時代と言われて久しい。 職や住む所を無くし、路上生活者(ホームレス)になったとしても、物乞いをするなり、ゴミ箱を漁るなどすればなんとか生きていける。 そんな中にあって餓死というニュースは余りにも痛ましい。 それが大人ではなく、まだ5歳の幼児だと言う。 此処は飢餓で苦しむアフリカの砂漠地帯ではない。 児童憲章とは一体何のためにあるのか? この子どもの両親は保護責任者遺棄致死容疑で逮捕されたが、これは育児放棄以前の問題であり、人間である事を放棄したと言える。 人間の皮を被った獣とよく言うが、獣は自分の子どもを殺したりはしない。 必死で我が子を外敵から守り、自分は飢えても子どもにだけは十分な餌を与える。 だから、この両親は獣以下である。 人間には子孫繁栄の為に子を産み育てる事がDNAとして組み込まれているが、高い知性を持った人類だけが心の中に悪魔を偲ばせ、やがて自制心を失い狂気に走る。 虐待の場合、被害者となるのは子ども、女性、老人といった「弱者」たちだろう。 全てが弱者ではないにしろ、表面化する人たちの共通点である事は間違いない。 DVは大人の女性が被害を受けるが、大人であるが故にその地獄から逃れる術がある。 しかし、幼い子どもに一体何が出来ようか。 介護の現場でもしばしば、耳にする老人への虐待も増えている。 仕事のストレスを発散するための行為かどうかは知らないが、抵抗出来ない者に対する暴力行為は、自分が弱いが故に自分以下の者に対し、苛めや暴力を奮って自分の存在を確認しているのだろう。 昨年発覚した虐待事例は335件と言われているが、それは氷山の一角でしかない。 誰かが通報しなければ、表面化する事はまずないだろう。 民主党が「子ども手当て」だとうつつを抜かしているが、それよりも児童虐待を如何に無くすかに全力を挙げるべきである。 例えば、児童相談所は24時間土日も関係なく相談窓口を開く。 家庭訪問を頻繁に行い、地域住民の協力も得て、月数回なり虐待について集会を開くなど風通しの良い、目に見える活動をするべきだ。 わたしは幼少の頃、父から数年間に亘り虐待を受けた経験を持っている。 過去にも何度か話したことがあるので、既にご存知の読者も多いと思われるが、ここで父に纏わるエピソードをもう一つ紹介しよう。 わたしが小学校5年生の時だった。 朝、学校へ行く支度をしている時、父が話しかけて来た。 「とし坊、今日は米が無くて弁当を作れないから、昼になったら家に戻って来い・・・」 弁当が作れなくとも幾らかの現金があれば、2,30円なり渡してくれ、「これで何か買え」といつもなら言うが、その時家には全く金がなかった。 「うん、わかった・・・」と俯きながら玄関を出る。 弁当箱の入っていないランドセルがいつもより重くて仕方なかった。 学校までは歩いて10分程度だったが、足取りは重く頭の中は昼食の事で一杯だった。 授業が始まっても、担任の言葉は一向に頭に入らず、時間が昼に近づくのが嫌で溜まらなかった。 4時間目の終了チャイムが鳴り響き、クラスメートたちは笑顔を湛えながら、各々の弁当箱を机の中から出し始める。 カラフルな色や形の弁当箱が一斉に机を占領し、そして蓋が開き、様々な献立のおかずの香りが教室中を漂う。 そんな中、わたしだけが俯いて必死にその場を堪えていた。 閉じた瞼は涙に溢れんばかりだった。 家に戻るべきか、このまま我慢しようか相当思いつめていたと思う。 そんなわたしの姿に不審を抱いた担任の青島先生が、「かんべ君、ちょっとおいで・・・」と声を掛けて来た。 泣いているのを見られるのが恥ずかしく俯いたまま、先生の傍まで行った。 先生は自分のバッグから財布を出し、数十円の小銭を他の生徒に気づかれないよう、そっとわたしの手に握らせてくれたのである。 わたしは俯いたまま、走って教室を出て、近くのパン屋に駆け込んだ。 涙に濡れた小銭とそして涙の味が染み込んだあのパンの味を今でも忘れない。 現代に足りないものがあの頃には当たり前のように存在した。 誰もが決して傍観者であってはいけない。 そう強く思えてならない。
2010.03.13
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くちびるを重ね合わせると あなたの 嘘が見えて来た あなたのくちびるは いつもの わたしの味でなく 知らない人の 味だった 嫉妬の色を隠すため 今日もわたしは 口紅着けて あなたの嘘を塗りつぶす わたしの味が戻るまで 何度も 何度も 塗り返す
2010.03.07
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昨年、日本国内で処分された犬猫の数はおよそ31万頭に上る。 この数字は増えることはあっても、残念ながら中々減る事はない。 ペット、いわゆる小動物たちはわたしたち人間の身近な存在として、なくてはならない生き物になって来た。 ところが住居などの環境変化や、生活スタイルが日々移り変わる中で、動物たちだけが受難に遭っているように思えてならない。 自治体によっては、住民の協力を得て動物(野良)たちとの共存を模索し、そしてまたペットショップも一丸となって処分される動物たちの数を減らそうと努力を続けている。 店によっては安易にペットを売らず、客が責任を持って最後まで飼い続けることが出来るか、相手を見極めるそうである。 責任放棄しそうな客は断るという勇気のいる決断をするそうだ。 売ってしまえば後は知らんふりをする店も多いが、命を扱う商売はやはり死ぬまで責任を持つべきだろうと思う。2月も終わりに近づき、春の足音が聞こえて来そうだが、寒さはもう暫く続きそうだ。 人を温めてくれるものには色々ある。 太陽の陽射しやストーブ、コタツや風呂もそうだが、やはり身体だけでなく心も温めてくれるものが一番だろう。 そんな時にペットの存在がとても暖かく感じるのは、血の通った者同士の温もりがあるからだ。 夏場は空腹の時だけ、甘えて来たタラが、さすがに寒さには勝てないらしく、わたしの寝床にやって来て、気が付くとしっかり足元で丸くなり、喉をゴロゴロと鳴らしているのである。 生きている者は温かい、当たり前なことなのだが、それが生きている証であり、何物にも代え難い命であると言う事を猫の温もりから感じ取れるのである。 自ら命を絶つ人が多すぎる日本、人間の温もりを忘れてしまった結果なのかも知れない。 自分が誰かを温める事が出来るのだと言う事に気が付いて欲しい。
2010.02.26
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俳優の三田村邦彦さんが歌う、必殺仕事人のエンディングテーマ「思い出の糸車」をわたしは今でも口ずさむ時がある。 歌謡曲はさほど聴かないたちであったが、この曲は大変気に入っており、当時レコードを買って毎日聴いていたものである。 先日、フジテレビで放映された人気時代劇の「剣客商売(道場破り)」を見たばかりであったから藤田まことさんの訃報は、不意打ちを突かれた傭兵の面持ちでニュースを聞き入った。 藤田まことさんは確かに癌を患ってはいたが、死に至るほどの致命傷ではなかったと聞いている。 ならば藤田さんの身に一体何が起こったのか・・・疑問が駆け巡ったが、「大動脈瘤破裂」という、死因で頷けた。 この病気は致死率が最も高いし、気づいた時は手遅れという非常に恐い病である。 これでまた、昭和を背負った俳優が消えた・・・。 昭和の伝道師と言われた名司会者「玉置 宏さん」がつい最近逝ったばかりある。 昭和歌謡史を語る上で欠かす事の出来ない、玉置さんは多くの名台詞を遺言として残して行った。 「ロッテ・歌のアルバム」も昭和を代表する歌番組だった。 この番組に藤田まことさんが歌手として登場していた事は殆どの人が知らないか記憶にないかも知れない。 昭和30年代後半、テレビがまだ高級品として扱われていた時代、お茶の間を独占していたのは「てなもんや三度笠」「お笑い三人組」「ひょっこりひょうたん島」「三バカ大将」だったりした。 わたしが6歳を迎えた頃、昭和37年に放映開始された「てなもんや三度笠」はテレビの娯楽性を確実にする人気番組だったと思う。 もの心ついた時に非常に強いインパクトを与えてくれたこの番組は、当時まだ録画という技術が確立されていない中にあって、生放送のリアルさを視聴者に植えつけたのではないだろうか。 もちろん見る側から捉えれば、テレビそのものが珍しい存在であった訳だから、その放送が生か録画かなどという発想は全くなかった。 寺の鐘が「ゴーン」と響き、神社の扉が「キィィー」と金切り声のような音を上げながら開く。 