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1950年3月2日、カレン・アンが生まれた頃には、三歳半のリチャードは既に音楽において早熟なところをのぞかせていた。カレンは音楽、特にビートルズが大好きになった。カレンが憧れていた二人のドラマー、ジョー・モレロとリンゴ・スターが使用していたラディグ製のドラム・セットを両親にねだった。独習したカレンは生涯続くことになるドラムスとの恋に落ちた。1969年レノン=マッカートニーが何の未練もなく分裂に向かった。 レコード会社A&MのAであるハーブ・アルパートはデスクの上に積まれた何百本というデモ・テープのうちの一本を聴いて、すぐさま彼らに契約の申し出をすることにした。 アルパートの背中には嘲笑が浴びせられはじめた。ギンギンのロック・ミュージックと独断に満ちたライフスタイルが珍重されるその時代にあって、感傷的で古くさいラブソングを歌い、タバコも吸わなければ麻薬もやらず、プレッピーのような印象を与えるデュオとの契約に走ったと。 リチャードは、もしカレンの声が聴く者を”ぞくっとさせる”曲を見つけることができれば、カーペンターズはポピュラーミュージックの世界において確実に承認されるはずだと気付いた。カーペンターズの曲は週を追うごとに上昇。その時代をおおう暗い影と鮮明な対照をなした。「愛のプレリュード」何千もの若いカップルが結婚という門出でその曲を祝歌に選んだ。その曲に感動したカップルのなかにポールとリンダのマッカートニー夫妻もいた。 カレンは友人たちを見回し、ことに《グリース》のオリヴィア・ニュートン・ジョンに目を向けては、自分には美しさが欠けているときわめて親しい友人たちに嘆いたものだった。不滅とさえいえるあんなに卓越した声とあれほど高くのぼりつめたキャリアにめぐまれてさえ、容姿にたいする不満という彼女だけの思い込みのハンディが彼女を悩ませていた。 カレンがニッキー・チンといっしょに、ロサンゼルスのメルローズ・パレスにあるル・レストランに食事に行ったときの事だ。彼らが、レストランの外の並木に縁取られたきれいな中庭を通ってかえろうとしていると、ジョン・レノンが歩いてきた。レノンはカレンに気付き、足を止めて話しかけた。「君に言いたいと思っていたところだよ。きみの声はすばらしいね」そして、名前を告げることさえせずにそのまま歩いていってしまった。 カレンは幼い少女のようにどぎまぎした。ニッキーと車に向かいながら、彼女は興奮に息を切らしていた。「いまの言葉、聞いた?ジョン・レノンよ!」彼女はずっとビートルズの大ファンで、そのひとりからこんな褒め言葉がもらえるとは信じられないのだった。 1974年の春、リチャードとカレンはポール・マッカートニーから会いたいと招待を受けたときは光栄を感じた。ストロベリー・スタジオで弟のマイケルの〈マクギア〉というアルバムをつくっていたのだ。リチャードは、あれほど影響を受けた作品を生んだマッカートニーと握手できると思うと心が浮き立った。彼らがスタジオに入ると、ポールは〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉のコーラス・ラインを歌って迎えた。いま、ポールは語る。「あの声の持ち主と直接顔を合わせるのが楽しみでした」カーペンターズがビートルズのファンだったのと同様、マッカートニー兄弟はこの兄妹の賛美者だった。ポールもリチャードもカレンもみなロックンロールを愛していたが、三人とも活動を厳密なロックの枠のなかだけには閉じ込めなかった。ロックの範疇から外れる美しいポピュラー・ソングを書いたことで、彼らは評論家たちから非難されていた。ラブ・ソングを書き、それがヒットしながら酷評されることは、ポールとカーペンターズに共通する話題だったが、彼らは肩をすくめただけで、これに関してはさほど話題にしなかった。ポールが言う。「僕がカーペンターズを好きな理由の中心はカレンでした。あのすばらしい声、音楽的にどうこうではなく、実に印象的なんです。それにあの曲…彼らはヘンリー・マンシーニと友人なんですよね。彼らの音楽性については、この事実だけでも多くがわかるはずです」「彼らには〈愛のプレリュード〉や〈遥かなる影〉といったすばらしい曲があり、それをすばらしく歌っています。これ以上は必要ないと僕の心に言わせるものをもっているんです」リチャードが携えて行った《バンド・オン・ザ・ラン》に書かれたポールのサインは、「ディッキーへ。悪友より」ポール・マッカートニーは、彼らと会ったあとそれほど時を経ずしてカーペンターズを呑み込むことになった悲劇に思いを巡らせて、首をひねる。「カレンが太っているなんて、まったく思わなかったけれど」カレンは徹底的なダイエットを開始した。不可解にやつれはじめた。1983年2月4日。ひとりの医師が告げた。「お気の毒ですが、カレンさんは亡くなりました」カレン、1950~1983。地上の星(スター)。天井の星(スター) カレン・カーペンター 栄光と悲劇の物語 より レイ・コールマン著/安藤由紀子・小林理子訳
