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今日の午後から地域の自治会館でデジサポ京都主催の地デジ推進の説明会、共同アンテナで受信している世帯へ向けの地デジの説明会、エコポイントがらみで11月末に地デジ対応テレビを購入、今は近くのマンションの共同アンテナでテレビ受信、地デジテレビを見ようと思えば、自分で比叡山の方角に向けてUHFアンテナを立てるか、室内アンテナを購入するか、ケーブルテレビに加入するか、光ケーブルの契約をしなければならない、テレビの受信だけ考えれば、しかも家が電波状況の非常にいい場所なら室内アンテナ、そうでなければ、UHFアンテナを立てる方法が一番安上がり、だと思う、丁度、1年前の12月にもデジサポ京都主催の説明会が開かれた、たまたま去年と今年が町会長で町内の人が、「共同アンテナはどうなる」、と聞きに来る人がいた、「これは町会長が間に入る問題ではなく、総務省と個人の問題、聞きたい事がれば、地デジ化推進窓口に電話をしてほしい」、とこたえていて、以前にビルのオーナーから、「アナログ放送の時代はビルを建てようとすると、ビルが建つために電波障害が起きる可能性がある、そのためには必ず共同アンテナを立てて、近隣の人たちが電波障害なくテレビ受信ができるようにする、土下座までしてビルを建てさせてくださいとお願いした、ところが事が地デジになると、先にビルが建っていて、後から地デジ放送が始まる、ビルのオーナー側から言わせると、『そんなことは知ったことか』、という事で、地デジ放送の共同アンテナの事は全く考えていない」、と言っいていて、ビルのオーナーのいう事が筋が通っていると考えていて、町内の人が共同アンテナについて聞きに来た時もそのように返事をしていた。 ただ、これが町会長として正しいのかどうか定かではなかった、だから1年前の説明会に出席して、主催者のデジサポ京都のメンバーに確認すると、「その通りです」、との返事が返ってきた、この説明会に町内の人の出席はなく、説明会の後で、「どうでした?」、と聞きに来る人がいて、「町会長として出席したのではなく、個人として出席したので、その時の資料を渡しますので、読んでください、もしわからない事があれば、書いてある電話番号のところへ電話をして聞いて下さい」、といって当日の資料を渡した、この1年前の説明会では、京都は比叡山方面からの電波と生駒山方面からの電波を受信して地デジ放送を受信する、だから比叡山方面に向いたアンテナと生駒山方面に向いたアンテナの2本のアンテナを立ててください、デジサポ京都の担当者は説明、10年前に電波領域を整理して、テレビのアナログ放送から地デジ放送に切り替えると電波領域が整理されて、テレビ放送が使用する電波領域がコンパクトになって、将来において必要となる電波領域が確保できるという理由で、アナログ放送から地デジ放送に10年後の切り替えるという事が国会で決議されて、法律でこの事が決められた、その間、2011年7月24日から地デジ放送に切り替わるという有名タレントを使ったCM、チデジカなるキャラクターが作られて、地デジに切り替わる日の広報は行われていたのだが、各家庭のアナログテレビは各家庭の財産である、電波領域の整理という大義名分はあるが、国が個人の財産権を侵害してまで行うことが果たして、という疑問があり、総務省が各家庭にお願いをするという姿勢があってもいいのではないか、10年前に国会で決めた法律が出来て、これに従えという態度、この総務省の態度の少々立腹と大きい不信感、そのために1年前の説明会の時のデジサポ京都の作成した資料を町内の人数人に見せはしたが、口で説明をする事はしなかった。 この説明会の3ケ月後、マンション管理人の仕事をしている管理会社から、「京都では生駒山方面からの電波が弱く、比叡山の中継局を強化して、比叡山方面からの電波で地デジ放送の全チャンネルを受信できるよう、8月を目途に行われる」、という予定を聞かされた、この時に3ケ月前の説明の時には比叡山方面と生駒山方面との2本のアンテナが必要と説明、この説明会の時の説明を近所の人に話さなかった事を幸いにさえ思った、オレの説明を聞いた近所の人が2本のアンテナを立てていたらと思うと冷汗が出る思い、あの時に町会長が2本のアンテナがいるというたので、2本のアンテナを立てたけど、1本のアンテナでよかったんや、事ある毎にこれを言われる、現在の地デジ化推進の組織、総務省からデジサポ京都が委託されていて、こういう事のなんら責任をとることもなく、責任を感じることもなく、勧められていて、総務省とデジサポ京都に大きな怒りさえ感じていた。 高いビルやマンションの共同アンテナ、地デジ放送になれば共同アンテナの対応はしないと理解し、町内の人にもそう説明してきたが、ところが8月頃からアナログの画面の下に共同アンテナの施設に対する助成金のテロップが流れるようになって、共同アンテナで受信している家庭はその施設に相談してくださいと書かれている、それだけではないエコポイントがらみで駆け込みでテレビを購入の家庭、アンテナを立てるときに電気工事の人が共同アンテナで受信の家には、町会長さんと相談してください、それを聞いてまた町内の人が数名、共同アンテナのあのマンションへ行って、話し合いをして欲しいといってくる人も、またもや頭にくることが、そこで12月15日に説明会開催の案内の回覧板が自治連合会から来た、今日の午後に出席、デジサポ京都の説明が30分、電気屋さんとNTTの人が相談窓口として出席、デジサポ京都の人が、「地域内で共同アンテナの施設が32施設で現在既に地デジに対応している施設が6施設、その他の28施設は個別受信検討中、周知報告の時期は未定、と施設名ごとの状況をプロジェクターからスクリーンに映して一通り説明、後は個別受信の方法の説明とアンテナとケーブルテレビの事は電気屋さんに相談、光ケーブルに関してはNTT相談、という事で説明会は終了、出席者の20人ほどの殆んどが共同アンテナで受信の家庭の人、ここまでで何か質問、直ぐに手を上げて、先ほど見た地デジに未対応の28施設、個別受信検討中、周知時期未定、とある殆んどの施設、地デジ対応が無理なら無理というのがこの説明会の趣旨と違うのか、もう少し待てば共同アンテナの施設が何とかすると期待をする人も今の説明ではいると思う、もう切り替えまで7ケ月ほど、いまだに地デジに未対応の施設はその気がないと言い切ったほうが誤解を招かないのではないか」、「検討中という返事をいただいているから、そうとしか説明が出来ない」、「そんなこといっていて、検討中が来年の7月23日までかかって、その日の個別視聴に決定といわれたら、誰がどう責任をとるんや」、一番前の席だったので周りの反応が分らずに、勝手に腹を立てていたが、デジサポ京都にこんなことを言われてもと迷惑そうな顔、光ケーブルの説明にNTTが来ていたが、光ケーブルはNTTだけがしているのではない、そんな事を考えるとこの説明会も地デジ推進化と言うものの少々おかしい説明会。■「今日の言葉」■ 「 国があってこその個人の生活 である国の恩恵に感謝しよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 15, 2010
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我が家の浴室、冬になると脱衣場も浴室内も物凄く寒い、だからお湯は熱い目にしている、これは血圧の高い者にとっては良く無い事で、2年前の正月明けのある日に、仕事に出かける時に家のすぐ傍のお地蔵さんの水を替えていた斜め向かいのお婆さん、「おはようございます、いつもどうも有り難うございます」、と声をかけて、その日の夜に仕事を終えて午後9時前に帰宅、ピーンポーン、と玄関のチャイム、「警察ですが、夜分恐れ入りますが、少し伺いたことがありまして」、下へ降りて行き、玄関のドアーを開けると警察官が2人、「午後8時頃に大きな声や、いさかいの声を聞かれませんでしたか?」、「その時間は仕事中で」、1階から2階のヨメに聞くが、別に何も聞いていないという返事、警察官に何があったのかと聞くと、「斜め向かいのおばあさんが入浴中に倒れて、すぐに救急車の手配、救急車が到着した時にはすでに亡くなっていて、事故か事件かを調べているところです、そのおばあさん心臓の持病があり、寒い脱衣場で服を脱いで、浴室内も寒く、血管がギューッと収縮していて、その後に暖かいお湯の中、収縮していた血管が急に拡がり、一気に心臓へ流れ込み、そのために心臓発作、心筋梗塞のファーストアタック、これが命取りという事であった、余りにも身近にこんな事が起きて、脱衣場にストーブを置くようになった。 冬場に孫と一緒に風呂に入る事もある、オレが風呂に入る時のお湯の温度と、孫が風呂に入る時のお湯の温度に開きがあって、孫にとっては熱いわけである、足の先だけをチョッとお湯に入れて、熱さでオレの腕に必死で、ベソをかきながらしがみついてくる、「熱いお湯で無いと風邪を引くから」、といっても、まるで小猿が親猿にしがみついているようである、仕方なく水を入れてお湯の温度を下げて、漸く湯船につかる、新聞紙上を幼児に熱湯を掛けて火傷をおわし、虐待死の事件が報道される事がある、風邪を引かせないために熱くしたお湯でこの有様である、幼児は5、6歳までに親の顔を見て、心の底から信頼して笑顔を振りまく、これが親孝行である、親はこれ以上の事を臨むのは贅沢でもある、幼児が一生分の親孝行をしようという時期に、熱湯を浴びせて火傷を負わせたり、死なせてしまう、鬼か悪魔のなせる業であり、哀れで、不憫である。 自分の子供のしつけ、上が男の子、天真爛漫といえば聞こえはいいが、落ち着きのない、ザワザワとした子供、口で言ったぐらいではいうことを聞かない、5歳くらいの頃から、「パチン」、と平手打ち、それでも懲りずに、また平手打ち、「パチン」、小学校に入学した頃、ほっぺたに手形をつけて登校、担任のベテランの女の先生が、その手形を心配して家に電話、「家で何かありましたか?」