その暗い中から、三度笠で顔を隠した藤田まこと扮する「あんかけの時次郎」が颯爽と登場し、あの決め台詞を吐く。 「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」。 わずか30分という、短い時間に様々な個性を持った俳優や歌手、コメディアン達が登場しドタバタ劇を披露する。 「白木みのる」の余りの小ささに驚き、子どもなのかと疑問に包まれたことを思い出す。 藤田まことさんがこの番組で一躍人気者になった事は言うまでもないが、番組終了後、ブラウン管から姿を消してしまった。 1970年代に入り、人々の記憶から藤田まことの面影は消え始めていた。然し、その後彼は思いも寄らぬ復活劇を見せる事となる。 1973年に始まった痛快時代劇「必殺仕置人」。 彼が扮する「八丁堀同心・中村主水」はこれまでの彼のイメージを覆すものだった。 これによって藤田まことの時代劇が不動のものとなったのは確かであった。 藤田さんについて、この場で語るには時間が足りないし、言葉で表すことにも限界がある。 ただひとつ言えることは、もう「思い出の糸車は回ってくれない」と言う事。 藤田まことさんありがとう、そしてお疲れ様。 昭和の楽しい時代をありがとう。合掌。
2010.02.22
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バンクーバー五輪で日本に初のメダルを齎したのは、スピードスケート男子500mだった。 金メダル候補が次々と後退していく中、長島圭一郎、加藤条治の両選手は、持てる力を全て出し切り、堂々の銀と銅メダルに輝いた。 会場は途中、製氷作業のトラブルで一時間ほど競技が中断される等のアクシデントがあったが、彼らは落ち着いていた。 元々メダル獲得の候補であり、当然期待も高まっていたが、各国の強豪がメダルを狙って火花を散らしている中で、最後まで冷静さを失わず、自分の滑りに徹した結果がメダルへと結びついたのであろう。 歓喜渦巻く会場で、一人順位を確認する長島選手の姿が印象的であった。 それにしても、女子モーグルの余韻がまだ冷めやらぬ中で、上村愛子の4位入賞はいまだ信じられないファンもいるのではないだろうか。 最もメダルに近く、大きな期待を背負っていた選手もそうはいないだろうと思う。 一歩ずつではあったが、確実に進化する彼女のスキーには挑戦者の魂が熱く燃え、滑る度に厚い氷を溶かしてきた。 今度こそという想いは彼女自身を大きく成長させ、それを見る我々にも希望と勇気を与え続けてきた。 スポーツは諦めない人たちの集まりである。 目標を達成出来た時の充実感と達成感は、それを共有することで、更に大きな波動となり拡がって行く。 惨敗で終わったとしても、それは次の指標となって必ず自分の血や肉に変わる。 しかし、誰もが経験し大きな壁となるのが、体力と年齢だ。 オリンピックは4年に一度というルールがある。 選手によってはラストチャンスだったかも知れない。 彼女に4年後頑張れとは言えない。 だが、4位というメダルが彼女の心に光り輝いているではないか。 金銀銅だけがメダルではない。 目に見えないメダル、それは笑顔の奥に輝く金メダル。 上村愛子にそして全てのアスリートに惜しみない拍手を贈ろうではないか。
2010.02.18
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トヨタの安全神話が揺らぎ始めている。 トヨタ自動車が、満を持して世に投入した次世代のハイブリッドカー「プリウス」。 旧型プリウスに更に磨きを掛け、自信満々のトヨタを代表する新しい顔であった。 環境に配慮した「ECOカー」を前面に出し、低燃費ながらも且つパワフルなエネルギッシュを併せ持つこの未来追求型自動車の登場は同業他社の追随を許さず、自動車業界のトップを不動のものにした。 そこに人間の驕りが生まれたかは別にしても、トヨタのリコールは専門家も指摘しているように、製作者と利用者の安全基準に微妙な差がある事を表面化させた事例である。 わたしは医者から車の運転を止められている為、5年以上ハンドルを握っていないし、車に詳しい訳でもない。 「車の心臓部は何処だ」と訊ねられたら、おそらく「エンジン」とわたしは答えるだろう。 