なまけたろうとすごす日々

なまけたろうとすごす日々

2007年09月24日
XML
カテゴリ: 時事雑感
ネット界のマッチポンプ・ジャーナリズムJ-CASTニュースの記事につられて、やってしまった。
戦国武将診断

やってみたところが、
島津義弘と出た。

薩摩出身の作家・海音寺潮五郎を読んでいるところでもあるので、悪い感じはしないけれど。
設問は、もっと年齢層の若い人向けで、あきらかに設定外の人間がやってしまった感がある。
こういうのをやって盛り上がれるのも若いうちだよねぇと思ってしまった。
記事では、ポスト脳内メーカーということだったのだが、脳内メーカー自体どちらかというと成分分析系だと思うので、これをつなげて紹介するのもどうかなと思うのだが…。

あなたは島津義弘に似ています。島津義久の弟で十七代当主、と言われていたが実は家督を継いではいなかったという。惣領義久を中心として知謀の歳久・兵術の家久とともに武略の義弘と呼ばれ、島津氏による九州統一に尽くした。しかし秀吉の丸州征伐によって果たせず、義久隠居の上に義弘の子忠恒が家督を継ぎ、義弘はその後見人となった。さらに秀吉は義弘・忠恒のみに羽柴の姓を与え、義弘個人の所領として大隅一国を安堵するという厚過ぶりを示す。これはあるいは島津家内紛を策したものか。丸州征伐後の文書には「三殿」という言葉が見られ、富隈の義久・鹿児島の忠恒・大隈帖佐の義弘という三者の共同統治のような状態にあったようである。彼ら三殿はそれぞれ独自の家臣団を抱えていて、ゆきがかり上中央政権との対処役にまわらざるを得ない義弘に従い朝鮮や関ケ原で戦ったのは、島津軍というより義弘の私兵とも言うべき帖佐衆・出水衆を中心とした面々だった。この義弘の名を不動のものにしたのが、問ケ原における撤退ぶりである。全滅覚悟で主君を落とすという凄惨なステガマリ戦法で敵軍の正面を突破、千五百いた兵は八十に減ったという。帰国後義弘は自らの蔵入地を削って彼らに報いた。







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2007年09月24日 19時15分39秒
コメントを書く
[時事雑感] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: