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年に一度くらい、長野の勉強会では「心行」の解説をすることがあります。隔月でお送りしています会員さん向けのCDにも、その内容は収録しております。そのような事で、今年も、春先に解説をしてみたのですが、その録音した内容のCD起こしをして、その内容を、こちらのブログに順次掲載しております。内容が良いか悪いか、またレベルが低い高いは別としまして、誰にでも理解できることを目指した、一つの解説方法だと思って、ご理解いただけますと、ありがたいと思います。こちらの掲載は、ある程度の期間にわたりますが、少しずつ書いていく予定です。http://blogs.yahoo.co.jp/sefuti/folder/1500100.html正法真理を学ぶにあたりまして、この「心行」は要となると思います。園頭先生は、高橋信次先生の「正法」を学ぶ団体は、この「正法」を遵奉出来るかどうかが、本物かどうかの見極めになる、という様な事を言われておりました。※正確に覚えているわけではありませんが、そのようなニュアンスのことをお話しされていました。
2009.11.09
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高橋信次先生の作られた心行です。http://plaza.rakuten.co.jp/hhokari/009002書き込んである内容に、少しコメントを追加しました。以前、音声版をリンクしてあったのですが、いつの間にかリンク切れになってしまったので、新たに、リンクさせました。音声ファイルも聞けるようになっています。ご活用ください。心の中の調和を図りましょう、
2008.11.11
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■現世利益 現世利益は、正しい信仰をした結果として、自然に与えられるものであって、現世利益を先に求めて信仰するのは邪道です。 「正しい生活をすることによって、神仏より調和のエネルギーが供給されます。調和のエネルギーが供給されますと、物事に迷うということがなくなってきます。自分でも想像できないような良い結果が与えられます。また、考えられないような智慧が浮かんできて災難を未然に防いだり、物事がうまく運んだりします。こうした調和のエネルギーは、食べ物から与えられるものではありません。各人の正しい生活の中から与えられるものです」(高橋信次先生の言葉より)と教えてありますように、まず正しい生活をするということが先です。それが信仰です。そうすると結果としていい事も起ってくるというのです。 信仰する人にとってここは非常に重要なな点です。 今まで信仰をしていなかった人が信仰をするという場合に「信仰やるとなにかいいことがあるのか」といったり「お陰があったら信仰しよう」という人があります。信仰するということは、なにかを拝んだり祭ったりすることではなくて、正しい生活をすることであることを忘れないで下さい。よく、「あの人はなにも信仰していないのに運がいい」という人があります。その人は、なにも祭ったり拝んだりしてはいないが、心が明るく感謝に満ちて、生活が正しいからであります。正しい生活を始めた人が心を込めて祈ると、その祈りには天上界から協力することになっています。だから、よい事も起こってくるし、いい智慧が与えられることにもなるのです。1981年7月発行正法誌第35号より精神世界を歩む勇者たちへ
2007.11.23
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人生をこの世の一回限りだと思うから「なかなかよくなれない」と思うのです。永い永い輪廻転生の中で、一回は一回の生れ返り毎に、心を大きくしてゆかなければならないのです。中には生れた時よりも悪い心を持って、地獄へ落ちて、反省しなければならない人もあるわけですが、短かい一生で、完全な善に到達するということはできません。生れてきた時よりも、ひと廻り心を大きくして、あの世へ帰ることができれば、それが大成功なのです。 他力信仰を説いた人、また信じている人は、人生は あの世とこの世の違いは、肉体があるかないかの違いであって、心の世界はそのままですから、この世で怒り、憎しみ、嫉み等を持ったままで、いくら念仏や題目を唱えても、それで救われるということには絶対にならないのです。 今生の一回だけで、完全になり切ることができないからといって、「悪性さらにやめ難し」と嘆く必要はありません。人間の神仏の子なる本性、既に与えられている調和のエネルギーは、私達が自覚し、心を開くことによって、発現し顕現することを待っているのです。調和のエネルギーそのままの発露を、善なる行為というわけです。調和のエネルギーが発露されて善なる行為をすると、私達の心は、「これががいいのだ、これがぽんとうだ。」と納得するわけです。そうして前生では勉強することのできなかった、新しい勉強をするために、生れ変ってくるのです。 正法誌 第35号 1981年7月号より抜粋~超宗教の客観的な死生観正法神理の世界
2007.10.27
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私達は神仏の子として、万人は等しく調和の光、エネルギーを与えられてあるのであります。人間の運命に差があるのは、その等しく与えられている調和のエネルギーを、その人がどの程度顕現し、表現しているかによって違ってくるわけです。写真機のレンズの絞りは、外から入ってくる光りを調節するためのものですが、心の絞りは、実は、私達に内在するところの既に与えられている調和のエネルギーを、どのように表現するかの作用をするわけです。心の狭い暗い自己中心の自我意識の強い人は、心の絞りが小さいわけですから、内側にはどんなに大きな光りがあったとしても、小さくしか現わすことはできません。心の広いゆたかな愛の心の強い執着のない人は、心の絞りが大きいわけですから、大きく光りが出て行きます。心を固く閉ざしている人の人生が真暗であるというのは、その人が心の絞りを固く締めて、内在されている調和の光りのエネルギーが、外に現われないようにしているからそういうのです。宇宙意識即ち神の調和のエネルギーは、私達が信仰するのに従って与えられるのではないのであって、既に内在し与えられ、私達一人一人が神仏の子としてすべて与えられてあるのです。これからもらえるのではなくて、既に与えられてあるのです。このことに気づくことが正しい信仰の第一歩なのです。 他力信仰の最大欠点というよりも大きな過ちは、そのことを自覚させずに、切捨てなければならない悪を、本来人間は待っていると教えたところにあります。~正法誌 第35号 1981年7月号より抜粋~【心と波動の世界・総合版】http://sefuti.seesaa.net/
2007.10.23
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心を明るくしなさい、大きくしなさい、というと、どうしたら明るく大きくなるのかわからないという人があります。それには感謝すべきものに、すべて感謝するということをするのです。多くの人達は、感謝しなければならないことはーぱいあるのに、そのことは当り前だと思って感謝せずに「あれもほしい、これもほしい」「あの人がこういった。この人がこうした」「わたしはしてあげたのに、あの人はこうしない」などと、不平不満、怒り、悲しみなどばかりで心の中をいっぱいにしている人があります。そういう人の心の中には喜びの心はひとつもなくて、暗い心ばかりがありますから、その暗い心が原因となって、病気とか不幸という悪い結果となって現われてくるということになるのであります。運命をよくしようと思う人は、どこかの神さまや、仏さまにお祈りする必要はないので、感謝すべきものを探してまず感謝して、心を明るくして、暗い心を持たないようにする(これを執着煩悩を捨てるという)ことです。 感謝するものは一つもないと嘆いていられる人があるかもわかりません。そういう人はなによりもまず、自分が神仏に生かされていることに感謝するのです。呼吸できることに、空気に、水に感謝することです。胃や腸や肺や心臓や、また血液が循環していることに、大小便が気持よく出ることにも感謝するのです。どんなに貧乏しているといっても、なにも食べないという人はない筈です。だとしたらその三度三度の食事にも感謝するのです。裸で生活している人はない筈ですから、着ているものにも感謝ができます。借りている家であったとしても、その家があることにも感謝しなければなりません。そのように考えてゆくと感謝しなければならないものが、いっぱいあることに気づかれるでしょう。あなたが運命をよくしようと思われたら「なにか変った大きなことがないと感謝ができない」というなにか異常なものを求めるようなそういう心をまず捨てることです。そうして、これまで当り前だと思って感謝していなかったものの中に、感謝しなければならない大事なものがあったのだ、ということに気がつくことです。 一つのことに感謝ができるようになると、その感謝の喜びは雪ダルマ式に大きくなって運命が変ってゆきます。感謝こそは幸福の源泉であります。この感謝の心を持つということも、自分がしなければ神仏がして下さるわけではありませんから、他力ではなくて自力なのであります。~正法誌 第35号 1981年7月号より抜粋~「21世紀の政治目標」 日本民族の役割を果たしていくために【著者情報】(「BOOK」データベースより)助安由吉(スケヤスヨシキチ)幼年期からのさまざまな体験のなかで絶えず「心」の問題を追及。1975年の高橋信次先生(人道科学研究所所長)の講演や、それをきっかけとした反省や内観などをとおして、誰もが持っている心の偉大性を自覚するにいたる。最近は日本国内のみならず海外に活動の場を広げ、止むことのない神理の勉強と、瞑想の実践によって、「心」の在り方を追及し続けている
2007.09.04
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釈迦が誕生される以前のインド、また、キリストが誕生される以前の西洋には、人間の運命は神さまが一方的に人間に与えられるのであるという考え方がありました。このような考え方を宿命論といいます。他力信仰はこの宿命論から生まれたのです。 病気や不幸になった人は、その病気不幸は神さまが与えられたのであるから、神さまにご気嫌をとって今度は健康幸福を与えてもらわないといけない。神さまにご気嫌をとるためには、沢山の供え物をしなければいけないということで、お供えの儀式がつくられたのです。そういうわけで他力信仰は神仏を祭る儀式が伴います。このお供えがエスカレートして、「神さま、私がいちばん大事にしているものをお供えしますから、どうぞ、私の祈りを叶えて下さい」といって、自分の大事な息子や娘を犠牲としてお供えをするということまで行われたのです。 それで釈迦もキリストも、「運命は自分の心がつくるのである。信仰は心のあり方を教えるものである。神に供え物は必要はない。」といって、自力の道を説かれたのであります。 私達はみな神の子です。同じような力を与えられております。神が人間に罰を与えられることはありません。私達の心のあり方が、自己中心的で自己保存の自我が強くなると、その程度に順って神仏の宇宙意識のエネルギーの現われ方が違ってくるし、私達の心が安らかに調和されてくる度合によって、神仏の心のエネルギーの現われ方が大きくなってくるのです。いわば私達の心は、ひとつは写真機のレンズのしぼりのような働きもするわけです。しぼりを強くしぼると(自我が強くなると)光りは少ししか入らなくなりますし、しぼりを全開にすると(自我がなくなってくる)光はレンズ全体から大きく入ってくることになるのと同じです。このことを、 「神仏の心にかなわない自己中心、自己保存の自我に溺れれば、それに比例して宇宙意識の調和のエネルギーの供給はかわってきます」 と教えてあるわけです。 心のしぼりを小さくするか、大きくするかは、神仏がされるのではなくて自分がするのです。心のしぼりを小さくして自我意識が強くなるに順って心が暗くなり、気が重いということになり、するとその心の現われとして病気とか不幸が起ってくるわけです。だから、病気だ、不幸だという人は、「どうして自分はこんなに運が悪いのだろう」と嘆かないで、「こうなった原因は心を小さく暗くしたことにあるんだ」ということを反省して、その原因となっていた心のあり方をやめて、心を明るく大きくすれば病気や不幸は自然に消えて(もっとも病気には適当な治療も必要ですが)健康幸福になるということになります。~正法誌 第35号 1981年7月号より抜粋~天上の光地上の愛 主エル・ランティの仏国土主エル・ランティと大天使たちが誓った真実のユートピアとは?新興宗教の誕生から救済までを高橋信次師の正法に学び、師の教えを広めるべく本を出版してきた著者が、初めて挑戦した異色小説。
2007.08.30
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-自力信仰か他力信仰か-このことについては、絶えず宗教家の間で諭争がくり返され、今だに結着がついていませんが、高橋信次先生の出現は、この論争に終止符を打つことになったのです。 ===========================<高橋信次先生が大阪で講演をされた時のことを例に>みなさん、今朝、私は羽田を立ってこちらへ来ました。東京の上空もそうでしたが、大阪の上空も光化学スモッグで、空気がどんより重く濁っていました。この光化学スモッグは、神さまがこしらえたのでしょうか、それとも人間がつくったのでしょうか、どちらでしょうか。それは人間がこしらえた筈です。人間がこしらえた光化学スモッグを、神さまや仏さまに、念仏を唱えたり、お題目をあげたり、祝詞をあげたりして、それでスモッグがなくなるでしょうか、スモッグを出さないようにするためには、「スモッグはどこから出るか」「どうして出るか」その原因をつきとめて、スモッグを出ないようにする以外、無くすことは出来ないのです。 それと同じように、人間の悩みも苦しみも、病気も不幸も、「それはどうしてできたか」その原因を突き止めて、無くするようにしなければいけないので、人間が勝手に作った悩み、苦しみを、いくら神・仏に祈ってみたって、それが無くなることは絶対にありえません。正法は、その人間としての正しい心のあり方を説くのであり、釈迦、キリストの説かれたものは、その「正しい心のあり方」即ち「正法」だったのであります。===========================この「ことば」だけで、どちらが正しい信仰か分かるのではないでしょうか。~正法誌 第35号 1981年7月号より抜粋~心の復興 反省止観と神我の目覚め 1993年、屋久島の地で霊的自覚を得てのち、心身の癒しと神理正法流布の講演活動を続ける著者による、目覚めと安らぎを得るための愛の技法およびひかりの世紀を生き抜くためのメッセージ集。
2007.08.01
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この「心のエネルギー」の言葉を読まれた方は、「信仰とは、結局は自力であって他力信仰はいけないのだ」ということを悟られないといけません。高橋信次先生は、「他力によって悟られたものはー人もいない」といっていられました。日本に伝来した仏教は大乗仏教でした。大乗仏教は主として他力信仰を説いています。念仏や題目を唱えれば救われるというのは、他力信仰の代表的なものです。それによって救われた人は一人もいないというのです。なんと厳しい言葉でしょうか。 人はみな、神仏に直結している神仏の子であることは誰も否定できない筈です。神仏の子である人間が、なぜ殺人や詐欺、強盗をやったり、また、病気になったり、悩んだりするのでしょうか。それはみな神・仏がそのようにさせられたのでしょうか。神・仏がさせられたのであったら、神・仏に頼んで、そうさせないようにと、お願いもしなければいけないということになりますが、神・仏が、そうさせられる筈がありません。そういうことをさせるものを、私達は神・仏とは言わない筈です。悪いことをするのは、結局人間が悪いわけです。自分が悪いことをしたのであったら、自分が悪いことをしないようにする以外にないので、自分が悪いことをしながら、「私が悪いことをしませんように」といくら祈っても、悪いことをしないようにはならない筈です。~正法誌 第35号 1981年7月号より抜粋~まもなく宇宙人が到着します
2007.07.26
