全20件 (20件中 1-20件目)
1
そこである日、勇気を振って「先生についいていても、一向に人格が向上しそうにないのでやめさせて下さい」といった。すると、きっとした表情になってにらみつけて「お前の寿命を三年縮めてやる」といわれた。それほどの霊能のある人からそういわれると、その言葉が心にぐさっと刺さって、ふとそうなるのではないかという恐怖心が起ってくる。どうかしなければと思ったが、高橋先生は既に亡くなっていられる。誰か高橋先生の後を継いでいる人はいないのかと探していたら、友人から正法誌が送ってきて、それをよんだ時に「あ、これだ」と思って研修に参加しました。「正法をやれば大丈夫ですね」ということであった。(正法誌 第42号より抜粋)************************************【高橋信次先生ご姉妹の談話「法灯は消えず」】正法神理を深めるのに最適なDVDのご紹介http://selabocatalogue.seesaa.net/article/372545409.html高橋信次先生の談話「法灯は消えず」DVD版6枚組 価格:¥13,000円(5%税込み)購入ご希望はこちらからhttp://selaboshop.cart.fc2.com/ca8/128/p-r8-s/************************************【SE研究所ホームページ】 http://www.selabo.jp/【SE研究所 入会のご案内】目的と内容はこちらをご覧くださいhttp://www.selabo.jp/kaiin.html入会ご希望の方はこちらからお申込みくださいhttp://selaboshop.cart.fc2.com/ca3/141/p-r3-s/************************************【送料無料】くじけないで [ 柴田トヨ ]価格:1,000円(税込、送料込)
2014.02.16
コメント(0)
人には誕生日が必らずある。国にも誕生の歴史があり、日がある。それらの日は必らずあったのである。他人が、或は他国が、その日を持ってはならぬといったからといって、「はい、そうですか」と持たないようにしてみたってその日はあったのである。人のいいなりになるという心理は正法ではない。世界の各国はすべて建国記念日を持っている。日本だけが持つと悪いということはない堂々と建国記念日を祝うべきである。約二千六百年前「世界は一つ」を国の大方針として建国されたことはすなおに尊ぶべきことである。「世界は一つ」という声が西洋から出るようになったのは終戦後でまだやっと三十年位にしかならないことと合せ考えてみる必要がある。(正法誌 第42号より抜粋)************************************【高橋信次先生ご姉妹の談話「法灯は消えず」】正法神理を深めるのに最適なDVDのご紹介http://selabocatalogue.seesaa.net/article/372545409.html高橋信次先生の談話「法灯は消えず」DVD版6枚組 価格:¥13,000円(5%税込み)購入ご希望はこちらからhttp://selaboshop.cart.fc2.com/ca8/128/p-r8-s/************************************【SE研究所ホームページ】 http://www.selabo.jp/【SE研究所 入会のご案内】目的と内容はこちらをご覧くださいhttp://www.selabo.jp/kaiin.html入会ご希望の方はこちらからお申込みくださいhttp://selaboshop.cart.fc2.com/ca3/141/p-r3-s/************************************【送料無料】ペコロスの母に会いに行く [ 岡野雄一 ]価格:1,260円(税込、送料込)
2014.02.07
コメント(0)
ある時、書店で高橋信次先生の本を見つけた。高橋先生の写真を持って行って「この人はどういう人でしょうか」と聞いたら、なんにもいわれなかった。 高橋先生の本をよんでいるうちに、そのお坊さんに対する疑問がわいてきた。それは、そのお坊さんによっては少しも人格が向上しないことである。高橋先生の本には、正法を知って心を明るく大きく豊かにしてゆかなければならないと書いてある。そのお坊さんは霊能はあっても法を説かれない。すなわち人格向上の道を説かれない。 (正法誌 第42号より抜粋)************************************【SE研究所ホームページ】 http://www.selabo.jp/【SE研究所 入会のご案内】目的と内容はこちらをご覧くださいhttp://www.selabo.jp/kaiin.html入会ご希望の方はこちらからお申込みくださいhttp://selaboshop.cart.fc2.com/ca3/141/p-r3-s/************************************ 【送料無料】人生はニャンとかなる! [ 水野敬也 ]価格:1,470円(税込、送料込)
2014.01.21
コメント(0)
正しい指導者は、その人の傍に行くと、心がさわやかに、心の中を涼風が吹きぬけてゆくようなすずやかさと、心の中から温かくなってくるような温かさを感じさせる。 その青年の近くに、日本一の霊能者の坊さんがいる。青年はその人の霊能に驚いて、これだけの霊能を持つ人ならすばらしいだろうと思って指導を受けた。その先生に十メートル位近づくと、圧倒されるような波動がぶわっと伝わってくる。短刀を腹に突き刺してその切っ先が背中にまで突き通り、それを引き抜いても血が出ない。(正法誌 第42号より抜粋)************************************【SE研究所ホームページ】 http://www.selabo.jp/【SE研究所 入会のご案内】目的と内容はこちらをご覧くださいhttp://www.selabo.jp/kaiin.html入会ご希望の方はこちらからお申込みくださいhttp://selaboshop.cart.fc2.com/ca3/141/p-r3-s/************************************ 【送料無料】生き方 [ 稲盛和夫 ]価格:1,785円(税込、送料込)