車に素人なわたしだから、その程度の回答しか出来ない。 しかし、車も人間と同じで各部のパーツで成り立っている。 それぞれに重要な役割があり、その一つでも欠けてしまえば、パーフェクトは達成出来ない。 完璧が全てではないし、頂点でもないだろうが、人命を預かる「物・者」は99.9%完璧で在るべきではないだろうか。 ブレーキの不具合による顧客からの苦情が殺到した時、トヨタはタイミングを間違えたようである。 迅速な対応と決断が企業の基盤を左右するのは、過去の例を省みても一目瞭然である。 ブレーキの利かない車ほど恐ろしい物はなく、それでなくとも高速で移動する鉄の塊は依然として凶器そのものである。 例え完璧な車が登場したとしても、人間がハンドルを握る以上リスクは付いて回る。 不完全な人間だからこそ、完全なる安全を追求しなくてはならない。 このリコール問題はトヨタ自動車に留まらず、波状的に拡がり始めている。 自分の車は大丈夫だろうか?と疑問が脳裏を過ぎる。 不安を抱えたままハンドルを握れば、交通事故のリスクも高まる。 景気にブレーキが掛かっては困るが、人間も含め、全ての乗り物を総点検する必要があるのではないだろうか。
2010.02.13
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角界の問題児、朝青龍涙の引退表明。 場所中に起こった知人への暴行問題は、マスコミの報道が先走り二転三転。 実際にその暴行現場にいた訳ではないから、事の真相については横綱本人とマネージャー、知人の三人が知るのみ。 この暴行問題を耳にした時、脳裏を掠めたのは「命拾いしたのは朝青龍・・・」だとわたしは思った。 もし、知人が赤の他人で極道だったら、あの「力道山」と同じ運命を辿ったかも知れない。 酒は時に、人生を大きく狂わせる。 わたしの父もかつてそうであったように、酒によって人生を棒に振った。 命を落として引退より、生きて引退出来るだけ増しだろうとも思う。 朝青龍を敢えて肯定するならば、彼は相撲界の枠に収まり切らない、良くも悪くも型破りの横綱と言うことになるだろう。 心技体と品格を問う前に、古臭い体質を引き摺り続ける相撲界と、台頭する外国人力士の矛盾した国技が最早国際相撲へと変貌している事実を真摯に受け止めるべきである。 朝青龍一人の問題ではなく、結果的に真の相撲道を土俵の外にも伝えられなかった相撲関係者にも責任はある。 横綱は完璧でなければ務まらない。 朝青龍を横綱にした角界が生み出した怪物、それが朝青龍だったのである。
2010.02.06
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2010年1月20 (安静時心電図所見)。 心室性期外収縮 心房細動・粗動 0.2mV以上のST低下 深い陰性T波(0.4mV) 左室駆出率:EF(22%) 年齢を重ねる度に悪化していくわたしの心臓である。 入院しても、薬を飲んでも良くはならない。 EFが22%という数字を今回初めて知ったが、左室収縮障害は重症であった。 普段、わたしは病気について気にしない性質だったが、この心臓で後何年生きられるだろうと考えるようになった。 働くことが自分の寿命を縮めるとしたら…。 遣り残している事はまだ多くあるのにと思うと悔しい。
2010.02.02
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政治家はある意味、暴力団より始末が悪い。 彼ら(極道)は、悪いことは悪いと素直に認め潔く刑に服する。 政治家全員がそうではないにしても、過去の例を見ても分かるように、清廉潔白を強く訴え自分は悪くないの一点張り。 本人の口からは絶対に罪を示唆するような言葉は聞こえず、大方秘書やサポート人たちから崩れて行く。 鳩山政権総崩れに発展するであろう、今回の小沢幹事長土地取引による裏金問題については、民主党VS東京地検の前面戦争へと発展した。 特捜部もただやみくもに捜査を進め、(元秘書)石川議員や他者の逮捕に踏み切った訳ではないだろうし、小沢逮捕への第一歩として城壁から攻めるのは正攻法だと言える。 捜査の手が入る事を事前に察知した小沢幹事長の取り巻きたちは、その証拠隠滅に奔走する。 