全3件 (3件中 1-3件目)
1
今年も残すところラスト一日となりましたね。年始の決意では、ウサギ年なので跳ねるぞと決意したのですが、やはり怠惰な性格が災いして有言不実行に終わってしまいました。私に代わりに地面が跳ねちゃったようです。なんて冗談を言ったら被災地の方に叱られますね。失礼いたしました。自分自身はあまり変化の無い一年でした。去年廃業してからはこれといった仕事に就かずダラダラとした生活を続けてきたようです。変わったといえば、時代の流れに乗ってみようと思い携帯をスマホに買い替えたことでしょうか。しかし、このスマホ。以前から言われていますがバッテリーの持ちが何とかなりませんかねぇ。充電してはすぐにまた充電の繰り返しはまるで賽の河原で石を積んでいるようです。積んでは崩され積んでは崩され・・・・。これだけ科学が進んでいるのですかから一回充電したら一カ月くらい持つようにならないものでしょうか。せめてAUさんだけでもお願いします。来年は辰年。ウサギ年で跳ねられ無かった分、昇龍の勢いで天まで駆け昇るぞ!なんてまた有言不実行になりそうですからもう少し着実な目標を立てましょうかね。拙ブログにご訪問いただいた方々、ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。寒さもこれからが本番です、くれぐれも風邪など召されませんように。良いお年をお迎えくださいませ。ps:しかし干支の引き継ぎ式で、辰に見立てたイグアナって無理があるよなぁ
2011年12月30日
コメント(6)
昨日久しぶりにタモリ司会の「笑っていいとも」を見ているとき。画面が切り替わり報道センターから流れてきたのが金総書記急死のニュースだった。そのとき感じたのは独裁者と言われる割には「平凡な死」だなと思ったことだ。独裁者全てが悪だとは限らないだろうが、国際的に(ほぼアメリカ主導で)悪の中枢だと決めつけられた独裁者の死というものはカダフィにしろフセインにしろかなり悲惨なものだった。独裁者と呼ばれる人間はそういう惨めな死に方をしてこそ生前の行いの償いをしていくものだと思っていた。それが視察中に過労からくる心筋梗塞で死亡だなんて拍子抜けもいいところだ。カダフィにしてもフセインにしても死んだと判った時の、いままで虐げられてきた国民の喜びようと言ったらはち切れんばかりだった。北朝鮮の国民からは今回そういったものが見られない。悲しみで泣きながら喪服で死亡を報じた看板アナウンサーと金総書記の肖像画がある場所に集まって来て大声で無く市民や地面を叩いて嘆き悲しむ兵士の様子ばかりがテレビでは流されている。当然そんな場面しか見せてはくれないのだろうが。これじゃまだまだ北朝鮮に春は来ないようだ。とにかく、良くも悪くも、もう少し独裁者らしい死に方をして欲しかったなぁと、変なところに気がいってしまった自分である。
2011年12月20日
コメント(4)
おおさかの あるところに ひとりの しちょうさんがいましたしちょうさんは ふちじになりたくてたまりませんでしたなので しちょうのにんきが のこっているのに とちゅうでやめてふちじのせんきょに りっこうほしましたでも ざんねんながら せんきょにまけてしまいましたそこで もとしちょうさんは また しちょうに もどりたいといいましたそうしたら しみんから そんなばかなといわれましたかぞくにも はんたいされましたもとしちょうさんは わかりました じゃぁ いんたいしますといいましためでたし めでたしps区長を公募するそうだからそれに応募してみたらどうだろうか
2011年12月03日
コメント(2)
全3件 (3件中 1-3件目)
1