2014.01.02
コメント(0)
われわれは自主性を失ってはならないのである。他力信仰は自主性を失なわせるからいけないのである。関東の研修が始まると、一分間でもよいから私(園頭先生)と話がしたいという青年がいた。じっとしてはいられないという風であった。正法の指導者は人に恐怖を与えない。人を脅したり恐怖させる者は動物霊に支配されているのである。動物霊に支配されている指導者に現われる面白い現象がある。それは異常に性欲が強いということである。また、その反対に、生気を吸い取られて顔が青白い人もある。ギラギラした生臭さを発散するか、幽鬼を見るような感じがする。とにかく眼を見るとすぐわかる。正法誌第42号1982年2月より抜粋*************************************【SE研究所ホームページ】 http://www.selabo.jp/【SE研究所 入会のご案内】目的と内容はこちらをご覧くださいhttp://www.selabo.jp/kaiin.html入会ご希望の方はこちらからお申込みくださいhttp://selaboshop.cart.fc2.com/ca3/141/p-r3-s/*************************************【送料無料】人を動かす新装版 [ デール・カーネギー ]価格:1,575円(税込、送料込)
2013.12.15
コメント(0)
霊能だけを求めて信仰してはならない。あなた方が、その人の持つ霊能にひかれてその人を信仰したとする。霊能力を誇示している人はほとんどの場合、動物霊が憑依しているのであるから、あなた方はその人を信じていると思っていても、実際はその動物霊の奴隷になっていることなのである。心を完全に握られてしまうから、なにがあってもその人に一つ一つお伺いしないと、自分一人の判断では行動できなくなり、その人から離れると不安で不安で仕方がないということになる。このような信仰をした人が死ぬと、その人は地獄界でその動物霊の支配下に置かれ、その動物霊に嚇かされて、いつ罰を当てられるかと、戦々恐々として動物霊のいいなりにならされるのである。正法誌第42号1982年2月より抜粋*************************************【SE研究所ホームページ】 http://www.selabo.jp/【SE研究所 入会のご案内】目的と内容はこちらをご覧くださいhttp://www.selabo.jp/kaiin.html入会ご希望の方はこちらからお申込みくださいhttp://selaboshop.cart.fc2.com/ca3/141/p-r3-s/*************************************【送料無料】人間にとって成熟とは何か [ 曽野綾子 ]価格:798円(税込、送料込)
2013.12.01
コメント(0)
思うような極めて偏向した考え方をするようになってしまった。「正法」を正しく理解するには、どこの国の誰がいおうと、よいものはよい、悪いものは悪いと、正しく判断できる知性を持たなければいけないのである。 釈尊は知性の欠除を「無明」といわれたのである。感情に片寄っては正法を正しく理解することはできない。 来世では私(園頭先生)はインドに生まれたいと思っているが、今生は私(園頭先生)は日本人である。釈尊が行いて生まれて正法を説くといわれた国、この日本国、そして釈尊の生まれ更りであった高橋信次先生と時を同じくして生まれ、ぢかに正法を聞くことができたこの日本、今生ではやはり私(園頭先生)は、この日本を愛して生きる。人はすべて、現在、今、おかれている環境のすべてを愛してゆかないと世界はユートピアにはならぬ。私(園頭先生)はこの日本を愛するがゆえに、正法によってこの日本をユートピアとしたい。そのために、よいものはよいといい、悪いものは悪いという。日本人でありながらこの日本をよくしたいと思わない人は、どこの国を愛するというのであろうか、また、現在の日本をどうするというのであろうか。 仏国土、ユートピア実現は、自分を愛し、家庭を愛し、住む所を愛し、生まれた国を愛し、そうして世界を愛するというように、自分を中心として愛は拡大されて行かなければならない。**************************************************高橋信次先生ご姉妹の談話(DVD版)2.「 愛と許し」http://selaboshop.cart.fc2.com/ca8/37/p1-r8-s/***************************************************ダウジング通信講座ご案内用無料サンプルCDのご案内詳しい内容はこちらをご覧くださいhttp://selabocatalogue.seesaa.net/article/361468248.html***************************************************<お知らせ>ダウジング通信講座】 http://www.selabo.jp/tushin/info.html【SE研究所ホームページ】 http://www.selabo.jp/【心と体を高める波動ショップ】 http://selaboshop.cart.fc2.com/【心と波動の世界・総合版】 http://sefuti.seesaa.net/****************************************************【送料無料】国家の品格 [ 藤原正彦 ]価格:714円(税込、送料込)
2013.07.05
コメント(0)