、電話をヨメから代わって、「昨晩、言う事をきかないので平手で叩きました、これから当分の間はほっぺたに手形をつけて学校へ行く事があるでしょう、心配は無用です、叩く親のほうの胸が痛いです、話をしてわかるようになれば、話をします、それまではもう少しの間は叩かなければわからず、叩くでしょう、ご心配なく、電話有り難うございました」、「わかりました、早く話をしてわかるようになれば良いですね」、という事で電話が終わった、小学校の3年生くらいまでは、叩いてわからせようとした、小学校の4年生以降は、叩く事はなくなり、話をする事によって、殆ど全ての事が解決するようになり、叩く事はなくなった、口答えをしたり、反抗的な態度をとることもなく成人に育った、だから男の子は叩いてでも躾をする、そう思い込んでいるフシがある、しかし孫となると叩きたくない、また付き合いの密度の影響でそういうことが無かったのだが、小学生になってから、家に遊びに着ていて、父親に叱られると、「お父さんなんか嫌い、帰ってくるな、お父さんなんか要らない」、と言い出す、息子はそれを聞いていて声を荒げる事も無い、尚も、「お父さんなんか嫌いだ、帰ってくるな、出て行け」、と泣き叫ぶ、そこで子供といえども言って良い事と、悪い事がある、孫の胸倉をつかんで、「お父さんに謝れ」、と大きな声を出す、こういう怒られ方をしていない、だから余計にパニックになって、さらにエスカレートして泣き叫ぶ、「ジィジィなんか怖くない」、「怖くなければ泣くな」、といって頬を平手打ちにする、平手打ちにも免疫性が無い、余計に大きな声で泣き叫ぶ、「もう、遊びになんか来ない」、「もう来るな」、パチン、という具合になる。 テレビなどでも子供の虐待の阻止のコマーシャルも流れている、隣近所は漸く子育てを終えたばかりという家が多く、少々孫が泣こうが、喚こうが、「怒られているな、家でもつい最近まで、あんなだった」、別段、児童相談所に電話される事は無い、孫が帰った後で、ヨメが、「近所の人が児童相談所にでも、電話をしやはったらえらい事よ」、「確かにな、児童相談所も最近は明らかな児童虐待のシグナルを発信されていて、児童の命を救う事が出来なかったということがよくあるからな、孫の躾といっても信じてもらえないかも知れないな」、「そうよ、孫に向かって、生意気な口を聞いたら承知せんぞォ~、・・・・・すぞォ~、は良くないよ」、「わかった、気をつける」。■「今日の言葉」■ 「 きちんとした躾が土台となって 子供の個性が輝いてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 14, 2010
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マンションの管理人の仕事、2人シフトで365日休みなし、相方は女性、年末、年始は家でのする事は女性が多い、だからこの仕事を始めた時から、12月30日、31日、元旦、1月2日はオレが出勤する事にしている、以前のように御用納めが済んでから、家の大掃除をするというわけには行かなくなって、12月の仕事のシフト表を睨みながら、この休みの日には、網戸洗い、この休みの日には、壁紙拭きと予定を立てる、ところがその日が雨だったり、物凄い寒波であったりすると、「別段、網戸をあらわなくても、正月はやってくる」、と横着を決め込む、去年がそうだった、今年は12月になると、「今年は早い目に、する事をしてね」、「そういうわけにはいかん、ちゃんと13日が正月事始になっているんやから」、今は何もかも便利な世の中になって、御用納めが済んでからでも、正月の準備をしても間に合うが、その昔は門松用の松や竹を山に入って準備、注連縄も自家製、このようにして正月の準備となると、13日ぐらいから正月の準備を始めるのが、丁度良い、という事で13日が正月事始になっている。 今年はうっかりとこの日を仕事のシフトにしてしまったが、休みだと、祇園の花見小路の辺りに出かけて行き、花街の置屋の女将さん、芸妓、舞妓、が踊りのお師匠さんを始め習い事のお師匠さん宅やお茶屋、普段世話になっている店へ行き、「おめでとうさんです、今年もよろしゅうにお頼み申します」、「おめでとうさんです、今年もおきばりやっしゃ」、と挨拶回りにうろうろ、それを写真に撮ろうとするアマチュアカメラマンが押し寄せる、一力茶屋の前には三脚をすえたり、重装備のカメラを構えて、5列か6列ほどの人垣が出来ている、この店の前は石畳で、歩道があって、車道、交通制限はしていないので、火っきりなしに車が通る、そして向かい側に歩道、こちらの歩道にアマチュアカメラマンが陣取っている、車も通るし、人も通る、何も知らない人が、一力茶屋の前の入り口を通るときに、挨拶を終えた芸妓、舞妓が出てくると、「わあ~、舞妓さんや」、携帯電話を取り出してそのカメラでパチり、パチり、長時間待ち構えていた人達は、折角の撮影のチャンス、モニターに写るのは携帯で写真を取っている人のお尻だけ、日本が銃刀類の所持のフリーな国ならば、毎年ここで死傷者が出る事が予想されるほど、凄まじいまでの怒声が飛び交う、「こら~、どかんかい、邪魔やァ~」。 花街の芸妓、舞妓の観光の人達の人気は凄く、祇園町でお座敷へ急ぐのを見かけると、取り囲んで写真撮影、逃げ出すように先を急ぐと追いかけてまで、たまりかねて、こういうことを防ぐ自警団までができる始末、8月1に日の、「八朔」、12月13日の、「正月事始」、1月7日の新年の、「年始周り」、観光の人以外に地元のアマチュアカメラマンも集まる、さまざまな事があるのだろうが、実に不機嫌で、不愉快そうな、愛想の無い芸妓、舞妓が多く、これも困ったものである、12月23日には昔より嶋原で餅つきが行われていて、男衆が次から次へと餅をつき上げて、太夫などが餅を丸めていき、その餅を近所の人に配る、これも克っては京都の師走の風物詩であったのだが、現在では昔ながらの営業をしている店は、「輪違屋」、ただ1軒のみで、嶋原の餅つきは途絶えていたが、ホテルで場所を借りて、有料の参加者を集めて行われるようになった、オレも昨年始めてホテルの横から司太夫と振袖太夫の太夫道中なるものを始めてみた、この嶋原に比べて京都の5花街は恵まれているといえる、余りの人気で迷惑を蒙る事あるとは思うが、あの不機嫌で、無愛想な表情はいただきかねる。 昔マンション住まいの頃、そこのマンションに高齢の、生涯独身で、元小学校の先生をしていた人が家でボランテイアの寺子屋ような事をしていた、息子はその先生とウマが合ったらしく、良くその家に出入りをしていて、12月12日の日に、「12月12日」、と書いた札を、上下さかさまに、入り口や窓に貼り付けていた、その事を懐かしく話していて、「あれは何だったんだろう?」、オレは知らないし、した事もなかった、12月12日は石川五右衛門が捕まって、かまゆでの刑にされたのがこの日で、「12月12日」、と書いた札を上下さかさまにして入り口や窓に貼り付けると、「泥棒除け」、になるということで行われていると知った。■「今日の言葉」■ 「 周りの働きに気付いたとき自分 の働きは一層生きてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 13, 2010
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午後から市内の真ん中へ、阪急電車でまず烏丸駅まで、いつもの様に、このあたりは路上喫煙禁止区域になる、それと旨い珈琲、イノダコーヒーショップのB1の喫煙OKの店へ、奥のほうの隅の2人掛けのテーブルへ、「ホット珈琲」、「お砂糖とミルクが入っていますが」、おネーちゃんが生まれる前から知っているよと思いながら、「ハイ」、砂糖とミルクを入れた珈琲が運ばれてくる、スプーンに極小の角砂糖が1つ、珈琲は殆んどブラックで飲むが、ここの苦い目の焙煎で、エスプレッソ珈琲だけは甘い目が好きで、この角砂糖も入れる、タバコを吸いながらユックリと飲む、このあたりが路上喫煙になる以前はタバコを3本だったが、今では4本吸ってからでる、大丸を通り抜けて錦方面に向かう、中はさすがに12月で人が多く、アクセサリー売り場はクリスマスプレゼントの下見のカップルが目につく、クリスマスイブまでまだ10日余り、昔のことを思い出してつい、「お大事に」、というのが、オレにしては珍しく、早い目にクリスマスプレゼントを準備、その贈る相手とクリスマス前のデート、彼女は黒のハンドバッグ、そのバッグの両端の縫い目のところに埃、何故かその埃が気になって仕方がなかった、そうなると会話が妙にちぐはぐに、その日のデートの終わりに、もう次は会わない、その日から数日後のクリスマスイブの日の夜、贈る相手がいなくなったクリスマスプレゼントはベッドの柵に引っ掛けたまま、寮の近くのおでんと焼肉の屋台で、1人でコップ酒、この時のことを思い出して、ツイツイ、老婆心ながら、「お大事に」、なんて、余計な事を。 その次の年のクリスマス、年末の阪神は、1-6、で荒れるというジンクスで、12月に入ってからはどのレースも、1-6、の1点買い、それが見事にはずれっぱなし、プレゼントを買うお金がなくなり、「そうだ、去年のプレゼント」、ベッドの周りを随分と探したが、見つからず、プレゼントを持たずにクリスマスイブのデート、食事をして、軽くお酒を飲んで、「おやすみ」、寮に戻って直ぐに電話、「今日は楽しかったけれど、クリスマスプレゼントを渡し忘れていた、そこで、『賢者の贈りもの』、の話をそれの変わりに」、こんな安上がりのクリスマスプレゼントながらも交際は続き、次の年のクリスマスイブも一緒に過ごす事に、当時梅田でよく行く喫茶店のそばに質屋、そこのウインドウにプラチナのネックレス、値段も手ごろ、値札をはずして箱に入れてもらう、店のオヤジが、「プレゼントですか?」、「ハイ、そうです」、「申し訳ありませんが包装紙がございません」、「新聞紙かチラシでもあれば」、店のオヤジが本当に申し訳なさそうに新聞紙で包んで持ってきた、食事の時に渡そうかと思いながらも、そこには他人の目が、新聞紙に包んだクリスマスプレゼントでは彼女に失礼になると、別れ際に周りをきょろきょろ見渡して、誰も見ていない、「ようし」、と彼女にクリスマスプレゼントを渡す、結婚をしてからは我が家には節の日には家のまっすぐに帰るというルールが出来て、正月、節分、バレンタインデー、夫婦お互いの誕生日、結婚記念日、正月事始、クリスマスイブ等々、以来クリスマスイブには格別な想いではなし、但しクリスマスイブの前後は妙に忙しかった、ある年以来、年末の高島屋の催しで、「文化人、画家のチャリテイ募金」、というのがあって、絵画その他を入札し、後日入札通知と引き換え日の連絡、京都新聞社の8階で、お金と入札した品物を交換、小さい作品をクリスマスプレゼント用に会社へ置いておき、それをクリスマスプレゼントにしていた事があった。 混雑していた大丸を通り抜けて錦通りの出口へ、右に直ぐのところが高倉通、錦市場の始まり、まだ正月の準備には早いがここも普段よりも混雑、買い物する人、錦市場を見物する人、写真を撮りに来る人、まだ歩けないほどではないが、ユックリしか歩けないほどの混雑、今の仕事をする前には、御用納めが済んだ後、網戸洗い、照明器具の掃除、壁紙拭き、高いところの掃除、普段は滅多にしな掃除を家のしきたりのように掃除をする、大晦日の午前中までに全てを済ませて、午後にこの錦市場に1人でやってくる、大混雑、人の流れにもまれながら、それでも左右の店を見て、正月の間に自分が食べたい物を探す、からすみ、このわた、本モロコ、鴨ロース、てっさ、マグロのブロック、ローストビーフ、ブルーチーズ、こんな物を買い込んで家に帰る、その後はお屠蘇をつけて、箸紙に名前を書く、最近では売っているところが少なくなったが、ヘギのついた箸紙、箸は柳の箸、箸紙に一家の主を、「主人」、重箱用には、「組重」、家族は敬称抜きで名前のみ、娘でもヨメに出すと、名前の後に、「様」、をつけ、息子の家族には名前の後に、「殿」、をつけて、1月の15日まではこの箸を使う、年が明けて宵恵比須か本恵比須が祇園の事始になる、クラブのママなどをさそって、恵比須神社へお参り、祇園の寿司屋へ予約を入れておく、すると店の中にカウンターに、ちゃんと名前を書いた箸紙が置かれている、○○様、上様、と並べてある、これも勘定の内とはいえ、馴染の客としては嬉しい事である、明日の12月13日は正月事始であり、セミリタイアの管理人も走る師走。■「今日の言葉」■ 「 目的をはっきり持っていないと 努力は喜びでなく苦痛となる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 12, 2010