小沢幹事長の資金管理団体「陸山会」は故田中角栄「越山会」の発展系であり、ゼネコンとの深い繋がりが指摘されている。 小沢氏は壇上で身の潔白を「法に触れるような事はしていない」とアピールしているが、法に触れさえしなければ何をやってもよいのかという疑問に突き当たる。 疑惑を抱かせた時点で、政治家としての資質を問われるのは当然であり、国民に不信感を植え付けるような行為そのものが罪だとも言えるのではないだろうか。 民間企業であれば、重大なコンプライアンス違反は厳重注意では済まされず、即刻解雇に値する。 政治家のモラル低下が日本全体のモラル低下を招き、益々混乱の渦が拡大するだけだ。 幹事長というポストは謂わば「影の総理」。 鳩山首相が具の無いうす味の味噌汁に思えるのはわたしだけではないだろう。
2010.01.26
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今更遅いと思うが、派遣村は人助けではない事を明確化して置くべきだったと思う。 困っている人を助ける行為は美談になり易いが、助ける行動には責任が生じる事を忘れてはならない。 一時しのぎに助けて途中で放り出す事は無責任であり「情けは人のためならず」と言う言葉通りの結果を招く事になりかねない。 親切と人助けを混同してしまっては、本来の「人助け」は完結しない。 都の進めて来た「公設派遣村」で起きた一コマは「火事場の大泥棒」を産み落とす結果となったが、それは想定外ではなかっただろう。 役人の考えていた内容がそれこそ「その場しのぎ」だった事を裏付けることとなったからである。 高給弁当を与える事はよいとしても、就職活動費として現金を与えた事が、結果的に人間の甘えの構図を浮き彫りにしたようなものである。 2万円を手にしてそのまま「パチンコ屋」にしけこみ、遊興費に当てる者もいれば、酒・タバコといった嗜好品の足しにして「してやったり・・・」とほくそ笑む者が続出する。 本当に困り果てている者からみれば腹が煮えくり返るような事態だが、国費の無駄使いがこんな情けない形で露呈した事は残念でならない。 人生の設計図を持たない人、或いは持てない人が多く存在するが、自ら生き方を放棄している者も少なからず見受けられる。 希望の職種が見つからないのは、選択肢を己が狭くしているからであり、仕事そのものは石ころのように転がっている。 五体満足で健康に生きているのなら、命を懸けて仕事を探せとわたしは言いたい。 重篤な心臓疾患を抱えるわたしでも、不整脈の心臓に鞭打って死ぬ気で就職活動をし、最後まで諦めなかったからこそ希望を見出したのである。 人に、世間に、自分に甘え過ぎた者に明るい未来の光は射さないのである。
2010.01.17
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雪が 涙のように 降ってくる 音も立てずに 降ってくる 心に溢れた 悲しみが 凍える空の彼方で 雪になり わたしの変わりに 涙となって 壊れた わたしに 降ってくる まるで わたしを かばうよう 雪の涙が 降ってくる
2010.01.14
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例えば自分が赤ちゃんポスト出身だったとしても、誕生日は自分を育ててくれた人へ感謝する日である。 もちろん、親に感謝するのは当然であり、不遇な身の上だったとしても、命を頂いたのだから祈りを込めて感謝すること。 誰しも一人で生きているわけではなし、万物によって生かされていることに気が付けば、命を粗末に扱うこともなくなるだろう。 それは自ずと他人を思いやる心を育むことへと繋がっていく。 人は人を幸せにするために存在するのだという使命がある。 「自分は何のために生まれてきたのか」「生きる価値があるのだろうか」などという疑問に突き当たり思い悩むことは多いだろう。 そんな時は隣人の幸せを願ってみるとよい。 言葉は要らない、微笑むだけで十分気持ちは伝わるだろう。 誕生日を迎える度に、多くの人たちに支えられている自分に気づく。 そしてまた自分も誰かの支えになっているのだと思う。 赤ん坊のように無垢な心で誕生日を迎えることが出来たことに感謝、そして、メッセージをプレゼントをありがとう。
2010.01.09