正法は八正道を日常生活の基準とするのであり、八正道を正しく実践するためには「正見」ができなければいけない。日本人はアメリカの占領政策によって、終戦前の日本のことはすべて間違いであった、悪かったのであると考えるようになってしまった。それは正見ではない。終戦前の日本にもよいものもあれば悪いものもあった。また、外国のものがすべてよいのではない。外国にもよいものもあれば悪いものもある。それを公平に冷静に判断をして、よいものは取り、悪いものは捨てればよいのである。ところが残念ながら、終戦後の日本人は、日本のものはよいものも悪いと思い、外国のものは悪いものもよいと思うような極めて偏向した考え方をするようになってしまった。「正法」を正しく理解するには、どこの国の誰がいおうと、よいものはよい、悪いものは悪いと、正しく判断できる知性を持たなければいけないのである。釈尊は知性の欠除を「無明」といわれたのである。感情に片寄っては正法を正しく理解することはできない。来世では私(園頭先生)はインドに生まれたいと思っているが、今生は私(園頭先生)は日本人である。釈尊が行いて生まれて正法を説くといわれた国、この日本国、そして釈尊の生まれ更りであった高橋信次先生と時を同じくして生まれ、ぢかに正法を聞くことができたこの日本、今生ではやはり私(園頭先生)は、この日本を愛して生きる。人はすべて、現在、今、おかれている環境のすべてを愛してゆかないと世界はユートピアにはならぬ。私(園頭先生)はこの日本を愛するがゆえに、正法によってこの日本をユートピアとしたい。そのために、よいものはよいといい、悪いものは悪いという。日本人でありながらこの日本をよくしたいと思わない人は、どこの国を愛するというのであろうか、また、現在の日本をどうするというのであろうか。仏国土、ユートピア実現は、自分を愛し、家庭を愛し、住む所を愛し、生まれた国を愛し、そうして世界を愛するというように、自分を中心として愛は拡大されて行かなければならない。***************************************************高橋信次先生ご姉妹の談話(DVD版)1.「 心行の成り立ち」http://selabocatalogue.seesaa.net/article/356297576.html***************************************************ダウジング通信講座ご案内用無料サンプルCDのご案内詳しい内容はこちらをご覧くださいhttp://selabocatalogue.seesaa.net/article/361468248.html***************************************************<お知らせ>ダウジング通信講座】 http://www.selabo.jp/tushin/info.html【SE研究所ホームページ】 http://www.selabo.jp/【心と体を高める波動ショップ】 http://selaboshop.cart.fc2.com/【心と波動の世界・総合版】 http://sefuti.seesaa.net/****************************************************【送料無料】人を動かす新装版 [ デール・カーネギー ]価格:1,575円(税込、送料込)
2013.07.02
コメント(0)
神武天皇が、人類はみな兄弟である。世界は一家とならなければいけないといわれたことは神理から見て正しいことである。しかし、八紘一宇ということが侵略のように受け取られ、外国からは特に嫌悪され邪悪のように思われているのは、明治政府が天皇を現人神とし、日本天皇が世界統一の中心者となられる。外国はすべて、日本の支配下に入らなければならないのであるという意味に八紘一宇を解釈してきたからである。神武天皇の建国の理想の八紘一宇の精神は間違いではなかったが、明治政府以来の政府が間違ったのである。敗戦したからといって、神武天皇が建国の理想とされた八紘一宇の精神まで捨てる必要はない。外国の人々が世界は一つといっていることは正しいが、日本人が世界は一つというのは間違いであるということはないであろう。神武天皇といっているが、それはインドで正法を説かれた阿閦如来なのであるから、その方が「世界は一つにならなければならない」といわれたのであるから、八紘一宇という言葉で表現されている世界一家の理想が間違いであるということはない。むしろ、「世界は一つになるべきである」ということを建国の理想として建国されたのは、日本だけであることを誇りとすべきである。誇りとすべきであるということが戦前のように、誤った優越感を持って外国人を軽蔑してならないことは当然のことである。***************************************************ダウジング通信講座ご案内用無料サンプルCDのご案内詳しい内容はこちらをご覧くださいhttp://selabocatalogue.seesaa.net/article/361468248.html***************************************************<お知らせ>ダウジング通信講座実施中】 http://www.selabo.jp/tushin/info.html【SE研究所ホームページ】 http://www.selabo.jp/【心と体を高める波動ショップ】 http://selaboshop.cart.fc2.com/【心と波動の世界・総合版】 http://sefuti.seesaa.net/****************************************************【送料無料】人は死なない [ 矢作直樹 ]価格:1,365円(税込、送料込)
2013.06.27
コメント(0)