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沖縄の基地移転問題、民主党政権が誕生した時点では、アメリカと日本政府、当時の自民党との間で辺野古沖への移転が合意に達していた、外国とのこのような合意事項は前政権の約束事に従うのが当然の事であるのだが、政権交代後の鳩山首相は、民主党政権発足時には社民党と連立政権を組んでいて、社民党は基地移転は国外への移転を主張、これに擦りあわすかのように、沖縄県外、日本国外への移転を口にし、また戦後長きに渡って沖縄に米軍基地を押し付けて集中さて来た国の方針に対して、沖縄県民に感謝とお詫びを口にし、誠に軽はずみながら沖縄県民の意思を尊重するといった、それ以後の沖縄県に於ける選挙、直近の沖縄県知事選挙まで、基地反対派がことごとく勝利、時間が経過すればするほど、辺野古沖への移転が困難になつって来ている。 沖縄県の基地の依存度、これは想像以上に低くなっていて、大規模な基地の押し付けのための助成金、この助成金が沖縄の新たな産業が興こり、雇用と拡大する需要が生まれると、沖縄県民が裕福になり、「沖縄に米軍基地は要らない」、こうなる事を恐れて、こうならない用途に使われ続けてきた、先日テレビの報道番組で、日本の地図を見た時、東京を日本の中心として考えると、南の端の島である、この感覚で沖縄に基地を押し付けた飴の部分としての助成金、助成金が南の僻地の島として使われ続けてきた、しかし、視点を変えて、沖縄から、東南アジアの国を眺めてみると、沖縄から飛行機で4時間以内で東南アジアの主要都市に到着する事が出来、東南アジアの主要都市の中心に位置すると言える、すでに全日空の貨物便は、東南アジアの主要都市向けの貨物は最終便で沖縄の那覇空港に運び込み、翌日に東南アジアの主要都市に向けて4時間以内に到着する事が可能な貨物を送っている、日本から送る東南アジアへの貨物を沖縄に集中させれば、基地があるために米軍が沖縄に落とすお金、或いは基地を押し付けるための助成金、沖縄のは確かにお金が落ちる、しかし、これにより沖縄の新しい産業が起こり、雇用が増加し、重要が増大し、沖縄県民の収入が増えるという事は望めないお金である、しかし沖縄の立地条件を最大に生かし、東南アジアの主要都市の中心、航空貨物を沖縄の集中させると、それにより新たな産業が興り、雇用が生まれ、沖縄の経済が活性化し、沖縄県民が豊かになる、こうなると米軍の基地依存どころではなく、米軍基地不要になる、沖縄県が基地無しでも経済が成り立つ、こうなると、沖縄県以外の日本人にとって沖縄に米軍基地が集中的に存在するのは非常ヌ都合の良い事ではあるが、基地無しで沖縄県が経済的に自立できるとなると、ここで始めて米軍基地問題は日本国、日本人全員の問題となる。 沖縄の米軍の基地が無くなれば、日米安保も含めて日本の国防問題が議論される番である、尖閣諸島沖での中国漁船の海上保安庁の巡視船体当たり事件後、日本の国防問題を議論する絶好の機会であった、しかしマスコミはというと、その事件のビデオテープの流出事件と、流出の犯人探し、そしてこの2週間余りは市川海老蔵暴行事件の報道、続いて大連立問題、マスコミのはもう、世論調査とワイドショー的なニュースしか流す事が出来なくなっている、マスコミが本来有する機能の放棄、そして政治家は政治を行う機能を放棄して、政局と選挙のために奔走するだけ。■「今日の言葉」■ 「 人への不満が生じている時こそ 自分を省みる時である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 11, 2010
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高校の2年生と3年生の時の担任の国語の教師、「ジョンブル」、という仇名で、少し頬が垂れ下がっていて、どこかブルドッグに似た容貌、大柄で背が高く、スマートな雰囲気で、英国の紳士の風格も漂っていて、ブルドッグの前に敬意を込めてジョンをつけた仇名、芭蕉と同じ病で痔と喘息が持病で、声はガラガラ声であった、高校の卒業を前にして、2学期から、新聞の社説には余り難しい漢字が使われていない、せめて新聞の社説に書かれている漢字くらいは書けなければいけない、という事で国語の授業の初めに、先生が新聞の社説を読み上げて、それを生徒が書いていく、これが今でも身についているかというといささか疑問ではあるが、新聞の社説を読むのがっ習慣になっている、「それと高校を卒業した後に、毎月1冊の本を読みなさい」、という言葉、当初は毎月1冊の本を読む、これはたやすいノルマ、と考えていたが、大学時代はまだしも、就職をしてから以後は本を読まない生活を長い間過ごしてきた、このブログを書いていて、高校時代の思い出を書いているときに、この、「月に1冊の読書の勧め」、を思い出した、大学を卒業してから約40年間、毎月1冊の本を読んでいれば、約480冊の本を読んだ事になるのだが、約480冊分の読書のノルマを果たしていない事に気がついた、この読書のノルマを果たそうとすれば、この後、読書の出来る生活が後約10年とすると、毎月、5冊の本を読む事にすれば、その時の月に1冊の読書の勧めのノルマを果たす事が出来る、昨年の後半から今年にかけて、月に7、8冊の本を読み出した、68歳にして最高に本を読んだ年となった。 まず初めに、読み出したのが、文化勲章を受章した小説家でありながら、新聞の記事などで見かける時には、およそふさわしくない服装で、下駄を履いて、傘を持って、買い物籠を下げて出かけている姿、ストリップ小屋の楽屋で踊り子との談笑、そういう記事であり、実際の本人とは少し異なった、そんな風変わりさの興味から永井荷風を読み出した、「あめりか物語」、「ふらんす物語」、「すみだ川」、「日和下駄」、「?東綺譚」、「花火」、「西遊日誌抄」、「断腸亭日乗」、と読み、次に谷崎潤一郎、「刺青」、「蓼食う虫」、「鍵」、「卍」、「ふうてん老人日記」、「痴人の愛」、「猫と庄三と二人の女」、そして、「細雪」、は読まずに、いかにもオレらしいのだが、老人と性の問題がらみで川端康成の「眠れる美女」、この次に浅田次郎の、「輪違屋糸里(上・下)」、「壬生義士伝(上・下)」、この時に小説を読みながら涙を流す事の初経験、「プリズンホテル(夏・秋・冬・春)」、この時には小説を読みながら笑い出すことも初経験、「日輪の遺産」、「地下鉄に乗って」、「歩兵の本領」、「シェラザード(上・下)」、「鉄道員」、「椿山課長の7日間」、「活動写真の女」、幾つかの短編集を数冊、週刊誌のコラムを集めた、「勇気凛々瑠璃の色(数冊)」、「蒼穹の昴(1・2・3・4)」、「珍妃の井戸」、「中原の虹(1・2・3・4)」、「お腹召しませ」、「王妃の館(上・下)」、「月島慕情」、「霞町物語」、「真夜中の喝采」、「血まみれのマリア」、「三人の悪党」、「見知らぬ妻へ」、「オー・マイ・ガアッ!」、「サイマー」、「天切り松闇がたり(1・2・3・4)」、「薔薇盗人」、現在売られている文庫本のほぼ全て、今年夏の新作のハードカバーの、「終わらざる夏(上・下)」、小説で泣かされて、笑わされて、悪党のように見えて、実は善人で、その底には家族の絆、人間の絆、義理と人情、浅田ワールドに引き込まれて、最後にはいつもホッとさせられ、どこかカッコ悪くて、しかしカッコいい人物、約半年間は浅田次郎にどっぷりと、浸っていた。 次に読み出したのが、「敗れざるもの」、の沢木耕太郎、「一瞬の夏」、「テロルの決算」、「危機の宰相」、「無名」、「深夜特急(1・2・3・4・5・6)」、「凍」、「檀」、この、「壇」、を読んで、檀一雄の、「家宅の人(上・下)」、三浦哲郎の、「白夜を旅する人々」、「バーボンストリート」、「チェーン・スモーキング」、「右か左か」、「血の味」、「彼らの流儀」、「世界は『使われなかった人生で』あふれている」、「イルカと墜落」、ちょっと表紙が気になった本で遠藤周作の、「私が捨てた女」、作者がデリーからロンドンまでバスで旅行をする、「深夜特急」、の旅に持参した、林芙美子の、「浮雲」、有川浩の、「阪急電車」、タイトルで買った、三島由紀夫の、「不道徳教育講座」、澤田ふじ子の、「高瀬川女船頭唄(一・ニ)」、ノンフィクションの世界もフィクションの世界も、オレには区別がつかないが、大学時代には日本はもしかすると社会主義国家になるのでは、そんな事も考えていた頃もあったが、池田勇人首相が打ち出した、非常にわかりやすく、夢のあるスローガン、「所得倍増論」、しゃにむに働いて、なりふり構わず、何よりも仕事を最優先にしてきて、60歳でセミリタイア、この間に大きな忘れ物をして、生きてきたような気にさせられる、こんな事を考えるようになったのも本のお陰、今年はまだ後、数冊の本を読むことだろう、生涯で最高に読書をした1年。■「今日の言葉」■ 「 親の恩に気づいた時から 新たな人生が開けてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 10, 2010