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2010年1月1日、上野御徒町(アメ横)にて撮影。 新年明けましておめでとうございます。 新しい年が始まりましたが、皆さんはどのようなスタートを切りましたか。 昨年のわたしはご存知の様に、困難と悲劇の繰り返しでした。 退院と離婚が同時進行し、大きな不安を抱きながらの独身生活。 リハビリの連続の中で始まった就職活動。 常に入院の二文字が付き纏い、生活スタイルの180度転換を余儀なくされて、体重増加に一喜一憂し、救急外来を何度も受診しながらそれでも最後には帳尻を合わせるという綱渡りの一年間でした。 約40社に登る面接を受け続けた8月~10月の三ヶ月はまさに身も心も限界を超えていたように思います。 届くは不採用通知ばかりで既に諦めかけていた矢先、届いた内定通知。 それも一部上場の大企業。 学歴の無いわたしにはまさに「奇跡」でした。 大逆転の満塁サヨナラホームランだったのです。 人生は逆転の連続で、先に何が起こるか分からない予測不能の生き様。 だから、生きている事が面白く生きられずにはいられないまさに「Brand New Day」なのです。 新しい何かを見つけそして掴むまで、皆さん声を出して叫びましょう。 Brand New Dayと。
2010.01.03
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マザコンは一般的な解釈として母親に全てを任せきりで、自分では何一つ判断・行動出来ない者の総称とされているが、正確な定義そのものは存在しない。 よって、マザーコンプレックスの捉え方は様々である。 世の中には親離れ子離れ出来ず、人として自立出来ていない者も多くいる。 献金問題で揺れる鳩山由紀夫総理であるが、6億円あまりの贈与税を納めた事で、一件落着といきたいところだろうが、この庶民的感覚を大きく逸脱した金銭授受は国民には理解し難い問題であろう。 小沢一郎氏も同様に、政治家の金銭感覚は余りにも桁外れな為に金銭麻痺した状態だとも言える。 結果的に言えば、政治或いは権力は金がものを言う世界であり、これはなんら政治そのものが旧態依然として全く変化していない事を裏付けている。 どれほど「わたしはクリーン」とのたまってみても、叩けば必ず埃が立つ政治家ばかりで埃を「誇り」に置き換えることはおよそ不可能に近い。 自らの埃によって咳き込み窮地に立たされる訳だ。 最も神経を使うべき部分を人任せでは、正しい政治など行える訳がない。 彼ら政治家は「反省」を知らず、同じ過ちを繰り返すばかりで、進歩のない人間の集まりだとも言えようか。 日本の未来は遥か彼方に、蜃気楼のように佇んでいる、金まみれの政治家とともにね。
2009.12.30
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貧困は、時に子どもの心を傷つける。 わたしはそれを子ども時代にうんざりするほど味わった。 昭和30年代にクリスマスプレゼントの慣習が日本に存在したか知らないし、記憶として残ってもいないが、唯一それらしい出来事を今になって思い出す。 泥酔しきった父が真っ赤な顔をして「とし坊、土産」と差し出した小さな白い箱の中身は、酒臭いイチゴのショートケーキだった。 わたしはそれが嬉しくて溜まらず、涙を浮かべながらその甘さを味わった。 後にも先にも父からの贈り物はそれだけだったが、酒と自分が流した涙のしょっぱさが入り混じったケーキの味を今でも忘れない。 父は非常に大人しく気の小さい人間だったので、何か行動に移す時は一杯引っ掛けて酒の力を借りないと何も出来なかった。 息子に贈り物することすら気恥ずかしい思いを抱いていたのだろう。 酔えば必ずといってよいほど乱暴になり、暴力を奮ってわたしを傷つけたが、わたしは一度も父を嫌ったことがない。 ただし、一緒に歩きたいとは思わなかった。 この人が自分の父親だと思われたくなかったのであるが、わたしが父を愛していた事は、詩集「天国の地図」の中に書いてある作品「父が死んだその日」「わたしが帰った時」「祭りの夜」等を読んで頂ければ、頷けると思う。 今日はクリスマス、世界中でその喜びやプレゼント、パーティなどを催し、ご馳走に舌鼓を打つことだろう。 しかし、その隣では明日の糧を求めて餓え続け、サンタクロースの来ない子どもたちが大勢いる事を忘れないで欲しい。 今、あなたがもし幸せだと思ったら、それは「当たり前」ではないことなのだと認識して欲しい。
