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2004年9月28日にブログを開設して以来本日で1500日。この4年以上の間、もともと三日坊主の私が一日も欠かさず、日記・日誌を書き続けている。
「ヤンキースの松井秀喜の連続出場記録1768試合という数字を越えることを目標にしている」、と冗談で書いたり、話したりしてきたが、とうとうその数字も視野に入ってきた。
さて、今日は映画「まぼろしの邪馬台国」を観た。昭和40年代に全国に邪馬台国ブームを起こした宮崎康平が書いた同名の書物は、当時大学生あたりだった私の家にあり、父母の会話の中にこの書物とこの人物が話題になっていた記憶がある。このベストセラーは、後に第一回吉川英治文化賞を受賞している。
宮崎康平は、1917年島原生まれで、早稲田大学文学部時代に森繁久弥らと学生演劇に参加し、東宝に入社するが、実兄の病死で島原に帰り、島原鉄道に入社。極度の疲労から失明。妻も出奔。このときに乳飲み子を抱えて作詞・作曲したのが「島原の子守唄」である。
おどみゃ島原の おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気なしばよ しょうかいな
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ン久助(きゅうすけ)どんの連れんこらるバイ
帰りにゃ 寄っちょくれんか
帰りにゃ 寄っちょくれんか
あばら家じゃけんど
芋飯(といもめし)ゃ粟(あわ)ン飯 芋飯ゃ粟ン飯
黄金飯(こがねめし)ばよ しょうかいな
嫁御(よめご)ン 紅(べ)ンナ 誰(た)がくれた
唇つけたら 暖(あ)ったかろ
沖の不知火(しらぬい)に 沖の不知火に
消えては燃えるヨ
バテレン祭の バテレン祭の
笛や太鼓も 鳴りやんだ
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
さだまさしは、子どもの頃から父が懇意にしていたということでよく島原の宮崎康平の自宅によく行っていた。さだまさしにとって宮崎は最初に力を貸してもらった恩人でもあり、遠い親戚のおんじさんのような人だった。「長崎人なら精霊流しを歌え」という宮崎の一言がさだまさしの人生を変える。「まほろば」という歌を書いたとき「良い歌を書いたな。俺がやりたい仕事だ」と褒めたそうだ。「今でもこの人に褒められるような仕事をしたい、と思って必死に勉強しながら生きているのです」とさだまさしは、パンフレットの中の「宮崎康平師の思い出」の中で語っている。今日の収穫は宮崎康平の人生と、パンフレットの中のさだまさしの言葉だった。
邪馬臺
作詩・作曲 : さだまさし
盲いた詩人はいつも ザボン口に運び乍ら
想い出たどる様に 見えない目を開いて
静かに海を観てた
幻の国の事を まるで故郷を語る様に
道程について 風景について
やさしく僕に話した
有明の空の雲だけが
あの人の寂しさを知っていた
そう弥生の風に 追われる様に
あなたが逝った 晩に
眠れないまま息を密めて
不思議な夢を観た
雲仙は噴煙を吐いて 霧は針摺瀬戸を包み込んで
異国の便り乗せた 小さな舟がひとつ
静かにすべってくる
盲いた詩人がひとり その小舟に座っている
得意の笑顔みせて はにかむ様にじっと
静かに海を観てる
有明の海に風が吹く
あの人を追いかけて夢が吹く
ああ悲しい程に 焦がれ続けた
幻の人が 今
きっとあなたを抱きしめている
不思議な夢を観た
まほろば
作詩・作曲 : さだまさし
春日山から飛火野辺り
ゆらゆらと影ばかり 泥む夕暮れ
馬酔木の森の馬酔木に
たずねたずねた 帰り道
遠い明日しか見えない僕と
足元のぬかるみを気に病む君と
結ぶ手と手の虚ろさに
黙り黙った 別れ道
川の流れは よどむことなく
うたかたの時 押し流してゆく
昨日は昨日 明日は明日
再び戻る今日は無い
例えば君は待つと
黒髪に霜のふる迄
待てると云ったがそれは
まるで宛名の無い手紙
寝ぐらを捜して鳴く鹿の
後を追う黒い鳥鐘の声ひとつ
馬酔の枝に引き結ぶ
行方知れずの懸想文
二人を支える蜘蛛の糸
ゆらゆらと耐えかねてたわむ白糸
君を捨てるか僕が消えるか
いっそ二人で落ちようか
時の流れは まどうことなく
うたかたの夢 押し流してゆく
昨日は昨日 明日は明日
再び戻る今日は無い
例えば此処で死ねると
叫んだ君の言葉は
必ず嘘ではない
けれど必ず本当でもない
日は昇り 日は沈み振り向けば
何もかも移ろい去って
青丹よし平城山の空に満月