仏教といい、神道といい、キリスト教といっても、根本は一つの正法てある。説かれた国、説かれた人、説かれた時期等によって、神道、仏教、キリスト教と分かれていても、本来は一つの正法てある。世界の宗教は、もちろん日本のすべての宗教は、やがて、正法に帰一して来なければならないのてある。そうしたい人はそうすればいいが、各宗教団体は今の組織のま圭て正法を説くようになればよいのてある。そうして歴代の天皇が実践して来られたように、天皇に教って、日本全国民が「自霊拝」を実修することである。人間が神の子てあることを自覚するためには、肉体が人間てあり、死ねば屍となる存在であると考える唯物論は捨てなければいけないし、人生の目的は金儲けにある、財産をつくることにあるという資本主義の考え方も捨てなければならない。自分がしたいと思うことを自分がするのがなにが悪いかという自由主義の考え方、多教決が正しいとする民主主義の考え方も清尊しなければ、人間が神の子てある、宇宙大生命の子であるという神人合一の悟りは得られない。慈悲、愛というものは、自分白身が尊い神の大生命と一体なる神の子てあるという自覚を得た人のみが実践てきるのてある。自分が尊い神の子であるということがわかると、人もまた尊い神の子であるということがわかって愛を実践てきるが、自分が尊い神の子であるということを知らずに自分を粗末にしている人は、人もまた尊い存在てあるということがわからないから人を愛することはてきない。***************************************************ダウジング通信講座ご案内用無料サンプルCDのご案内詳しい内容はこちらをご覧くださいhttp://selabocatalogue.seesaa.net/article/361468248.html***************************************************<お知らせ>ダウジング通信講座実施中】 http://www.selabo.jp/tushin/info.html【SE研究所ホームページ】 http://www.selabo.jp/【心と体を高める波動ショップ】 http://selaboshop.cart.fc2.com/【心と波動の世界・総合版】 http://sefuti.seesaa.net/****************************************************【送料無料】生き方 [ 稲盛和夫 ]価格:1,785円(税込、送料込)
2013.05.30
コメント(0)
天皇行法は別名天皇神道という。神道では「神」と「人」とは一体である。それは幹と枝との関係である。神は「もとつ木」であり人間はその幹から出た一本一本の枝である。神道で榊の枝の根元の方を神前に向けて供えるのは、神の生命を享けて現われた子なる生命が、根元の神に帰一するまごころを示している。すなわち、神人一如が宇宙の実相である。自霊祥とは、自分の霊が神と一つなるものであることを自覚し、その神の生命を自分が自分で礼拝する行法である。この行法を天皇自ら実践して来られたのである。 この自霊祥が建国以来天皇家に伝わる行法であることを一般に明らかにされたのは理学博士、佐藤定吉先生であった。私(園頭先生)は昭四十年、国民会議の委員として出席している時、同じく委員であった正岡岩三郎、戸田秀一両先生がら佐藤定吉先生の「日本とはどんな国」という著書を頂いた。その中にこの「自霊拝」のことが書いてあった。この本の中で佐藤博士は『日本神道の奥義は、イエス・キリストが誰にも語らず秘めていられた、ヨハネ福音書第十四章九節「われを見しものは、神を見しなり」といわれたと同じ内容の行法が、不思議にも日本天皇行として、今日まで皇統連綿として、脈々としてわが日本に伝えられているのである。イエスは、天なる神の生命が、人の心の中に宿るのを見られたのである。欧米のキリスト教は、その在り方を今一つ奥へ突き進むと、そのクライマックスの最高峰へと高揚させるものが東洋の宗教、特に日本の自霊祥の天皇行であろう。日本国の存在使命と、キリスト教の存在使命とは、こうした密接不離の関係につながれていたのである」と書いていられ。これは佐藤博士がクリスチャンとして五十年間聖書の研究をされ、そうして「天皇行法」を知らわたその総決算である。【送料無料】天皇論 [ 小林よしのり ]価格:1,575円(税込、送料込)
2013.05.20
コメント(0)
「結婚とは陰陽の調和である」この言葉は高橋先生の講演の中にも出てくるし「人間釈迦第三巻」にも出てきている。これまで伝わってきた仏教書、経典、キリスト教の聖書の中にも「陰陽の調和」という言葉はない。「夫婦の調和」はあるが「陰陽の調和」という「陰陽」という言葉はない。「陰陽」の原理を神理でありとし教義としているのは日本の神道である。神道を深く学んだ人なら高橋先生が「結婚とは陰陽の調和である」と話された時、正法で説く神理と、神道で説く神理は同一のものであるとわかるはずである。神道は大きく分けて古神道と神社神道の二つに分かれる。ここでいう神道とは古神道のことである。 「陰陽の調和」と聞いた時に「あ、古神道も正法だ」と私(園頭先生)は直感した。はたしてそうであるかどうかは高橋先生に聞いてみる必要がある。それは同時に、私(園頭先生)か昭和四十八年一月「心の発見」(縁生の舟)をよんだ時に「なぜ、日本の神道のことが書かれていないのか」という疑問を解決することにもつながる。 「陰陽の調和」という言葉を聞いても、神道とのつながりを考えることもしなかったという人達は、仏教・キリスト教のことは勿論、神道のことも少しも勉強していなかったという人達であるといってよいであろう。 古事記の冒頭に書かれてあるのは、天地初発の天御中主神は、一方は陽である高皇産霊神、一方は陰である神皇産霊神となり、この陰陽の調和によって宇宙大生命は生々発展するということである。これが日本民族が持つ信仰の原点であった。だから日本民族は昔から「陰陽の調和」ということを大事にしてきた。世界の民族の中では「陰陽の調和」を宗教の原理とし、また、日常生活もその陰陽の原理によって律せられてきたというのが日本民族のあり方であったのであるから、この点の正しさは「正しい」といってよいことである。終戦後のアメリカ占領政策で、終戦前の日本のあり方はすべて間違っていたといわれても、それに媚びて「そうですか」という必要はない。正しいものは正しいというべきである。終戦後の民主主義、自由主義の考え方の中には、終戦前の日本が持っていた正しいことまで否定しようとする考え方が含められている。終戦前の日本の正しさを認めようとすることに対して、すべて「右翼的だ」というレッテルを張って認めまいとするのは、既にアメリカ占領政策に毒されていることになる。それは「正見」ではない。 正法は「正見」の大事さを説く。「正しく見る」ことがなければ正法にならないことをよく知って、よいものはよい、わるいものはわるいとする正しい批判精神を持たないといけないのである。 昭和四十八年六月、高橋先生の講演の中に「陰陽の調和」という言葉があったから「あ、これは古神道の原理と同じだ」と思ったから、その講演が終った時に私(園頭先生)は聞いたのである。【送料無料】苦難の乗り越え方 [ 江原啓之 ]価格:1,260円(税込、送料込)
2013.05.04
コメント(0)
昭和四十八年一月、私(園頭先生)がはじめて高橋信次先生著「心の発見」 (当時は「縁生の舟」といっていた)をよんだ時、ふと疑問に思ったことは「仏教とキリスト教のことは書かれてあるのに、どうして日本の神道関係のことが書かれていないのか」ということであった。 正法が宇宙の大原則たる法であるならば、仏教もキリスト教も神道も、また、ユダヤもイスラム教も、やがてはそれぞれの教義の間違いを捨てて、正法に帰一して来なければならないし、正法を将来に伝えて行くとするならば、その帰一の道を示さなければならない。 高橋先生存命中、神道関係の人で講演を聞くという人は少なかった。それは無理もない。高橋先生の著書のどこを見ても、日本の神道について書かれたところはないからである。 宇宙創造の神は、仏教、キリスト教関係の人は救うが、神道関係の人は救わないというのであろうか、そんなことはないはずである。正法が宇宙の大法であり、すべての人類がそこに帰一してこそはじめて救われる道であるならば、神道関係の人も救われてゆく道を示さなければならない。高橋先生が説かれ、また、書かれたものの中には、その時機が来なければはっきりというわけにいかないし、また、書くわけにも行かないというものがあったことをわれわれは知らなければならない。例えば、「資本主義も共産主義も、どちらも唯物的であるからいけないのである」といわれたことは、この二つの主義は、ユダヤのフリーメーソンが、世界を資本主義国家群と共産主義国家群の二つに分けて、それを相戦わせることによって、ユダヤによる世界支配を実現しようとして考え出した謀略思想なのであって、神理ではないのであるから、正法を信ずる者は、資本主義すなわ民主主義の奴隷になってもいけないし、もちろん共産主義の奴隷になってもいけないし、どちらの主義思想をも冷静に第三者の立場で(これが正見である)批判しなければならないのであり、それは当然、ユダヤのフリーメーソンの政策を批判しなければならないことになるわけである。 高橋先生の著書をよみ、また、講演を聞いた人は合計すると何十万人となるであろう。(正法誌1982年2月号より抜粋)【送料無料】ガラクタ捨てれば自分が見える [ カレン・キングストン ]価格:540円(税込、送料込)
2013.04.02
コメント(0)
人間がどんなに神に叛こうとも、その人が気づくまで神はじっと待っていられる。決して強制的に神に振り向けさせようとはされない。それはちょうど大きな魚がかかって、暴れる時には、どこまでも糸をくれてやり、そのうちにそろそろたぐり寄せるのに似ている。 人間が悪に走るときには、神は悪に走るままに委せていられる。 この世で悟らなければ次の世で、次の世で悟らなければ、そのまた次の世でと、必ず救われることになっているのである。 人生をこの世限りで見ると、一生悪いことをしたままで終わる人もあるから、中には、神も仏もない、という人もあるのであるが、神仏はないことはない。必ずいつかは救われることになっているのである。 あの世とこの世の仕組みの不可思議さは賛嘆するほかはない。 高橋先生はさらに言葉を続けられた。 「明治維新によって天皇制に返し、国民に自由を得させるつもりであったが、明治政府は官僚による権力金権政治となり、天皇を宇宙創造の神の代理者である現人神とし、その天皇の御名において、国民を束縛するものとなり、寛永二年に天上界で計画した通りにはゆかなかった。 (西郷隆盛が鹿児島に下野したのは、征韓論に敗れたからであるという歴史学者が多いが、西郷さんが考えていられたのは「徳をもってする政治」であった。だからいよいよ鹿児島に帰られる時、大久保利通に言われたのは「おいどんは、こんな政府をつくるつもりで明治維新をやったのではなかった」ということであった) 世界の情勢は、白色人種が有色人種を支配するという体制が強まっていった。その世界の趨勢は、やがて第二次世界大戦となり、日本は敗戦するということが天上界ではわかっていた。 その敗戦による混乱した日本をまとめるには、それだけ徳を持たれた方を日本の天皇として生まれさせる必要があるということになって、大正天皇の御子として、かつてインドで阿育王として出られた方を生まれさせるということになったのである。 敗戦によって天皇は現人神の座から下りられて「人間宣言」をされ、国民は完全な自由を得ることになった。 もし、終戦前のような状態であったとしたら、とても正法は説かれなかった。「神は神社の中にいられない」「神を祭る儀式は必要ない」とか、さらに「天皇は神ではない」等といおうものなら、たちまち不敬罪で刑務所行きとなるところであった。天皇も法の実践者であるのである。 かくしてインドの当時から二千5百有余年を経て、日本は正法が説かれるにふさわしい国となったのである。 終戦の時、今日のように日本が繁栄することを考えた人は一人もいなかった。 交通機関は発達し、昔は一部の人しか外国へは行けなかったのに、今は普通の人でも、どしどし海外へ出かけるようになり、日本人でも外国語を話す人が多くなり、日本の経済発展は海外に日本ブームを巻き起こし、外国の人たちが日本語を習い、日本食を食べ、日本文化を吸収しようと努力するようになった。 豆腐、味噌、醤油は日本人だけのものであったのに、今はアメリカ人がそれらを製造している。 日本との間は、終戦前には全く想像することもできなかったほど融和が深まってきた。 世界が平和になっていくためには、日本人は外国人の思想宗教を、外国人は日本人の思想宗教を理解しなければならないことになってきた。そこに「正法」が出現したのである。 世界は「正法」を基準としてユートピアになっていかなければならない。 二千五百年前の釈尊の予言通り「正法」がひろがりやすい情勢がつくられつつある。 (おわり) (正法誌1982年2月号より抜粋)心の指針 苦楽の原点は心にある/高橋信次【クーポンがもらえる!読書家応援キャンペーン実施...価格:816円(税込、送料別)