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5年前の7月の京都では宵山の日に、ヨメの叔父がゴルフに行っていて、ゴルフ場で倒れて、救急車で病院へ直行、入院、集中治療室で治療、そのまま意識が戻る事無く、約3週間後に死亡、この叔父は面倒見のいい人で、兄と姉の子供、姪や甥たちを春休み、夏休みなどに、鳥取から大阪の家へ招いて、大阪で様々なところへ遊びに連れて行く、甥と姪が11人、全員が世話になっていて、お通夜と告別式には全員の甥や姪が参列して、口々に、「叔父ちゃんには随分と世話になった」、思い出話をしていて、さすがに面倒見の良かった叔父の通夜と告別式、そう思っていたのだが、叔母は生まれて間もない女の子を連れて叔父と再婚、実の親子以上に仲のいい父親と娘の関係を築いてきていた、ところが叔父が亡くなって遺産相続の段になって、叔母と娘が叔父の遺産の全てを相続する事思っていた、そこで初めて叔母の娘を叔父との結婚の時に養子縁組をしていない事に気付いた、叔父と娘の養子縁組をしなかったのは、今から約50年ほど前の区役所の窓口、サービス精神のかけらもない対応、不親切な対応、叔母が婚姻届を出しに行くと、窓口の係りの人は、「この子供さんの養子縁組をしますか?」、「この子供は実子です」、「そうですか」、といって叔母の婚姻届を受理、この時に、「この子供を養子縁組をしないと、法的な娘ではなく、同居人として扱われます」、このように説明をして、「このケースではこの子供さんの養子縁組をされた方がいいですよ」、この一声があれば、叔父の死亡による遺産相続にピリオドを打つのに、5年と数ケ月の歳月を要しなかった。 叔母は当初、遺産相続の全てを自分が相続するために、法的に遺産相続の権利のあるものに相続放棄の手続きを始めた、遺産相続の法的に権利を有するものは、叔母、叔父の兄、(長男)、既に死亡のためにその子供の3人、叔父の兄、(次男、ヨメが長女、弟と妹)、既に死亡のためにその子供が3人、叔父の姉、(長女、認知症で、その子供が5人)、法定相続人は叔母を筆頭に、ほか7人、の合計8人となった、長男の子供3人と次男の子供3人は相続放棄に応じた、ところが認知症の姉の子供の5人がこれに異議申し立て、叔父が娘の養子縁組をしなかったのは、血のつながっていない娘よりも血のつながった人間に相続をさせたいという願いがあったからで、相続放棄は出来ないと言い出し、長男の子供3人も説得されて、相続放棄しない事になった、相続放棄に同意したのがヨメの弟と妹との3人となった、叔母にすれば叔父はサラリーマン、面倒見が良くて、付き合いが良い、遺産といってもたかが知れている、今後、親戚の付き合いを絶ってまで争うほどの金額ではない、そう思っていたところに、今でま随分と世話をし、面倒を見てきた甥や姪たちがそれぞれの相続を主張、そこで相続の件は弁護士に依頼、弁護士は法定相続人の確定、ここで身内の者が誰も知らないもう1人の法定相続人が現れた、叔父の父親の戸籍を上げると、父親は再婚していて初婚の人に間に男の子が1人いた、その相続人の人は、この件に関して一切関わりあいを持ちたくないと弁護士さんへ話す、遺産の相続は放棄する、この件で煩わせられたくないというのである、法定相続人が確定された後は叔父の遺産相続の財産目録の作成である。 その作成された財産目録が少なすぎると異議申し立て、娘が結婚後に家を建てた、その時に叔父が資金援助をしていて、その分も相続の財産目録に入れろ、娘の学費、娘の結婚式の費用、娘の養育費の費用、こういうものまで相続の財産目録に咥えろ、叔父の銀行の貸し金庫の中身を立会い確認、弁護士もここまでいう人は始めて、裁判所の調停を仰ぐことなった、ここまで叔父の死後約5年が経過、裁判所は弁護士さんが作成した財産目録を支持、これ以上何かをしようとするなら、自分達で弁護士さんを立ててください、しかも財産の一部の株式投資、亡くなった時期から今までの間に値下がりもしている、これ以上長引かせてももらえる物が多くなる可能性は少ない、よく考えなさいという事であった、暫くして裁判所の調停案を受け入れようという事になった、その条件として2つの申し入れ事項、1つはこの件に関して鳥取から大阪へ何度も出てきている、その旅費と通信費として、相続放棄をしない8人の甥と姪に1人つき、10万円の支払い、2つ目は相続放棄をした3人の甥と姪の相続分を加算して相続、という条件を出してきた、1つ目の条件はOK、2つ目の条件はNOという事で最終の決着を見た、姉に830万円の相続、これは恐らくその子供5人で分割という事になるのだろう、長男の子供3人に総額、約410万円が相続される事となった、11月の末にこれを支払い、漸く叔父の死後5年4ヶ月目に解決を見た。 今日の午前中に叔母が家に来て、「いろいろ心配を掛けたけど、漸くこんなかたちで決着がついた」、と弁護士さんが作成した書類を持参して説明してくれた、「嫌な思いをして大変でしたね、これですっきりしますね」、「まだ済んでないことがあるネン、あんた達、兄弟3人には、感謝してる、私の気持ちとしては、先に支払った人たちの倍以上貰って欲しい、いらんといやろうけど、私の気持ち、だけ受け取って欲しい」、「気持ちだけありがたく、いただきます」、「それでは私の気がすまん、裏切られた気持ちの中で、あんたら3人の、お金よりもこれからの親戚付き合いを大事にという気持ちに感謝している、せめて支払わなアカン分の半分だけでも受け取っといて」、「気持ちだけやったら、5万円とか、10万円で」、「これは私が貰って欲しいお金やなんや、頼むさかいに気持ちよく受け取っといて」、と弟と妹の分、こちらから振込みをして欲しいといって、3人分総計210万円を置いて帰った。■「今日の言葉」■ 「 自分から心を開く勇気が 不和や誤解を解いていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 9, 2010
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歩いている時、交差点の信号、青信号の点滅になっていると交差点を渡らない、工事現場の入り口や、ビルの駐車場の入り口に立っているガードマン、点滅棒で、「早く通って下さい」、と合図をする、「どうぞ、そちらのほうを先に」、合図に従わない、こういうと、非常にゆったりとして、急きも騒ぎもしない性格のように思えるが、本当のところは信号やガードマンによって、マイペースが乱されるのが嫌いなだけである、若い頃、ヨメと連れ立って百貨店へ買い物に、百貨店はアルバイトとセールス時代の経験で好きであり、自分のペースで買い物をしたり、売り場めぐりをしてもあきないし、疲れない、ところがヨメのペースに付き合うと、まず歩くスピードの違い、これを初めとして疲れるわけである、だから百貨店に着くと、入り口にところで、「イチロク、マルマル、現在地に集合、それまで散会」、(午後4時にこの入り口に集合、それまで自由行動)、という事になる、左足の怪我以来、随分と歩くのが遅くなった、先日久しぶりにヨメと出かけた時に、歩くスピードはヨメのほうが速くなっていて、暫く歩くとヨメに待っていてもらう、そうして到着したバス停。 行き先の系統のバスが来た、ほぼ座席はなし、そのバスに乗り込むのはオレとヨメと前に叔母さん、ノンステップバスで前のタイヤの上の席の右側が1つ空いている、前の叔母さんはその席を狙う、当然オレもその席を狙う、叔母さんの右側にオレが通れるスペースが開いていたので、右へ小さくサイドステップ、素早く左足を大きく、叔母さんの側に踏み出す、左足だけではなく、左腰と左肩も叔母さんの前に、この2歩でオレ、叔母さんと、開いている席との位置関係が逆転、その時の席取はオレが制する事になった、ヨメが、「仕事の日にはバス通勤を2往復、さすがに席取は素早いね」、「今の仕事を約6年、身体が反応するようになった、それと特に朝は同じ時刻に同じ人が同じバスに乗り込む、2日も続けて同じ相手にせり負けが続くと、3日目はもうこれ以上連敗はゴメンとばかりに、そのオヤジを相手にスクラッチの勝負、先に乗り込んで席を取る、これでは喜びが小さく、相手を先に乗り込ませて、逆転をして、お互いに狙った席を取る、こういうときは心の中で小さくガッツポーズ、毎日もまれているからね」。 昨日は午後から出かけていて、午後4時頃に河原町三条から3号系統のバスに乗る、四条河原町から若い女性が2人乗り込み、オレが座っている横に立つ、次の大丸前の停留所で前の席の人がその駅で降りるために席を立つ、若い女性2人がどうぞ、どうぞと譲り合っている、「アナタのほうが遠いから」、という事で1人の女性が座ろうとして、身体がその体勢に、2人の間隔が今までよりも少し開いた、その時、大丸前から乗り込んできた人、人というよりもトートバックとハンドバッグがその開いた席に素早く置かれた、置かれたバッグに人がついてきた、小柄な帽子を被った、叔母さんとお婆さんの間のような女性であった、こういう席の取り方はいつもの事と想像される、その平然とした座り方に、2人の若い女性は、顔を見合わせて、「凄いね、信じられないね」、という苦笑いの表情を浮かべて顔を見合わせていた、オレはというと席の取り方の素早さは見事、しかし品が無さ過ぎる、思わず、エアー・後デコパッチンを力を込めて。 京都の市バスの主流は、床の低いノンステップバス、バスの前に車椅子のマークが着いている、相変わらず車椅子の人の乗り込みに、もたつく運転手さんもいるが、大方の運転手さんは手際よく、車椅子の人を乗降させている、この低い床のバス、確かに乗り降りは楽だが、座席は随分と犠牲になっている、この床の低さ、足などを怪我している者にとっては、特に降りるときにはこの高さでもきつく、オレは去年の怪我の時に、椅子に座っても左足は曲げることが出来ずに、前の席の床下に足を伸ばして座っていた、こういう姿勢で座れる席は3つしかなく、バスのタイプによっては1つしかそういう席のないバスもあった、このノンステップバスというのは誰にとって優しいバスといえるのか疑問にも感じる。 バスに中に優先座席、お年寄り、病気の人、怪我をしている人、身体に障害のある人、妊婦、小さい子供連れの人、のための席が設けられるようになった、その昔は、こういう席が設けられていなくても、当たり前に行われていた事なのだが、ルールとかマナーといったものは自分で、心使いや気遣いで身につける時代ではなくなった、だからそういう注意書きが無いから、行われないが、行われれば、バスの中で快適に過ごす事ができるいくつかの事がある、京都市バスはワンマンカーで、真中から乗り込み、前から降りる、前のタイヤのある部分、通路が狭くなっている、その癖にこの両側に立つのが好きな人が多く、出口の近くで糞つまり状態、この両側にたっている人がリュックを担いでいれば、通る隙間が殆ど無し、バスの中ではリュックは肩からはずして脇に抱え込む事、前輪のタイヤの部分の両側には人が立たないこと、そこの片側に人が立っていれば、もう一歩の片側には立たない事、身体を進行方向の正面に向けた人は次の停留所で降りますという合図、次の停留所で降りる人はそういう姿勢の人の後ろについていれば良い、次の停留所で降りない人は、身体をバスの進行方向の正面に向けない、乗り口よりも後ろのシート、2人掛けのシートが通路の左右に、このシート幅は大人が2人掛けると窮屈で、冬場に着膨れていて、太目の人に詰めてくださいといわれると悲劇である、このシートは先客があれば太目の人には諦めてもらう事、それとこのシートは後で降りる人が奥に座る事に、もし奥の人が先に降りるような場合、通路側の人が席を立って降りやすくしてあげる事、こんな事を気遣えばバスの中も快適になる、全てが当たり前のことなのだが、最近でこういう事を注意書きのように書かなければ、「そんなことは知らなかった」、「早く言ってくれたら」、そういう時代でもあるようだ。■「今日の言葉」■ 「 相手の欠点を嫌がるよりも 自分にないよさに気付こう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 8, 2010