2009.12.25
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長く伸びた髪が 心に絡みつくから 髪を切った ううん… 美容院には 行かなかったわ あなたが 綺麗だねと 褒めてくれた この髪を 他の人に 切らせたくは なかった だから 自分の手で 挟みを入れたの あなたの 思い出の分だけ 伸びた髪を せめて この手で 断ち切りたかったから
2009.12.23
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新型インフルエンザの感染者数に歯止めが掛かったようだ。 これまで増え続ける一方であったが、日本列島マスクと消毒液一色になった事が功を奏した訳でもないにしても、僅かに安堵を覚える。 但し油断は禁物、冬はこれからが本番であり、気を抜けば一気にウイルスの餌食となる。 国が薦めるワクチンの接種は義務ではないので、本人或いは親が受けるかどうか決める事となる。 ワクチンは元々毒で作られているから、当然ながら副作用が現れる。 その程度は個々によって異なる。 発疹程度の人や微熱、或いは下痢と言った軽い症状のタイプ。 しかし、重篤な場合は脳を侵され、死に至る場合もある。 ウイルスとワクチン、この両者は実に曲者だ。 人間がワクチンを作り続けた結果、新しいウイルスとそして人間自らが持つ免疫力を低下させてしまったのである。 アメリカでは、ワクチン接種に消極的な親が50%近くもいると言う。 子どもが生まれ付き持つ免疫力を、ワクチンによって低下させてしまう事への懸念がそうさせているのだという。 世の中にパーフェクトは在り得ない。 完全なウイルスもなければ、完璧なワクチンもないと言う事。 トイレがまだ汲み取り式だった頃、現代と比べれば衛生面では大失格となるであろう。 然しながら、子どもも大人もみな元気であったし、糞尿は畑の肥やしとして大地に還したものである。 農薬もなく、虫食いだらけの野菜をそのまま洗いもせず頬張ったものだ。 虫も食わない農薬だらけの野菜や果物は不味いし、果たして安心出来る食物かどうか怪しいものである。 化学の発達は自然界に存在しない環境破壊物質を多く造り出して来た。 その結果が奇形や難病を生み、DNAまでも破壊したのである。 ウイルスより恐ろしい人間の野望と征服欲が果てしなく続く限り、新種との闘いは繰り返されるのである。
2009.12.20
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自民から民主へと、今年は政治が大きく動いた年でもあった。 これは、国民が政治の動力源になっている事を、政治家や官僚たちに知らしめる結果になったのではないだろうか。 鳩山政権が誕生してから日はまだ浅いまでも、政治のあらゆる局面で動きが顕著になって来ている。 その最たる代表が話題に登っている「事業仕分け」だろう。 各界から選りすぐり?のエリート仕分け人軍団が構成され、税金の無駄遣いを徹底的に洗い出す作業が数十日に渡って行われたばかりである。 結果はともかくとして、官僚たちから見れば、仕分け人が「仕置き人」に見えて戦々恐々としていた事は言うまでもない。 理論武装した仕分け人と官僚たちとのトークバトルは火花を散らし、各々が自分たちの正当性や必要性を仕分け人たちに訴える姿が、TVを通して観戦出来たのは 実に有意義であったように思うし、下らないバラエティ番組などより見ごたえは十分にあったから、長時間の特番を組めば、視聴率もアップするのではないだろうか。 普段、国民の前に姿を見せることのない官僚たちの、真剣な顔を見ていると悲壮感さえ感じてしまうのであるが、普段からこのように真剣に仕事に取り組んで貰いたいものである。 真っ先に廃止しなければならないのはやはり「天下り」だろう。 まともな仕事もせず、週一回机に座って居眠りするだけで、サラリーマンの数倍もの高給を受け取り、更に退職金の積み重ねは「罪重ね」と言い換えるべきだろう。 経済成長の低迷やそれによる雇用不安に脅かされる事のない公務員たち全てが悪い訳ではないにしても、所属部署によっては一般企業と同じように「成果主義」の導入を検討して欲しいところである。 仕事は結果を残すことであり、そしてまた人と人が支え合う事でもある。 仕事に見合った報酬を受け取ることが経済成長の根幹である事を忘れていては、日本の無駄はいつまで経っても無くならないであろう。