2013.03.02
コメント(0)
法華経はこのように仏法の淵源を示されたものであるからこそ、天台、伝教、日蓮という方々が大事にされたのであるが、この法華経の真意は、現在の日本仏教では失われてしまった。その意味において、正法会は法華経の真意を復活させる運動もしなければならないのである。 さて、インドに釈尊として出生された方が、いよいよ予言に順って、ジャブドーバー、東の国、日本に出生されなければならない年が近づいてきた。出生した時に正法が説かれるにふさわしい状態にしておくことが必要となってきた。 天上界でその計画がなされた。 このことについて高橋先生が私に話されたのは昭和四十九年九月であった。 「予言に順っていよいよ日本に出ることになって、最初、僕は北海道へ出ようかなと思ったが、北海道は寒いし、東京へ出るには遠いし、それで長野を選んだのである。長野はインドのカピラと似たような気候で、あの佐久平の景色もカピラ周辺ににているところがある。 園頭さん、あなたは鹿児島を選んだ。なぜ鹿児島を選んだかというと、鹿児島は日本中で一番男尊女卑の弊風が強い所である。男尊女卑は正法ではない。そこにあなたは、本当は、二十三、四歳で一つの教団をつくって男尊女卑の弊風を改め、そうして僕のところに帰依することになっていたのであるが、最初の計画になかった大東亜戦争をしなければならないことになり、そのために僕も悟るのが十年遅れたし、園頭さん、あなたも生長の家などに行って廻り道をしなければならないということになった。 このことを天上界で決めたのは寛永二年だった。当時は徳川幕府の時代である。武家政治の封建体制の中では一般庶民には自由はなかった。宗教はすべて幕府に協力するものとしてしか存在を許されていなかった。 正法はすべての人々の自由な心によって受け入られなければならない。徳川幕府の政治体制下で心の自由も束縛されている日本国民に、完全な自由な心を持たせるには、徳川幕府を倒して、天皇制に返す以外にないということで、天上界で日本に勤王思想を起こす目的として、北畠親房を生まれさせて「神皇正統記」を書かせることになった。そうして各地に勤皇愛国運動を起こさせた。 光の天使がこの地上に出て正法を説く場合、その本体が現れてきた時に正法を説きやすくするために、それ以前に分身を先に出して準備の地ならしをすることになっている。明治維新の志士というのは、そういう人たちであった。(世界の歴史を振り返って見る時、歴史が大転期を迎えるのは限定された何人かの人々があって、その人々達の趣旨に賛同する大衆があり、その合成力によって歴史は変わっていく。左翼の唯物史観の歴史学者は、大衆の力だけで歴史は変わると主張するが、そんな事実はない。だから、大衆の力によって共産革命が起こり、世の中が変わったということは絶対にない。 例えば、ソ連や中共の革命にしても、大衆が共産革命をやろうと話し合ってやったのではなかった。私は高橋先生から、明治維新の志士が光の天使の分身であり、江戸中期に突如として勤皇愛国運動が興ったのも、天上界の計画であったということを聞いた時に、これまで世界の歴史は、その必然性によって自然に変わっていった、変わってきたと思ってきたのであったが、全ては天上界からの計画で実に綿密周到に指導されているのであることを知って、なんと気の永い愛のはからいであろうかと、神の愛の深さ、神の愛を、この地上に実現せんとしていられる光の天使達の愛の深さに驚いたのであった。 (正法誌1982年2月号より抜粋)人間釈迦 2【1000円以上送料無料】人間釈迦 2/高橋信次価格:816円(税込、送料別)
2013.02.12
コメント(0)
「ある時、釈尊がみなにいわれた。 「あなた達は、私が説く正しい神理を、よく理解し、よく悟ろうとは思わないか」とそうしてまたいわれた。三回いわれた。そこにいた菩薩達はみな合掌して「願わくばその神理をお聞かせください。私達は今からお説き下さる釈尊のお言葉をそのまま信じ奉ります」 「さらば、あなた達は私が説く秘義を聞いて、今まで抱いてきたであろう最後の疑問を解決しなさい。これから説くことが仏道の源泉であり、神理の大心髄である。 一切世間の迷える衆生はみな、私を四十余年前にカピラの城を出て、ガヤダナの菩提樹の下で禅定して悟った者のみと思っているであろうがそうではない。私が成仏したのは、数え切れぬほどの無限の昔であった。それはこの地上の数字をもっては計算できない。私はこれまでもたびたびこの地球上に姿を現してたくさんの人々に法を説いてきた。その最初に私の法を聞いたことのあるひと達がまた私と時代を同じくして生まれて私の下に集まるこことになったのである。それがあなたたち菩薩である。これを地湧の菩薩という。 私はこの地球上の世界だけで法を説くのではない。他の世界でも法を説いて、その世界の衆生を教化してきたのである。私は徳の薄い、罪の深い人達をも救わんがために、自ら出家して、このようにすれば救われるというその模範を示して、みなに悟りを得させようと思ったのである。人の心は千差万別だから、それぞれにふさわしく、それらの人々に善根を生ぜさせようとして、いろいろな因縁や譬え話もしてきた。如来が衆生を救わんとする大慈大悲の心は、久遠の昔から永遠の未来に到るまで、片時もやむことはないのである。