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今日は今年最後の定期診察日、約28年ほど前の年に一度の健康診断の時に、不整脈が見つかり、その時から暫くの間、負荷心電図をとったり、24時間心電図、心臓のエコー検査、MR検査、その結果から心房細動と診断、約1年間ほどは薬で不正甥脈の治療、薬の効果がなく薬での不整脈の治療を断念して、心拍数が上がって急激にファーストアタックが心臓を襲うというタイプの不整脈でないために、不整脈による脳梗塞の予防的な治療が専ら行なわれている、アスピリンや小児用バッファリン等で血液をサラサラの状態に保ち、血圧が高いので降圧剤、60歳を過ぎた頃からより一層、血液をサラサラにするワーファリンを飲んでいる、この薬は効きすぎると血液が止まらなくなる、だから2ケ月に一度は血液検査で薬の効き具合を検査して薬の飲む量の調整をしている、同じ頃降圧剤も朝1錠であったのが夕方にも1錠追加される事になった、ただ同じ病気で約30年弱も治療中、こうなるとその病気なれという事が起きている、それと、健康診断で不整脈と診断される、約10年ほど前、30歳の頃結婚を機に少し大きめの生命保険に加入、その時の診察の時に、先生が聴診器を胸に当てて、「いい心臓のリズムです、何か運動を?」、「高校の時に陸上部で中距離をはしっていました」、「陸上の中距離ですか、その影響でしょうか?」、ただそういわれても中学校時代はバスケットボールと陸上部、高校時代は陸上部の400メートルと800メートルと200メートルハードルの選手、毎日その練習に明け暮れていて、高校3年生の夏休み終了後に、大学受験の勉強のためにその練習をプッツリとやめてしまった、不整脈もその影響が出ていると思っている。 毎月の診療所での検診、心電図検査、尿検査、血液検査、レントゲン撮影、これら2つづつほど組合わせて検査、年に一度の心臓のエコー検査、大体、午前9時頃に診療所へ行き、検査は30分もあれば余裕で終了、後は検査結果が出て、そのカルテが主治医のところへ回り、その診察室から呼ばれるのを、ひたすら待つだけである、1時間半から、2時間ほど待って漸く、名前を呼ばれる、オレは大きい病院はここしか知らない、この待ち時間に苛々する、血圧もピークに達している事だろう、それでも診察待ちの人同士の会話、「ここも待たせるけど、他所に比べたらここはまだマシな方や」、そんな馬鹿な、そういう思いで、この会話を聞いていたのだが、実際に去年の春に、マウンテンバイクで遠出中に左太ももの血管が切れて内出血、家では湿布薬を貼るだけ、左太ももが内側から押し上げられるようなズキンズキンとくる痛み、寝る前になって足が曲げられない、トイレも左足を伸ばしたまま便座に座る、夜寝る時には、どの角度で寝ても足が痛く、脂汗を流しながら、殆んど眠る事ができずに、仕事のために午前6時に起床、這うようにして仕事場のマンションへ到着、午前中にするべき仕事を1時間ほどで片付ける、Gパンが左足だけがパンパンに張ってくる、左足が破裂しそうな、内側から来る痛み、兎に角、左足の太ももに何が起きているのか、窓口の札を業務に付外出中にして、病院へ行こう、という事で仕事場から一番近い大きな病院へ行く、午前9時30分に病院へ到着、診察を終えて、お金の支払いを済ますと午後2時を回っていた、その時に初めて、いつも行く診療所での、「ここはまだマシな方や」、の会話に納得した、以来いつも診療所での待ち時間、午前中に家に戻れればいい、そう思うようになって、イライラする事が少なくなった。 とはいうものの、1時間半か2時間の待ち時間は長い、診療所の外へ行かないとタバコが吸えない、タバコを吸っている間に呼ばれでもしたらという強迫観念でタバコも吸いにいけない、電車の揺れの中では直ぐに寝られるが、待合場所のソファーでは寝られない、最近では文庫本を持って行き、これで時間がつぶすことが出来る、今日も本を読んでいて、横を通る看護婦の足元が見える、黒いストッキングを履いた足、アキレス腱のところがきゅっと締まった、綺麗な足、オレは別段、谷崎潤一郎のように足フェチではない、しかし、その足が横を通るたびに足に目がいく、何度目か、その足が近づいてきた時に目を本からその足の持ち主の顔へ、オレが診察を受ける診察室の看護婦さん、眼のクリッとした、色白の可愛い看護婦さん、美人だが残念ながら好みの美人ではない、当然の事ながらその看護婦さんはオレを好んではいないのだが、名前を呼ばれて診察室へ入り、先生の横に座る、向こう側に机には看護婦さんが座っている、目があって、いつもとは少し違う、「こんにちは」、長い待ち時間の割りに診察はそっけない、「お変わりはないですか?」、「ハイ」、「血圧を測りましょう」、「160の85」、「胸を出して」、聴診器を胸に当てる、そして足のむくみを調べて、「いつもどおりの薬の処方箋を、42日分、お大事に」、これで終了、約5分弱、外へ出て待っていると、看護婦さんが処方箋をもって出てきて、カレンダーを見ながら、次の診察の予約日、「来年の1月18日でいいですね」、「ハイ、いいです、何をいまさらといわれそうですが、今日つくづく足を見ていて、本当に綺麗な足ですね」、「いえいえ、そんな事はないですよ、ほんとうに、いえいえ、でも、いつもオシャレな人にそんな事をいわれて嬉しいです」、「死ぬほどヒマな休みの日に、一度お茶でも」、「いいですよ」、「看護婦さんと付き合ったことはないのですが、業界では柔らかい約束は守るのですか」、「柔らかい約束?」、「今の、『いいですよ』、が柔らかい約束です」、「面白い人ですね」、「死ぬほど退屈な休みの日が早く来ることを」。 月に一度の定期診断の日、今日のようなことは始めて、毎月一回、午前中を診察のために、これを約28年間、330回余り、これを無駄な時間と思うか、一病息災の貴重な時間と思うか。■「今日の言葉」■ 「 心配事が多いのではない心配 する気持ちが強いのである 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 7, 2010
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手帳というと、買うものではなく、銀行辺りからもらうもの、持ったとしても、12月は忘年会の予定がびっしりと書き込まれているが、それ以外のページは殆どが白紙で、スケジュールのところにポツン、ポツンとゴルフの予定が書き込んであるだけである、携帯電話が無かった時には、手帳に電話帳を挟んでいた、得意先でゴルフの接待の話になると、手帳を取り出して、2ケ月ほど先のゴルフの約束をする、得意先の人がオレの予定日を書き込んでいる手帳を除き見て、「見事なほど何も書いていないね」、「さすがに12月の忘年会の予定は覚えられないですが、他の月のスケジュールは大概覚える事にしています」、あんまり手帳に頼ると記憶力が衰えますよ、そういう気持ちを込めて、ただ、手帳は閉じて服のポケットやバッグの中に入れてしまう、手帳を取り出して、手帳を開いてみる、この習慣が全くついていない、ただ、書き込むだけに終わってしまう、几帳面な正確でないために言い訳のようなものでもある。 では、仕事の時には、何も書いていなかったというと、そうではない、どうしていたのかというと、B5の用紙に月のスケジュール表と週のスケジュール表を作って、それに書き込み、机の上のいつも見られる場所に置いていた、これでスケジュール管理をしていた、2日前に書店で有川浩の、「阪急電車」、という本を買って、初めて読む作者の本で、買ってから、テレビドラマで現在放送中の、「フリーター、家を買う」、の作者と知った、買おうと思った動機はタイトルであった、長年スタッフをしている西院フェス、来年で第10回を迎える、その第3回目の時に、嵐電の西院駅から嵐山駅までの走っている嵐電車内ライブが始めて行われた、この時に嵐電ライブを行ったミュージシャンのうちの1組が、この日のために、「嵐電は恋の電車」、というオリジナル曲を作って、ライブを行った、四条大宮から嵐山駅まで、11の駅という、ローカル私鉄である、「太秦」、「蚕の社」、「帷子ノ辻」、「有栖川」、「鹿王院」、「西院」、などよみ方の難しい駅名、それらを歌詞に入れて、いかにも電車に揺られているような楽しい曲で、このローカルの私鉄を舞台にした物語か、小説でも誰かが書かないかなどと考えていた、それだけにこの、「阪急電車」、問いタイトルにつられてこの本を買った。 物語は関西の大手の私鉄の阪急電鉄の全国的に余り名の知られていない短い支線、宝塚えきから西宮北口駅までの8つの停留所しかない、今津線の往復の車内の模様の物語であって、宝塚を出た電車が次の駅、宝塚南口駅、この駅の近くに宝塚ホテルがあって、そのホテルの名前の入った結婚式の引き出物の紙袋を持った若いきれいな女性、引き手物の袋を持っているから結婚式の出席には違いないが、着ている服は花嫁以外は着るのをタブーとされている純白の高級なドレスである、純白のドレスを着て結婚式に出席したのには訳があった、社内恋愛で5年間付き合っていた彼がいて、周りでは2人の結婚が秒読みの段階と思われていた頃、結婚を間近に控えて、一過性のマリッジブルーで2人の関係がギクシャグしていた頃、彼女の職場の後輩で、取り立てて美人でもなく、仕事が出来るわけでもなく、目立った存在でもなく、自分を頼りにしていた女性と彼がいつの間にか交際していて、いよいよ結婚の話しかと思って彼と会うと、彼女も同席していて、「彼女は妊娠している、だから分かれてほしいと切り出された」、5年も付き合っていて結婚間近の彼女がいながら、人が良いだけが取柄の女性と付き合い、今日は安全だからといわれて安心してセックス、それで彼女は妊娠、片方の責任は放棄して、片方の責任だけをとろうとする彼のバカさ加減には愛想が尽きたが、彼も彼女も同じ職場、女としてのプライドが許さない、「話はわかったから、結婚式には必ず招待して」、と約束をさせる、その結婚式にタブーとされている白いドレスで出席、キャンドルサービスの時に、自分の座っている席に来た時に、花嫁よりもはるかにきれいな彼女を見た時の、花嫁が鬼のような形相で新郎に振り返り、新郎は目の前の新婦と彼女を見比べて、明らかに自分の選択間違いの後悔、結婚式を2人の生涯の最高の楽しい思い出にさせてなるものか、執念と呪い、自分の身に降りかかった事なら笑いは出来ないが、他人の身の上話、彼女の復讐劇に思わずエールを送り、胸のすく思い、まだ読んでいる途中だが、面白い本である。 結婚式の時に、健やかなる時も、病める時も、死が2人を別つまで生涯、愛し続けますと神の前に誓ったはずなのに、ついついしてしまう浮気、コンドームというのはじゃまっけな物で、これをつけないと妊娠というリスクが背中合わせ、浮気はしてもこのリスクだけは回避しなければ、当時の流行でもあったリスクマネージメント、浮気相手の生理の周期を手帳によって徹底的に管理、日付のところに二重丸、生理が始まった日、星印、整理が終わった日、丸印、安全日、ペケ印、危険日、の記号が書いてある、黒、青、赤、3色使っている時もある、ある期間にはオレンジと、グリーンの5色も使っていた時期もあった、この手帳は去年の年末には自分の部屋を大掃除、その時にこの手帳の類を全て処分、だからこの話はオレの話ではなく、人から聞いた話、昨日のテレビの中で、様々な種類の手帳が売り出されていて、これが良く売れているという事だった。■「今日の言葉」■ 「 物に恵まれた生活より感謝を 湛えた生活に幸福がある 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 6, 2010
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新聞代の集金、「自動振り替えにしょうか」、「集金も1軒でいくらの仕事、あのおじいさん小遣いかせぎ、集金のままでエエやないか」、そんな事を随分昔に話をしていて、集金のままになっていた、新聞社によってはちがうかもしれないが、当時購読していたのが、子供の頃から長く購読していたA新聞、だから考え方の中に、A新聞社的な考え方があるのは当然である、この新聞の集金というヤツの集金に来る日、実にランダムである、現役を引退後はヨメがパートに出ていて、オレだけが家にいるときに新聞の集金にくるという事がある、するとオレが立て替えて支払い、領収書とつり銭をテーブルの上においておくと、ヨメがオレに、4、000円を払って精算、ある時ヨメが、「新聞はお父さんが殆んど読んでいて、私はテレビ欄だけがあれば良い」、「それはどういう意味?」、「新聞代を払ってよ」、と実に細かい事を言い出す、そこでオレは、「集金の時に、支払った者持ちにしようや」、という事にした、こうすると妙なもので、いつもオレのいる時間帯に集金に来る、「うちの家は新聞代はヨメの財布から、午後の7時以降に来てくれるか」、すると翌月は午後の7時以降に集金に来て、ところが翌々月にはまた昼間のオレのいる時間に集金、集金する人の集金の順序として昼間に集金するのが段取りが良い、それぐらいのことは充分に理解はするが、新聞代をオレの財布から支払わされたらたまらない、「今持ち合わせがないから、午後の7時以降のヨメにいる時間に来てくれるか」、こんな事が2度ほど続いた後は、午後7時以降に律儀に来るようになった。 A新聞のアンカー店が以前に住んでいた家の4軒東で、顔なじみ、Y新聞を購読すれば随分と有利な条件を提示されるという事は聞いていた、また実際に飛び込みでセールスに来ていて、知っていたのだが何十年と読みなれた新聞を代えるのには、ちょっとした勇気のようなものがいり、アンカー店との兼ね合いもあり、そのまま購読を続けていた、ところがそのアンカー店の夫婦が60歳、仕事を続けるのがきつくなって、アンカー店を廃業して、別の店が引き継ぐこととなった、Y新聞に代える大きな枷の一つが取れた、そんな時にタイミングよく、Y新聞社の営業係が飛び込んでくる、「条件次第によっては長年購読してきたA新聞から変えても良いよ」、すると、「3年契約を条件として、まず1年間は購読無料で、その後3年の購読契約、1万円の商品券、ビール5ケースのサービス」、これを聞いた時に生唾をゴクリ、それを悟られないように、「しゃ~ないな、Y新聞に代えてみるか」、という事になって、今年の春に4年が経過した、するとセールス係りがやってきて、「3年の再契約よろしくお願いします」、と契約更新の用紙を取り出した、「おい、なめたらあかんでェ、エエ加減にしときや、そっちがそういうつもりなら、今月一杯で新聞を代える、6ケ月してからまた新規購読や、また条件を持って、出直しといで」、慌てて明日の夜に所長と来ますのでよろしく、紺のダブルのストライプのスーツを来たでっぷりとした所長と連れ立ってやってきた、家が競売にかかったときにやってきた少々胡散臭い、2人連れの不動産屋も、申し合わせたように紺のストライプのダブルのスーツを着用だった、オレの目から見れば安物の生地で仕立ての悪いシロモノ、そのセイで、オレも紺のストライプのダブルのスーツが好きだったのだが、それ以来殆んど着なくなった、連れ立ってきた所長も同じようなスタイルで、その所長の関知しないところで、オレはムカッ、しかも、新規購読の時よりは少々悪い条件を提示、「無理なサービスを慎むようにとの指令が出ていますので」、「指令どうのこうのはオレの知らんことや、新規購読の人にいろいろなサービス、契約更新のときにサービスをちびるのはおかしいでェ、契約更新という事は3年間購読したわけや、新規の人よりも手厚いサービスをするのが当たり前や、もうすでにお得意さんなんやから」、所長は冷や汗か、脂汗をハンケチで拭きながら、「では、どのような条件を」、「所長さんの顔を立てて、そう無理は言わんさかいに、新規購読の時と同じ条件」、こういう交渉の時に、オレの堅気の善良な商売人でないような口の聞き方に、少々嫌悪感を覚えながら、契約の更新をした、ホッとした表情で契約書を出す、署名捺印する前に所長の顔を見て、「ヨメさんは殆んど新聞は読まない、そうやからこの契約書は、オレがアライブオンリー有効と言う条件にして、4年は長いから」。 夕方の仕事に出かけるのが、午後3時45分、仕事の日には夕刊は仕事場のマンションで読む、夕刊の締め切り前に大きな事件があると、夕刊の締め切りが遅れ、配達は家を出る時間のギリギリになる、夕刊の配達人は家の近所の隣の町内の親父で、小柄で、細身で、オレよりは5歳ほど年上で、顔は皺だらけ、皺の中に顔がある、そんな感じで、目も皺のように細い、「トッツアン、居眠り運転はアカンで」、と冗談を言う、「ちゃんと、目を開いている」、と言い返す、新聞配達のかなりのベテランらしく、スーパーカブで配達、ちょっと走っては止まり、走っては、止まり、歳の割りにスーパーカブの運転が実に上手い、家の前の道は狭く、マウンテンバイクででも、靴の先を前輪のタイヤの擦るほどハンドルを切って、ようやくUターンが出来る、その道を軽く、Uターンをして戻っていく、2ブロックの配達が受け持ちらしく、家の近所の受け持ちブロックの配達は後回しらしく、いつもオレが家を出るギリギリに配達、時にはまだの時もある、家を出てバス停に向かう、その途中に出会うときがある、道で新聞を受け取る、ヨメが午後6時頃に新聞受けを見て、新聞が入っていない、その旨をアンカー店に電話を入れるといけないので、新聞を道で受け取ると、直ぐに携帯電話を家にかけて、「道で夕刊を受け取ったから」。 今日の夕方マウンテンバイクで、タバコを買いに行った帰り道で、その親父が息子さんに付き添われて、ユックリと足を引きずりながら歩いている、「久し振り、どうしたん?」、「配達中に子供が飛び出してきて、避けようとして、こけて、骨折や」、「いたみは?」、「もう痛みはないけど、足が動かへん」、「左足かァ、効き足やし、バイクはアカンかもしれんで」、オレも去年の4月に左太ももの血管が切れて、危うく太ももが破裂するほど内出血、すわっても、ねころんでも、立っていても足が痛い、歩けばずきんずきんと痛み、痛みが治まるまで2ケ月、左足は効き足、マウンテンバイクのまたがるには、左足の踏ん張りが効かない、乗れるようになったのが2ケ月半、「マウンテンバイクに乗ってたら、なんともないようやけど、歩いたらいまだにビッコを引いている、気長にせんと」、「ウン、年明けには配達が出来るように頑張るは」、「親父にもうせんでええというてるんやけど」、「もう一度配達をするいうのが、リハビリの励みにもなるしな」。■「今日の言葉」■ 「 最後までやると心を決めれば 成し遂げる工夫が沸いてくる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 5, 2010
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仕事の日には目覚まし時計をセット、血圧が高いセイか目覚めは凄く良い、電子音のピィ、で目をさまし、次のピィ、で目覚ましを止める、そしてベッド脇のテーブルの上のタバコをとって火をつける、一息煙を吸い込むと、これで完全に目が覚める、今日は寒いだろうか、温かいだろうか、夜中に一度トイレに行くが、強烈に尿意を感じる、すぐにパジャマを着替え、夏場はラクなのだが、冬場は無類の寒がりのために着ているものが多くて大変、平日仕事の日は午前8時が始業のために午前6時に起床、最近ではこの時間はまだ暗い、電気をつけずに暗い中で着るのが大変、前の夜にパジャマに着替える時に、脱いだ物をベッドの脇に積み上げて脱いでいく、こんもりと山のようにつみあがっている、翌日の朝は最後に脱いだものから着ていく、昔は着たと思うと前と後が逆という事がよくあった、最近はユニクロの製品が多く、さすがはユニクロと言うか、洗濯ネームがきっちりと左脇につけてある、これを頼りに着ると前と後を間違うことは無い、タバコとライターと携帯電話をポケットに入れて、寝起き用の水の入ったペットボトルの飲みさしの水とぐらいを持って、ここでヨメに、「起きろよ」、と声をかけてから1階へ下りていく、顔を洗ったり、歯を磨いたり、新聞を取り込んだり、仏壇にローソクをともし、線香をたいて、手を合わし、そんな事している間にヨメが2階に降りた気配がないと、電話を2コールかける、暫くすると2階でヨメが動く気配をする。 どちらかというと目ざといほうだが、目覚まし時計がないと起きられない、何かの粗品でもらったラジオ付きの電機で動く目覚まし時計、これは随分と長く使っている、平日勤務の日には午前6時起床、土・日・祝日勤務の日には午前7時に起床、目覚ましのセット時間を合わせるのに、午前6時から午前7時に代えるのは楽なのだが、午前7時から午前6時に代えるのが少し厄介で、午前と午後を間違えてセットしたり、間違えた時間をセットしたり、時計の時間を狂わせたり、だから最近では午前6時に起床の日にはこの目覚ましをセット、午前7時に起床の日には携帯電話の目覚まし時計をセットする事にしている、結婚した当初、結婚祝いや、他の人の結婚式の引き出物などで幾つも目覚まし時計があったのだが、当時は飲んで遅く帰ることもよくあり、そんな翌日は朝起きるのがつらい、目覚ましがなってもなかなか気がつかない、するとヨメが起きないで目覚ましだけを止めてしまう、ハッと目が覚めて時計を見ると、1時間寝過ごした、「目覚ましは?」