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この「心のエネルギー」の言葉によって、信仰のが全てが説かれています。一部の人にしか分からないような難しい哲学的なものが宗教だ、というような考え方は捨てなければいけません。中には「わからないところがありかたい」といっている人もありますが、それは全くのウソで、何の事か分からないのに、それが有り難いという事があるはずがありません。「お経はわからないところがありがたいのだ」と得々といっている坊さんがありますが、これは神理が、そして信仰とはどういうものかが少しもわかっていない人であります。 学問がないと分からない、というものであっても、神理ではありません。例えば高校・大学を出た人でないと神理は分からないというのであったら、それは万人の救いの神理ではありません。人間は神仏の子であるといいますが、高校・大学を出た人だけがわかるのが神理で、それ以下の人は神理はわからない。高校・大学を出た人が神仏の子であって、それ以下の人は神仏の子ではない、というようなことがあるでしょうか。そんなことはない筈ですし、そんなものであってはならない筈です。 釈迦・キリストの時代にはお経も聖書もなかったのです。あれは後世の人達がこしらえたのです。ですから、釈迦・キリストが、お経をあげないと救われないとか、聖書を読まないと天国へ行かないとかいわれる筈がありません。釈迦・キリストが説かれたのは、万人がすべて救われる道だったのです。今から、二千五百年前のインド、また二千年前のイスラエルの人々は、一部の特権階級を除いては、みな文字の読めない無学文盲の人達だったのです。全ての人に分かりやすく、また、分かる神理であってこそ万人のための神理であって、文字の読める一部の人にしか、分からないというものが神理であってはならない筈です。どんな人にでも、良く分かるものであってこそ神理である筈です。 お経とか聖書という形で文字にしてしまったから、後世になると文字の読めない人は分からないという事にされてしまったわけですが、釈迦・キリストは文字に書いて説法されたのではなく、無学文盲の人にでも、どんな人にでも良く分かる言葉で説法されたわけです。だから、お経や聖書が読めないと救われないとか、また、哲学的な難しい言い回しをしないと、分からないというような事を言う指導者があったとしたら、その指導者は釈迦・キリストのことが少しも分かっていないニセ指導者であるといえます。 釈迦・キリストが説かれたのはその当時としては子供でも分かるような、普通の分かりやすい話し言葉で、「正しい心のあり方」「正しい心の持ち方」を説かれたのです。釈迦・キリストが、「みなさん、私の説く難しい言葉が分からないと救われないのです」と説かれたと思いますか。そういう難しい話をされたのであったら、その頃いちばん軽蔑されていた奴隷や売春婦達は、弟子にはなれなかった筈です。お経や聖書をみると、そういう人達が沢山弟子になったと書いてあります。マグダラのマリヤという売春婦は、自分の髪の毛でキリストの足のはこりを払いました。お経には遊女から寄進をうけられたと書いてあります。~正法誌 第35号 1981年7月号より抜粋~幸運を招く5つのルール 科学と宗教の一致点が至福への道です
2007.07.22
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現在、世界で、神の正しい正法が説かれているのは日本だけである。もし、日本という国がなくなるとか、或いは迷に支配されるというようなことになると、正法が説かれなくなってしまう。そうなっては心の正しい人たちによる世界平和の確立はできないし、人類がこの地球を霊の修行の場とすることはできなくなる。正法によって理想世界を確立することは、神の計画であり天上界の計画なのであるから、正法を実践する人たちは、必らず神により天上界より守られることになってくる。 人間は智慧を与えられている。異常現象に対しては智慧を働かして、対応して行かなければならない。ただ祈っていればそれでよい、というわけにはゆかない。「人事を尽して天命を待つ」ということが大事である。国は国として、個人は個人として、どんな状態が起っても、対応できるような日頃の準備が必要である。~正法誌 第34号 1981年6月号より抜粋~
2007.01.18
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退廃した人々の心を正しくするには正法しかない。例えば食事のことでも、われわれの食事に供される肉、野菜等動物、植物は、われわれが霊を修行するための乗り物である肉体の健康を維持するために、自分の生命を奉仕してくれる。そのことに心から感謝することである。食べ残すこと、食べてもらえなかったものは、それだけ動物、植物の悲しみになる。それに「足ることを知る」ということを知って貪らない。ムダをしないというそのことによって、われわれは霊を偉大に成長させることが出来るのである。 個人がつくった悪業は、囚縁の法則によって現われる。それによって反省しなければならない。それと同じように、人類全体でつくった業、暗い想念、争い戦いの想念が、惑星直列、ハレー彗星の接近という天体の自然現象によってひき起される大地震、大冷害、旱魃というようなものによって自壊作用を起こす。そのことによって人類全体が反省しなければならない、ということも当然あり得ることである。そういう時に、正法を知って心を正しくしている者は、常に心の波長を神に合せているから、たとえ周囲の人々はそうした災害に遭って死んだり傷ついたりすることがあっても、死にもしなければ、傷つくこともないということになるのである。多くの人が傷つき死ぬ中で、自分一人だけが助かるということは、何か利己主義で愛のないことのように思われるが、それは心を明るく正しくするものは絶対に悪い事に遭わず、心の暗い悪い者は、災害と波長が合うという「因果因縁の法則」によって、そうなるのであり、それは仕方のないことである。(園頭先生のお話より一部、修正してあります。)~正法誌 第34号 1981年6月号より抜粋~アットホーム キレイにいいこと始めよう♪会員20万人のBeautyショップへようこそ(^-^)/
2006.12.30
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宗教団体においては、霊の段階の高い者が指導者にならなければいけないブッダは、夕方の説法の時に全員集まるように指示された。ブッダは.一同を見渡してからゆっくりと語りはじめられた。 「人は誰しもが実在界と現象界を輪廻転生しながら、ここにあるのである。人はみな、豊かな心と調和された社会をつくる目的を持って、毎日を生きなければならないのであるが、生れてくるとその目的を忘れてしまう。だからこそブッダは、その内在された目的に気づかせるために生れてきたのである。サロモン達よ、あなた達の中には、自分一個の小さな悟りだけを目的として帰依した者もあれば、既に広く大きく豊かな心を過去の転生の過程で学んで帰依した者もある。 過去世を通してブッダの縁にふれ、道を学び、既に大きな悟りを得ていても、今生では他の弟子たちよりも遅れてブッダの下に帰依してくる者もいれば、小さな心であって早く弟子になったともいるのである。今生の早い遅いによって推し量ることはできない。 ウパテッサとコリータの二人は、私か過去世に肉体を持った時にも、すでにボサターとしての悟りを得た弟子であったのである。 あなたたちはブッダの弟子として、今生だけの縁をもって先輩だ後輩だといって不平不満をいだいてはならない。もろもろの弟子たちよ。 わたしは過去に六回、ブッダとして肉体を持って現われて法を説き、もろもろの衆生の心に灯をともして救済してきた。そなたたちは、ブッダの過去六仏の、いずれかの時に縁があって、わたしの話を聞いたのであり、その縁によってまたあなたたちは今生において弟子となったのである。この二人は、わたしが過去六仏として現われたそのいずれの時にも、私の右腕として現われていたのである。その縁によって、今生でもあらゆる師を求めて迷い、仏の法を求めてようやくこうしてたどりついたのだ。 そのため二人の五体から出ている光は、あたかもヒマラヤから転がってきた雪の塊のように大きな後光となっている。」このことからして考えなければならないことは、その教団の教祖より以上の霊の持ち主が、たまたまその教団に入信した場合、その人はたちまちにして教祖の教えの欠点弱点を見破って、その教祖の教えに満足できなくなってしまうことである。その教団にとどまっていたのでは霊の修業ができず、窒息するような思いがするからやめていくのである。霊の次元の低い人は、次元の高い人を指導することができないのは当然である。小学生は大学生を教える事はできない。子供が大人を指導することもできない。信者がやめて行くのは、その人を指導する力がなかったということなのであるから、教祖はむしろやめて行く人を指導できなかったことを、恥としなければならないのである。指導できなかったことを反省しないばかりか、自分が教祖としての面目を保とうとし、組織を崩すまいとして使う常会手段がやめて行く人を「恩知らずだ」といって、道徳的な悪者に仕立上げようとするのである。信者がやめて行く特に「恩知らず」という言葉を背から浴びせかける教祖は「真実の愛」も「真理」も知らない次元の低い霊の持ち主なのである。大体、恩は、恩を施した人が「恩を知れ」「恩を返せ」というべきものではなく、恩は無償で施すべきもので「恩返し」を求めないからこそ尊いのである。 「恩を忘れるな」「恩を仇で返す」というような、恩という言葉が指導者や幹部の口から多発される教団は、既に教義よりも組織中心になっている教団である。であるから、そういうところほど非情で幹部、指導者間の嫉妬心も強く、その本部には氷のように冷たい零囲気があって、愛による温かさの雰囲気はないものである。 ~正法誌 第33号 1981年5月号より抜粋~元気にやせる研究所管理栄養士が健康と栄養を考えて創ったダイエット食品を販売しています
2006.09.17
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集い来たる縁生の弟子たちより 釈縁が悟りを開かれて早や二年目には、マガタ国王ビンビサラー王のすすめによって、ガランダという長者が竹林精舎を寄進されて伝導の拠点ができた。このガランダ長者がのちに日本に生れて、弘法大師になられたのである。弘法大師の心の中には、嘗てインドで釈尊の説法を聞いた事があるという記憶があった。その事が弘法大師が書かれた「般若心教秘鍵」の中に書かれてある。釈尊は三十八才の新しい年を竹林精舎で迎えられ、居室で禅定三昧に入られた。昨年は、ウルベラ・カシヤパー三兄弟を初め、多くの弟子たちが帰依し、竹林精舎も寄進されて多忙であった。今年もまた多忙な日が多いであろう。そのためにはさらに広い心をつくって置かなければならない、と思われた。 禅定をされると、天上界にいられるキリストをはじめ梵天たらが現われてきて、いろいろなことを告げた。 ある時、 「ブッダ、あなたの下に、前生の弟子たちが近く訪れてくるでしょう。その弟子たちは、ブッダの普遍的な神理にふれて、やがて指導者になることでありましょう」と告げた。 天上界から、ブッダに連絡してくる梵天たちは、道を説く使命を持った同じ同士であった。 しかし、ブッダは、たとえ天上界からのキリストの前身であるアモンの連絡であったとしても、そのまますぐ信ずるということをされなかった。必ず八正道に照らして、判断をされた。どうしてそうされたかというと、梵天の言葉を真似て近寄る魔王がいたからである、魔王はその人の心の弱点をいちばんよく知っている。その人にはどういえばその人が信ずるか、心を全部見通している。 名誉欲地位欲権力欲金銭欲等を持って霊能力を得たいと望んでいる修行者達の目の前に、観世音菩薩などの姿を現わして「あなたは特別の使命を持たれた方です。私はあなたを守護する使命を持つ昔です」という言葉にすっかり騙されるのは魔の仕業である。立派なことをいっている人が、果して正しい使命を持った人であるかどうかは、度々いったように「法を説いてているか」「自分を信ぜよと説いてはいないか」「金銭を目的として救われることを説いていないか」を見ればわかるのである。 ビンビサラー王のすすめによって、ブッダのために寄進された竹林精舎のことは、たちまちに中インド中に広がって、子供もブッダのことを口にするようになった。ブッダの名が広まるにつれて、それを嫉妬して悪口をいう人たちも出てきた。弟子の中の一人アサジは、ラジヤグリハの郊外で礼拝をしている時に、度々ブッダの悪口を耳にしたが、心は少しもゆらぐことはなかった。~正法誌 第33号 1981年5月号より抜粋~ケフランコーカサス地方発祥の伝統的なヨーグルト【ケフィアヨーグルト】専門店
2006.09.06
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十字架は天上界から計画されていたエホバによってよってユダヤの民に啓示された教えは、キリストが生れられた当時、既に大きく歪められていた。その歪みを修正して新しく教を説き直すためにキリストは出現されたのである。しかし、既に歪められてしまって伝統となっている当時のユダヤ教の教師たちにとっては、自分たちの説いていることが間違っているとキリストに指摘されたことは大きな脅威であった。それではそれまでの自分たちの教師としての面目を保てなくなる。キリストの下に民衆が多く集まることに、恐怖を感じていた人物がいる。それは遠くローマから派遣されていたイスラエルの司政官ピラトである。このユダヤ教の教師とピラトの策動によっててキリストは十字架に掛けられたのである。 -高橋信次先生の言葉-「キリストが肉体を持って出る時に、僕(釈迦として出た光の大指導霊)が天上界からキリストを指導することになっているんです。僕が肉体を持ったはキリストが指導してくれるんです。キリストが出たあの時代は、平気で殺人が行なわれるという非常に乱れた時代であった。だから尚のこと愛の大事さを説かなければならない、ということでキリストが出て『愛の大事さ』を説くことになった。しかし、出ればユダヤの教師やローマの勢力に反対されて、十字架に架けられることは分かっていた。だから、僕は何べんも言ったのです。 「お前は今度は厳しいぞ、大丈夫か」とそういったら、「大丈夫です,十字架にかかって復活するという奇蹟を見せないと、大衆は信じないでしょう。教えを説く期間は短かいけど大丈夫です。きっとやってきます」といってキリストは肉体を持ったのです。十字架に掛けられた時、キリストの意識は既に天に界に帰っていたから苦痛でもなんでもなかったのです。」 この高橋信次先生の言葉は、全世界のキリスト教徒にはじめて明かされた言葉であり、高橋信次先生の外に誰がこのような言葉をいい得るであろうか。~正法誌 第33号 1981年5月号より抜粋~
2006.08.01
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「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものをその度に失う人がいる。これは破滅への門である」 宗数的立場に於ては、相手の人間性(神の子として)の尊厳さを傷つけ、相手の心を傷つけ悩ませるものは正しくないとするのである。だからわれわれの行為は、相手の人間性を高め、相手の心に安らぎを与えるようなものでなければならないわけである。そういうことで、このようなことをお釈迦さまは否認されたのである。 私(園頭先生)は釈迦さまの夫婦の倫理についての教えが、キリストの教えと全く同じであることに驚く。 「何ものが人々のすみかであるか、この世で最上の友は誰ぞ」 「子らは人々のすみかである。妻は最上の友である」インドには昔から「妻は友である」という教えがあった。ヴエーダの叙事詩の中には「妻子は自分の身体である」と説かれている。 キリストが、「夫は己自らの身を支配する権利を待たず、その権利を持つ者は妻なり」「かくの如く、妻もまた己自らの身を支配する権利を持たず、その権利を持つ者は夫なり」と説かれたことと同じである。 われわれは、やはり自分の家に帰ると、ほっとして心が安らぐ。「すみか」というものは、われわれの身も心も安らかにさせる。そのように、妻子というものはまさしくわれわれの心を安らかにし休ませてくれる「すみか」である。夫が妻子を愛することは、夫が自分の身体を自分で大事にするのと同じようでなければならないし、また妻が夫を愛することもまた、そのようでなければならないというのである。 この教えが教えるものは、夫が自分の傍に来た時に、夫の身と心を休ませ安らぎを与えることができないような妻は落第であるということである。妻が夫の心を休ませ安らぎを与えないとしたら、夫はどこかにそれを求めたくなるであろう。これまで多くの宗教団体は、夫が浮気をするのは妻が悪いからだ、と夫の浮気を正当化してきた。それはまちがいである。たとえ妻がそうであったとしても、妻がそうであることを□実にして夫は浮気をしてはならないのである。そのような妻を赦し、よく妻と話合って調和してゆくようにしなければならないのである, 妻がそうであることを口実にして自分の浮気を正当化しようとしてみても、そういう関係で心が悩みをつくり苦しむのはその夫自身であり、その悩み苦しみをなくするのも夫であるからである。~正法誌 第32号 1981年4月号より抜粋~
2006.07.18