生命は本来生滅することなく、永遠に実在するものであるが、その永遠の生命を持って、生まれたり死んだりするような姿を示すのは、もし如来が永くこの世に生きていると、徳の薄い者は、仏とともに、如来とともに、同じ時に生まれることが出来たそのありがたさを忘れ、いつでも話が聞けると思って油断をして怠け心を出し、煩悩執着を持って善いことをしようとも思わなくなる。 肉体が死んで、この世に姿が見えなくなると「あぁ、しまった、生きていられる時に話を聞いておけばよかった」と思う。 そのように、法を聞こうという心を衆生に起こさせるために如来も死ぬのである。 あなたがたも思うであろう。如来とともに、この世に生を享けることがどんなに難しいことであるかを。 しかし、その人の徳いかんによっては、来世で、如来とともに生まれて出ることができる人もあれば、そうでない人もあるのである。 来世で如来とともに生まれて出ていても、如来を見ることが出来なかった人は、それは自分がまだ怠る心があったのだということに、つくづく反省をして、一生懸命に徳をつみ励んで、この次は、ぜひ如来にお逢いしたいという、如来を慕う心を起こせば、この次は如来に逢うことが出来るのである。 そのように、如来に逢いたいという心を起こさせるために、本来永遠の生命を持ちながら、肉体を持って生まれたり死んだりという姿を現すのである。(ここには、如来も転生するが、われわれも転生する生命であることが示されている。如来に逢う縁は私達が心にそれを思って善いことをしなければいけないのである。高橋先生の講演を聞かれた人は、この如来寿量品と同じことを話していられたことに気づかれたであろう) (正法誌1982年2月号より抜粋)人間釈迦 1人間釈迦 1/高橋信次【Marathon05P02feb13】価格:816円(税込、送料別)
2013.02.04
コメント(0)
「世尊よ(釈尊のこと)、私共が釈尊と同じような無上の悟りを得ようと思ったら、どのようなことを修行したらよいのでしょうか」釈尊はいわれた。「善男子よ、それはただ一つしかない。その道こそは大きな悟りを得るための直道である。(直道とは真直ぐな近道ということで、教えの中には方便を使った廻り道をする説き方もある。直道とは、そのものズバリということである)善男子よ、この法門を無量義と名付く。これを学ぶにはまず一切の諸法は、永遠に昔も今も、姿形なくして存在するものであり、無限小に至るまで、また、生まれるとか滅するとかいうことなく、ここにあり、あそこにあるということなく、動くといっても動くことなく、どこかへ消え去るといって、消え去ることもなく、宇宙に遍満して、今すでにここに存在するものである。本来一つである。本来一つのものであるのに、五官にとらわれて、あれはあそこに、これはここに、あれとこれは違い、損したとか得したとか、物や形にとらわれた考え方をしているから、そのとらわれが悪業となって地獄界等へも輪廻することになるのである。それぞれ、その人の機根、性格は違う。法は本来一つであるけれども、その人の機根、性格が無限に異なるうに、いざ教えるということになると無限の説き方になる。 一法とは無相なり、無限の姿に展開されたものは、その姿だけを見ると、あれとこれとは違って一定の姿をとることがないから不相である。どれとも違う。どれとも違う無限の姿を現しているが、それは本来一つのものがそのような姿を現しているに過ぎない。それを名付けて「実相」という。この実相を知れば、いづれにもとらわれることなく、衆生に慈悲を施し衆生の苦を救うことができる。 そのような心を持てば、三世の諸仏はみなを守護され、悪魔に襲われたり、霊能だけに興味を持って正法からはずれるということもなく、法を説くことが自分の楽しみとなり、人の楽しみともなる。このことが分かって、人に喜びを与えることを実践することが無上の悟りを得る近道である」 (ここには心と行いの大事さが説かれて、拝めばよくなる、読経すればよいとは書かれてないのであるが、後世の頭の良い人が、人を信じさせる手段として付け加えたところには、読経や写経をせよ等と書かれているので、法華経という一つのお経の中にも矛盾したことが書かれてあるが、われわれはその正しいところだけを学べば良いのである) (正法誌1982年2月号より抜粋)原説般若心経 内在された叡知の究明/高橋信次【RCP】価格:866円(税込、送料別)
2013.01.19
コメント(0)
日本民族は、罪は祓えば消えるものとして扱ってきた。この精神は「大祝詞」に現されている。「罪という罪は在らじと(あらじと)、科戸(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つことの如く、朝(あした)の御霧(みぎり)、夕べの御霧を、朝風、夕風の吹き払う事の如く」罪は洗い清め、祓えば消えるものであることが形式化されたのが、禊と御幣をもって祓うという儀式である。現在は、この罪の浄化の意味が失われて、単なる形式とされてしまっている。だから、形では救われないということもいわなければならないのである。 日本人が罪は祓えば消えるものとして捉えているのに比べて、キリスト教国民は、罪は原罪として本来人間に内在するものであるから、それはどんなになくそうとしても、人間の力ではどうにもできないのであると考えている。このアダムとイブとの原罪説はキリストの教えではない。キリストは「悔い改めよ、さらば天国は汝らの手中にあり」と説いていられる。原罪説を強調し、その罪をなくするには、ひたすらキリストの御名を崇める以外にないと説いたのはパウロである。現在、キリスト教会で説かれているのはキリスト教ではなくてパウロ教であるから、仏教が大乗仏教から原始仏教に帰れという運動が起こっていると同じように、キリスト教もパウロ教から原始キリスト教に帰らなければならないのである。原罪説の上に立って、キリストの御名を唱えなければ救われないと説いたパウロが、日本に親鸞上人として生まれてきた。 パウロと親鸞上人は同一人物、同一霊魂なのであるから、だから、パウロと親鸞上人の信仰態度は同じなのである。親鸞上人が人間を罪悪深重の救われ難き人間が救われるためには、ただひたすらに南無阿弥陀仏と唱えよと説かれたことは、パウロが「キリストの御名を唱えよ」と言ったことと同じなのである。 親鸞上人の信仰は、釈尊本来の教えに背くのである。