2005年03月04日
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ビートルズのジョン・レノンとジョージ・ハリスンのギブソン J-160Eに関してまとめてみました。J-160E 1962年、ジョンとジョージはリバプールで唯一輸入楽器を取り扱っていたラッシュワース楽器店に2本のJ-160Eを注文する。 9月に購入。ローンで総代金34万円ということで、高価な買い物だ。 ジョンはJ-160Eに「ジャンボ」というニックネームを付けている。 ジョンとジョージはこのジャンボを交換した。理由はわからない。 したがって現在ハリスン家が保存しているジャンボはもともとジョンのもの。 そしてア・ハード・デイズ・ナイト期にジョンが弾いているジャンボはもともとジョージのもの。 1963年12月ジョン所有のジャンボは盗難にあってしまう。 ジョンはやむを得ず1964年前半に生産された新しいジャンボを購入。 最初のモデルと外見はほとんど変わらないが、多少仕様が変わっている。 ジョンもジョージも何度か手を加えている。 ジョージのジャンボは二度にわたってP90の位置を変更したが最終的に元の位置に戻している。 ジョンのジャンボはサイケ時にアート集団ザ・フールのメンバーによりサイケ模様が描かれた。 ジョンはこのジャンボで『アワ・ワールド』に出演するつもりだった。 しかし、全世界生中継という場の緊張から歌に専念するためにジャンボは弾かなかった。 ドノヴァンの「ギターは塗装が少ないほうが良く鳴る」という忠告を受けて塗装をはがした。 ジョンがジャンボを抱えるフォームは独特である。 胸の辺りまで持ち上げて弾く。 これにはしっかりとした理由がある。 カッティングの際にサウンド・ホール付近の音よりもブリッジ付近の音を好んだからである。 鋭いカッティングの秘密はこういった理由である。 アイ・フィール・ファイン冒頭のハウリングは、ベースの2弦12フレット・ハーモニクスにジャンボの5弦の開放弦が共鳴したものである。-----私はJ-160Eは所有していませんが、あの鳴りは憧れでした。高校入学祝いに叔母さんから国産のギターを買ってもらってからJ-160Eの鳴りの探求が始まりました。ブリッジ付近を弾いてもあの音にならないので、ピックもいろいろなタイプを試してみました。市販のピックではあの音にならないため、家にあった硬めのプラスチックの板をピックのサイズに加工して、まずまず満足できる音を見つけました。やはりJ-160Eは憧れのギターであることには変わらない。17~18年程前、岩手県内の楽器店にはJ-160Eは置いていなかった(たぶん)。それで、青森県の八戸の楽器店に行ってみました。そこにあったのが、Orvil by Gibson ”Dove”。モデルこそ違うものの、近い音が出るんです。国産のギターには出せない音が出るんです。楽器店で試奏しながら音に酔いしれましたよ。即買いました。私の限りなく”家宝”に近い、”準家宝”です。-----コメントなくてもポチッと。 通りすがりの方もポチッと。 http://www.dff.jp は、クリックするだけで1円募金ができるサイトです。 企業がクリックする人に代わって、「熱帯雨林保全」や「難病のこども支援」などを行うNPO団体に募金してくれるサイトです。人気blogランキングに登録しております。クリックお願いします。-----【当HPの内容と関連性の無い「書き込み」「トラックバック」お断り!】 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓管理者が不適と判断した発言は、予告なしに削除する場合が有ります。・迷惑なTBを禁ず!→別冊ネットアイドル・迷惑なTBを禁ず!→デリバリーボーイ・迷惑なTBを禁ず!→逆★デリヘル!・迷惑なTBを禁ず!→デリ★ボーイ・迷惑なTBを禁ず!→現在オープン記念期間中
2006年01月29日
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