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- 霊の段階の高い人は、より多く奉仕しなければならない -夫婦生活や集団生活その他、人間関係において我々が心得ておかなければならないことは、霊の段階の高い者は低い者に比べて多く働き、多く奉仕しなければならないということである。 あなた方は小学校か中学校かあるいは高等学校等で、あるいは集団で、なにか協同で仕事をしたという時に、 「ああいつも自分は損する、あの人達はいつも遊んでいるのに、なんで自分だけがいつもこんなに働かなければならないのだろうか」と思う人があったとしたら、あなたは喜びなさい。それはあなたが高級霊である証拠である。「よし、このつぎは自分も働かないぞ、いつも自分は損する」と思うことはあっても、いざまた何か仕事をするとなると、そう思っているのに、「また、あの人は遊んでいる」と思っても、あなたは遊んでいることは出来ないのである。また.一生懸命仕事せずにはいられないのである。夫婦喧嘩をして、自分は悪くないのにいつも先に謝まるのは自分だ、と思う人も霊の段階の高い人である。高橋信次先生が正しさの基準は、心にあると言っていられた。霊の段階の高いという人は、低い人よりも善悪に対する判断が厳しいし、心の中にいつまでもこだわりを持ってはいられないのである。そうして赦す、ということの大事さを知っている。だから、もういい、いつまでもこんな事にこだわってはいられないと思うのである。 また、霊の段階が高いということは、その人は人よりも多く輪廻転生の経験を積んで智慧が豊かであるのであるから、色々な事によく気がつくのである。低い段階の人は過去の経験が少ないから、それだけ物の道理も分からず自己本位で気がつかないのである。低い段階の人が気がつかないようなことでも、高い段階の人はよく気がつく。低い段階の人は別に怠けているわけではなく、それでいいと思っているが、高い段階の人から見るとそれは欠点として悪として見えるのである。低い段階の者は高い段階の者に学んで、自分も早くそのようになるように努力することによって霊は向上するのである。高い段階の者は低い段階の欠点を責めることなくそれを赦して、その者が早く成長するように手を貸してやらなければいけないのである。ともかく霊の段階の高い者は、より多く赦し、より多く人のために働き、食べるものも少ない。いざとなると仕事をしないで遊んでいることは出来ない。人よりも多く仕事をしてしまうという人は、自分の心を低い段階の人に合わせないように、そうある自分を喜びとして、ますます霊の向上に励むことである。霊の段階の高い者は、心に安らかさの基準を多く持っているから、いつまでも腹を立てていることが出来ない。悪い傾向性を持つものに対しては執念深くないが、善なる傾向性のものについては、ひたむきにそれを求める。だからある面に於ては、非常に頑固に我が強く見える。霊の段階の高い人は孤独になりがちであり、低い段階の人はよく群れたがる。孤独に耐える厳しさを越えて、大きな愛を学んでいかなければならないのである。夫婦生活でも、以上のようなことを心得ていれば、上手く調和ができてゆく。~正法誌 第32号 1981年4月号より抜粋~管理栄養士が美容と健康を考えて作ったナチュラルバランスダイエット
2006.05.07
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- 愛とは全面的な自己帰投である -夫と妻とは完全一体となって、神の子として霊を向上して行かなければならない。そのことを約束して夫婦となったのである。その愛の結びつきが、男が他の女に心を移し、また妻が他の男に心を移すことは、愛の一体性が破壊され心に大きな悩みと曇りをつくり、人間がこの世に生れたその使命と目的に反することになる。「愛とは全面的な自己帰投である」という言葉がある。 「惜しみなく愛は奪う」という言葉は、その全面的な自己帰投を裏返しにいった言葉である。全面的な自己帰投とは、「愛する人に自分のすべてを捧げ、愛する人が欲する通りにしたい。自分のことはなんにも考えない。自分の身も心も、すべて愛する人に捧げてなんの慨いもない」という状態である。だから愛する人に棒けて、お互いに相手が自分の欲する通りになってくれることを、求めるのである。妻を愛する夫は、妻が自分の欲する通りになってくれることを求める。その時、妻は、心になんの抵抗も持たずに、夫のいいなりになった時に、初めて夫は「妻の愛を得た」と心が全面的に満足するのである。 そういう時に妻が全面的な自己帰投せずに、自我意識が強く自己主張ばかりをして夫のいいなりにならない時、夫は「妻は自分を愛していない」と感じて心さびしくかなしくなるのである。妻が全面的な自己帰投をし、夫が妻の愛を確認することができるとまた、夫も妻に全面的な自己帰投をして、妻のいいなりになるのである。だからして、夫が自分のいうことを聞いてくれないと嘆いている妻は、その前に自分が夫に全面帰投していないのではないか、ということを反省しなければならないのである。~正法誌 第32号 1981年4月号より抜粋~サプリメントショップ マキシアメリカ発!天然素材を厳選した高品質ビタミン&ミネラルを製造輸入販売
2006.04.10
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- 何故は親孝行は必要か -われわれは神の子として、この人生において魂を磨いて向上させて行かなければならない。われわれは天上界から生まれてくる特に、今回はどのような親を縁として、どのような環境に生れて霊を磨くかを約束する。貧しい家に生れた子供は、どんなに家が貧しく、ものがなくても、そのことによって心まで貧しくしないように幸福とは金やものにあるのではなくて、心にあることを学ばなければならないのである。金持ちの子は、どんなに金や財産があるからといっても、金や財産の奴隷にならないように、その金や財産を自分のためにだけ使うということでは、人間の持つべきき霊の本質である慈悲や愛の心を待つことは出来ないので、人のため世のためそれを生かして使って自分の心を大きく成長させなければならないのである。もし、父親らしい事は何ーつしない父を縁として生まれて苦しみ悩んだとしたら、その父を憎まず怨まず.ああいう親になってはいけないのであると、教えてくれているのであると、許して感謝しなくてはならない。そして、自分が父親になったら、あのような親にはなってはいけない、こういう親にならないといけないと、自分の考える正しい父親となるように努力することにより、また、そうなることによってのみ自分の霊が磨かれてゆくのである。もし、親に早く死に別れ、また捨てられて親の顔を知らない人であったら、その人は親がないという事で色々苦労し悩んできたことであろう。親がいないという事で.子供はこんなに苦しむのであるから、自分か親になったら、子供に悲しい苦しい思いをさせるような親には絶対になってはならないと、深く決心しなければならない。そして立派な親となるように決心し、そういう心を持つことが出来る縁を与えて下さった親に感謝しなくてはならない。そしてその事を通して自分の、霊が磨かれ向上するものである。われわれは、自分の霊が向上するには、どういう環境に生れる事がいいかを、自分で計画して生れてくるのである。だから、その親がどういう親であろうと自分が頼んで生れてきたのであるから、霊の修行の師として盛謝し親孝行しなければならないのである。~正法誌 第32号 1981年4月号より抜粋~管理栄養士が美容と健康を考えて作ったナチュラルバランスダイエット
2006.04.09
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高橋信次先生は、あと百年したら、他の天体に人間がいることが発見できる。(あと、70年位先でしょうか? 他の天体に生物がいるのではなくて、人間がいるという言葉に着目して下さい)現在の地球上の科学は、他の天体に人間がいることを発見できるまでには発達していないと予言をしていられた。リチャード・ゼナー氏は「天と地とを結ぶ電話」の中で、この宇宙には七つの霊圏あるといっている。天文学者やその研究家たちは、生物が棲んでいる星の探索をつづけている。何時の日にか他の天体に人間がいることが発見されるに違いない。正しい宗教というものは、この地球上の全人類をすべて納得させるだけでなく、他の天体の人類をも納得させ得るものでなければならないのである。神がこの天地宇宙を創造されたのであるから、全宇宙間に存在する他の天体に住む人類も含めて、この地球上の人類が崇拝しなければならないのは、その唯一絶対の神であって地上に祭ってある神ではないはずである。そして、道徳即ち人の道として守るべきは、その唯一絶対の神によってつくられた法でなければならないはずである。神は一つであるということは絶対的存在であって、他に代りはないということである。だから、神が創られた法則も一つであって、変ることはないし、全宇宙全てにその法則は及ぶのであるから、それを普遍的というのである。だから、その宗教の教義は絶対的で普遍的で永遠性があるということを尺度にして見れば、正しいか否かが分かるのである。この永遠不変にして普遍的な神がつくられた法を「正法」というのであり、釈迦、キリストが説かれ、高橋信次先生が説かれたのはその「正法」だったのである。だから、二十一世紀だけでなく、今後の世界人類が守るべき基準は正法しかないというのである。言う事がくるくる変る宗教指導者を信じてはならないし、また、言う事と行う事とが違う人も信じてはならないのである。釈尊が鹿野園で初転法輪をされた。五人の比丘が生れ、やがてバラナッシーの長者の子ヤサが帰依し、ヤサの両親が在家のまま帰依し、釈尊の弟子が六十人に増えた。そうしていよいよ伝道の宣言をされた。「比丘たちよ、いざ遊行せよ。多くの人々の利益と幸福のために。世間を憐れみ、人天の利益と幸福と安楽のために。一つの道を二人して行くな。比丘たちよ。初めも善く、中も善く、終りも善く、理路と表現とをそなえた法を説け。また、全く円満かつ清浄なる梵行を説け。」(阿含経)と言っていられるように、正しい教えというものは、初めも、中も、終りも善くなければいけないのである。~正法誌 第32号 1981年4月号より抜粋~
2006.03.18
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資本主義、即自由主義ということで戦後の日本人は、自由主義を真理のように信じて受け人れたのであったが、果たして自由主義は真理であったか、自由にも大きな欠陥があったことに有識者は気づき始めているが、自由主義がどんなものであるか、自由主義の本家であるアメリカの現状を見れば一番よくわかるであろう。フリードマンの「選択の自由」という本は、昭和55年5月に出版され、ベストセラーになったが、この本の中の「宗教教育制度の退廃」の章を紹介しよう。「教育はアメリカの夢の主要な一部であった。アメリカ社会へ新しくやってきた各国からの移民たちを同化するのを助け、社会の分裂や不和を防止し、また異なった文化的、宗教的背景をもってアメリカへ来た人びとが、調和のうちに共に生活することが出来るようにするのに、学校教育は大きな役割を果たしてきた。ところが不幸にして、この数年来、アメリカの学校教育制度がたどった記録には、汚点がつけられるようになってきた。○親たちは、児童が受けている学校教育の質が低下してきたと不平をいっている。○多くの親は、自分の子供が、肉体的な危機にさらされることが、悩みの種にさえなっている。(校内暴力はふえつつある)○教師は、学校における雰囲気が、学習を促進するのをしばしば妨げるようになってきたと、不平を言っている。○次第に、より多くの教師が、教室においてさえ自分の肉体的な恐怖を抱くようになってきている。○納税者は、学絞教育費がますます増大していくことに不平をいっている。 〇アメリカの学校が児童に対して、彼らが人生いかに生くべきかということについて、必要な知識や能力を与えているという人は、いまやほとんどいなくなってしまった。〇アメリカの学校は、同和や調和を養うかわりに、むしろ社会分裂を発生させる源泉とさえ、今はなっている。 いまや親は、学校に対して、どんな意見も言う事は出来なくなってしまった。学校教育に対する権力は、本来は親が持つべきものであるのに親に代って、職業教師の手に渡ってしまった。学校の管理が職業教師たちにとって変わられてゆくにつれて、親たちによる管理力は弱められていった。アメリカの学校教育制度の官僚化と中央集権化とは、学校教育費を増大させた反面、生徒の質を低下させた。職業教師たちは、親や子供たちが持っている利害関係とは別に、自分たちの利益のために中央集権化や管理化をいっそう推進することとなった。都市の学校では、学校費の大きな部分が、学校内の規律を保ち、野蛮な破壊行為を防止し、破壊された跡を修繕するといったことのために消費しなければならないことになってきた。学校にふさわしい静かな雰囲気というよりも、刑務所の雰囲気に似ているというところがある。」みなさんはフリードマン氏のこの文を見て、日本の学校のことを書いているのではないかと錯覚されたに違いない。フリードマン氏が言っているような、アメリカ学校教育の退廃と同じ現象が日本にも起っている。(旧)文部省の役人達は、高い納付を出せばいい教師ができるという、金で人は動くものであるという資本主義思想の奴隷になっているのである。人は使命感に燃える時、給料は安くても、生活は多少苦しくても、喜んでその仕事に生命を捧げるものである。金を中心とする資本主義は、道徳心をも失わしめているのである。~正法誌 第32号 1981年4月号より抜粋~
2006.03.13
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- 先祖供養は道徳であって宗教ではない -宗教は自分の霊性を自覚し、心を高め深めて、神仏との一体を自覚して行くことである。道徳とは、人の生き方の間題である。親鸞上人は「父母に孝養のためにとて、わたしは一ぺんも念仏を唱えたことはない」といっていられる。先祖の供養をしたら自分の運命がよくなるといってお経を上げさせているが、それは信者の功利的な心を助長させ執着を作らせることになる。もし、思いがけない不幸な事が起ったりすると、見せかけのその先祖供養の心は、一転して「これだけ供養したのに…」と先祖を怨む心になりかねない。感謝とか愛という言葉を口にしていながら、何かあるとそれがすぐ僧しみや怨みに変るようなものは、真の愛でも感謝でもない。先租供養をすることが信仰だと説いている教団では、「子孫のために徳を積め」といって、献金や奉仕を強制し、本や新聞を沢山買わせ、会員を増やさせている。自分が積んだもの(徳)は自分のものになるのであって、子孫のものになるのではない。徳を積んだ家の子孫にいい人が出てくるのは、この世は「類を以って集まる」という世界であるからである。自分が豊かな心を待っていると、そういう魂を持っている子孫と縁が作られて、いい子孫が約束して生れてくるのであって、子孫の作ったものは、子孫そのものが持っていた徳なのである。先祖供養の儀式は、永年立派にやっているといっても、また、子孫のためにとやっていても、確かに心は感謝に満ちていたとしても、一向に、心を大きく成長させることが出来ないでいる人が一杯いる。太陽は万生万物に光と熱とを与えて、少しも報いを求めない。神の愛はその如くである。正しい宗教家は正しく法を説くだけであって、その報いを求めることをしない。しかし、その恩を感ずる人があって心から報謝されるものは、有り難く受ける。それが釈尊の乞食の精神であった。~正法誌 第32号 1981年4月号より抜粋~
2006.03.06
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ことばと運命-3人間の心理的な盲点、弱点がある。一つは、最初に間違っていることを正しいと信じ込むと、後から教えられた正しいことを間違っていると信ずるということ。もう一つは、ウソを何回でも続けて聞かされると、最初は疑っていたことでも、だんだんホントのように信じてしまうということである。この二つの弱点を利用したのが、プロパガンダ、即ち言葉と文章による思想戦術である。このプロパガンダ戦を大いに戦争に利用したのがスターリン、ヒットラーなどである。思想宣伝戦というのは言葉による戦争である。教育はすべて洗脳教育である。正しい教育、正しい言葉調和、平和、感謝、秩序、慈悲、愛、智慧、勇気、自信、努力、明朗、清潔、純粋、信頼、尊敬、謙虚、敬虔等、心に明るさ、豊かさ、深さ、安らぎを与え、秩序ある家庭、社会、国家、世界を建設し、人々が互いに尊敬し合い、お互いの自主性を大事にし、全ての人々がお互いに争うことなく霊を向上してゆけるような教育、また、それにふさわしい言葉が正しいのである。悪い教育、悪い言葉不調和、闘争、不平、反抗、混乱、憎悪、嫉妬、無知、盲信狂信、怠惰、劣等感、軽蔑、暗さ、醜さ、不潔、不信、増上慢、卑屈、虚栄、恐怖等、心を暗くし、不安定にし、自分だけが偉く見えて人を軽蔑し見下し闘争、破壊、混乱等を生み出すような教育、言葉は悪いのである。左翼や右翼、または色々な宗教団体の教育が間違っているというのは、その教育の結果が、心に不安、恐怖、闘争、混乱、憎悪等を生み出してしまっているからである。どんなに自分の主義主張、または信仰を正しいと信していても、自分の心の中にエリート意識がつくり出されて人を軽蔑し、誤まった優越感が起り、憎しみや争いを生み出すようなものは、正しい思想でもないし、正しい信仰でもない。「正語」正しい言葉を使うということは、八正道の一つの実践の道であり、われわれは、調和や感謝、平和等を生み出す正しい言葉を使うべきである。また人の言葉を聞く時に「それは正しい言葉であるかどうか」をよく聞き分ける智慧を持ち、人の言う間違った言葉によって自分の心を暗くしたり傷つけたりしないようにしなければいけないのである。「正しく語る」ということは同時に「正しく聞く」ということでもあることを知らなければいけない。~正法誌 第32号 1981年4月号より抜粋~
2006.02.06