2009.12.18
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練炭の恋しい季節が近づいて来たと思ったりするのは、ふた昔も前のことであったりするが、幼い頃、祖母の押す乳母車に乗って、炭や薪を買いに行ったことを懐かしく思い出す。 乳母車の中は母胎のように居心地が良く、天気のよい日は日向ぼっこも兼ねて、揺り籠の中で眠る乳飲み児のようだった。 練炭や炭の使い道は、七輪で秋刀魚やめざしを焼いたり、火鉢に入れてストーブ代わりにした。 閃光のように時代が移り変わり、今では練炭が原因で一酸化炭素中毒に陥り命を落とすような事故が在ったり、場合によっては殺人の道具に使われたりと様変わりしてしまったのは嘆かわしい事である。 女詐欺師の毒牙に掛かり、「結婚」という人生にとってみれば最も幸福な出来事を、詐欺の道具に使い、相手から多額の金銭を騙し取る、そればかりではなく命までをも奪うという、事件が相次いで明るみになったニュースの記憶は新しい。 「振り込め詐欺」の被害も依然として後を絶たず、詐欺師たちは次々と新種の手口で人の財布を狙っている。 人を騙す事に対し、罪の意識を一切感じてはいないのだろう。 彼らの理屈から言えば「騙される方が悪い」という理論が成り立っている為に、詐欺事件は無くならない。 金銭だけで済めばまだ救われるが、騙された上に命まで落とすのではたまったものではない。 結婚詐欺については、その全容が解明されていないので、今後更に被害者が増える可能性もある。 結婚を強く望む男女がある限り、それを利用した詐欺まがいの行為はこれからも増えることだろう。 男女間の出会いの場が少なくなり、今ではインターネットの出会いサイトや結婚紹介所を利用する人たちも増えているが、相手を見極める洞察力がないと言葉の毒を盛られてしまう事もあるので、独身諸君は十分気をつけて頂きたい。
2009.12.09
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<A xhref=' http://www.youtube.com/watch?v=dGDqUh0wCtw '>WIEGENLIED</A>携帯で動画を閲覧出来ない方は、パソコンからアクセスして、映像と音楽をお楽しみ下さい。オリジナル「夏の思い出」を含む全21曲を収録。1984年、東京都品川区西大井のアパート(ひかり荘)にて収録。ヴォーカル:神戸俊樹ギター:三好清史/神戸俊樹ブルースハープ:神戸俊樹パーカション:神戸俊樹/三好清史編曲:神戸俊樹/三好清史1.あどけない君のしぐさ(2:40)2.帰郷(3:30)3.海岸通り(3:22)4.夏の思い出(3:21)5.あかずの踏み切り(2:21)6.黒い夏(2:41)7.冬京(3:13)8.粉雪(2:30)9.ゼンマイじかけのかぶと虫(3:13)10.紙飛行機(3:25)11.りんご(2:06)12.恋のうた(1:48)13.僕のエピローグ(4:21)14.風の街(3:12)15.落陽(3:58)16.マーク2(3:00)17.バス通り(3:06)18.東京(4:18)19.せんこう花火(2:16)20.夏休み(3:02)21.いつか夜の雨が(4:25)
2009.12.06
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空が 思い切り泣いている 枯れた少年の心がひび割れて 砂漠の中に立ち尽くす 母の涙が雨になり 懺悔の雨が降り注ぐ 降っても降っても 少年の 心の乾きは 癒せない てるてる坊主が 軒下で 雨が止むのを 待っていた 少年の 変わりに ずぶ濡れの てるてる坊主が 待っていた
2009.12.03
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