、「私が止めたみたい」、というが早いか着替えを抱えて下へ降りていく、そこでオレは枕もとの目覚まし時計をつかんで、ヨメの背中に向けて、目覚まし時計を投げつける、寝起きでもあり、2日酔い気味でもあり、2重のハンデイ、時計はヨメに当たる事無く、柱や壁にぶち当たって、「ガッシャ~ン」、という事で、幾つもあった目覚まし時計がなくなってしまった、そんな頃にどこかでもらってきた今のラジオ付き目覚まし時計、コードがついていてコンセントに差し込んである、「これは投げられないよ」。 最近では、オレが娘が使っていたシングルベッドに寝て、枕元に小さなテーブル、その上に目覚まし時計、灰皿、タバコ、ライター、目薬、水の入ったペットボトル、グラス、めがね、携帯電話を置いている、ベッドから1メートルほど距離を空けて布団を敷いてヨメが寝ている、目覚ましが鳴り続けていてもヨメが止めようと思うと、起き上がらなければならない、ヒョィと手を伸ばして止めるというわけにはいかないのである、だから夜に目覚ましをセットするのも、朝に目覚ましを止めるのもオレ、今日は仕事、土曜日だから午前9時が始業、起床は午前7時、夜中に一度トイレに降りて、次の寒さで起きる、午前6時頃、跳ね除けた上布団がずり落ちかけている、そのために寒さで目を開く、布団を足で元に戻そうとする、「あァ~」、コブラ返りが起きそうになり、慌てて状態を起こして、足の指を外側に曲げてコブラ返りを止めた、「助かったァ~」、もう一度トイレに降りて、「さあ、後1時間、寝よう」、他人にいわせると、「そんな量では効かないよ」、といわれるのだが寝る前に飲んだ睡眠導入剤、2分の1錠、のお陰ですぐに2度寝、3度寝が出来る、携帯電話の目覚ましがなる、すぐに目を覚まして目覚まし音をとめる、頭と身体は起きているが、PCと読書のセイで目が疲れていて、目だけが起きない、こういう時のため用のベッドの脇のサイドテーブルの上に目薬を置いている、目薬をさしさえすれば目も瞬時に起きる、昨日の夜、テレビを見ているときに目薬をさした、そのままコタツの上に置いてきてしまった、天井を見上げて目を開こうとするが、閉じる方の力が強い、ほんの一瞬目をつぶったつもりが30分経過、タバコに火をつけて、朝食は仕事場についてから食べれば充分に間に合う、ヨーグルトを食べて、ホットミルクを飲むだけにしよう、ヨメに、「30分ほど寝過ごした、ヨーグルトミルクだけ、アンパンは行ってから食べる」、急ぐといつもよりも5分ほど早く家を出る、バス停に着くと、慌ててタバコを消さなければならないほど、待つ事無くバスが来る、マンションについてからユックリとちびアンパンを2ケ食べる、こういう日には一日中イライラしていたものだが、最近はそういうことが無くなった、それでも、ヨメからいわせると、我儘で、短気で、自分勝手で、偏屈で、頑固で、助平で、いつなんどき何をしでかすかわからない、付き合うほうが大変とぼやくが、こんなオレと一番付き合っているのがオレ自身である、だからヨメが愚痴るそんなところがなくなれば、オレ自身が一番、退屈するだろう。 ■「今日の言葉」■ 「 社会に役立ちたいと願ってこそ 身に付けた能力が生きる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 4, 2010
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その昔オフイス街などにクイックマッサージなる店が出来ていた頃、オレが40歳を過ぎた頃、肩の凝り症で、休みの日などは烏丸あたりに出て行くと、特殊な椅子に座って15分ほどのクイックマッサージ、肩や腰などの凝りには、寝転んでの本格的なマッサージが必要なんだが、15分程度のマッサージでも、終わってから店の外に出ると、目の周りにマッサージの効果か、店に入る前と別世界のように、周りの景色がくっきりと、はっきりと見える、散髪が終わった後などにほんの僅かにマッサージ、散髪屋のオヤジが、「背中に鉄板を入れているみたいですね」、と言っていた、現役をセミリタイア以後は、多額の借金を抱えるわけではなく、納期遅れや、不良品発生のプレッシャーも少なく、社員が17、8名、その家族も含めると約50人ほどの生活も背中にしょっていた、そいうものがなくなると、肩が凝る事が無くなった、ただ散髪屋のオヤジは今でも、「すごく、肩が凝っていますね」、相変わらず同じ事をいう。 オヤジも物凄く肩凝り症で、月に一度は家へあんまを呼ぶ、東へ5軒目の家、実に子沢山の家で家族は約10人ほどで、ご主人の叔父に当たる、この盲目のあんままでが居候、あんまでの稼ぎの殆どをそこの家の家計に入れていたのだろう、いつも感心していた事なのだが、揉みだしてから、揉み終わりまでが時計と同じほどにジャスト、1時間、この正確さには驚いていた、あんま中の会話、オヤジは近所の事には疎く、あんまも近所の事には疎い、世間話といってもお互いの接点が無く、話が続かない、ところがお袋もたまに、オヤジの後で揉んでもらう事もあった、お袋もあんまも歌舞伎好き、だから話し出すと1時間の間、歌舞伎の話をしっぱなし、若い頃には目が見えていて、その頃に好きな歌舞伎を見ていて、目が見えなくなってからは、ラジオで聞くだけ、耳で聞いて、何十年前の思い出を思い出しながらお袋と話、あんまに行く先で歌舞伎の話が出来る人は少なく、お袋を揉みながら歌舞伎の話をするのを楽しみにしていた様子。 お袋も、オヤジの事、3人の子供の事をまず、自分の趣味や、楽しみや、遊びは一番後回し、これが普通の時代でもあったが、年に一度の年末の南座での顔見世、南座の正面に招きが上ると京女の血が騒ぐ、と言うヤツで、最もお袋は純粋の京女ではなかったが、「日ごろはチマチマと細かい事にケチって、年に一度の顔見世だけには、パァ~と」、まさにその通で、夏が終わると、従兄弟の着物取次ぎ屋が反物を持ってきて、「これは派手すぎひんやろうか、これは地味すぎひんやろうか、これやと合う帯が無いないなァ~」、と思案しながら顔見世に着ていく着物の準備、顔見世の切符の手配はオヤジの仕事、取引銀行の支店長に切符の手配を頼み、見に行く前日には勿論のこと、美容院へ行って、当日は1人で、背筋をピンと伸ばして、一張羅を着て、ウキウキと出かけて行く、南座の傍で幕間に食べる弁当を買って、見終わってからは、松葉でにしん蕎麦を食べて、夕食用に握り寿司を5人前買って、まるでつき物が落ちたように、セイセイした表情で家に帰ってくる、着物を着替えて普段着で台所に立つと、「サァ~、1年間始末して、また来年も」、独り言。■「今日の言葉」■ 「 楽なことは明日に延ばしても 苦しい嫌なことは今始めよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 3, 2010
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11月の後半の2週間はシフトの休みの日には紅葉の写真を撮りに出かけて、今年の紅葉はこの10年間で最高の紅葉を楽しむ事が出来た、12月に入ってもまだ、今週一杯は見頃が続く場所も有るが、オレの気持ちの中で、早すぎた紅葉見物は許せるが、遅すぎた紅葉見物は許せないという気持ちがある、だから暦が霜月から師走に変わると、紅葉見物には出かけていかない、今日は朝から雨降りの予報だったので、DVDに録画した映画を見る予定、ところが雨が夜にずれ込み、昨日に引き続いて、温かい小春日和、街中のクリスマス風景でも撮ろうと午後から出かける、こういう時はまるで犬の散歩のように行くコースが決まっている、阪急電車で烏丸駅まで、改札を出て、直ぐのところ、右へ行けば京都の大丸へ、左へ行くと、階段を降りるとイノダコーヒーショップの地下2階店、ただここは全席禁煙の店のために、少し階段を上がると、美容院があって、その隣が同じくイノダコーヒーショップの地下1階店、そしてこの店は全席喫煙可能店、当然の事ながらオレは地下1階の店へ、このあたり一帯は路上喫煙の禁止区域、ただこの路上喫煙の禁止区域について凡その範囲は分るのだが、はっきりとした境界は定かではない、だから、ぶらぶらとしていてタバコが吸いたくなると喫茶店へ飛び込むことになる、こんなルールが出来る前には、コーヒーを飲みながらタバコを3本吸うのが常だったのだが、最近では1本余分に吸いダメをしてから店を出る。 心なしか混雑している大丸の1階を北へ通り抜けて、錦通の出口に向かう、途中から化粧品のコーナーが続く、オレが大学時代に百貨店でアルバイトをしていた頃は、百貨店の1階といえば、ネクタイ、カッターシャツ、タバコ、喫煙具、帽子、マフラー、手袋、ネクタイピンやカフスボタンなどの紳士小物、等々の紳士物の売り場であったのだが、今ではブランド物ショップ、婦人者のアクセサリー、そして多くのメーカーの化粧品売り場、別段この化粧品売り場を抜けていくのは嫌いではない、まずいい匂いがする、そしてばっちりとメイクをした女性が、男のオレとでも視線が会うとニッコリと会釈、この時にいつも思うのだが、化粧品の各メーカーごとに売り場にいる女性は同じ化粧品を使い、同じメイクの方法で化粧をするセイか顔が良く似ている、また時たま通勤のバスに乗り合わせて顔を覚えている女性もいる、バスの中ではツンツンとすまし顔なのだが、ニッコリと笑って、軽く会釈されると、声には出さないが、「やはり、女は愛嬌」、と思ったりもする。 錦を通り抜けていく事に、毎日普段からここで買い物をする人、大丸や高島屋へ来たついでのここで買い物をする人、観光に訪れたついでにここへ来た人、そしてオレのようにカメラをぶら下げて何か良い被写体がないかと来た人、いつもここは賑わいを見せている、古くからある店と、新しくここへ進出してきた店、新しい店は店の中や店の外で食べさせている店が多いように思う、当分の間はこのような店が増えていき、あまり増えすぎると、反動的にこういう店が少なくなり、絶えずその繰り返しが続いていくことだろう、まだ師走の2日、京都の正月の準備は13日の正月事始から、まだその類のものは、棒だらを並べている店が目につく程度、年末にはこの道が通りにくいほど混雑する鶏卵店、最近ではお客さんが錦に並ぶと、ここでフンつまり状態を起こすので、別の道に並ばせて、整理券を発行して、整理券のナンバーにしたがって、10人づつほどが店の前に並ぶようになってここの混雑が緩和されている、さすがに今日は1人、2人が出汁巻を買っているだけであった、錦を通り抜けて寺町通に出る、アーケードの天井にはもう既にクリスマスバージョンの飾りつけ、店の前や店のウインドウにもホンの少しクリスマスの雰囲気が見られ程度で、シャッターを押そうかと思うものは何もなしに、三条通りの1筋手前まで、この角には京都の老舗のスタンドバーがある、突き出しにはからつきのピーナッツが出てきて、からは床に落とすのが店の決まり、オーナーのカウンターはバーテンダーにとっては神聖な場所で、その場所が汚されるのを嫌うためとか、だから火のついている物以外は床下に落としてください、という事である、飲んでいてお酒が回りだしてくると姿勢が悪くなり、ツイツイ、カウンターに肘をつく、オーナーは悪い姿勢で酒を飲むのも嫌う、この店の北側に新京極までの細い、極めて短い道があり、丁度その道の中間あたりにカフェの看板が出ている、西洋骨董品の店であり、カフェでもある店。 