釈尊は「端座して実相を観ぜよ、さらば衆罪は草露の如く消失せん」と教えていられる。 「禅定瞑想して、人間神の子なる実相を観ぜよ、その神の子の本質を自覚すれば、それまで犯してきたたくさんの罪は、朝日にあえば霜や露がたちどころに消えるように、その罪も消えてしまうのである」と説かれたのである。 この釈尊の教えは、日本の神道が「罪は祓えば消える」と捉えてきたことと同じである。日本に到来してきた仏教は、玄奘法師がインドから持って帰られた経典が中国語に翻訳され、天台大師はその中から法華経を中心として選ばれ、それを日本の伝教大師が中国へ行って学んで帰られたものが中心になっている。法然も親鸞も日蓮も、みな比叡山に登って伝教大師が伝えられたものを学ばれた。 法華経には後世の人々が付け加えた間違ったものもあるから、その部分は除いて理解しなければいけないが、天台大師、日蓮上人が法華経を第一とされたのは「第二無量義」と「第二十八如来寿量品」があったからである。 (正法誌1982年2月号より抜粋)【1000円以上送料無料】心の発見 神理篇/高橋信次【100円クーポン配布中!】価格:816円(税込、送料別)
2012.10.20
コメント(0)
日本民族は、太陽の主宰神を天照大神と呼び、日本人はその太陽の子であるという自覚を持ってきた。この日本民族の精神は、明治になって日本の国旗を「日の丸」とすることによって象徴された。古代エジプトにおいても、また古代インドにおいても、太陽は神の象徴として崇められてきた。終戦前の日本では、朝早く起きると戸外に出て、太陽に向かって柏手をして礼拝をする人をよく見かけたが、終戦後は全く見かけなくなってしまった。太陽は万人に光と熱とを平等に与えている。そのように、宇宙創造の大神の慈悲と愛は、万人に平等に与えられている。人間の心に、大小、広狭、高低、浅深の差があるのは、それがその人の運命ともなって現れてくるのであるが、それは神がえこひいきされるのではなくして、その人が神をどのように理解し、人間とはかの自覚の程度によるのである。日本民族は太陽族だと呼び、人間は神の子であるというのが日本人の自覚であった。だから、昔の日本人はなにごとも「おてんとうさまのおかげで」と感謝してきた。このような心は早くさせたいものである。釈尊が生まれられた釈迦族もまた、太陽族といわれ、釈迦族の人々はそれを誇りとしていた。その王子として誕生された釈尊は「日輪」と呼ばれた。仏像が造られる以前には釈尊を現すものとして日輪が描かれた。その釈尊を日輪として表現した彫刻は今もインドの博物館に見ることができる。 神と一体となり、もっとも神の心をよく知って正法を説く方を如来というのであるが、如来は次にどこに生まれるかを予告することになっている。玄奘三蔵法師はナーランダで「日輪はこの次ジャブドービバに生まれられる」ということを戒賢老から聞いている。 釈尊が、このつぎの出生の地を日本に定められ、二千五百年経って正法が説かれるにふさわしい国にしておくためのいろいろな計画が天上界からなされたというのである。日本は正法相応の国として守られてきたのである。 (正法誌1982年2月号より抜粋)幸福になれる黄金の法則 6【1000円以上送料無料】愛の旅路/助安由吉【100円クーポン配布中!】価格:1,020円(税込、送料込)
2012.10.09
コメント(0)
ジャブドーバー(釈迦は日本に生まれた)ある方からこんな質問が来たので、今回はそれに答えることにしよう。質問の要旨は、ゴーダマ・ブッダは、なぜ日本を再生の地としたか。どうしてアメリカや他国を選ばなかったか、というのである。一口でいえば、仏教―正法が伝えられやすいからであった。二千五百余年前に釈迦は、ジャブドーバー(東方の国)の、ケントマティ(都会)において、ふたたび正法流布を行うと弟子たちに宣言した。どうしてこのような宣言になったかというと、今日の世界情勢がどのように動き、人類の意識がどう変わっていくか、ということが、ブッダには理解されていたからである。まずこのことが第一点。第二点は、正法を再興する場合の地理的条件が加味されたのである。世界の交流が始まったのは、せいぜいここ百年ぐらいの間である。それまではごく一部の要人、商人を除いては、ほとんど他国との交渉を持つことがなかった。また持てなかった。正法が流布されるためには、言語や地理的条が当然考慮されてくる。仏教がインドからチベットに、そして中国に伝わり、日本に渡ってきたのも、こうした環境的理由があって必然の過程を通ってきたのである。第三点は、正法を理解するにはそれを受け入れる基礎的土壌が必要である。伝統や風習が異なり、ものの考え方に大きなへだたりがある場合は、正法を突然持ち込んでも、これを咀嚼するのにかなりの時間が要るだろう。しかし日本における仏教の歴史は古く、そして伝教大師が法華経を中国から持ち込むことによって、仏教は定着したのである。その後、仏教は形を変え、他力に変わっていったが、形だけとはいえ仏教が日本人の生活に溶け込んだことは事実であり、正法の真意を伝えるのに、理解しやすい条件を生み出している。一方また、日本人の勤勉さ、進取の気性、他国の文化を受け入れる柔軟な素質などは、今日の経済発展なり、科学や文化の進歩をみれば釈然としてくるであろう。このように、正法を流布するという前提で、日本という国が選ばれ、今日、具体的な活動となっているのであり、そうしてここへくるまでには、現象界の状況が絶えず見守られ、実在界で計画されてきた。それゆえ、ブッダの公約は、必然の形をとって現在に至っているわけである。第三者から見ると、アメリカやヨーロッパでもと思われるであろうが、右の事情を参酌すればおのずと理解されておるであろう。正法流布は、こうした計画性の下に進められてきている。(正法誌1982年2月号より抜粋)悩み多い日常生活を心豊かに、明るく、のびのびとおくるための智慧がいっぱいつまっています!静かな感動を呼ぶ話題のシリーズ第5弾。【送料無料】神理のことば(5) [ 助安由吉 ]価格:1,050円(税込、送料別)
2012.10.05
コメント(0)
全20件 (20件中 1-20件目)
1