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- ことばと運命-2 -運命を良くしようという人は、運命を良くするような、明るい言葉、勇気のある言葉、自信のある言葉、愛深い言葉等を選んで使うことである。運命が悪いという人は、自分で運命を悪くするような、暗い言葉、弱い言葉、いつも失敗を恐れている自信のない言葉、人から嫌われる言葉を無意識のうちに使っているのである。だから、意識して良い明るい言葉を使うようにすると、運命は好転して行くのである。子供を躾するのも親の言葉である。子供のために苦労するという親は、子供に対してどういう言葉を使っていたかを反省することである。ほめる言葉、勇気づける言葉、才能を引き出す言葉等、とにかく子供が生き生きとして活動的になる言葉を使えば、子供は立派になるのである。現代は言葉の氾濫の時代である。良い言葉よりは、暗い言葉、内容のない言葉、人を恐怖させる言葉、悪意、中傷に満ちた言葉が余りにも多い。マスコミの報道も暗いニユースだけである。完全に自分の心を自由にコントロール出来る人はよいが、まだ完全にコントロール出来ない人は、新聞の暗い三面記事は読まないことである。ある一つの事件が報道されると、必ず同じ手口を使った同じような事件が続いて起こってくる。だから、新聞が犯罪を作っているといえる。運命を良くしようという人は、心を暗くするような小説やマンガは見ないことである。~正法誌 第32号 1981年4月号より抜粋~
2006.02.02
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- ことばと運命-1 -思うことが言葉として発せられた時、それが運命となる。ひと言、多かったばかりに相手の感情をそこねて思わぬ不利な結果になったとか、ひと言足りなかったばかりにあらぬ誤解をうけて困ったとかという体験は誰しもが持っていられるはずである。最初、人類がこの地上に誕生した時は、人々の心はみな綺麗であったから、自由に天上界とも交流ができ、その人を心に描けば相手の心は皆分かったから言葉の必要はなかったのである。その時代は、思うということがそのまま言葉であったのである。だんだん地上生活に対する執着がつくられ人々の心が濁ってるにつれて、天上界との交流も次第に出来なくなり、心から心へと直接伝わらなくなって言葉の必要が生じ、ついで文字がつくり出されるようになった。心から心へと通ずることを「以心伝心」という。愛し合っている男女夫婦の間で、また親子の間で、あるいは芸術家などの親方と徒弟の間などでは、今でも言葉は全く使わず、眼など動き一つで心がわかるということは、今でも行われていることである。しかし、言葉を使わないと心が通じないというのも事実である。いくら心で思っていても、その思うことを充分に言葉で表現出来なかったために失敗したとか不幸になったという人も多いのであるから、思っていることを充分に言葉で表現するという勉強も大事なことである。心で思うということが言葉となり、その言葉が文字となり、行動となる。しかし、思うことがどんなに正しく文字で表現されたとしても、その文章、手紙が正確に伝わらないと、また大変になるから、正しく伝えるべき人には正しく伝えるということも、また非常に大事なことである。~正法誌 第32号 1981年4月号より抜粋~
2006.02.01
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「カレルのこの本は予言書でもある」-3アレキシス・カレル著「人間 この未知なるもの」より※以下、( )内は園頭先生のコメントです。「道徳観念は、現代社会ではほとんど無視されているといってよい。世の中は無責任の一色に染められている。善悪をはっきりする人、勤勉でつつましい人は、いつまでも貧しく馬鹿だと軽蔑される。妻子のためにわずかばかりのお金を貯めると、この金は政府によって巻き上げられ、全融機関に盗まれ、ずるい製造業者や、銀行家や、経済人にバラまかれてしまう。盗人共は平和な繁栄を楽しんでいる。ギャングどもは政治家に保護され、裁判官は一目置いている。子供たちは映画の中のギャングどもを英雄として憧れ、それを真似て遊ぶ。金持ちは年とった妻を捨て、老母を困窮のままに放置し、それでいて友人から非難されることはない。性道徳は見向きもされない。善と悪、公正なことと不正なことのけじめがない。犯罪者は一般人の間でうまくやっている。そして誰もそれに抗議しない。宗教家は宗教を合理化して神への尊厳を破壊した。そして、腐敗した現代社会の仕組みを維持し、金持ち階級の利益に奉仕し、あるいはまるで政治家のように、大衆の欲求におもねっている。最も頭のよい犯罪者は捕まっていないことも忘れてはならない。ノイローゼ、精神病者が多いことは、現代文期が疑いもなく重大欠陥があることを示している。」(あなた方はこれを読まれて、これは現在の日本の社会事情を書いてあると思われなかったであろうか。今から四十五年前のアメリカ社会は、現代の日本の現状とそっくりである。 ※1981年時点にてカレルがこの本を出版した頃、少・青年期であった者たちが現在のアメリカを支えているのであるが、現在のアメリカは既に衰退期に入っていることは誰もが気づいている。日本が後四十五年経った時、現在、少・青年期にある日本の子供たちが大人になった時、アメリカが今衰退期を迎えていると同じように、今の子供たちが現在と同じように日本を繁栄させ得るかどうかは疑問だといわなければならない。日本もアメリカと同じように衰退するかも知れない。カレルが指摘しているように、アメリカの宗教家が金持ち階級や政治家に奉仕し、腐敗した社会の仕組みを維持したといっているように、日本の宗教家はそうなってはいないであろうか。日本の宗教は、既に社会を改造する情熱を持ってはいない。いかにして組織を維持するかに汲々としている。組織というものは、発展期にはその内部矛盾を内包してごまかすことができるものであるが、発展段階を終って停滞期になり、また少しでも衰退すると、それまで内包していて信者の眼に触れることのなかった内部矛盾が一ぺんに表面化してくるものである。高橋信次先生は、地球のユートピア実現は正法を基準とする以外にないと説かれたのであった。その正法とは釈迦・キリストの原点である。日本が、アメリカと同様な失敗を体験しないためにも、そうしてユートピア実現のために、これから正法はますます全日本人、全世界人の心の指標となってゆかなければならないのである。)~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~
2006.01.09
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「カレルのこの本は予言書でもある」-2アレキシス・カレル著「人間 この未知なるもの」より科学と科学技術が開発した環境は、人間に適合していないように見える。スチーム暖房の利いたアパートに住んで、事務所も冷暖房されており、車を乗り廻し、馬鹿げた映画を見、ラジオを聴き、ゴルフやブリッジをし、ある者は太っていて、皮膚の色はあせ、腹は突き出ており、脚は細く、態度はぶざまで、知性のない粗野な顔つきをした人間が増えてきた。われわれは、過密都市に住む子供たちが、大ぜいの人々や出来事にもまれ、汽車や自動車に乗り、くだらない映画を見たり、学校でも知的な集中力は要求されずに暮らすことによって、いかに知能が低くなっているかを知っている。食事の摂りすぎと運動のしすぎは、知能の発達を邪魔しているように見える。記憶力を訓練することや現代の学校教育によって、子供たちの精神を発達させることができるのであろうか?科学の誕生は知能によってのみできたのではない。天才は観察力と理解力があるばかりでなく、直観力、創造的な想像力のような資質も備えている。この直観力によって発明発見が行なわれていることを見逃している。偉大な科学者は、直観によって発見の道をたどるのだ。現代の教育は、この直観力・創造力・想像力などの偉大さを忘れている。現代文明によってもたらされた生活形態、教育形態、食物形態は、多分に人間を家蓄のように餌育し、感情的な衝動を不調和にさせる傾向があるように見える。~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~
2006.01.09
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「カレルのこの本は予言書でもある」アレキシス・カレル著「人間 この未知なるもの」より※以下、( )内は園頭先生のコメントです。(この本が発刊された昭和十年は、アメリカは世界一の名をほしいままにしていた、またどこまで発展するかわからないという無限の可能性を秘めていた大発展、大繁栄の国であった。この繁栄の項点にあったアメリカがやがて衰退してゆくことをカレルは予言をしている。人間の本質を、鋭い洞察と直観とによって知ったこの科学者は、その持てる科学的精神によってアメリカの将来を予見した。この本が発刊されて以来四十五年経った現在、アメリカはカレルが予言したような問題を抱えている。しかし、これはアメリカの将来に対する予言だけではない。終戦後、アメリカ化することを目的としてやってきた日本の将来にもあてはまることである。カレルは、アメリカの将来はこうなる、と一項を設けて予言したわけではないが、この本のあちこちに予言といっていい言葉が散見されるのである。)「科学は人間に真の幸福をもたらさなかった。いたる所に小・中学校や専門学校・大学が建てられ、どこも学生達の群れで一杯になった。教育は知的、肉体的能力の向上を目的としたために、道徳的・宗教的には堕落した。健康状態は改善され、死亡率は低下し、平均寿命は伸び、体格が大きく、立派になった。今日の子供たちは両親よりずっと背が高い。栄養のある食物が豊かにあり、運動もするので身体は大きくなった。しかし、疲労や悩みに対する抵抗力は減っているように思われる。簡単に神経衰弱を起こしてしまう。学校では強制されることがなくて興味ある課目だけを勉強することが認められ、知的な努力や自発的な行為は要求されなくなり、確かに子供たちは前よりは幸福になっている。だが、その教育の結果はどうであろうか。アメリカでは、中学、高校、大学の数は増えているに、知的水準は低いままである。現代文明は、われわれ人間の本質を知らずに打ち立てられてしまった。現代文明は、想像力や知性や勇気に恵まれた人を生み出す能力を持たないように思われる。工業社会は、労働者の生理的、精神的状態は少しも考えられずに生産がすすめられている。個人または個人の集団が、できるだけ多く金を稼げるように、一番低いコストで最大の生産をするという考え方に、基づいている。労働者の個性は無視されて、来る日も来る日も一定の部品をつくる機械としてのみ労働力を提供し、全体を造り上げるという創造の喜びはない。広告がわれわれに与えている影響はきわめて大きい。こういう宣伝は、もっぱら広告主の利益のためで、消費者のためではない。例えば、一般大衆は、白いパンの方が黒パンよりもよいように思い込まされる。そして小麦粉はますます精製され、一番身体によい成分は失われてしまう。このように処理することで儲かるのは粉屋とパン屋である。消費者は、質がよいのだと信じ込まされて、実は質の悪いのを食べさせられているのだ。パンが主食の国では、住民が退化する。巨額の金が宣伝費に費されている。その結果、ちっとも役に立たないばかりか、時には害のある栄養剤や薬品を大量に必要としている。こうして現代の世界は、大衆の心をかき立てるすべを十分に心得た、利口な人間どもの食欲さにふりまわされているのだ。大きくて体重の重い子供たちは、小さい子供たちよりすぐれているのだろうか。学校や大学で行なわれる教育は、主に記憶や筋肉を訓練し、社会的なマナーを教え、運動選手を崇拝することにある。そういう訓練は、つり合いのとれた知性や安定した精神状態、健全な判断力、大胆さ、道徳的な勇気、忍耐力などがより必要とされる現代人にとって、本当に適したものであろうか。医者や教育家たちは、莫大な金額を投じ、最大の努力をしていながら目的を達していない。~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~
2006.01.09
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「教育は男女の相違を考慮すべきである。」アレキシス・カレル著「人間 この未知なるもの」より※以下、( )内は園頭先生のコメントです。「従って、女性が母性に背を向けるように仕向けることは馬鹿げている。若い少女に、少年と同じ訓練を知性面と肉体面で与え、同じ野心を抱かせるべきではない。教育者たるものは、男性と女性における肉体的及び精神的特性と、男女が大人になって果たすべき役割と機能とをよく考えて、両性の間には取り消すことのできない相違があることをよく知った上で、この文明社会を築き上げるにあたって男女はどうなければならないかを充分に考慮した上で教育を行なわなければならない。」(しかしながら現実は男女平等という迷信にとりつかれている。そこに現代社会の弱体化、混乱の原因の一つがあるといって、つぎのようにいっている。)「人格の発達について」「性も再び明確に区別されるべきである。各人はそれぞれ、男は男らしく、女は女らしくなるべきであり、男が女らしくなったり、女が男らしくなることに興味や野心を持ったりしてはならない。教育を改革するには、主として学校教師や両親が、予供の形成についてこれまで考えてきたその考えを逆転させなければいけない。教師は子供の知的能力をよく伸ばしはする。しかし、感情的、美的、宗教的情操と活動も発達させる必要があるのだ。少女のための教育プログラムの中には、現在、出産育児等についての心理的、生理的特性に関する詳細な勉強が、普通は含まれていないということは奇妙なことではなかろうか?女性は子供を生んで育てるということは当然なのであるから、そのような教育をして、女性に自然の機能を取り戻させねばならない。女性は医者や弁護士や大学教授になるためではなく、子孫を値打ちのある人間に育てるために、高等教育を受けるべきである。」(このことについては、男性に対して社会的に活躍している一部の職業婦人達は、女性蔑視であるというかも知れない。そういう婦人達は子供など育てている暇はない、もっと外にやるべきことがあるというのであろう。しかし女性の中で医者や弁護士や大学教授になれる人は極くわずかの人である。大部分の女性は結婚して家庭を持ち子供を生むのであるから、一部の職業婦人の主張を取り上げることによって、絶対多数の婦人の不利益になるようなことをしていいということは絶対にない筈である。育児ノイローゼになる若い母親、またノイローゼにならないまでも育児に悩む人達は結婚するまでの間に育児についての教育を受けなかったし、また自分でも勉強する機会を持たなかった人達である。大部分の女性は高校を卒業すると、わずかの期間就職して結婚生活に入って行くのであるから、高校を卒業するまでの間に育児についての教育をしておくことが、女性を幸福にすることだと思う。)~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~
2006.01.08
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「男女はそれぞれ神聖な役割を担っている」アレキシス・カレル著「人間 この未知なるもの」より父親よりも母親の方が、胎児の発生についてはより重要な役目を果たしている。生殖作用に於ける男性の役割は、一時的である。それに対して女性の方は九ヶ月間続く。胎児はこの期間、胎盤の粘膜によって母親の血液から濾過された化学物質によって養われる。母親は子供に、組織を構成する要素を与える一方、胎児の器官が分泌するある種の物質を受け人れる。そこで婦娠期間中、その影響を受けることになる。場合によっては、母親は子供によって中毒を起こすこともありうる。それによって、母親の生理的、心理的状態は常に変化するのである。~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~
2006.01.08
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「性的機能と男女の相違について」アレキシス・カレル著「人間 この未知なるもの」より※以下、( )内は園頭先生のコメントです。睾丸と卵巣の機能がいかに重要であるかは驚くばかりである。まず、男性と女性の細砲を生み出す、それと同時に、血液中にある物質を分泌するが、それは組織や体液や意識(心)に男性は男性として、女性は女性としての特性を与える。(このことは、男と女はどちらも神の子であるという点では平等であるが、肉体的には既に男女それぞれに特性がちがうというのであるから、このことは男女平等ではない)男性の睾丸は老年になっても活動しているが、女性の卵巣は月経閉止期になると萎縮する。(映画俳優であった上原謙は七十二才で若い妻に子供を生ませることができたが、七十才の婆さんはもう子供を生むことはできない)男性と女性の間の相違点は、子宮の存在や生殖器の形がちがうということや、妊娠、教育方法によるものではない。もっと本源的なものである。この本源的、根本的な違いについて無知である人たちが女権拡張運動の推進者となって、男女が同じ教育、同じ権力、同じ責任を持つべきであると信ずるようになったが、女性は男性とは非常に異なっている。女性の肉体細胞の一つ一つには、女のしるしがついている。それは明らかに男性の細胞とはちがう。男性の細砲には男のしるしがついているのである。女性は男性のまねをしようとしないで、その本来の性質に従ってその適性を発展させるべきである。文明の進歩の中で女性の担う役割は、男性とはちがっていて大きい。女性は、女性独自の機能を放棄してはならない。~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~