かって知り合いの依頼で、この店で古いフランス人形の鑑定をしてもらった事が何年か前にあり、オリジナル品なら1千万以上という事であったのだが、保証書にはレプリカという表記があり、バブルの最盛期に百貨店がフランスの人形工房にレプリカを作らせて、30万円くらいで売られていたものであることが分かった、ここにこのような西洋骨董の店があるのは、デジカメで寺町通や新京極通の、さして珍しくもない、なんでもない風景を撮っていて、たまたま店の前を通りかかり、シーズンごとに飾り付けの商品が変えられるショーウインドウ、これを定期的に撮りに来るようになった、店の右側に入り口があって、店の奥がカフェになっていて、長い間、カフェの存在に気がつかなかった、入り口には古い形の外灯、すりガラスがはめられていて、すりガラスに珈琲の文字、実はこれも売り物だと思い、写真にも撮っていた、2年ほど前にカフェの入り口を正面の西洋骨董の店の入り口に模様替え、この時、道に看板が出ていて、初めてカフェも営業している事を知った。 入り口のドアーを引いて店に入ると、アンチークな調度品を置いた店ではなく、西洋骨董品点の中のカフェである、店の左側が背の高いカウンターになっていて、天井のハリから照明器具が4つほどぶら下がっていて、そのどれもがガラスのシェード、透明のガラスには絵が刷り込まれていて、すりガラスにも絵が刷られていて、このシェードも売り物で、ある時お客さんが値段を聞いた時に、「ピンからキリまでありまして、1万円くらいから100万円くらいまで」、という事であった、壁にはゼンマイ式の掛け時計が幾つも飾られていて、あちこちに小物を陳列したショーケース、椅子やテーブルは全てアンチークなもので、これも全てが売り物で、狭い店の中に6人掛けから2人掛けの席まで、席に座って物珍しさできょろきょろ、子供の頃には普通に身近にあったものを今それを眼の前にすると懐かしくもあり、物珍しくもあり不思議な空間、余り音の良くないラジカセからはBGM代わりのタンゴが流れていて、この店にぴったりの音楽といえばタンゴ以外には思いつかない、ぴったりのマッチング、この店のは数年前の金曜日にふらりとやってきて、住み着いている猫、金曜日にやってきたので金太郎と言う名前、ショーケースの上で昼寝をしていて、時折目を覚ますと、ソッと飛び降りてきて、お客さんの顔を見て、一声小さく、「ミャ~」、と鳴く、すると猫好きの客さんは抱き上げて膝に乗せる、特に女性の膝の上では寝心地がいいと見えて、直ぐに寝てしまう、この猫はこの店で寝泊りをしていて、いつしか店長とも言われており、「猫のいるカフェ」、「猫」、などの本に取り上げられていて、ちょっとした有名な猫らしい。 しかしいくら大人しくて、有名な猫とはいえ、オレは猫嫌い、最初にこの店を訪れた時に、オレの顔を見て、可愛く、「ミャ~」、と鳴いた、そこで、「折角でござんすが、あっしゃ~、猫嫌いでござんす」、きっちりと仁義を切っておいた、それでもたまにはオレの顔を見て、「ミャ~」、と鳴くこともあるが、暫くじっとオレを見ていて、「アっ、そうだった」、というふうにどこかへ行ってしまう、隅っこの2人掛けのテーブルがお気に入りだが、若い女性一人の先客がいて、その横の6人掛けのテーブルに案内された、座ってから帽子脱いだ時に軽く会釈をされた、恐らくこの店で何度か会っているのだろうが覚えていなかった、少し長い目のおかっぱ頭で、真っ黒でさらさらの髪の毛、携帯電話で誰かとやり取り、メールを送った後で返事待ち、その時に後のショーケースを除いていた、その時の思いがけないほどの可愛い表情、左側にカメラをいていた、カメラを構え、「そのままで」、声をかけたくなるほどの衝動、ただ珍しく店の中には何組かのお客さん、「写真を撮らせてください」、と声を書けると店の中で丸分り、じっと我慢をしているうちに、彼女の方が先に店を出て行き、女店主に、「彼女はよく来るお客さんですか?」、「学生さんでよく来られますよ、なにか」、「余り可愛いので写真を撮りたかった、次に来られた時に、そういっておいてください」、「いいですよとなったら?」、「次にであった時にぶっつけ本番の方がいいです」。■「今日の言葉」■ 「 気付いたことをすぐに行うことは 物事を好転させる元である 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 2, 2010
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11月23日に起きた韓国領のヨンロン島への北朝鮮の砲撃事件、この事件で韓国と北朝鮮の両国はいまだに朝鮮戦争が終結したわけではなく、休戦中で資本主義と社会主義のイデオロギーの対立による冷戦が唯一残っている地域である事を再認識させられた、オレは残念ながら韓国旅行の経験がない、韓国旅行を経験した知り合いは、一度は板門店ツアーを経験していて、両国の軍事境界線上の村、板門店、そこに休戦中の韓国と北朝鮮の唯一の接点ともいえる会議場の建物、その建物の見学ツアー、このツアーに参加する時には、事前にこの見学に関する諸注意の説明会か開かれる、会議場へ入いる時に持参が許される持ち物、見学の24時間前からの飲酒禁止、許可されない服装及び行為、等々の説明、北朝鮮兵士を刺激しないためであり、最後に北朝鮮兵士による発砲の可能性に関する承諾書に署名、見学者はこの時に韓国と北朝鮮が現在も尚、どのような状況下にあるのか身を持って実感させられ、刑務所内の見学の時よりもはるかに緊張させられ、会議場内の中央に軍事境界ラインがひかれており、この会議場内においてのみ、見学者もそのラインを越す事が許され、金玉がキューんと縮む思いでそのラインをまたいだと言っている、この時の経験があるから、韓国と北朝鮮が休戦協定が締結して、約55年余り経過しているが決して朝鮮戦争は終結していない、このことが絶えず頭にあるといっている。 終戦後それまで日本の統治下にあった朝鮮半島の38度線以北をソビエト連邦共和国が支配し、以南をアメリカ合衆国が支配をし、北に金日成のよる北朝鮮人民共和国(北朝鮮)が建国され、南には李承晩による大韓民国(韓国)が建国された、38度線が両国の国境となった、当時は資本主義と社会主義のイデオロギーの対立があり、北朝鮮人民共和国はソビエト連邦共和国と現在の中国の後ろ盾、大韓民国はアメリカ合衆国の後ろ盾を得て、朝鮮半島の主権を巡る対立が激化、1950年6月25日 、北朝鮮が軍事境界線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争、朝鮮動乱、朝鮮戦争と呼ばれていて、社会主義国家と資本主義国家の代理戦争と化して激化、戦況が膠着状態になった、1953年7月27日に休戦に至ったが、以来約55年余り経過するが、未だに平和条約は結ばれず、緊張状態は解消されず、全土が戦場となり荒廃した朝鮮半島も、開戦前同様、南北二国に分断された状態のままとなっていて、現在まで、随時北朝鮮側による領空・領海侵犯を原因とした武力衝突が発生している、北朝鮮は情報を徹底的に非公開、韓国は情報を公開、そのためにこの両国に関して、韓国側のメデイアの発する情報しか知る事が出来ない、しかし、休戦協定締結後、休戦協定を破ったのは悉く、北朝鮮側であるのが事実で、今回の北朝鮮の韓国領のヨンロン島の砲撃も、例の滑稽ともいえる北朝鮮の居丈高な物言いしか出来ない、オバサンは韓国の近海での通常の軍事演習を、韓国が先に手を出したから相応の報復を行った、カムサムニダ、と時代がかったものいい、を全世界に向かって放映、多くの北朝鮮の人と、一部の中国人と、それ以外の人が果たして何人頷いただろうか、しかし、日本の戦後の復興期にこの戦争が勃発、朝鮮半島に近い日本に兵器などの修理、部品の調達、補給、大きな特需と言われている重要が起きて、日本の工業界が非常に潤い、日本経済の戦後の復興に拍車をかけたことも事実である。 この朝鮮動乱の頃、中国とイギリスの混血の女医の自伝小説が映画化された、映画よりも先にこの映画の主題歌の方がヒットしたという記憶がある、「慕情」、という映画で、ジェニファー・ジョーンズ演ずる女医、ご主人をなくした後、思い出を胸に秘めて、医療に生涯を捧げるべく医療の現場で働いている未亡人、このジョーンズという女優、彼女のフアンというのは聞いた事がない、しかし、この映画でのジョーンズは別という人は多くいる、これには素直に頷ける、その相手役はウイリアム・ホールデンが演じる新聞記者、奥さんはいるがすでに2人の間には愛情はなく、離婚にだけは応じない奥さん、あるパーテイで知り合った2人は恋に落ちて、香港の街を見下ろせるビクトリアパークで愛を語らい、愛し合い、新聞記者も奥さんとの離婚が成立、2人は晴れて結婚、というところだが、新聞記者に朝鮮動乱の従軍記者の命令が出る、ストーリー自体はこの命令が出た時には、新聞記者が死んで、この恋は悲劇に終わる事は予感できた、こう書いているオレも映画のここまでは殆んど覚えていない、ただこの後、新聞で新聞記者の死亡を知った女医が、悲しみに打ちひしがれて、2人にとっての思い出のビクトリアピークに登り、思い出に浸っていると、新聞記者が登ってくる、ここに、名曲の慕情が流れてくる、新聞記者の姿が消える、そして、また新聞記者が登ってくる姿が見える、この映画のラストシーン、ビクトリアピークから見える香港の街、この美しい風景、そしてジョーンズの悲しみの演技と、美しさ、このシーンとこの名曲で、この映画永遠の名画にしたといえる、この映画でウイリアム・ホールデンが演じた新聞記者がなくなったのが、朝鮮動乱中である、1950年から1953年がどれくらい昔の事かと考える時、この、「慕情」、という映画を思うとよく分かる。■「今日の言葉」■ 「 人生は今の瞬間の積み重ね である今を大切に生きよう 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Dec 1, 2010
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