2006.01.08
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-「人間・この未知なる物」-三笠書房刊アレキシス・カレル博士は、日本の野口英世博士と共にロックフェラー医学研究所で研究した人である。これまで一番研究されたのが「人間」であり、また一番研究されなかったのも「人間」であるといえる。ルネッサンス以来の学問は、物質重点主義の立場から科学的に人間を細かく分割して研究してきた。政治学は政治という立場からのみ人間を見、経済学は人間が物を生産し消費するという点からのみ人間を見、教育学は知的に色々な事を教えるという点からのみ人間を見るというように、社会学、心理学、倫理学、美学、物埋化学、医学等みなそれぞれ専門の分野からのみ、人間というものを研究してきた。だから政治学を研究した学者は、人間をいかに政治するかという政治の技術はよく知っていても、人間の情緒、情操、道徳心、宗教心というものは考えない。教育学では、何をどのように教えるかという事で教育心理学は教えるが、攻治経済との繋がりとか、心が肉体に及ばす変化とか、崇高な信仰心というような事は知らない。医学は人間を、眼科、耳鼻科、口腔歯科、内科、外科、精神科とバラバラにし、特に内科はまた消化器系統、循環器系統、泌尿器系統等に分割して、細かくは研究し治療しているが、人間全体を医者は全く知らない。カレルがこの本を出版したのは昭和十年である。カレルはこの本は、時代が経つにしたがって自分が主張している事の正しさが証明されるであろうといっている。大抵の本は出版されると二・三年後には見向きもされなくなるものであるが、それから四十五年経って(1981年時点)いるのに今でも全く新しく、その言わんとしている事が身に迫ってくる。カレルがこの本を書いたのは、西洋文明は白人がつくった。しかし、白人が、人間というものを十分に知らなかった結果、白人がつくった文明は崩壊に瀕しているという事で、どうすればいいかを警告したのである。宗教家をはじめとして世の指導者は、物質文明は行きづまった。これからは精神文明の時代だ、宗教心の時代だと騒いでいるが、その事についてカレルは警告している。物質文朝は崩壊したと騒ぐようになったのは、ほんのここ四、五年のことであるが、全世界の各階層の指導者たちが、物質文明によって未来世界は確実にバラ色の理想世界が建設されるという夢を抱いていた昭和十年に、次のような事を警告している。「物質中心主義が失敗したからといって、反動的に精神主義でなければならぬと、精神中心主義になることは危険である」と。この事は現在の宗教家たちが物質科学を否定して、精神だけで宗教だけで、この世の中がよくなるように主張していることは間違っているという事である。カレルは、事実は事実として正しく認識した上で、つぎの事を考えなければならないといっているが、私(園頭先生)の師、高橋信次先生は常に「色心不二」「心身一如」が神理であると説かれて、極端な精神主義、心霊主義は神理ではないといっていられた。即ち、世の中の人々が正法神理を知るようになると、科学者たちも正法によって物質科学の研究をするようになるので、公害や破壊殺傷を招くような研究はしなくなり、科学者の心の次元が高くなると、天上界の心のきれいな指導者たちの直観を受けるようになり、今までとは全く違った、また今まで発見されなかった科学の法則が発見されるようになり、精神と物質と相まって理想世界が建設されるようになって行くのであるといって、物質科学を否定されるようなことは絶対にされなかった。カレルは、小麦粉を漂白して真白いパンを食べさせたり、冷暖房装置の整った部屋で子供を育てると、弱い使いものにならない子供ができてくるから、パンは、ふすまもひき込んだ黒パンがいいし、子供は自然の中で鍛えよということを昭和十年にいっているのである。これは現在の日本の子供たちに、そのまま当てはまる。科学者としてのカレルの偉い点は、ほとんどの科学者が心霊の存在を否定しているのに対してカレルは、「過去と未来を感じとる事が出来る人間がいる。肉体を脱け出して過去と未来を熟視するように見える。肉体を超えた心霊的なものが存在することを示している」といって、人間が心霊的存在であることを肯定し、他の科学者たちに見られるように心霊の存在を否定していない事である。心霊的存在である事を否定はしていないが、しかしカレルの研究はそこまでで、ともかく科学者として人格の向上、現在の努力は遺伝子を通じて未未へ伝えられる。世界が平和になるためには精神と物質の調和にある、などといっていられる事は偉大である。カレルは科学者として心霊の存在は否定しなかったが、心霊のことは詳しくは知らなかった。カレルも色心不二が正しい事を説いたのである。このカレルも主張した色心不二の正しさを更に充実させて、心霊の存在をはっきりされたのが高橋信次先生であった。私(園頭先生)はこの本を一人でも多くの人に読んでもらいたいと、ずっと思い続けてきたのであったが、なかなか本屋で見つからなかった。見つからないのも道理で、古本屋で買ったのは終戦前の出版であって、終戦後は出版されていなかったようである。それを今度、三笠書房が上智大学教授渡部昇一氏訳で出版したのである。渡部教授もこの本が一生の指針になったと書いていられる。(※注 1981年の内容です)~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~参考資料としてhttp://www.ne.jp/asahi/ikigai/yuyu/06library/book/2alexis.htmhttp://www.asahi-net.or.jp/~pi5a-kns/semicarr.htmhttp://www.asahi-net.or.jp/~ia8m-ings/man.html
2006.01.04
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- キリストの説かれた夫婦調和のあり方 -私(園頭先生)が沢山の人をこれまで個人指導した体験では、夫婦の不調和の原因の80%は結婚前に好きな人があって、その人のことを忘れられないということにあった。あとの20%は、嫁と姑との関係で夫に不信感を持っているとか、金の問題、子供の問題等であった。しかしそれらの問題も、夫婦がしっかり愛し合っていさえすれば、解決できる問題である。初恋の人の写真やラブレターを、夫に隠れてこっそり持っているという人もあった。私(園頭先生)自身の体験と、私(園頭先生)が指導した体験から知ったことは、愛情は純粋でなければならないということであった。純粋に愛し切った時、人間はその人の為には生命を捧げても悔いないと思うものであるし、純粋に愛する男性は、愛する女に自分の子供を生ませたいと思うし、純粋に愛する女性は、愛する人の子供を生みたいと思うものである。全身全霊を以って純粋に、ということである。しかし最近はこうした愛の自覚なしに、性の享楽遊戯が行なわれている。妻は自分の身体は自分のものだと思って、夫の心を無視して自分の好き放題に勝手に自分の身体を使ってはならない。妻は自分自身の身体を動かす時、その行為は夫の心に叶うものであるかを考え、夫の心に添うようにしなければならない。何かをしようとする時は、常に夫に聞いて夫の心に添う形で行為しなければならないというのである。妻が夫の心を無視して働きに出たために、家族が滅茶々々になってしまったという例は沢山ある。夫だけではない、少しばかりの金を欲したばかりに、子供をだめにしてしまったという例も多い。また、夫は何かをしようとする時は、そのことが妻の心に叶うものであるかどうかを考えなければならないのである。自分がしたいからといって、妻の考えを無視し、妻が喜ばないことを夫はしてはならないのであるということである。妻の心を無視してやることで成功することは一つもない。一時成功するかのように見えたとしても、それはなお一層手痛い打撃を受けて大きく反省しなければならない。夫というものは妻の心を無視し、妻の心を苦しめては何事も成功しない。嘘だと思う人は妻の反対を押し切ってやってみられるといい。どういう結果が出るか。かくして夫と妻とは平等にお互いに愛し合わなければならないのであるが、妻の役割については、女というものは夫を愛し、子供を愛し、貞操を守り、慎しみ深く、慈しみを持って家事を整え、夫をして家のことは心配させないようにしなければならぬ。それが、神が定め給うた女の道だというのである。お互いが共に向上することをせず、争ってばかりいたならば、子供が病気をするか死ぬか、また子供が健康で元気であれば非行暴行というようなことで、子供のことで苦労することになるというのである。子供が大きな病気をした時、子供が思いがけず死んだり、怪我をしたりした時、夫婦が調和していたかどうかを考えてみられるといい。この世の中に偶然ということは絶対にないのである。そのことが起るためには、必ずそのことの原因があるのである。ただ原因と結果との関係を知らないために、偶然といっているだけのことである。男は怒ってはならず、争ってもいけない。女は女としての分を知ってそれを逸脱せず、つつましやかな自分にふさわしい衣服を身につけて、髪の毛を編んで、その髪に金や真珠の高価な飾りをつけたり、またきらびやかな高価な衣服を着て、派手にふる舞ったりせず、善い行いをすることによって、それを自分の飾りとすれば良いのである。~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~(一部加筆訂正してあります)
2005.09.16
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- 男の役割と女の役割1 -…キリストの教から…キリストが説かれたその夫婦の道は、東洋の道徳とも一致するのである。夫婦の道だけではない。親子の道も一致するのである。神道と仏教とキリスト教が、同じ神理を説いているのである。仏教とキリスト教が一致していることについて、ある有名な仏教学者が書いていられるものがあるが、これはパウロと親鸞上人の言行が一致点が多いことを書いたもので、真の意味にわいて仏教とキリスト教の一致を説いたものとはいい難い。高橋信次先生が説かれた、輪廻転生の話を聞かれた方には、キリストの弟子であったパウロが後に日本に親鸞上人として生れられたのであることを知っていられるであろう。パウロと親鸞上人といっても、それは同一人物であったのであるから、説いたことが同一であるのは当然のことである。キリストは「天にいます我らの父よ」と、直に神に祈ることを教えられたが、パウロは、イエス・キリストという個人の、み名を通さなければ救われないと説いた。これは親鸞上人が、念仏を唱えるという手段を通して阿弥陀如来に頼まないと救われないと言われた事と同じである。男女は平等ではないのか「女は、夫の生命を拝んで神に祈らないと、女の祈りは効かれないのである」妻を愛するということは、実際は夫が自分を愛し大事にすると同様であって同じ事なのである。男といえども精神異常者でない限り、自分で自分の身体を傷つける者はいない。皆自分の身体を大事にする。妻を愛するという事は、自分で自分の身体を大事にするのと同じであるという事で、もっとはっきり言えば、妻を愛するということは自分を愛することであり、夫が自分を愛するというその愛の心と、妻を愛するという心に距離があってはならない。妻もまた自分であるということである。「夫はその分を妻に尽し、妻もまた夫に然かすべし」「分」を、ということはどんな事であろうか。夫婦の縁は、天上界からこの地上界に生れて来る時の待機所で結ばれる。夫の魂は今度は地上へ出て行って、どういう勉強をしなければならぬかを、よく知っている。その魂の勉強をするのに一番ふさわしい人を、自分の妻として選ぷのである。夫にとっては、妻のいい処、悪い処の全てが夫の魂を磨く勉強の資料なのである。いい処は愛するが、悪い処は愛さないというのであってはいけないのである。いい処も悪い処もすべて含めて、そのままを愛して行かなければならないのである。その分をとは、是非善悪、愛憎もすべてを超えたところの愛を以ってということであり、妻もまた夫をそうしなければならないというのである。~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~(一部加筆訂正してあります)
2005.09.07
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- 戒名の是非 -人間が誕生してくるのは自然の法則によるのであって、特定の宗派宗教が必要であるわけではない。生れてゆく家が無宗教であり無神論であるからといって、赤ちゃんが生れるのをやめる、ということはない。生れるべきものは生れるのである。生まれてくる時には、ただその誕生を祝福するだけで、特別に儀式をするわけではない。生まれてくる時に何ら儀式もせずに自然に生まれてくるのであったら、死んでゆく時も自然に死んでいくままに委せれば、それでよいのではなかろうか。なぜ死んでゆく時だけ宗教宗派によって、それぞれ運った儀式をしなければならないのであろうか。戒名をつけないと成仏出来ないと坊さん達はいうが、宗派によってなぜ戒名のつけ方が違わなければいけないのであろうか。戒名をつけたら成仏するという事は、どこにもないのである。戒名をつけなければ成仏しないというのであったら、それなら西洋やアフリカの人達はみな地獄なのであろうか。釈尊は死んだ時に戒名をつけよ、とは一切いってはいられないのである。日本の仏教が徳川幕府の支配下に置かれるようになってから、当時の坊さん達が寺の取入を増やす手段の1つとして考え出したのが、戒名をつけるということであった。大昔の我々日本人の祖先は、誰も戒名などつけて死んだ人は、一人もいないのである。インドで釈尊が法を説かれた当時は、「生前、こういう名前であった者の遺体がここに埋めてあります」という記しに、生前の生きていた時の名前を書いたものを立てていたので、それをストッパ-といい、日本では卒塔姿といっているのである。アメリカとインドの1700人の医師と看護婦が記録しているように、宗教が特別に人の死に貢献しているとは思われないというのである。要はその人の心のあり方だというのであるから、生きている間も心のあり方さえ大事にすれば、特別に○○宗とか○○教というような宗教を信じなければならない、という事はないということになるのである。この大自然には、宇宙創造の神が創られた自然の心の法、自然の物の法があるのであって、それを正法というのであるが、その正法という心と物との基準を知って、それを生活行為の中に現わして行けばいいのである。釈尊・キリストは実はその正怯を説かれたのであるが、その正法が現在に至る迄の間にいろいろに歪められてしまってきたのであり、私の師(園頭先生)高橋信次先生は、実はその歪みを正しくするために生れてきた人であったのである。「心行」というのは、宇宙の神理が書かれてあるから、この「心行」に書かれてあることをよく知り、実践すればよく人生の目的を達し、心を偉大に成長させることが出来るのである。だから「心行」は日本人だけでなく、全世界の人々が日常の心の基準としなければならないものである。二十一世紀は全世界的、全宇宙的な考え方をしなければならない時代なのであるから、日本人の一部にしか通用しない考え方や信仰、また、日本人には通用するが、日本人以外の人々には通用しないというような、狭い考え方や信仰は早く脱脚して、世界中の人々がみな正しいという普通的な考え方や信仰をしなければいけないのであるということである。二十一世紀に必要なものは、世界中の人々が信ずるに足りる世界宗教の出現である。それは新しく出現する必要はないので、釈尊とキリストの原点、日本の古神道の原点に帰ることなのである。~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~(一部加筆訂正してあります)
2005.09.04
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- 執着を取って死ぬ -この世に執着を待ったままで肉体的に苦しみながら長く生きる事は、その人の為にはならないのである。肉体的にのみ長く生きることが、尊い事ではないのである。人簡は霊の向上のために生まれてくるのであるし、死ぬ時には一切のこの世的なものに対する執着を無くさないと、あの世で救われないのであるから、一日でも早く執着を無くしてもらう事が大事である。そして、執着を無くして下さった結果として早く死なれたとしても、その方が良いのである。煩悩、執着を持たせたまま肉体だけを長生きさせることは、決して良い事ではないのである。(煩悩、執着を取るために反省の習慣が大事なのである)もっとも、反省というものは、健康で生きている間から、日頃心掛けてしなければならないものであって、死ぬ直前になってからやるべきものではないのである。しかし大部分の人は、その反省の大切さを知らないために、死ぬ直前まで煩悩執着の虜となっている人が多い。またそういう人は苦しんで死ぬから、苦しんで死なないように、安らかに往生できるように、最後の慈悲として引導をわたす、ということをするのである。日頃から心の出来ている人は、引導をわたす必要はないのである。誰からも引導をわたされなくても、安らかに昇天する事が出来るのである。引導をわたすということは、なにも植物人間に対してばかりでなく、長い病気で苦しんでいるという人にもすればいいのである。(心行を通じて)今まで反省ということをしてこなかった人に、反省の大事さを教え、宇宙の神理を教えてあげることは、その人を救うことになるのである。たとえば癌などになって肉体的な苦痛を訴えるという人は、心の中に大きなストレス、抵抗、悩み、執着などを待っている人であるから、反省をして心を綺麗にするという事をすれば痛みは消えるのである。心の痛みが肉体の痛みとなって現われるのであるから、心の痛みが消えると、そのために起っていた肉体的な痛みは消えるのである。~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~(一部加筆訂正してあります)
2005.08.31
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- 安楽死の問題をどうするか -医学が発達したために、昔なら自然淘汰で亡くなったような人たちが植物人間として生きることが出来るようになった。安らかに死にたいとは万人の願いである。ここで安楽死の間題を取り上げるのは、普通の人が安らかに死ぬにはどうすればいいか、ということではなくて、植物人間になって肉体は生きていても既に意識はないという人をどうするかという間題である。人工呼吸器、心臓マッサージ器、自動痰吸取器等、人間を肉体的にだけ生き延びさせる方法は揃っている。これまで医師は、たとえ意識はなくても肉体的に、どうして一日でも永く生きさせようかということに努力してきた。しかし最近、そのような植物人間を長生きさせることが本当に本人のためなのであろうかという疑問さと、長生きさせればさせるほど、その家族の経済的負担が大きくなるという問題が出てきて、経済的負担に耐え切れなくなった家族から医師に対して、「なんとか安楽死させる方法はないのか」という要求が出るようになり、医師が安楽死させることは殺人罪に問われるので、裁判に持ち込まれるという問題が起ってきたのである。現在では、医師が死を宣告した時が、人間の死だということになっている。その死の判定の基準は、呼吸と心臓機能が見られないこと、自発的な脳活動がずっと見られないことの二つということになっている。だから植物人間で意識はなくても、呼吸し心臓が活動している限りは生きていることになる。この時に問題になるのは、植物人間として、永く生きていればいるほど、家族の経済的負担は大きくなり、家族がその負担に耐えられる間はよいが、耐えられないとなれば借金する以外にないし、借金するにしてもその人の信用状態によって限度があり、無制限に借金できるわけではない。こういう場合の補償制度は決められてない。だから植物人間である患者一人を生かすために、健康である家族たちが生きてゆけないという状態が起ってくるのである。たとえ植物人間であっても、人の手で殺すということは殺人罪になるのである。ではどうすればいいのか、その方法はないのである。仮りに借金して最後まで面倒を見ることが出来たとしても、その後家族は、その借金返済のために、一生苦しまなければならない、ということになるのである。そういう事から、植物人間を長生きさせることは、果して本人の霊のためなのかどうかという事が考えられるようになったのである。そうしてイギリスの医師たちの間では、植物人間である人よりも、その家族がどう生きて行くかということを考えることの方が大事ではないかと考える人はあるが、だからといって植物人間を安楽死させることがよいということにはなっていないのである。こういうことが大きな問題になってきたために、ローマ・カトリック教会は、「もし生命が見込みがない程に衰えたのなら、医者は努力をつづけることをやめてもかまわない」といっているが、患者の承諾のない安楽死は殺人であるとハッキリいいきっている。植物人間は意識がないのであるから、植物人間に承諸を求めるということはできない。だから今のところでは植物人間になって何年ベッドに生きていようと、そのためにその家族がどんなに借金で苦しもうと、植物人間を生かす装置をはずすならばそれは殺人罪に問われるのである。植物人間は霊が肉体に執着しているのである。(園頭先生に)ある人から電話があった。「実は、私の実家の父が植物人間になって三力月になります。弟が実家を継いでいるのですが、父が人院している病院と家とが離れているので、父がいつ息を引き取るか分からないし、弟と嫁とが交代で病院につきっきりで子供は放ったらかしになり、そのため子供たちがおかしくなり、その上、商売は上ったりで収入は無くなり、親戚の者たちも、いつ死んだといってくるか分らないということで、おちおち仕事も出来ないというし、あと一力月もこういう状態が続いたら破産だ、首をくくらなければならないというのです。子供としてこういう事を考えることは、親不孝になるのかも分りませんが、子供たちの間では、早くどっちにか片が付いてくれないかなという話が出ているのです。先生、こういう時はどうすればいいのでしょうか。」(園頭先生)「植物人間というのは、霊が肉体に執着して離れない状態なのですから、霊に対して、あなたは肉体ではなく霊なのです。人間はいつかは肉体を捨てて、あの世へ帰らなければいけないのです。生きていられた間にどういうことをしてきたか、そのことをよく反省して心を綺麗にして下さい。そのために宇宙の神理が書かれてある心行を読んであげますので、その心行の中に書かれてある神理をよく悟って心を綺麗にして下さい。いつまでも肉体に執着してはいけないのですと、そういって心行を読んであげて下さい。」とそう言ったら、「私みたいなものでも出来るのでしょうか」と言われるので、「あなたでも出来ます。人間は誰も神の子なのであり、深い慈悲と愛の心を待って、心からその人に感謝してその人の悟りをお願いすれば、誰でも出来るのですから自信を以ってやりなさい。」と言っておいたのであった。それから二ヶ月して講演会に出て来られたその人は、「先生、ありがとうございました。実は(園頭)先生から言われた通りにしました。そうしたらその翌朝、父はきれいな顔で安らかに昇天しました。お陰でみんな助かりました。」とお礼を言われたのであった。こういうことを「引導をわたす」というのである。引導をわたすことは、坊さんしか出来ないと思っている人があるが、正しく正法を知るならば誰でも引導をわたすことができるのである。引導をわたすには、その人が深い慈悲と愛の心を持っていなければいけないのである。ただ形式的に引導をわたす坊さんでは、本当に引導をわたす力はないのである。死んでゆく時には、全銭や地位、名誉などにも、また自分の肉体にも執着を持ってはならないのである。執着を持っていたのではあの世(天上界)へ行けないのである。あの世の実在界へ行けないで、この地上に執着している霊が、いろいろな幽霊現象を現わすのである。家族がいつまでも嘆き悲しむことは、また霊の向上の妨げになるのであるから、いつまでも悲しんで泣いていてはならないのである。私(園頭先生)がこのような引導をわたす方法を書いたからといって、これを安易に自分の都合だけで深い愛の心を持たずにやったら、必ずその反動を受ける事になるから<その点は充分に気をつけてほしい。深い愛の心を持たず、早く死んでもらった方が都合がいいなどと考えてやるならば、必ず不運な問題が起ってくるから軽々しくやってはならないのである。~正法誌 第30号 1981年2月号より抜粋~
2005.08.30
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- 宗教は死に際して救いになるのか -死ぬ時には、信仰をした人としない人と死に方が違うのであろうか。全ての宗教団体が、信仰すると安らかに死ねますと説いている。それは本当であろうか。もう死ぬ方が近いという老人達は、口ではぽっくり死にたい、早く死にたいという人があるが、その人達の行動を見ていると、そうとは思えない。死は目前に追っているのに執着している人も多い。金に対する執着を持っている人も多い。自分の息子から電灯代や水道料を取っている人があったが、もう十年間も身動き出来ず息子夫婦に食べさせてもらい看病してもらいながら、「わしはお前達から家賃をもらっていなかった」といった年寄りがあった。その息子なる人は信仰深い人で「人間は欲があるから生きているので、父も欲がなくなったらすぐ死んでしまうだろう、だから欲を持たしとけ、それが親孝行だ、一日でも永く長生きしてもらうことが親孝行だ」と言っていられるということであるが、欲を持たして長生きさせたのでは親孝行にならないことを、その人は知らないのである。「引導をわたす」ということは、この世の一切のものに対する執着を無くして、安らかに昇天出来るように心の準備をさせることであるが、正しく引導を渡すことが出来る人は何人いるであろうか。欲を持ったままで、一日でも長く長生きさせることが親孝行だと教えている教祖も、また戒名代、読経料をもらっている坊さんも、正しく引導を渡す事が出来るとは思われない。どこの宗教団体の指導者も「この信仰したら必ず安らかに往生出来ます」と説いているが、どこの宗教団体の信者でも、安らかに昇天した人もあれば苦しんで死んだ人もある。信仰すれば必ず安らかに昇天出来ると説いていることが、嘘である事は事実が証明している。信仰すれば病気にならないと説いた指導者達が、次々に癌で死んで行っているのも事実である。「なぜ」と疑間を持つ事は信仰が出来ていない証拠であると、どこの教団でも教えているために、信者たちは矛盾した事実を目の前につき出されてもその矛盾に、どうしてという疑問すら持つことがないように訓練されているから、指導著たちが癌になっても、苦しんで死んでも、その宗教の教え方に間違いがあるのではないかという疑問を持つ人はあまりいないのである。「信仰をすれば安らかに死ねる」という言葉を裏から考えると、「信仰を持たない人はみな苦しんで死ぬ」という事になるわけであるが、信仰を持たない無神論、無霊魂論者でも、安らかに死んで行く人も沢山いる。それはどうしてなのだろうか。正法誌No30号より
2005.03.19
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- 大日如来の由来と卑弥呼 -昭和50年3月、宮崎で研修会があった。その時高橋信次先生が話されたことは、日本の建国と歴史を知る上で大きなヒントを与えるものであり、それが事実であるかどうかは、これからの歴史家、考古学者の考証をまたなければならないこともあるが、この時、研修を受けた人達はこの話をみんな聞いていていたのである。高橋信次先生の話=====================================この人(K子氏)は、過去世において卑弥呼であったことを思い出しております。奄美大鳥から来られたこの二人のご婦人は、卑弥呼の女官をしていた方たちです。(この場面はビデオテープとカセットテープに残されている)東京でデザイナーをしていられるGさん、映画俳優N氏夫人のKさんは、ともに卑弥呼の大臣をしていた人たちです。卑弥呼の過去世を思い出したこの人(K子氏)を中心として、この人達が卑弥呼の時代を思い出すと、今までわからなかった日本の歴史がはっきりとなります。耶馬台国は有明海を中心としてありました。卑弥呼が耶馬台国の時、過去世を思い出し、インドで大日如来といわれる方の娘であったことを知ったのです。それで卑弥呼は、大日如来を懐かしんで祭っていたのです。その大日如来が後に、天照大神として祭られることになったのであります。=====================================高橋信次先生は「大日如来が天照大神として祭られることになった」といっていられる。日本の古神道の思想と、釈尊が説かれた教の原点が同一であることを思うと、日本とインドの間は極めて近いといわなければならない。 ※注 (信次先生は、よく霊道現象という事を講演会の中でされていました。とくに注目すべき点は、信次先生の光により、会場内の人たちの意識が紐解かれ、過去世がよみがえり、当時の様子を語りだすというものでした。)正法誌No30号より
2005.03.08
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- 高橋信次先生の説かれた愛とは -キリスト教では「神は愛なり」と説かれてきた。仏教では愛は煩悩だと説かれてきた。仏教では愛といわずに慈悲といってきた。キリスト教では最高至純なものとして説かれている愛が、仏教ではどうして捨離すべき執者の煩悩として説かれてきたか。試みに竜谷大学篇の仏教大辞典の「愛」の項を見ると、--------------------------------------------------------男女間の恋愛、夫婦妻子を愛する愛は、名利の愛とともに汚染愛(汚らわしい愛)である。だから親驚上人は「愛欲の広海に沈没す」といわれた。愛は貪慾である。無染汚愛(汚れを知らない愛)は法を愛する愛であってこれを喜愛という。このことを親驚上人は「一念喜愛の心をおこす」といっていられる。--------------------------------------------------------と書かれてある。たしかに愛というものの中には、不倫な愛、乱れた愛、お互いの人格を低下する形の愛というものがある。しかし、そういう愛と、親子、夫婦、兄弟、友人間の魂の至純な愛と一緒に混同して、すべてを煩悩執着の捨離すべき愛としていいのであろうか。親子、夫婦の愛惰までも捨てなければならない、いまわしい汚らわしい愛だとして、もし世界の人類の全てが、皆救われんことを願って、親子、夫婦の関係をやめてしまったらこの地球はどうなるであろうか。もはや人間は一人も生まれて来ないということになるから、この地球は滅亡することになる。人間を滅亡されることが神の意志なのであったとしたら、神は最初から人間を創られなければよかったのである。人間を夫婦愛という罪を犯すようにつくっておいて、そうして夫婦愛はいけない、夫婦愛を捨てよ、ということは全くの矛盾である。そういう矛盾を自分でつくり出す神は、出来損ないの神であって、完全な救いの神ではないということになる。キリスト教では「神は愛だ」といっているが、しかし、夫婦の愛は肉欲の愛だとして罪だと説いていた。--------------------------------------------------------日本の古神道「古事記」の中に書かれてある神話篇の「国生みの神事」には、要約するとつぎの通り書かれている。「神は、この世界を陽と陰とに創られた。その陽と陰とが一体となることによって新しい生命が誕生するということにされた。かくして天地一切のものは創造され、人は神の子として、この天地創造の原理を、夫と妻という形において実践し、人の子を生むということになった」--------------------------------------------------------「人間・釈迦」第三巻、ピパリ,ヤナーの出家の章(高橋信次先生著)には、次のように書かれている。「結婚とは何か、夫婦とは何だろう。一対一の男女両性の機能は、この地上界においては欠かせない組み合せとなっている。この組み合せはあらゆるものに適用され、天地一切、陰陽の機能の調和によって現象界は回転している。結婚とは、陰陽の調和であった。男女は、それぞれその役割と特性を有しており、両者は結婚によって、精神的、肉体的に成長してゆくものである。男女がもし結婚という共通の場を持たず、個々に行動をすれば、人間社会は滅ぴるよりほかはないだろう。それ故、結婚は神の意に適うものであり、結婚という共通の場がなければ仏国土はあの世だけになってしまう。家庭がなく、夫婦生活のない社会生活などというものは、本来あり得ないではないか。結婚が行なわれ、家庭を持つことによって、人類は、連綿とその地上に生命を受けついで行くのである。愛というものは、男女の両性の中から芽生える。ある男性に、女性に、魅力を感ずるというのは、自分にないものを、あるいは足りないものを相手が持っているということから始まろう。愛というものは、こうした助け合う、補い合う、他を生かす関係から生まれ、それはやがて憐人愛、社会愛、人類愛に発展して行くのである。それ故、愛は地上の調和にとって欠くことの出来ない神の光であり、地上の光なのである」--------------------------------------------------------これまでの仏教が「愛」を煩悩執着であると説いてきたことの原因は、インドの当時の釈尊のおかれた環境から生まれてきたものであったことは、今度の高橋信次先生の言葉によって明らかにされたのである。インドの当時、釈尊が全ての愛を煩悩だと説かれたことに疑間と矛盾を持った人達が、のちに大乗時代に、男女、夫婦の愛だけを中心としたものを説き、それが密教の立川流として間違って伝えられてきたものであると思っている。インドではタントラ仏教として、また「般若タントラ」とか「母タントラ」といわれて、性的要素と宗教的帰一との一体を説く派が生まれてきたものだと思う。タントラ仏教は秘密仏教として真言宗に伝えられている。それはまた「無上ヨガタントラ」として今日に至るまで伝えられている。夫婦の愛をも煩悩としてきたこれまでの仏教も、性的要素と宗教的帰一との一体を説いてきたタントラ仏教やヨガタントラも、今回高橋信次先生が「人間釈迦」に説かれたことによって中道のあり方に帰らなければならないことになってきたのである。--------------------------------------------------------「それ故に、愛は地上の調和にとって欠くことの出来ない神の光であり、地上の光なのである」--------------------------------------------------------という言葉によって、あなた方の胸をあたため、自らの心を神の光とされよ。正法誌No30号より
2005.02.10
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- 大日如来の由来と卑弥呼 -高橋信次先生の話より大日如来といわれている方は、釈迦釈迦牟仏が亡くなられてから二十五、六年後に神理を説かれた方です。ゴーダマ・シッタルタは待に慈悲ということについて説きました。愛ということは説いておりません。みなさんは、慈悲というとなにかといえば愛だと答え、愛とはなにかといえば慈悲と答えるでしょう。大体、釈迦系の人は愛というものを知らないのです。釈迦系の人は「愛」といえば、いやらしい愛を思い出す人が多いでしよう。なぜそのようになったかと申しますと、その当時のゴーダマ・シッタルタは非常に恵まれた関係におりました。特に女性関係において第一夫人、第二夫人、第三夫人とおり、その外、カピラの城中には沢山の女の人達がおりました。そのために、悟れないのは女性問題が障害になっていると考えたのです。そのことが非常に強く心の中に残っておりました。そのことが後に女性が仏教に帰依した時も、躊躇したのであります。教団の中に女性が入ってくると乱れてしまうと思い、特に女性問題については比丘、比丘尼たちに厳しく注意しました。そういう関係で、女性というものに非常に間違った判断をしていたのです。女というものは憐れなものだ。特に当時のインドでは現在のように一夫一婦制でなく、何人も妻を持っていました。また女性も永い歴史の中で地位が低く、知識もありませんでした。いうなれば女は、男の遊び道具としか考えられていない状態が強かったのです。そのために女性に対するものの考え方も低かったのです。人は平等だと教えながらも、こと女性のこととなると、どうしても低く見る心があったのです。非常に間違った判断をしていたのです。そこでこれではいけない、ということになったのです。大日如来といわれる方は当時、マガタ国にいられまして学者でした。慈悲だけでは人は救えないのだ、愛も必要だということでこの方が愛を説くということになったのです。弘法大師という方は、竹林精舎を寄進されましたガランダという方で、大日如来はガランダの娘婿にあたる方です。あの世に帰った時に大日如来と名付けられたのです。この方が慈悲と愛の関係について、くわしく説いたのです。それでもまだ愛の説き方が足りないということで、天上界からイエス・キリストを出すということになったのです。キリストは、ですから愛ということに重点に説きました。大日如来のグループの中には、のちにキリストの弟子として出られた方もいられます。釈迦牟尼如来も大日如来も、どちらも法を説く天上界の同じ仲間なのです。中国から日本へとなってくると、どちらも仏像につくられて拝まれるということになりました。護摩を焚くというのは売全にバラモンの教で、仏教では護摩を焚くことは絶対にしないのです。弘法大師が中国に勉強に行った時、五台山で、不空三蔵といってインドから中国に帰化した方があります。この方によって密教というものがつくられたのでありますが、密教はバラモンの教であります。それが日本へ来たら、大日如来を祭るということになり護摩を焚くということになって、分からなくなってきたのです。中国に渡った時、仏教という呼ぴ方をするようになったので、インドの当時は、プターストラーといっていました。プターストラーというのは「悟りの道」ということです。プターとは悟られた方、聖者ということで、ストラーとは道、神理ということです。密教とは違うのであります。釈迦も大日如来も阿弥陀如来も、同じ天上界の道を説く人達なのです。如来というのは「来るが如し」と書きます。「来るが如し」というのは、仏法を説きに来る光の天使ということです。同じ如来といっても、光の量の区域によってそれぞれまた段階があります。心の調和度によって違ってきます。心の調和に至る道が八正道なのでありまして、この八正道の中に「報恩感謝」ということがある。この報恩感謝の道が実践された人達をボサター(菩薩)といっています。プター(如来)という方は必ず正法というものを説きます。仏法とは神の意志なのです。インドではこの仏法のことをタルマといっておりました。このように大日如来もタルマを説いたのですが、いつのまにか宇宙の神さまだというように変ってしまいましたが、これは違います。大日如来も肉体を持って、自ら悟って道を説いた人たちなのです。大日如来という法身といって、肉体を持ったことのない架空の人のように思っている人が多いですがそれは違っています。釈迦牟尼仏も、今から二百年位前までは架空の人だといわれていたのです。それがアショカ王の遣跡や仏舎利が発掘されて、実在の方であったということがはっきりわかってきたのです。如来というのは正法を知り、八正道と報恩感謝ということを実践されて、心に曇りがなくなり、心に曇りがなくなって後光が全身から出るようになるのです。ボサター(著薩)という人は頭の上にだけ後光が出ています。これは多少まだ執着があるからです。あの世ではアガシャ系が主体となっておりまして、心のもっとも調和された方が、アガシャ、モーゼ、キリストでこの三人の方がもっとも上段階にいられます。アガシャといわれる方が、インドに釈迦牟尼仏として出られたのであります。如来といってもまた沢山の段階があって、大日如来といわれる方は、その下にあって説かれた方です。正法誌No30号より
2005.01.25
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- 宇宙創造の原理と神癒14 -なぜ、神癒と見える現象が起るのか神癒と言われる現象が起るためには、祈る人の強い愛念と、受ける人が素直に反省し感謝して、祈る人の心を受ける、という心になる事が絶対的な条件です。受ける心もない人の心をこじ開けて、その人の心に通じさせるという事は絶対にありません。神は全ての人間に自由を与えていられるのですから、本人の心の自由に叛いて本人の欲しない事を強制的にさせる、というようには人間は創られてはないのです。どうして神癒は起るかといいますと、祈る人の誠心、愛念を、その人の守護霊が相手の守護霊に伝えます。その相手の守護霊がその人の心に、心の内側から囁いてその人を反省させ修正させます。心の底では既に修正の決意が出来ているのに、表面意識は気がつかない場合があります。体力的に弱って、表面意識が朦朧としている場合などです。その守護霊同志の図らいによって、肉体がコントロールされてゆきます。この守護霊が守護霊に伝えるという事が分からないために、こちらの念が相手に通じた、神様が癒されたというのであります。超心理学的な表現を借りれば、潜在意識から潜在意識への伝達という事になります。我々は、絶えず感謝の心を以って調和し、自分の心を神に振り向けて、自分を絶え問なく湧き上る神を大源泉とする、泉のようにしなければならないのであります。そういう心境になって禅定をする時、自分の意識は肉体を脱して、はるか高い所から肉体の自分を見下す事が出来るようになるのであります。心の太陽を曇らせるのも自分なのですから、自分で自分の心を曇らせないようにしなければならないのであります。自分で作った心の曇りの影が、病気、不幸となっているのでありますから、心の曇りが無くなれば病気不幸が消えてくるのは当然の事であります。正法の道は、自分が自分で心を修正しただけ、確実にその結果が出ます。自分で自分の心が広く大きく豊かになってゆくのが良く分かり、その度合いによって神様の恵みというものを、ひしひしと知る事ができます。正法の道は自由自在の道で、自分の心の自由を自分でコントロールし、支配してゆく道ですから誰からも束縛されません。あなたが心を開いて、心を自由に安らかにして、調和と感謝をされるならば、あなたにふさわしい幸福と健康が自然に現われてきます。私達が心を開いて安らにすると、天上界からの協力を受け易くなります。正法誌No28より
2005.01.16
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- 宇宙創造の原理と神癒13 -人生の目的は人生の目的は、魂を偉大に成長させる事にあります。病気だけ治ってみても、魂が成長しなかったら人生の目的を達した事になりません。心を変えずに病気だけを治そうとする人よりも、既に手遅れで病気は治らずに死んだが、死ぬ前にこれで生き方を反省して心を変え、心を綺麗にした人の方が救われるのであります。病気であった人が病気が治り、不幸であった人が幸福になる事はいい事ですが、病気が治って健康になり、不幸が幸福になっただけではいけないので、健康になり幸福になり、そうして魂をますます大きく成長させる事をしないといけないのです。調和、感謝も人生の目的ではない病気や不幸になっている人は確かに、調和が出来ていないし感謝が足らないのですから、調和し感謝したら病気や不幸がよくなったというは当然の事です。調和し感謝して良くなる事は当然の事で、だから「正法に奇蹟なし」ともいわれるのであります。特定の神を拝んだり特定の宗教団体に所属しなくても、その人が、調和と感謝をするならば健康で幸福な生活をする事ができるのであります。自分で自分の心を修正するのですから、一銭の金もかかりません。自分で自分の心を変えるのに、どこかの教団に多額の献金をしたり、また沢山の本を買って配布しなければならないという事はないのです。では、なにが人生の目的なのかそれは、人間は神と一体である神の子であるという自覚を、頭で知るのではなくて身体全体で、魂のどん底で自覚する事、即ち「宇宙即我」に到達する事なのです。この宇宙即我を自覚し体験する唯一の方法が、禅定なのです。この宇宙即我に到達して行くには、その人の心の段階があるといってよいでしょう。調和、感謝がなぜ必要かといいますと、調和し感謝した時の安らかな心の状態で禅定をしないと本当の禅定にならず、宇宙即我への道を進んで行けないからです。これまでの宗教は、調和し感謝する事が人生の目的であり、信仰の到達目標であるように教えてきましたが、実際は、宇宙即我に到る入り口に立っただけの事なのです。例えば、小学生に大学生のような事を教えても、さっぱり理解できないし受けつけないでしょう。社会的な広い視野を持たない子供達に、大人になってからの事を色々教えてみても、それが人生にどんなに大事な事であっても分からないでしょう。だから、小学生には、まず高校という中間目標を与える。中学生には、高校から大学へという中間目標を与える。小・中学生から見ると、とにかく大学に入りたいと、大学を目標にして一所懸命に勉強するわけですが、人生全体から見たら大学を卒業する事が人生の目的ではないはずです。大学を卒業してどこかに就職する。社長になりたいと努力して社長になったとしても、社長になる事が人生の目的だとはいえないはずです。社長をやめてからの人生もあります。この世の事だけを考えてみても、私達が生きて行くためには非常に沢山の段階を経なければなりません。それと同じように、病気や不幸な人が健康と幸福になるために調和し感謝するのは、ようやく大学を卒業して、いよいよこれからが人生の本番だという、入り口に立っただけの事なのです。八正道は、人間が実践すべき最低の基準だといわれるのはそのためです。正法では自分の心と行いの全てを、反省し修正するのです。その反省と修正の度合いによって、既に与えられてある、神からの健康と幸福がそこに、その度合いに従って現われてくるというのです。正法誌No28より
2005.01.10
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- 宇宙創造の原理と神癒12 -神癒の力大宇宙において行われた創造の原理は、小宇宙である人間においても真であり、宇宙を支配している法則を悟って、これと調和するならば、人間は自然に健康と幸福を得て、心を安らかにする事ができるのであります。皆さんが幸福になるためには、皆さんの心の中から、苦しみを与える神があるという考えを無くさないといけません。言う事を聞く人間には褒美を与え、言う事を聞かない人間には罰を与えるというような、懲罰の力を持っている神というものを神だと信じていられる限り、あなたは本当の心の安らかさを体験し悟る事はできないのであります。全智全能であり、智慧であり慈悲そのものである神は、初めから我々に健康と幸福とを与えられているのであります。この事を聖書には、「太陽が善人の上にも悪人の上にも等しく照るが如く」「雨が善人の上にも悪人の上にも等しく降るが如く」と教えてあるのであります。太陽は神の心の象徴でありますから、昔から太陽信仰をしてきた日本人は、誰が知らなくても「おてんと様がみてござる」とか「おてんと様のおかげで」「おてんと様にすまない」といって、自分達の行動を正しくしてきました。「おてんと様のおかげで」と感謝した時と「誰の世話にもなっていない、おれは一人で生きてゆくのだ」と言った時と、どちらが心が安らかになるか、ちょっと読むのをやめて実験してみて下さい。「神癒という言葉を使うので、神様が癒して下さるように思いますが、特別の恵みをもって神様が癒して下さる事は絶対にないのであります。何故かと言いますと、神様は病気や不幸をつくったりされないのであります。神が懲らしめのために、人間に病気や不幸を与えられる事は絶対にないのです。どうして病気や不幸が出てくるかというと、その人の心が暗くなり、心のあり方が正法にはずれたために、その結果として出てきたもので自分がつくったのであります。だから神様に治して下さいと頼んでみても、神様は「わたしはそんなものはつくらない、自分でつくったんだから自分で治しなさい」といわれるはずです。だから実際は、神が癒して下さる「神癒」というのはあり得ないのであって、あるのは「自癒」であります。自分の心でつくり出した病気や不幸を、自分で治そうとせずに神様にすがって治してもらうとする事は責任転嫁になります。自分の心を変えようとしないで神に祈る他力信仰では、心を偉大に成長させる事は出来ません。正法誌No28より
2005.01.06
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- 宇宙創造の原理と神癒11 -信ずる事よりも知る事が大事である宗教は信ずる事よりも、知る事が先でなければならないのです。いくら信ぜよ、と言われても、間違ったものを信じてしまっては苦しみが起ってきます。あなた方が今信仰していられる場合、その信仰によってかえって苦しみが起ってきたとしたら、その信仰はどこかに間違いがあるという事になります。正しい信仰に、苦しみが生ずるはずがありません。お釈迦様は「人類が苦悩なくして生きる道」を説かれたのでありますから、正しい信仰なら苦しみが起ってくるという事は絶対にありません。正しく「正法」が説かれている時代はよかったのですが、現在のように非常に沢山の宗教宗派がある時代には、正しいものを「正しい」と知るためにはまず疑ってかかる事です。疑問を持ってそれを追及する事です。お釈迦様は「苦悩が起るのは知るべき事を知らない、無明から起るのである。知らない事が苦悩の原因だという事が分かったら、今度はその苦悩はどういう事から起ってくるのであるかを知らなければならない。何が苦悩の原因であるかを知ったら、その苦悩の原因を無くする努力をすればいいのである。」と説いていられるのであるから、一所懸命信仰していて、なぜ苦しみが起ってくるのかを追及しなければいけないのであります。正法誌No28より
2005.01.05
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- 宇宙創造の原理と神癒10 -因縁と相即相入お釈迦様は因縁の法を説かれました。お釈迦様が説かれた因縁の法則は、実際は物心両面に共通する法としてお説きになったのでありますが、宗教というと、それは心の問題であり、魂の問題であると考えた後世の人たちが、因縁といえば心の間題の事だけであると考えるようになりました。キリスト教でも心の問題だけを説いてきたために、科学者たちは宗教とは全く関係なしに物質の研究を進めてきました。そのために科学というと、物の事だけの研究だと多くの人は思っていますが、実際は多くの事実を観察し実験して、一定の原因に対しては一定の結果が出るという、目に見える事実の背後にある目に見えない「法則」を発見したのが科学であります。自然界の事物を観察していると、そこに自然界を支配している法則がある事が分かります。この自然界のものは全て因縁の法則によって動いております。心も物質も同じく因縁の法則によって動いております。宗教と科学は一致するという事を、主張する科学者が多くなってきたのは、科学達が純粋に科学的な物質的な立場で研究を進めて行った結果、最後には宗教の世界で説いてきた事と一致してきたからです。我々は何気なく「そこに物がある」と思っていますが、しかし、心と物質とは次元が違います。その次元の違う心がなぜ「それは物だ」と認識する事が出来るのかという事は、ギリシャ時代から哲学者たちが大問題にしてきた事でありました。私たちが一切の物を心で認識できるのは、心の本質と物の本質と本来同質だからであり、心の本源と物の本源は本来同一であるから「認識する」という事が成り立つのであります。お釈迦様が「神の意識は、意志を待ってこの宇宙を創造した」という事を悟られたと前に書いて置きましたが、心と見えるものも、物と見えるものも、実はどちらも同じ「神の生命の波動」であるのであります。哲学的にいいますと「見るもの」と「見られるもの」とは一体である、という事になります。私たちがこの宇宙の大きさを認識できるのは、この広大な宇宙の大きさを認識できる心の広さを持っているからであります。神の心の継承者として生まれた人間なら、神が創られた一切を認識出来て当然だといわなければなりません。この「見るもの」と「見られるもの」とは一体である。心が物を認識できるのは、心と物との本源は一つだからであるという事を、仏教では「相即相入」という一言葉で表現をしているのであります。ですからお釈迦様は偉大なる科学者でもあったのであります。神の心の継承者である神の子の私たちは、本来、宇宙と同じ大きさの心を持っているのでありますが、それを小さく自己限定してしまうところに苦しみ悩みが始まるのであります。お釈迦様は「一切の苦悩の原因は無明にある」と説かれました。「無明」即ち明るさが無い、なぜ心の明るさが無いかというと知るべき事を知らない、知ろうとしないからです。例えばみなさんがある所に行くとします。そこへ行くにはどう行けばよいか、ちやんと道順を知っていれば迷う事はないでしよう。知らないで行けば、途中で迷う事になります。知らない人が迷わずに行くにはどうすればいいか。それは知っている人に聞けば一番手っとり早いのであります。知らない事を教えて下さる人が良き師であり、良き友であるというのであります。正法誌No28より
2004.12.23
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- 宇宙創造の原理と神癒8 -神は自らの意識によって、自らの意識の設計に従い、物質となるべき素材を造り出してこの宇宙を造り、地球その他の遊星を造り、その上に鉱物、植物、動物を造られました。鉱物は造られた所にあるままで、動く自由がない。植物は成長する自由は与えられてあるが、自ら位置を移動する自由がない。そこで動く自由を与えられて動物が造られる。しかし動物は、与えられた本能のままに動くだけで自分の意識によって創造するという自由がない。鉱物には鉱物として、植物は植物として、動物は動物としての意識はあっても、それらはみな自由意志を持たない。他によって支配されるのを待つ、という受身的な存在であります。この宇宙創造を、お釈迦様は次のように悟られたのであります。「大宇宙の創造は、神の意志によって始まった。意識の働く宇宙と、物貿界の宇宙のニつの世界を創造した。意識界の宇宙はその意志をもって物質界の宇宙を動かし、そうしてこのニつの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。神の意識は、永遠の調和を目指し、そうして、二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった。」聖書に「神はここに見よ、かしこに見よというが如くには、いまさないのである」という言葉があります。人間がこしらえて、どこどこに鎮座ましますという神は、私たちはそれを神とは言わないのであります。私(園頭先生)が言うのは宇宙創造の神であります。その神は、ここに見よ、かしこに見よというが如くには、いまさないのである、ということは、どこにでも、どんな所にでも、どこにといって神がいまさない所はない。神は無尽蔵の相として、どこにでも蔓延していられるということです。そのことは「目に見ずして信ずる者は、幸いなり」といってあります。吾々の五官の目には見えないが、しかし、目に見えないけれども存在するもの。それは見ようとしても目で見ることの出来ないのでありますから、心で直観するしかありません。しかし、心で直観する前に知ることが必要です。それが「調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった」ということです。神の意識は宇宙に蔓延すると同時に周囲に「法則」として一切のものの中に存在し、一切を生かすことになった。その法則に従う道が調和であり中道である、というのであります。中道のいうのは、足して二で割った真ん中ということではありません。よく政治的に中道路線という言葉が使われておりますが、足して二で割った妥協は中道ではないのです。一切を生かす道が調和であり中道であって、中道調和の道を「正法」というのでありますが、正法は一切の人々を一人残らず救う道であります。なぜなら、正法こそが神の心の法であるからです。「法則」には例外というのはありません。例えば水は、酸素と水素の化合物です。酸素も水素も、単独ではすぐ火に燃えて爆発します。この危険な酸素と水素が、法則に従って化合即ち調和すると水となって火を消し、一切のものを生かす働きをします。人間も食物はなくなっても、水さえあれば多少は生き延びる事ができます。酸素と水素が化合調和して水になるというのは法則ですから、誰がやっても同じ結果が出るのです。心の綺麗な人が化合させたら水になったが、心の暗い人がやったら火になって燃えた、というようなことは絶対にありません。誰がやっても同じ結果が出るというのが法則であって、法則には例外はありません。ですから、神がつくられた正法は、誰が聞いてもその通りにすれば必らず幸せになるのであって、絶対に例外はないのであります。救われたり救われなかったりする宗教は正しい宗教とはいえないのであります。これまで長い間人類は、神は人間が祈ればその祈りに答える所の人格的存在であると思ってきました。だから一所懸命に神さまに頼み込めば、気嫌を取れば神さまが聞いて下さるであろうという考えから、人よりも沢山お供えをすることが、人よりも悲しそうな哀れな顔をして長々と祈るとかというようなことが、行われるようになったのであります。お釈迦さまが生まれられた以前のインドの宗教では、「供儀」といってお供えの儀式が決められてあって、その内の一つでも欠けたら神さまが析りを聞いて下さらないと信じられ、また「人身供養」まで行なわれました。それは「神さま、私は自分のかわいい妻を、子供を神様に差し上げます。このかわいい妻や子供を差し上げるぽどまでに神さまにお願いするのですから、どうぞ私の願いを聞いて下さい」というわけであります。このインドのあり方が日本にも入ってきて、飢饉など天災があると「人身御供」をして祈るとか、また橋を架ける時など「人柱」を立てるということなどをやった時代があったわけです。お釈迦さまは「供養によって救われることはない」と説かれました。「神は法則の中に住まわれることになった」というのでありますから、法則に従って生きるということが、神の生命を生きることになるのであります。法則に従って生きれば、神によって生きることになるのでありますから、我々がまずしなければならないことは「法則を知る」ということであって「祈る」事ではないのであります。正法誌No28より
2004.12.16
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- 宇宙創造の原理と神癒6 -~ 神は智慧である 想念はものを創る ~人間は何かを造るためにはまず設計図を作ります。家を建てるのでも、或は、自動車、船、飛行機、機関車等々何を造るにも設計図を作ります。その設計に従って材料が集められ、人が集められて出来上がっていきます。その設計図は何処にあったかというと、それを造る人の心の中に描かれてあったものを図面に書いたわけです。物質というものは、顕徴鏡で見ると、実にきれいに一定の秩序ある構造をもって成り立っています。雪の結晶にしても、あの六角形の、素晴らしく美しいデザインが、なんの知性もなしに偶然に出来るわけはありません。雪の結晶にも色々ありますが、大体その形は一定しています。誰があの雪を、あのような美しい結晶を造ったのでしようか。化学を習った人は全ての物質に一定の構造式があることを知っていられるはずです。この構造式は人間がこしらえたのでしょうか。そうではないはずです。神は自らの意志によって波動、即ち言葉を起こして、そこから目に見える存在として、現象化の第一歩が始められたのであります。その波動は、一定のリズムを持った波動であります。その波動のリズムを取り出したのが、音楽であります。リズム、それは神の創造から発したところの波動でありますから、リズムのある音楽は人々の心を安らかにしますが、リズムのない雑音は人の心をイライラさせるだけで、安らかにはしません。音楽によって人の心を安らかにし、同時に神との一体感を体得するために音楽を奏するということは、古代ギリシャ時代からあったのであり、それがヨーロッパの宗教音楽となって発展してきたのであります。音楽の基礎はリズムにあるといわれていますが、それは生命の創造原理がリズムであるからであります。神は決して、この自然をデタラメに創造されたのではないのであって、ー定のリズムをもって創造されたのであり、そのリズムある創造の原則を「法則」というのであります。お母さんが一定のリズムのある子守歌を歌って、赤ちやんの背中やお尻を一定のリズムで軽く叩いたりさすったりすると、赤ちやんはスヤスヤ眠ります。それは、そのリズムによって、生命の本源の世界へ心が帰って心が安らかになるからであります。アメリカでは、老人のノイローゼや老人性痴呆症の人たちを治療するのに、昔のお母さんたちが歌った子守歌を聞かせて、昔のお母さんたちが作って食べさせたと同じおやつを、食べさせているということです。日本でも最近音楽療法の研究が盛んになりつつあり、心の病いを和らげる音楽療法行動障害の子どもたちと音楽療法特殊教育のなかでの音楽療法人間らしさを育てる音楽療法人間性を活かす環境音楽医療施設の環境音楽といった研究、実験がすすめられ、着々成果を挙げつつあります。これらの音楽療法の源泉は、神の天地創造は一定の波動、即ちコトバ、即ちリズムをもって行なわれたというところに発しているのであります。「宇宙即我」を体験すると、この宇宙は一定のリズムをもって創造され回転していることがよくわかります。太陽の光も、のべつ幕なしに光を出しているのではないので、一つの波動をもって波として、リズムをもって波打って発しているのであります。だから禅定とは、宇宙のリズムに自分の心のリズムを合わせることであるのです。幸福だという人は、その人の心のリズムが、宇宙のリズムに合っているという人であり、不幸だという人は、その人の心のリズムが、宇宙のリズムとは合わない、不協和音を出しているということになります。(禅定とは、自分のリズムを、宇宙のリズムに合わせるために坐ることなのです。)正法誌No28より
2004.11.13
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~神は一つである~宇宙創造の神様が、いくつもあるわけはありません。私達は、宇宙創造の神様の事を「大宇宙大神霊」と呼んでいます。この呼ぴ方はお釈迦さまが菩提樹下で悟りを開かれた時に、大宇宙の意識と同体となって宇宙の成り立ち、神の存在、人間の在り方、魂の輪廻転生等、一切が明らかになられた時に、神をそのような名で呼ばれたものであることに従って、そのように呼んでいるのであります。キリスト教では「ゴッド」「天に在しますわれらの父」と呼んでいますし、神道では「天之御中主神」と呼んでいるので本来神は一つであります。元々、宇宙創造の神に特別の個有名詞があるわけではありません。唯物論者は「神は人間がこしらえたのだ」といういい方をします。勝手に人間が神を創ったのだというのです。それも一理あるのです。元々神に名があったのではありませんが、この宇宙は誰かが造らなければこの宇宙は存在しないはずだと考えて、その宇宙創造の中心大生命力を「神」という名で呼ぶことにしたのですから、たしかに神という名をつくったのは人間だといえます。「神」という名で呼ぷことがいけないというなら「神」という名で呼ばなくてもよいのです。「神」という名で呼ばなくなったからといって、唯物論者がいうように「神」という名で呼んでいた宇宙創造の大生命力が無くなるわけではありません。人間も最初から名前があって生まれてきたのではありません。「オギャー」と生まれてきた時は名前はなかった。名前をつけないと生活に不便だから、どこどこの家に生まれた○○という名がつけられるわけです。そういう名を付けなかったからといって、生まれてきた子供そのものが無くなるわけではありません。だから名にこだわって神を否定しようとする人たちは、深く物事を考えることの出来ない浅い考え方の人たちだということがいえます。名はなくてもいいのです。人間がどういう名をつけようと、一切そういうことには関係なく、この宇宙を生かし続けている大生命力そのものの存在は、厳然としてあります。その大生命力を神というのであり、吾々はその神に感謝することを忘れてはならないのであります。正法誌No28より
2004.11.03
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~創造の順序~お釈迦様は、次のように悟られました。「大宇宙の創造は、神の意志によって始まった」「意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した」神の意識が動き出す。動くと必らずそこに「波動」が起ります。その「波動」「ひぴき」を吾々は「言葉」というのであります。「初めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき」「全てのものこれに依りて成り、成りたるもの、一つとしてこれに依らで成りたるはなし」という聖書の言葉は、その事を示しているのであります。神は神自身の意識を持って、形なき大生命を形ある相に顕現しようと想念し、その想念の如く形ある相に表現しようと意志を持たれた。即ち、大光明という形なき光が形ある相に現われるべく振動が起った。その振動を「言葉」というのであります。口で発する言葉も言葉でありますが、ここで言う言葉とは、口に発する以前に心の中で発せられたところの言葉であります。私達は安易に、言葉とは口に出たものだけを言葉といっていますが、実は口に発する以前に心の中で想念され、発せられた言葉があるという事に気がついておりません。実際は心で発した言葉が、口から発する言葉となって出ているのであります。心で発した言葉が瞬間に口に出るために、「言葉は口で発するもの」と錯覚しているのであります。それがウソかホントか、自分で実験してみるとよく分かるのであります。「今日は天気がいいな」と、心の中で思わずに、口だけで「今日は天気がいいな」と言ってみて下さい。「あなたは今日はどちらへ?」と、その人が今日はどこへ出掛けられるのであろうか、ということを心の中で全く思わずに「今日はどちらへ」と言ってみて下さい。絶対に出来ないはずです。口でそういったと思っていても、言葉が口から出る時は、既にその言葉に相応する想念が、心の中に起っているはずです言葉と想念とは一体であって、切り離すことは出来ません。だから、よく「心にもないことを言いまして」と弁解する人がありますが、その人の心の中にそういうものがあるから、言葉に出るのであって、心の中にないことは絶対に言葉となって出てくることはないのであります。しかし、そういう言葉が一つの潤滑油となって、ある場合に人間関係を和らげるという事は一つの生活の智恵というべきかもわかりませんが、心の中にあるから出てくるのであって、心の中にないものは絶対に出てくることはないのであります。神の意識の中には、目に見える形の宇宙創造の原型が既にあったのであります。あったから現われてきたので、無いものが現われるということは絶対にないのであります。神の意識の中に「宇宙を斯くの如く創造しよう」とする意志即ち振動が起った。それを「神の言葉」というのであります。「始めに言葉ありき、言葉は神なりき」というのはその意味であって、言葉と神とは切り離す事とは出来ないのであります。言葉は意識を表現にまで駆りたてる力を持っています。だから幸福になろうという人は、言葉を選択しなければいけないのであります。幸福になっている人は、幸福になるような言葉を使っているし、不幸になっている人は、皆不幸になるような言葉を使っております。幸福になるような言葉を使っていたのに、不幸になったとか、また、不幸になるような言葉を使っていて、幸福になったという人は一人もいないのであります。ですから今まで不幸であったという人は、これまでどういう言葉を使っていたかを反省して、これからは幸福になるような、明るい言葉だけを使うようにされれば、必らず幸福になるのであります。ここでいう「言葉」とは、心で想念した通りの言葉の事を言っているので、思っている事と、口で言う事と違う人があります。心にもないお世辞を言って、上役に取り入るというような事が職場では沢山あるようでありますが、お世辞をいって昇進してみても、それは魂の成長とは全く無関係であります。正法誌No28より
2004.10.31
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